彼が懐中時計を、着用していたスーツのポケットから取り出す。
時刻は、9時45分。
出発時刻は、10時だった。
「牧先生」
その言葉にはっとして、牧が顔を上げる。
藤木は、とても穏やかな顔をしていた。
「・・・良いんです。・・・覚悟は、しています」
「藤木君・・・」
牧は、握っていた懐中時計を、ぎゅ、と握りしめた。
「正気、ですか?」
タマの話を聞き終わった後、牧の口から直ぐ出てきたのはそんな言葉だった。
「はい、私はいたって正気でございますよ」
「しかし、そんなことをすれば、貴女の立場は」
「覚悟の上でございます」
タマの言葉が、乱れることはなかった。
全てを、決意していたのだった。
あの時、――山内家の屋敷で、直接藤木に問いかけたあの時から――
タマの心は、1つの場所から、動かないことを決めたのだった。
「出発の日に、ご主人様に見つからぬよう、
私がお嬢様を港に連れてまいりますことを、お約束いたします」
「しかし・・・」
今度は、藤木が言葉を発した。
「駆け落ちは、・・・その、やはり」
「確かに、穏当な手段ではございません。
・・・しかし、今のご主人様は、奥様に対する自責の念に縛られて、
ご自身の本当の心を、お忘れになっていらっしゃる。
あのままでは、2年後どころか、一生結婚を許しません。
必ず、貴方様の留学中に、無理にでもお嬢様を結婚させるでしょう。
そうなれば、もはや私の力では何もできません。
しかし、それでは遅いのです」



