月夜のメティエ



「なんか弾いてみようよ」

 紙コップをコンとテーブルに置いた奏真がそう言った。

「え、いきなり? 無理だよ」

「大丈夫。楽譜読めるんだろ?」

「たぶん……うわー」

 座りなよ、そう導かれてピアノの前に行く。椅子に座った。わぁ、久しぶりだなぁ。

「知ってる曲の方が良いと思って」

「あ、これ」

「読める?」

 譜面台の楽譜を見る。簡単アレンジになってるようだ。「右でメロディーだけでも」と言って、奏真はあたしの左に来た。

「……分かるかも」

 読める。覚えているもんだな。楽譜が読めることにびっくりした。読めるなら、あとは白と黒の鍵盤に落としていけば良い。

「鍵盤と楽譜、繋がる? 音の長さは適当でいいから」

「うん」

「じゃあオッケーだ」

 おずおずと、指を鍵盤に当てる。不安定な音が出た。何年触っていない? 当たり前だ。

「大丈夫、続けて。もうちょっと指を立てよう」

 不思議なもので、ゆっくりなら譜面通りに音を出せる。タッチはとてもぶつ切りだけど。
 ぽん、ぽーん。あたしの弾く音は抑揚が無く、打ち込みのピアノ音みたい。

「柔らかに……サビまで行ってみよう」

 奏真は優しく隣で教えてくれる。あたしは喋る余裕が無い。右手しか動かしてないし、和音でもないのに。超・必死。

 それはそれはゆっくりでぎこちない「虹の彼方に」が教室に響いた。知ってるのに、聞いたこと無い曲になってないかこれ。