第1話 七番の灯りが消えた
潮待町の港が、一年でいちばん空を見上げるのは、九月八日の夜だ。
防波堤の向こうには夕焼けの最後の赤が残り、青波港の広場には焼きそばと甘い綿あめの匂いが流れていた。岸壁には、透明な大きな風船の下に紙の灯籠をつるした飾りが七つ並んでいる。風船はまだ地面近くに留められ、祭りの係員が一本ずつひもの具合を確かめていた。
雄哉は人混みの向こうに見つけた友達へ手を振った。
「おーい、こっち! 屋台の近くだと、晩ごはんを食べたことにできるぞ!」
「できないよ。それはおやつを晩ごはんと呼び直しただけ」
真っ先に返事をしたのは美夢だった。きちんと反論しながらも、その手にはしっかり綿あめがある。
同じ中学一年の六人で祭りを見る約束だった。雄哉が到着したときには、美夢と晟矢が人の流れを避けた案内板の横で待っていた。晟矢は落ち着いた声で、ここなら全員が集まっても通行のじゃまにならないと教えてくれる。
「若奈は?」
「願い札を書くところ。潤一と碧美は太鼓のほう」
晟矢が言い終える前に、祭りの太鼓が「ドン、ドン、ドドン!」と妙な速さで鳴った。
「あ、たぶん潤一だ」
雄哉が振り向くと、屋台の横の体験用太鼓に、潤一がハードロックのドラマーみたいな勢いで向かっていた。最後の一打を決めようとしたところで、係員に手を挙げて止められる。
「君、ひとりで五人分も叩かない! 次の人の順番!」
「すみません! 今、曲が一番いいところで!」
「それは君だけの曲だよ」
近くにいた子どもたちが笑い、潤一もばつの悪そうな顔でばちを返した。
その横で、碧美は小さなメモ帳に何かを書いている。
「何してるの?」と雄哉が聞くと、碧美は涼しい顔でページを開いた。
「太鼓体験の記録。演奏時間、長すぎ。音量、大きすぎ。本人の満足度、測定不能」
「最後の項目、百点にしてくれ!」
「根拠がないから無理」
碧美はきっぱり言い切ったが、潤一まで笑ってしまい、六人のうち五人がそろった。
残る若奈は願い札の台の前にいた。短冊のような細長い紙を、何度も読み直している。雄哉が近づいたとき、ちょうど彼女が札を掲げたので、文字が見えた。
『魚市場がずっとにぎやかでありますように』
「いい願いだね。若奈らしい」
「そんな、大げさに褒めなくていいから」
若奈は札を胸の前に引っ込めた。頬が少し赤い。
「うちのお父さん、明日も朝早くから荷さばきなんだ。祭りの夜だからって、魚が休んでくれるわけじゃないし」
「そっか。じゃあ、今日は早めに帰る?」
「私は平気。帰ったらお弁当の準備を手伝うだけだし」
「だけ、って言うけど、それもすごいよ」
雄哉が言うと、若奈は「別に」と答えて札を結びに行った。雄哉には、照れ隠しなのか、少し困っているのか、よく分からなかった。
七時を過ぎると、灯籠を浮かべる準備が始まった。
観覧場所は岸壁の縁から離れた広場に区切られ、係員がマイクを持った。
「灯籠には火ではなく、電池で光るLEDを使っています。透明な風船で浮かべますが、空へ放すわけではありません。ひもは岸壁側につないだままにして、必ず回収します。柵の内側には入らないでくださいね」
七つの明かりが少しずつ高くなり、人々から歓声が上がった。ほかは黄色や白なのに、七番だけは青い。海の色を一かけら、夜空へ持ち上げたようだった。
「七番って、ずいぶん目立つね」と美夢。
「青いのが一番かっこいい。俺のドラムの照明も青にしたい」と潤一。
「まず太鼓を四十秒で終わらせる練習をしなさい」と碧美。
「さっきのは三十八秒だ!」
「計ってたの?」
六人が笑っていると、晟矢が港の奥を指さした。
「あの屋根、灯籠のすぐ後ろに見えるね」
岸壁から陸側へ少し入ったところに、古い一軒家が黒く沈んでいた。屋根の輪郭だけが空に浮かび、窓はほとんど見えない。
「あれ、旧潮見荘だろ。カワウソの家って呼ばれてる」
潤一が声を低くした。
「なんでカワウソ?」
「さあ。家の人がカワウソを飼ってたとか?」
「今は町が管理している、閉まった建物だよ。住んでる人はいないはず」
晟矢が補った。雄哉は、建物と灯籠が重なって見える位置を確かめようと一歩横に動いた。そこへ南から風が吹き込み、屋台の旗がいっせいに揺れた。
「わっ、綿あめが!」
美夢は飛びそうになった袋を両手で押さえた。岸壁の係員がひもを見上げ、別の係員に何か声をかけている。七番の青い灯籠は、ほかの灯籠より大きく陸側へ傾いたように見えた。
「風、強くなってきたね」
若奈の声に雄哉がうなずいた、そのときだった。
