あと三回、きみに会える夏

第2話 聞きたいことがあるんだ

 土曜日の午後、敬翔の家の玄関には、私の靴だけがきれいにそろっていなかった。
「咲奈、靴。あと三分で約束の時間」
 希成に言われて、私はあわててかかとを直した。
「まだ入ってもいないのに?」
「入る前だからでしょ。お母さんに二時からって伝えてある」
 時計の針は一時五十七分。希成はインターホンを押すには早すぎると主張し、百華は「三分くらい誤差じゃない?」と反論していた。託也は二人の間で、紙袋に入れたお菓子がつぶれないよう持ち直している。
 昨日、体育倉庫で録った音を聞き比べて、次の録音場所を決めよう。そう誘ってくれたのは敬翔だった。場所は学校ではなく、敬翔の家。最近は、体調によって外へ出られない日があるからだ。
「こんなに大人数でお邪魔していいのかな」
 私が言うと、百華がすかさず振り向いた。
「今さら? 咲奈が『みんなで行こう』って一番に返事したんじゃん」
「そうだけど」
「お母さんには人数を伝えてあるし、敬翔もいいって言ってる。今日はそれでよくない?」
 希成が言い切るのと同時に、玄関の内側から鍵の開く音がした。
「時間ぴったりを狙ってるなら、残念でした」
 扉のすき間から顔を出した敬翔が、得意そうに笑う。
「僕の時計は五十九分。先に開けた僕の勝ち」
「勝負してたの?」
「してない。でも勝った」
 託也が「それ、いちばん強いやつだ」と笑って、ようやく私たちは家に上がった。

 居間のテーブルには、敬翔の描いた町の地図と、鉛筆が数本並んでいた。窓際の椅子には柔らかなクッションが置かれている。敬翔はそこに腰を下ろすと、録音機の電源を入れた。
「昨日の怪獣から聞く?」
「おじいさんのくしゃみ!」
「咲奈、その名前はもう登録済みでしょ」
 百華が言う。その隣で託也が紙袋を掲げた。
「本日は、つぶれていないクッキーをお持ちしました」
「今、『つぶれていない』って強調したよね」
「昨日は学校の階段でひと袋、粉にしたから」
「それはひどい」
 敬翔が笑い、録音機を動かそうとしたところで、お母さんが台所から声をかけた。
「みんな、来てくれてありがとう。始める前に、少しだけ話をしてもいい?」
 いつもの穏やかな声だったけれど、私たちは自然に口を閉じた。
「敬翔はこのところ、昨日はできたことでも、次の日には難しい場合があります。調子のいい日もあるけれど、それがずっと続くとは限らないの」
 私は膝の上で手を握った。昨日、体育倉庫から校舎まで歩いた敬翔は、ちゃんと笑っていた。その姿を思い浮かべると、今の話がうまく重ならない。
「学校へ行く日も、お休みする日も、敬翔自身と相談して決めています。先生やお医者さんとも話しながらね。みんなに何かを判断してもらうつもりはないから、そこは安心して」
 お母さんは私たちを順に見た。
「ただ、遊びの途中で疲れたら、その日は終わりにさせてほしいの。今日は二十分くらいを目安にして、敬翔がやめたいと言ったら、すぐおしまい。それでいい?」
「分かりました」
 いちばんに答えたのは希成だった。彼女は持ってきた小さな手帳に「二時二十分」と書き込む。
「二十分ね。片づけはその前に」
「さすが時間係」
 託也が小声で言うと、希成ににらまれた。
「それから、無理をしないのと、何もできないのとは違うから」
 お母さんが敬翔の肩に目を向けた。
「本人がやりたいことも、ちゃんと聞いてあげてね」
「はーい。僕、意見を持ってます」
 敬翔が手を上げる。みんなが笑ったので、私も笑った。
 でも、胸の中にはさっきの言葉が残った。昨日できたことが、明日はできないかもしれない。その「かもしれない」が、とても嫌だった。

