月夜のメティエ

 奏真も町田先生も、すごい人達なんだな。一芸を極めてる人って、次元が違う気がする。

「バーとかカフェ、「ICHIRO」とかは、自分で開拓してったんだけどね。3年くらいした時かな。町田先生が病気したんだ。あとから知ったんだけど、ガンなんだって」

「ガン……」

 美帆ちゃんのお母さんが、ガン。それまで奏真の思い出話を聞いていた柔らかな空気は一変する。

「治療しても再発を繰り返すものらしい。その矢先だよ。美帆が妊娠したのは」

 ああ、それがここにたどり着くわけなのか。お母さんがガンで、自分は妊娠。美帆ちゃんはどういう思いでいるんだろうか……。辛いなんてもんじゃないと思う。

「美帆ちゃんの、その……お腹の子って」

「言っただろ、俺じゃない。俺は美帆とそういう関係じゃない。美帆は恋人が居たんだ」

 居たんだ、ということは別れたということか。

「はっきり言わないんだけど……妻子ある、恋人だ。おそらく」

「なにそれ……」

 それって、不倫……していたってこと?

「問いつめても言わないんだ。聞いたんだよ。もしかして……って。その時の反応で理解した。まさかな……」

「それとこれと、どう関係があって奏真くんと結婚する話になるの……?」

「美帆の母親、町田先生だよ。頭を下げられた。美帆と結婚してやってくれって」

 そういうことなのか……。色んなことが繋がって、いまに至るんだ。簡単で単純なものじゃなかった。町田先生だって、奏真にその役割を持たせたくてピアノを教えてきたわけじゃないだろう。

「町田先生は、美帆は奏真と結婚するもんだと思っていたらしい。まぁ、仲は良かったからな。友達として、だけど」

「なんで……」

「分かってるよ。町田先生は、俺にこういうことをさせる為にピアニストとして育ててきたわけじゃないって。泣きながら頭下げるんだ。本当は、頃合いを見て美帆のことを話して、気に入ってくれたら喜んで嫁にやるつもりだった、って」

 あたしは、美帆ちゃんと話した時のことを思い出していた。そう、彼女は言ってたの。

「俺は、一緒になるのが運命なら、それも良いと思ったんだ……」

 奏真は下を向く。

「考えが足りなかった。今となっては」

 どうしようもない思いが渦巻く。心が停止していく。

「相田に会ったから……まさか再会すると思ってなかった。会ったらもう止められなくなった」

 ふふっと、彼は笑った。あたしを、好きでいてくれた。なんて幸せ。そして天国と地獄だ。