広場の時計が十九時四十六分を示している。雄哉は、ちょうど七番の青を見ていた。
光が、ふっと消えた。
「あれ?」
目をこすっても、そこだけ暗い。黄色と白の灯籠は揺れながら光り続けている。けれど七番の青い光は、屋根の黒い輪郭のあたりから見つけられなくなっていた。
「七番が消えた!」
誰かの叫びが広場を走った。みんながいっせいに空を見上げる。潤一は「うそだろ、空に吸い込まれた!」と身を乗り出し、碧美は珍しく何も言わなかった。
雄哉も最初は、青い灯籠そのものがなくなったと思った。
でも、考えてみれば、見ていたのは灯籠の中の明かりだ。光が消えたあとに、紙も風船もどうなったかまでは見えていない。
「ねえ、今、落ちたのを見た人はいる?」
雄哉が尋ねても、周囲からは「消えたのを見た」という声しか返らない。係員が観覧場所から動かないよう案内し、岸壁の奥では大人たちがひもの状態を確かめ始めていた。
若奈が自分の願い札の結び目を、遠くからじっと見ているのに雄哉は気づいた。
「願い札はあそこにあるよ。ちゃんと残ってる」
「分かってる」
若奈は答えたけれど、いつもの強い声ではなかった。魚市場がずっとにぎやかであってほしいという、彼女のささやかな願いまで暗がりに取られたようで、雄哉は胸が苦しくなった。
係員が安全確認を続けるなか、六人は帰ることにした。騒ぎを追って岸壁へ近づくわけにはいかない。
「明日、七番が戻ったか見に来よう」と雄哉が言うと、晟矢は「まず係の人に聞こう」と付け加えた。
「でもさ、あの家には昔から赤い目があるって噂なんだぜ」
潤一がまた怪談の声になった。碧美は即座に「出典、不明」と言い、美夢は「怖がる人がいるから、帰り道ではやめようよ」と眉を寄せる。
「じゃあ、帰り道が終わったところで話す」
「意味ないでしょ!」
笑いながら歩道を進み、雄哉は一度だけ旧潮見荘を振り返った。
高い窓に、赤い点が二つ並んでいた。
港の白い安全灯を受けて、暗い窓の奥からこちらを見ているように光る。雄哉が少し動くと、赤い点も窓枠の中でずれたように見えた。さっきまで見えなかったものが目に入った途端、雄哉の足は止まった。
七番の青い灯りは、どこへ行ったのだろう。そして今、あの窓で光っている二つは何なのだろう。
背中を押す風は、さっきより冷たかった。
【終】
潮待町の港が、一年でいちばん空を見上げるのは、九月八日の夜だ。
防波堤の向こうには夕焼けの最後の赤が残り、青波港の広場には焼きそばと甘い綿あめの匂いが流れていた。岸壁には、透明な大きな風船の下に紙の灯籠をつるした飾りが七つ並んでいる。風船はまだ地面近くに留められ、祭りの係員が一本ずつひもの具合を確かめていた。
雄哉は人混みの向こうに見つけた友達へ手を振った。
「おーい、こっち! 屋台の近くだと、晩ごはんを食べたことにできるぞ!」
「できないよ。それはおやつを晩ごはんと呼び直しただけ」
真っ先に返事をしたのは美夢だった。きちんと反論しながらも、その手にはしっかり綿あめがある。
同じ中学一年の六人で祭りを見る約束だった。雄哉が到着したときには、美夢と晟矢が人の流れを避けた案内板の横で待っていた。晟矢は落ち着いた声で、ここなら全員が集まっても通行のじゃまにならないと教えてくれる。
「若奈は?」
「願い札を書くところ。潤一と碧美は太鼓のほう」
晟矢が言い終える前に、祭りの太鼓が「ドン、ドン、ドドン!」と妙な速さで鳴った。
「あ、たぶん潤一だ」
雄哉が振り向くと、屋台の横の体験用太鼓に、潤一がハードロックのドラマーみたいな勢いで向かっていた。最後の一打を決めようとしたところで、係員に手を挙げて止められる。
「君、ひとりで五人分も叩かない! 次の人の順番!」
「すみません! 今、曲が一番いいところで!」
「それは君だけの曲だよ」
近くにいた子どもたちが笑い、潤一もばつの悪そうな顔でばちを返した。
その横で、碧美は小さなメモ帳に何かを書いている。
「何してるの?」と雄哉が聞くと、碧美は涼しい顔でページを開いた。
「太鼓体験の記録。演奏時間、長すぎ。音量、大きすぎ。本人の満足度、測定不能」
「最後の項目、百点にしてくれ!」
「根拠がないから無理」
碧美はきっぱり言い切ったが、潤一まで笑ってしまい、六人のうち五人がそろった。
残る若奈は願い札の台の前にいた。短冊のような細長い紙を、何度も読み直している。雄哉が近づいたとき、ちょうど彼女が札を掲げたので、文字が見えた。
『魚市場がずっとにぎやかでありますように』
「いい願いだね。若奈らしい」
「そんな、大げさに褒めなくていいから」
