「……この間な」
マニキュア塗り終了。ちょっと乾かして終わりだね。その間に塗れた髪もエアコンで少し乾くだろう。首にかけたタオルが湿っている。
「ICHIROに、お客様が来たんだよ。外国人の」
奏真が話し出した。酔ってると言っても、泥酔してるわけじゃなさそうだ。
「クラシックの、テノール歌手をしている男性だ。公演があって、日本に来ていたそうなんだけど……」
ゆっくり静かな、奏真の声。マニキュアの匂いは薄れてきて、そろそろ乾いてきている頃だろう。
「俺、スカウトされちゃった」
奏真は、あたしの手を離さない。
「フランスでクラシック歌手のグループでも活動してるそうなんだけど、伴奏をやってみないか、君のピアノ、僕は大好きだ、惚れたよって」
「それって、凄いじゃないの。有名な人なの?」
来日公演してるくらいだから、その筋では有名なんだろうと思うけど。フランスって……地図のどこだっけ。
「そうだな。CDも出してるアーティストでもある。俺ね、ツアー帯同を依頼されたんだよ」
ツアー帯同。それって……。
「カフェでもバーでも「ICHIRO」みたいなね。ああいう、おしゃべりと料理とお酒で楽しむ場所でさ、聞いてないかもしれないけど、耳に心地よく俺のピアノが入って行ってるんだろうなって思うと、興奮してたんだ」
指、手のひら、腕。奏真は柔らかな優しい手で、あたしのことをさする。この温もりは、絶対だ。
「伴奏のスカウトなんてさ、そうそう無いよ。認めてくれたんだなって嬉しかった。音大も出ていない、コンテスト受賞も無い。無名だって言ったけど……彼、ファリって言うんだけど。そういうのは必要無い、俺のピアノに惚れたんだって。最高だろ」
フランスの歌手。クラシックの。
「俺の夢だ。ピアノに携わる仕事をしていたい。ピアノをずっと弾いていたい」
奏真の夢。イチオンで聞いた言葉を、再びいま、聞いている。頭の中を、単語が舞う。スカウト、ツアー帯同。伴奏。来日公演。
「……日本を出るって、こと?」
あたしもビールを飲んだ。缶の半分くらい。でも、酔いがどこかへ行ってしまった。
「1年だ。待ってられる?」
「そ、そうなの……急に、そんな」
ちょっと待って。なんかまた話が急に……。



