第1話 体育倉庫のきしむ音
体育倉庫の扉が、盛大なくしゃみをした。
「へっくしょん!」
私が音に合わせて叫ぶと、隣にいた敬翔が吹き出した。
「咲奈、それ、扉に失礼じゃない?」
「だって今の、おじいさんのくしゃみみたいだったよ」
「僕には、寝起きの怪獣のあくびに聞こえたけど」
「怪獣? くしゃみよりひどくない?」
笑いながら振り返った敬翔は、首から小さな録音機を下げていた。ストラップには、黄色い布の切れ端がちょう結びになっている。私が去年の手芸の授業で余らせた布を、目印に使ってくれているのだ。
七月十二日、金曜日。夏休みまであと少しの放課後、私たち五人は体育倉庫の入り口に集まっていた。
「もう一回開けていいですか?」
敬翔がたずねると、立ち会っていた先生が倉庫の中を見てからうなずいた。
「いいよ。ただし、重い扉だから先生が支える。録るのは入り口だけ。奥の用具には触らないこと」
「はーい!」
返事がいちばん大きかったのは私だ。先生が扉を押すと、古いちょうつがいから、ぎいい、と長い音が伸びた。
「今のは怪獣が起きた音」
「違うよ。さっきのおじいさんが、布団から出た音」
「同じ扉なのに、住んでる生き物が違うんだ」
敬翔は楽しそうに言って、録音を止めた。
私たちが作っているのは、『町の音の地図』。普通の地図に道や建物の名前があるように、町のあちこちで聞こえる音を書き込んだ、敬翔の手作りの地図だ。
踏切が閉まる前の鈴。パン屋さんの焼き上がりを知らせるベル。夕方の海沿いで、風が柵を鳴らす音。敬翔は場所だけでなく、聞いたときの気持ちまで、細かい字で書き残している。
小学生のころ、私が「こんな音まで?」と笑ったことがある。そのとき敬翔は、道ばたの空き缶を指して言った。
『気づかないだけで、町ってずっとしゃべってるんだよ』
それ以来、私は通学路で変な音を見つけるたび、敬翔に教えるようになった。
「敬翔、録音機、持つよ」
私は、敬翔の首にかかった機械へ手を伸ばした。彼は少し前から病気のために体育を見学していて、疲れやすい日もある。今日も重い荷物は持たないよう、先生と相談して来ていた。
でも敬翔は、私の手を軽くよけた。
「ありがと。でも録音ボタンくらいは僕が押せる」
「あ、ごめん。じゃあ、地図のほう持つね」
「それは助かる」
敬翔は録音機を大事そうに握り直した。私が差し出された冊子を受け取ると、今度は素直に笑った。
どうせ同じ手伝いなら、何でもしてあげたい。そう思うけれど、敬翔はときどき、私が考えるよりずっと頑固だ。
「録れた? なら全員集合。感想は一人一個、短く」
希成が腕時計を見ながら言った。彼女はいつも、予定を一分単位で気にする。先生との約束が四時半までなのも、何度も確認していた。
「そんな急がなくても」
「片づけに五分かかる。あと十二分」
「はい、計算係には逆らいません」
私は両手を上げる。希成は笑わなかったけれど、録音機のイヤホンを受け取る順番を黙って決めてくれた。
最初に聞いた百華が、ぱっと顔を上げる。
「これ、船のロープがきしむ音に似てない? 港へ行くと聞こえるやつ」
「へえ、港かあ」
敬翔が目を輝かせると、百華も得意そうに胸を張った。
次の託也は、耳を澄ましたあと、わざと深刻な顔を作った。
「ぼくには巨大なネコの鳴き声だね。おなかすいたー、って」
「どんなネコだよ」
「学校を丸飲みできるサイズ」
敬翔の笑い声が倉庫に響いた。つられて私も笑ったら、先生に「録音中じゃなくてよかったね」と言われる。
最後にイヤホンを外した希成は、ひとこと。
「金属がこすれる音。以上」
「夢がない!」
「聞こえたことを言っただけ」
「それがいいんだよ」
敬翔がさっそく地図を開いた。体育倉庫の小さな四角の横に、『くしゃみ/怪獣/船/ネコ/金属』と書き足す。
「僕ひとりだったら、怪獣しかいなかった。五人で聞いたら、こんなににぎやかになった」
その言い方がうれしくて、私は冊子の端をそっと押さえた。
「あと、何を録ろうか?」
「図書室の返却ベル!」
百華が即答した。