若奈は札を胸の前に引っ込めた。頬が少し赤い。
「うちのお父さん、明日も朝早くから荷さばきなんだ。祭りの夜だからって、魚が休んでくれるわけじゃないし」
「そっか。じゃあ、今日は早めに帰る?」
「私は平気。帰ったらお弁当の準備を手伝うだけだし」
「だけ、って言うけど、それもすごいよ」
雄哉が言うと、若奈は「別に」と答えて札を結びに行った。雄哉には、照れ隠しなのか、少し困っているのか、よく分からなかった。
七時を過ぎると、灯籠を浮かべる準備が始まった。
観覧場所は岸壁の縁から離れた広場に区切られ、係員がマイクを持った。
「灯籠には火ではなく、電池で光るLEDを使っています。透明な風船で浮かべますが、空へ放すわけではありません。ひもは岸壁側につないだままにして、必ず回収します。柵の内側には入らないでくださいね」
七つの明かりが少しずつ高くなり、人々から歓声が上がった。ほかは黄色や白なのに、七番だけは青い。海の色を一かけら、夜空へ持ち上げたようだった。
「七番って、ずいぶん目立つね」と美夢。
「青いのが一番かっこいい。俺のドラムの照明も青にしたい」と潤一。
「まず太鼓を四十秒で終わらせる練習をしなさい」と碧美。
「さっきのは三十八秒だ!」
「計ってたの?」
六人が笑っていると、晟矢が港の奥を指さした。
「あの屋根、灯籠のすぐ後ろに見えるね」
岸壁から陸側へ少し入ったところに、古い一軒家が黒く沈んでいた。屋根の輪郭だけが空に浮かび、窓はほとんど見えない。
「あれ、旧潮見荘だろ。カワウソの家って呼ばれてる」
潤一が声を低くした。
「なんでカワウソ?」
「さあ。家の人がカワウソを飼ってたとか?」
「今は町が管理している、閉まった建物だよ。住んでる人はいないはず」
晟矢が補った。雄哉は、建物と灯籠が重なって見える位置を確かめようと一歩横に動いた。そこへ南から風が吹き込み、屋台の旗がいっせいに揺れた。
「わっ、綿あめが!」
美夢は飛びそうになった袋を両手で押さえた。岸壁の係員がひもを見上げ、別の係員に何か声をかけている。七番の青い灯籠は、ほかの灯籠より大きく陸側へ傾いたように見えた。
「風、強くなってきたね」
若奈の声に雄哉がうなずいた、そのときだった。
広場の時計が十九時四十六分を示している。雄哉は、ちょうど七番の青を見ていた。
光が、ふっと消えた。
「あれ?」
目をこすっても、そこだけ暗い。黄色と白の灯籠は揺れながら光り続けている。けれど七番の青い光は、屋根の黒い輪郭のあたりから見つけられなくなっていた。
「七番が消えた!」
誰かの叫びが広場を走った。みんながいっせいに空を見上げる。潤一は「うそだろ、空に吸い込まれた!」と身を乗り出し、碧美は珍しく何も言わなかった。
雄哉も最初は、青い灯籠そのものがなくなったと思った。
でも、考えてみれば、見ていたのは灯籠の中の明かりだ。光が消えたあとに、紙も風船もどうなったかまでは見えていない。
「ねえ、今、落ちたのを見た人はいる?」
雄哉が尋ねても、周囲からは「消えたのを見た」という声しか返らない。係員が観覧場所から動かないよう案内し、岸壁の奥では大人たちがひもの状態を確かめ始めていた。
若奈が自分の願い札の結び目を、遠くからじっと見ているのに雄哉は気づいた。
「願い札はあそこにあるよ。ちゃんと残ってる」
「分かってる」
若奈は答えたけれど、いつもの強い声ではなかった。魚市場がずっとにぎやかであってほしいという、彼女のささやかな願いまで暗がりに取られたようで、雄哉は胸が苦しくなった。
係員が安全確認を続けるなか、六人は帰ることにした。騒ぎを追って岸壁へ近づくわけにはいかない。
「明日、七番が戻ったか見に来よう」と雄哉が言うと、晟矢は「まず係の人に聞こう」と付け加えた。
「でもさ、あの家には昔から赤い目があるって噂なんだぜ」
潤一がまた怪談の声になった。碧美は即座に「出典、不明」と言い、美夢は「怖がる人がいるから、帰り道ではやめようよ」と眉を寄せる。
「じゃあ、帰り道が終わったところで話す」
「意味ないでしょ!」
笑いながら歩道を進み、雄哉は一度だけ旧潮見荘を振り返った。
高い窓に、赤い点が二つ並んでいた。
港の白い安全灯を受けて、暗い窓の奥からこちらを見ているように光る。雄哉が少し動くと、赤い点も窓枠の中でずれたように見えた。さっきまで見えなかったものが目に入った途端、雄哉の足は止まった。
七番の青い灯りは、どこへ行ったのだろう。そして今、あの窓で光っている二つは何なのだろう。
背中を押す風は、さっきより冷たかった。
【終】



