天使のアリア––翼の記憶––

少しずつ、少しずつ、本番が近付いてくる。


一秒、秒針が動くたびに近づいてくる。


明日の今頃にはちょうど最後の曲を弾いているころだろうか。

それとも、ちょうど本番が終わったころなのかもしれない。


ホテルの部屋のベッドに座り、時計を見ながらため息をついた。


先輩と私の一世一代の大舞台。


最後の曲が終わったら、満員のかぐや会館大ホールで、拍手の音が鳴り響いて、スタンディングオベーションが起こって、わぁっと歓声があふれたらいいな。


けれど、どうする?


もし、失敗したら、どうする?


急に不安があふれ出した。とめどなくあふれてくるそれにどうしようもできずにいた。


もう、私はバカだ。

なんてことを考えてしまったんだ。

不安な気持ちになったら最後、もうどうすることもできないとずっと前から経験して知っていたのに。

不安はそう簡単に拭いきれるものじゃないと分かっていたのに。


幾度となく繰り返されてきたこの不安感に頭を悩ませていると、扉の開く音が聞こえた。


「月子、どうしたんだ?」


風呂上がりの藍羅先輩が髪をタオルで乾かしながら言った。

私と藍羅先輩は同室だ。私が先に部屋のお風呂を使わせてもらうことになった。

私は藍羅先輩のほうを向き、薄く笑った。


「少し、緊張しただけです。ちょっと不安になっちゃいました」


すると先輩は私の隣に座って遠くを見るような目をした。


「本番は明日だ。もう、今更何を考えたって、何をしようとしたって無駄だ。本番で何か新しいことをしようとすれば、すぐにボロがでる。それに、本番は何が起こるか誰にも分からない。本番には魔物が住んでるってよく言うだろう?本番のことは、あたしにも、月子にも、観客にも、誰にもわからないんだ」


そして私の方に向き直ってまっすぐ言った。


「けれど練習は、練習だけは、嘘をつかない。一生懸命に練習をしてきた日々は確かにあたし達の中に存在している。だから、心配になるなら、思い出せばいい。練習していた日々を。あんなにたくさん練習してきたんだ。きっとうまくいく。そうは思わないか?」


先輩の微笑みは全てを包み込むような優しさがあった。

先輩の言葉は、私の途方もない不安も心配も全てを消し去って、希望を与えてくれた。


「何だかうまくいく気がしてきました。いや、絶対うまくいきます。うまくいくように、一生懸命がんばります!」


私は立ち上がって拳を握った。


「先輩ありがとうございます!なんだか勇気がでてきました!」


なんだか今なら、なんだってうまくいくような気がする。

どんなに多くのお客さんがいても、どんなに難しい曲でも、全部全部、弾ける気がする。


「その気持ちを本番も忘れずにな」


先輩の微笑みは暖かかった。


「先輩、すごいです!あんなに不安だった気持ちが、今はもうほとんどないです!」


それは良かったと藍羅先輩は笑った。


「本番は何が起こるか分からないから、今本番の演奏について何か考えても仕方がない。さあ、今はもう眠ってしまおう」


そして2人ともベッドに入り込んだ。


「おやすみなさい、先輩」

「おやすみ、月子。いい夢を」


おやすみの挨拶をかわして、私は瞼を閉じた。