「本を返したときの、ちりん、って音。あれ、すごく澄んでるの。私、図書委員だから先生にも聞けるし」
「いいね。場所が増える」
敬翔が鉛筆を持ち直す。そのとき、立ち会いの先生が言った。
「今日は校内で許可した場所を先に終わらせよう。図書室は担当の先生にも確認してからね」
「じゃあ、次は廊下の窓の音かな」
私が言うと、敬翔は「それもいい」とうなずいた。
百華は「そっか」と笑ったけれど、指先でノートの角をぎゅっと押した。私はその小さな動きに気づいたものの、何か言う前に託也から呼ばれた。
「おーい、僕の大発明も見てくれない?」
託也が持っていたのは、白い紙を切り抜いた蝶と、小さなライトだった。今朝から机の上で工作していたもので、光を当てると壁に蝶の影が映るらしい。
「夜の空を、部屋の中に作れたら面白いでしょ。音の地図の発表にも使えると思って」
託也はどんなときでも肩の力が抜けている。でも新しいものを試すときだけ、目つきが少し真剣になる。
先生の許可をもらって、入り口近くの壁にライトを向ける。すると、白い蝶の影はひっくり返って、羽を下にしたまま壁を横切った。
「……溺れてる?」
私がつぶやくと、百華が噴き出した。
「空を飛ぶんじゃなかったの?」
「計算どおり、とは言いにくいかな」
託也は平然としていたが、すぐに手帳を取り出した。
「光の位置、下すぎた。明日は高さを変えよう。あと紙が回っちゃうから、軸も作り直し」
「失敗なのに楽しそうだね」
「失敗した場所が分かれば、次に直せるだろ?」
敬翔が逆さまの蝶を見上げて、肩を揺らした。
「僕、この蝶、嫌いじゃないな」
「えっ、ほんと?」
「みんなと違う飛び方する蝶が一匹くらいいたっていいじゃん」
託也は一瞬ぽかんとしてから、「じゃあ、この形も記録しとこう」と手帳に線を引いた。
倉庫の向こうから、運動場の歓声が聞こえてきた。部活の練習試合らしい。窓越しに見える生徒たちが、夕陽の中を勢いよく走っている。
敬翔はそちらを見たまま、しばらく何も言わなかった。
私は知っている。去年までは敬翔も、あの中にいた。走るのは特別速くなかったけれど、負けそうになるほどむきになって最後まで追いかける人だった。
「……外、行きたい?」
聞くと、敬翔は少し考えてから答えた。
「走ってるのを見ると、うらやましい日はあるよ。でも今日は、ここで録れた音もあるから」
録音機を持つ手を、ちょっとだけ上げる。
「見学って、ただ待ってるだけだと思ってた。でも運動場にいたら、この扉の音は聞かなかったでしょ」
「そっか」
私はうなずいた。でも、本当は敬翔がまた運動場を走れるようになったらいいのに、とも思った。その気持ちを言葉にすると、彼がせっかく見つけたものを小さくしてしまいそうで、黙っておいた。
「そうだ。ねえ、みんな」
敬翔が地図の白い余白を広げた。
「音がもう少し集まったら、いつかお茶会をしない? 好きな音を一人ひとつ持ってきて、お菓子食べながら聞くの。小さくていいからさ」
「お茶会!」
私はすぐ乗り気になった。
「だったら教室いっぱいに飾りつけしようよ。託也の蝶を壁じゅうに飛ばして、みんなも呼んで。絶対、盛大にね!」
「いや、僕は小さく――」
「任せて! 飾りつけ、私が考える!」
頭の中ではもう、色とりどりの紙飾りが天井から下がっていた。敬翔が喜ぶ顔まで、はっきり想像できる。
百華が何か言いかけたけれど、そこで希成が手を打った。
「はい、終了。片づけの時間」
「えー、もう?」
「約束は約束」
託也はライトを消し、百華はノートをしまった。私が地図を閉じようとすると、敬翔が「ちょっと待って」と指さす。
体育倉庫の欄のいちばん下に、いつのまにか小さな字が加わっていた。
『同じ音でも、ちがって聞こえる。それがおもしろい。』
「これ、今日いちばん大事な発見」
敬翔が言う。
「じゃあ、明日はもっとすごいの見つけようね」
「うん。明日は何がしゃべってるかな」
私たちは顔を見合わせて笑った。
倉庫の扉を先生が閉めると、また、ぎいい、とあの音がした。さっきと同じ、少しくたびれた音。それなのに私は、もうおじいさんのくしゃみだとは思わなかった。