 敬翔は地図の隣に、一週間分の小さな予定表を置いた。
「来週、学校を休む日があるかもしれないから、自分で分かるようにしておきたいんだ。授業の内容は先生と確認するけど、音を録れる日まで全部空白にするのは、つまらないでしょ」
 月曜日の欄には「家の窓」、火曜日には「できたら図書室」と書いてある。「できたら」に二重線は引かれていない。
「じゃあ、私が授業のノートを毎日持ってくる!」
 私は鞄から、昨日の授業で配られたプリントの束を出した。
「見やすいように教科ごとに分けたし、字が小さいところは大きく書き直しておいたよ。分からない問題は答えもまとめて――」
「咲奈、答えまで先に書いたら、僕の出番がなくなる」
 敬翔が笑う。
「あっ、そっか。じゃあ答えは別の封筒にしておくね」
「それなら助かる。ありがとう」
 そう言ってもらえると、頑張った甲斐がある。でも、お礼がほしくてやったわけじゃない。敬翔が少しでも困らなくなれば、それで十分だ。
 私はプリントを広げ、端が曲がったものを伸ばして、順番を確かめた。
「これが国語。こっちが理科。あと、みんなへのお知らせも入ってたから」
「僕の音メモもあるんだけど」
 敬翔が鉛筆で書いた紙を差し出した。
「ちょっと、ここ見てほしい」
「うん、待って。これを先に並べたら、なくならないから」
 私が三つの山を作っているうちに、託也が録音機の再生ボタンを押した。昨日の扉のきしむ音が居間に響き、百華が「あ、やっぱり船!」と声を上げる。
「昨日より船っぽく聞こえる。家の中だと響き方が違うのかな」
 敬翔は差し出した紙を引っ込め、託也のほうを向いた。
「だったら、同じ音を別の場所で聞いてみたいな」
「今ここで実験できるよ」
 託也が録音機をテーブルの真ん中に置くと、希成が「音量はそのまま」と注意した。私はプリントを封筒に入れ終わって、ようやく顔を上げた。
 敬翔の音メモは、いつの間にか地図の下にしまわれていた。

「次は図書室の返却ベル、録ってみたい」
 百華が言った。
「図書委員の仕事がある日に先生に聞いてみる。敬翔が行けなくても、私が音を持ってこられるし」
「それ、面白そう」
 敬翔が答えると、百華の頬がぱっと明るくなった。
「でしょ? 許可がいるところも調べてあるんだよ。録音するだけなら大丈夫か、週明けに確認するつもり」
「だったらさ、お茶会の会場も早めに決めようよ」
 私は地図の余白に、大きな丸を描いた。
「学校の教室を借りられたら最高だよね。録った音を順番に流して、託也の蝶も飾って――」
「その前に、どこなら敬翔が無理なく参加できるか、でしょ」
 百華が私の鉛筆の先を指で押さえた。
「昨日も言ったけど、家でできるやり方だってあるよ」
「分かってるよ。でも、せっかくなら楽しいほうがいいじゃん」
「家だと楽しくないってこと?」
「そんなこと言ってない」
 声が少し大きくなった。敬翔のほうを見ると、彼は二人の顔を見比べていた。
「僕は、みんなの音が聞けたら――」
「会場の話は一回止めて」
 希成が手帳を閉じた。
「先生への確認もまだ。今決めても意味ない。それに、もう二時十五分」
「あと五分?」
「片づけも含めて五分」
 私はあわててプリントを封筒に押し込み、敬翔の手の届くところに置いた。敬翔はそれを少し脇へ寄せ、自分の予定表を開いたままにした。
「月曜日、学校へ行けるかは朝決める。もし休んだら、ノートは写真で送ってもらっていい?」
「もちろん! プリントも私が届けるよ」
「写真だけで足りると思うけど」
「近いんだから遠慮しないで。昔から行き来してるし」
 敬翔は一拍置いて、「じゃあ、必要になったら頼む」と言った。
 私は元気にうなずいた。必要になる前に準備しておけば、きっともっと助かるはずだ。

