月夜のメティエ



「いきなり練習しないでここまで弾けるなら上等だよ。経験者だね」

 終わりまで弾いて、大きな息を吐いたあたしに、奏真がそう声をかけてくれた。ああ、仕事より疲れた。

「すごい動体視力使った……」

「弾けてるじゃん。ちょっともう1回やってみようよ」

「ええ」

 もう1度やれと。スパルタ! エス!
 あたしはまた楽譜の1番上から、脳みそと右手を直結させるイメージで、ガチガチの指を動かす。

「肩の力は抜いて」

 そう言って奏真があたしの右肩に手を添えた。触んなバカ! いま集中してんだから。
 途中まで弾いていると、彼は左手で伴奏部を弾き始める。2人の音が重なった。和音。あたしのぶつ切りの音は、奏真の音ですくい上げられて、1つの音楽になった。虹の彼方に、本当に夢の国がありそう。



「ああ、弾けたぁ」

 ぐああ肩が痛い。パソコンでの仕事とまた違った疲れ。そりゃそうよね。

「相田、凄いなー。このくらい弾ければすぐ上達するよ」

「右手だけだけど」

 本当に。何年弾いていないのよ。
 当時もそうだったんだけど、右と左を別々に練習して、いざ合わせると弾けなくなるの。あればなんだったんだろうね。

「奏真くんと会った時には、既に辞めてたからね……」

「体で覚えたことって意外と忘れないことが実証されたと」

「そのようです」

 自転車みたいなもんだね。あれだって1回乗れれば、大人になっても忘れないものね。

「でも、楽しかった」
「そりゃあ良かった」

 あたしは椅子に。奏真は立って。立ったまま弾くなんて曲芸か。あたしの右手と奏真の左手が、白黒の鍵盤の上を行ったり来たり。それを見るのはとても楽しかった。