「幸花」


父が仕事から帰ってくるとすぐに、彼女は居間に呼ばれた。


決して彼女の父の声は大きくはなかった。


今まで父親に怒鳴られたりしたことも、手を上げられたこともない。


穏やかな、しかしどこかにその威厳を感じさせる、そういう声だった。


「どうして今回のお見合い相手は気に入らなかった」


彼女は父の視線から目を逸らした。


「・・・相性が良くなさそうだと思いました」


父がくわえるパイプから香る、苦くて甘い香りが鼻をくすぐる。


「私は少し甘やかしすぎたかもしれん」


いつもは柔らかいソファも、その時ばかりは岩の上に座っているようだった。


広い居間に、父親と二人だけでの向かい合わせのこの状況は、


最近では日常茶飯事になりかけている。


「強制はしない。しかし、幸花ももう19歳だ。その事は良く分かっているね?」


「はい・・・」


女学校時代の友人のほとんどは既に結婚していた。中には子までも産んでいる者もいた。


「でも、お父様、私・・・」


「分かっている。しかし、いつまでもそうはいかないだろう」


彼女は俯き、両膝の上の手に力を込める。


父はソファから立ち上がった。


「好きな絵も音楽も学も、結婚してからでも出来る。優先事項を間違えてはいけない」


父が窓の方に歩いていく。その後姿は広く、大きかった。


「・・・はい」


そう答えるだけで、精一杯だった。


「・・・自分の部屋に戻りなさい。私はこれから先方に詫びの電話を入れねばならない」


「ごめんなさい、お父様」


「もう良い。しかし、幸花、やはり断るにも無礼であってはならない」


「はい。お休みなさい、お父様」


「・・・お休み」