でもセンセイはそこに居て。
「別に悪いこともしてねぇのになんで俺が逃げなきゃなんないの」
小さく笑いながらセンセイはそう言った。
「……そう、ですけど」
当たり前のことを返された私は、それから何も言えずに少しの間沈黙した。
その間も聞こえるのは外からの声ばかりで。
センセイの斜め後ろ姿を見つめていたけれど、一向に動く気配はないし、私はなんとなく近くのピアノの鍵盤を眺め始めた。
時折その黒い鍵盤を撫でるように、懐かしいその感触を確かめる。
すると、突然センセイが話しかけてきた。
「吉井、なんか弾いてみて」
その言葉に背筋を伸ばして振り向いた。
けど、やっぱりちらりともこちらを見てはいない。
でも、私の鍵盤を触っていた動きがまるでわかっていたかのように。
少し考えてから、私は言った。
「簡単なものしか覚えてませんよ」
そしてセンセイの横に逆向きに腰を掛けた状況でピアノの上に指を添えた。
数年経っても自然に出るクセ。
私は弾き始める前に鍵盤に挨拶をするように優しく撫でる。
それから目を閉じ、呼吸を整える。
再び目を開いたときから、私の指は踊りだす。



