天海興信所。

 それ迄働いていた法律事務所を解雇され、新たに見つけた就職先がここだった。

 事務所が入っているビルの所在地こそ六本木ではあるが、見上げんばかりの近代的高層ビルに囲まれた裏通りにぽつんとある古びたビルの三階がその事務所であった。

 梶は、再就職先を捜すつもりは当初無かった。たまたま、以前に弁護の依頼をされた事のある人間からの紹介で、この興信所を手伝ってやってくれと頼まれたのである。

 梶に資産や貯えが特別あった訳では無いが、別に一人暮らしだったし、二、三年は浪人しても何とかなるだろう位の気軽な思いはあった。

 気持ちの中に白川静子との残り少ない日々を何物にも煩わされずに過ごしたいという思いがあった。

 特に忙しい会社という訳でも無いし、顧問的な立場で居てくれるだけでいいからと、再三懇願されて、結局は引き受ける事にした。

 給料は大して出ない。寧ろ、そういう条件の方が気が楽だなと梶は思い、数日前から天海興信所に通っている。

 梶の弁護士としての資格が、この興信所の所長にとっては有り難かった。

 興信所という所は、一般に浮気調査や、身上調査が主な仕事だと思われている。そういった仕事以上に舞い込む依頼に、取引先相手の調査とかがある。

 その際、何気に必要なのが、民事絡みの知識や、その事から生じる刑事絡みの知識である。法律上の問題点をレクチャーして貰えるだけで無く、興信所としての信用度が上がる点が大きかった。

 実務的には、弁護士として培われて来た調査能力と、そのコネクションも見逃せなかった。

 梶は歓迎された。

 天海興信所は所長の他に、調査員が三人と、事務と経理をやっている女性社員が居た。小さな所帯の興信所だから、舞い込む依頼も様々なものがあった。

 時にはダークな仕事も舞い込む。仕事を選べるような会社ではない。

 梶が狭い階段を昇って行くと、老齢の婦人が下りて来た。

 二人すれ違える程の幅は無いから、梶が身を寄せて婦人を先に通した。

 上から下りて来たという事は、興信所への依頼者であろうか。

 自分の孫の結婚相手の調査か、或は身内の中に失踪した者でも居るのか……

 そんな事をぼんやり考えながら、梶は天海興信所と書かれたドアを開けた。