「あの頃、中学ん時な。俺、青空が苦手だったんだ」
くるっとこっちを向いた彼が、言う。あたしは鍵盤のつるりとした感触を楽しんでいた。
「青空って、あの絶対感っていうの? 絶対王者じゃん。誰も勝てない。見てると本当に自分て小さいなぁって思えてきて」
「うん」
指先に熱を持つ。鍵盤は冷たいけれど、ここがイチオンだと勘違いするくらいの錯覚。あなたは忘れているかもしれないけど、その話、あたしにしたことあるんだよ。
「手、伸ばしても届かなくてさ」
下を向いていたからかもしれない。奏真がピアノを触っていたのに気が付かなかった。ポーン、ポーン。
「月夜の方が好きだ。青空は、嫌いだ」
「……あたしも」
ポーン、ポーン。
一番高い音の鍵盤を奏真が触るたびに、あたしの心まで震える。
「イチオンでも、言ってたね。懐かしいな」
この教室は少しエアコンが効き過ぎてる。顔が熱いのは奏真のせいだけじゃないはずだ。
「青空は、自分がちっぽけに感じるよ」
あの頃、高い高い青空を見てると、泣きたくなっていた。
「大人じゃないし……なんか色々手が届かないし、あの頃は余計にそう思っていたのかも」
楽譜を手に取る。目次を見ると、知っている曲がたくさんある。ピアノブック「大人のやさしいピアノ」だって。
「……いまは?」
今日あたしは、何をしにここへ来たのだろう。ピアノを習おうと思っているのだろうか。
「いまは、手が届くのか?」
質問の意味が分からない。あたしは答えない。
「俺はいま、手が届く。奪って逃げちゃえって、思ってる」
奏真が言っている意味も、分からない。相変わらず、一番高い音が鳴っている。
「あたしも、思うとおりに突っ走ってみようかなって、思う時もあるよ」
お酒を飲んでいないけど少し酔っているみたいに頭がクラクラするのは、部屋が熱いせいだ。
「そう簡単にいかないよね、大人って」
「そうだな……」
奏真の手は、白い鍵盤の上で、止まった。あたしの前で、止まった。



