1970年の亡霊

 形の上では検察からの同意も得られ、GOサインが出た事にはなった。

 局長クラスの警視庁幹部で、この事に渋い表情を見せているのは手代木と、警備局長の富樫位であった。

 手代木にすれば、政財界の関係者へも捜査の手を伸ばせれば、それだけ自分の功績が大きくなる。末端のテロ実行犯程度で茶を濁されては堪らん、という思いが、手代木に渋面を作らせたとも言える。

「とにかく、我々はクーデターを未然に防ぐ為、全警察力を挙げて阻止する。早急にその手筈を整えよ」

 警視総監の言葉で締め括られ、捜査会議は終わった。

 大倉病院は、そのまま軍隊でいう前線指令本部の役割になった。

 三山の報告書を元にして、狙いは東部方面軍第一師団内務班と、足立での銃撃戦の舞台となった廃校を区から借り受けていた、マルミツ経済研究所及び、関連のジャパン・トータル・ケア(JTC)に絞ったが、強制捜査の第一段階は自衛隊一本に絞り、後は暫時進めるという事になった。

 その強制捜査の決行日時は十一月二十四日午後11:30とした。

 当初はもう少し早い時間の方がいいのでは、という意見もあったが、計画されている二十五日ぎりぎりの時間であれば、クーデター実行者等を一網打尽に出来るのではないかとの思惑が、この決定になった。

 警視庁は、極秘に自衛隊の動きを監視し始めた。既に首都圏で治安警備に当たっている部隊への監視は徹底的にさせなければならない。

 彼等がそのままクーデター実行部隊となる事が、一番恐れられたからだ。

 強制捜査に向かう捜査員、機動隊員、SATの各隊は、その行動が絶対に洩れてはならないという事から、決行日直前にそれぞれが非番勤務になるような緊急シフトを敷いた。

 私服に着替えた各捜査員は、官舎や自宅へ帰宅するように庁舎を出る。が、捜査員達は、極秘にチャーターした観光バスや高速バスに乗り込み、所定位置で待機させる方法を取った。

 強制捜査参加捜査員総勢一万。その内、実際に踏み込む部隊は機動隊とSATで三千五百名余り。これだけの人数を移動収容させる民間のバスがチャーター出来るかどうかが心配されたが、このところのテロと暴動で、観光会社は運行休止させていたバスがかなりあった為、問題は解決した。