 片づけが終わって、みんなが玄関へ向かうころ、敬翔が私の袖をそっと引いた。
「ねえ、咲奈。聞いてほしいことがあるんだ」
 さっきまで笑っていた声が、少しだけ静かになっていた。
 私は振り返る。敬翔は何かを言おうとして、開きかけた口を閉じた。
「どうしたの? 具合悪い?」
「そうじゃなくて。今日、お母さんが話したことなんだけど……」
 その先を聞いたら、怖いことを知らされるような気がした。
 私は慌てて言った。
「大丈夫だよ。きっとよくなる。今は休んで、またみんなで出かけようよ。私、何だって手伝うから!」
「……うん」
 敬翔は視線を下げ、短く答えた。
 その「うん」は、昨日扉の音を聞いていたときの返事と違った。でも、私は深く考えなかった。だって、ほかに何を言えばいいのか分からなかったから。
「咲奈、靴、つっかえてる」
 外から託也に呼ばれて、私は足もとを見た。片方の靴が玄関マットに引っかかっていた。
「今行く!」
 靴を直しながら、もう一度だけ敬翔を見た。
 録音機のストラップに結ばれた黄色い布が、窓から入った風でかすかに揺れていた。
「その布、ほつれてない? 新しいの結んであげようか」
「大丈夫。ここ、僕の好きな色だから」
 敬翔は布を指で押さえた。
「咲奈がくれたとき、ほかの布より少し変な形だったでしょ。だからすぐ自分のだって分かるんだ」
「変な形って、失礼だなあ」
「褒めてるよ」
 笑い合えたので、私は少し安心した。
「じゃあ月曜日。学校でね!」
「うん。……行けたらね」
 扉が閉まるまで手を振っていたら、百華が門のところで待っていた。
「ねえ、咲奈。敬翔の話、最後まで聞いた?」
「え?」
「さっき、何か言いかけてたじゃん」
「体調の話だよ。だから、元気になったら出かけようって言った」
「それ、答えになってないと思う」
 百華の声は、思ったよりきつかった。
「咲奈ばっかり、いつも先に呼ばれるんだから。せめて話くらい聞いてあげればいいのに」
「ばっかりって、何よ」
 私は言い返しかけたけれど、百華は顔をそらした。怒っているのか、悲しそうなのか、横顔だけでは分からない。
「……別に。先に帰る」
 百華は足早に歩いていった。
 希成が私の隣に立った。
「百華の言い方は余計。でも、言ってることは確かめたほうがいい」
「私は敬翔のことを考えてるよ」
「考えるのと、聞くのは別」
「そんな言い方しなくてもいいじゃん」
「事実だから」
 希成はそれだけ言うと、帰る方向へ歩き出した。託也は「明日は天気がいいらしいよ」と話題を変えたけれど、今日はその気づかいに乗れなかった。
 私が悪いみたいに言われたのが、悔しかった。

 日曜日の朝、私は机に新しいノートを広げた。
 月曜日のプリントを整理する。敬翔が休んだら黒板を写真に撮る。録音機を持つ荷物を減らす。お茶会用の飾りの作り方も調べる。
 一つ書いては、チェック用の小さな四角をつけていく。やれることが増えると、昨日までぼんやりしていた不安にも形ができたようで、少しだけ落ち着いた。
 午前中に折り紙で小さな蝶を一匹作った。羽の角が左右でそろわなかったけれど、机の上に立ててみるとちゃんと蝶に見える。こんな小さな成功でも、私はうれしい。
 もう一匹折ろうとしたところで、スマートフォンが震えた。
『昨日のプリント、ありがとう。月曜は朝の調子で決めるね』
 敬翔からだった。
 私はすぐに『休むなら何でも届けるよ!』と打ち、送信しかけて指を止めた。
 昨日、敬翔は「必要になったら頼む」と言った。なら、今は返事を待ったほうがいいのかもしれない。
 でも、困ってからでは遅いことだってある。
 私は迷った末に、『分かった! いつでも言ってね』と送った。そのあとで、明日持っていくつもりの予備のプリントを鞄に入れた。
 ノートの最後のページには、まだ印をつけていない欄が一つ残っていた。
『敬翔に頼まれたこと』
 昨日からやることはたくさん増えたのに、そこには何も書けない。
 ペン先を紙に当てたまま、しばらく考える。敬翔は私に何を話そうとしていたんだろう。
 聞き直そうと、スマートフォンを持ち上げた。
『昨日、聞きそびれた話って――』
 途中まで打って、消した。もしまた体の話だったら、どう返せばいいのか分からない。
 机の上の蝶が、開けた窓からの風に倒れた。私は羽をそっと起こし、ノートを閉じた。
 月曜日にはきっと会える。会えたら、そのときに聞けばいい。
 そう思いながら、鞄のいちばん取り出しやすいところへ、敬翔のための封筒を入れた。
【終】