月夜のメティエ



「あたし、帰る」

 さっきピアノを弾いていた時よりも力を入れて、奏真の胸を押し戻した。だめだ。これ以上ここに居たら。帰らなくちゃ。だめだ、だめだ。

「ごめんね。また」

 だめだ、だなんて。自分で来たくせに。

 椅子から立ち上がり、奏真の目を見ないで横をすり抜ける。さっき一緒にココアを飲んだテーブルにあるバッグを乱暴に取って、出口に向かう。

「仕事、がんばってねー」

 後ろを向いたまま、つとめて明るくそう言って、あたしはドアを開けて教室から出た。だめだ。泣きそうだ。


 名前を呼ばれたような気がしたけど、振り向かないで走って通路を抜け、階段をおりてビルの外へ出た。

 あたしの中の、14歳が泣いている。ピアノにがんじがらめにされて。

 バッグの中のペットボトルが重い。冷めていても、置いてくれば良かったのに。

 ドキドキ、していた。切ない鼓動だ。悲鳴を上げている。どうして、あたしを抱きしめたりしたの……?

 なんで。

 答えなんかどこにあるのか。冷えた空気と月夜。こんなに綺麗な夜なのに、辛くて仕方がない。頭の中では奏真のピアノが流れていて、やまない。きつく目を閉じても。