月夜のメティエ


 作業が終わって時計を見ると20時ちょっと前。着替えをして真っ直ぐ向かえば20時半くらいになるだろうか。

 カズヨ先輩に挨拶をし、着替えを済ませてビルを出る。書庫室から部署に戻った時には誰も居なくて、珍しい光景だった。大概だらだらと誰かが残っているのに。遠坂部長もいつもより早く帰ったらしい。


 最寄り駅から地下鉄に乗る。今夜、奏真が演奏する店は、居酒屋やクラブが並ぶ歓楽街からちょっと奥に入ったようなところにあるバーだった。ネットで地図は見てきたから大体の場所は分かる。

 誘われて、ピアノ聞きに来てよって言われて、だからってのこのこ出かけていくあたしもな……とは思う。

 奏真は懐かしさから誘ってくれるんだろうけれど、あたしはそれだけじゃなかったから。

 地下鉄はホームも車内も、週末だからか人が多く、一様に冬支度だったからなんだか余計に密度が濃く感じる。吐く息も白くて、コートの次は手袋かなと、その手袋はどこに仕舞ったっけなと頭に思い浮かべていた。元々バッチリメイクはしないから、剥げてしまった薄い口紅の上から、色付きのリップを重ねる。車内の窓に映る自分は、硬い表情をしていた。

「あそこか……」

 メイン通りから1本入って最初の角を曲がると、地下への階段があって、その入口に「ICHIRO」と書かれた光る看板。ピアノ&バーって書いてあるからここか……。ここの階段降りるのね。奏真も「地下だから」って言ってた。あまり広くなくて、新しくないけど綺麗にされている階段をおりる。飲食店が入っているビルの地下だ。このビルってここにずっとあったっけ……? この辺は通ったことがあったような気がする。

 地下1階まで下りると、奥に「ICHIRO」のドア。あそこか。手前には「B-Rose」と書かれたドア。ここも飲食店なのかな。少し立ち止まったのは、ちょっと「ICHIRO」に入ることに緊張していたから。ふう、と息を吐いた。