なんだか、誰かが「また聞きにおいで」と言っているみたいだった。
敬翔は地図を胸に抱え、校舎へ続く廊下をゆっくり歩き出す。私もその隣に並んだ。歩幅を合わせるのは、子どものころから得意だった。
だけどその日、私は気づかなかった。
敬翔が「小さくていい」と言った声を、ちゃんと聞いていなかったことに。
【終】
体育倉庫の扉が、盛大なくしゃみをした。
「へっくしょん!」
私が音に合わせて叫ぶと、隣にいた敬翔が吹き出した。
「咲奈、それ、扉に失礼じゃない?」
「だって今の、おじいさんのくしゃみみたいだったよ」
「僕には、寝起きの怪獣のあくびに聞こえたけど」
「怪獣? くしゃみよりひどくない?」
笑いながら振り返った敬翔は、首から小さな録音機を下げていた。ストラップには、黄色い布の切れ端がちょう結びになっている。私が去年の手芸の授業で余らせた布を、目印に使ってくれているのだ。
七月十二日、金曜日。夏休みまであと少しの放課後、私たち五人は体育倉庫の入り口に集まっていた。
「もう一回開けていいですか?」
敬翔がたずねると、立ち会っていた先生が倉庫の中を見てからうなずいた。
「いいよ。ただし、重い扉だから先生が支える。録るのは入り口だけ。奥の用具には触らないこと」
「はーい!」
返事がいちばん大きかったのは私だ。先生が扉を押すと、古いちょうつがいから、ぎいい、と長い音が伸びた。
「今のは怪獣が起きた音」
「違うよ。さっきのおじいさんが、布団から出た音」
「同じ扉なのに、住んでる生き物が違うんだ」
敬翔は楽しそうに言って、録音を止めた。
私たちが作っているのは、『町の音の地図』。普通の地図に道や建物の名前があるように、町のあちこちで聞こえる音を書き込んだ、敬翔の手作りの地図だ。
踏切が閉まる前の鈴。パン屋さんの焼き上がりを知らせるベル。夕方の海沿いで、風が柵を鳴らす音。敬翔は場所だけでなく、聞いたときの気持ちまで、細かい字で書き残している。
小学生のころ、私が「こんな音まで?」と笑ったことがある。そのとき敬翔は、道ばたの空き缶を指して言った。
『気づかないだけで、町ってずっとしゃべってるんだよ』
それ以来、私は通学路で変な音を見つけるたび、敬翔に教えるようになった。
「敬翔、録音機、持つよ」
私は、敬翔の首にかかった機械へ手を伸ばした。彼は少し前から病気のために体育を見学していて、疲れやすい日もある。今日も重い荷物は持たないよう、先生と相談して来ていた。
でも敬翔は、私の手を軽くよけた。
「ありがと。でも録音ボタンくらいは僕が押せる」
「あ、ごめん。じゃあ、地図のほう持つね」
「それは助かる」
敬翔は録音機を大事そうに握り直した。私が差し出された冊子を受け取ると、今度は素直に笑った。
どうせ同じ手伝いなら、何でもしてあげたい。そう思うけれど、敬翔はときどき、私が考えるよりずっと頑固だ。
「録れた? なら全員集合。感想は一人一個、短く」
希成が腕時計を見ながら言った。彼女はいつも、予定を一分単位で気にする。先生との約束が四時半までなのも、何度も確認していた。
「そんな急がなくても」
「片づけに五分かかる。あと十二分」
「はい、計算係には逆らいません」
私は両手を上げる。希成は笑わなかったけれど、録音機のイヤホンを受け取る順番を黙って決めてくれた。
最初に聞いた百華が、ぱっと顔を上げる。
「これ、船のロープがきしむ音に似てない? 港へ行くと聞こえるやつ」
「へえ、港かあ」
敬翔が目を輝かせると、百華も得意そうに胸を張った。
次の託也は、耳を澄ましたあと、わざと深刻な顔を作った。
「ぼくには巨大なネコの鳴き声だね。おなかすいたー、って」
「どんなネコだよ」
「学校を丸飲みできるサイズ」
敬翔の笑い声が倉庫に響いた。つられて私も笑ったら、先生に「録音中じゃなくてよかったね」と言われる。
最後にイヤホンを外した希成は、ひとこと。
「金属がこすれる音。以上」
「夢がない!」
「聞こえたことを言っただけ」
「それがいいんだよ」
敬翔がさっそく地図を開いた。体育倉庫の小さな四角の横に、『くしゃみ/怪獣/船/ネコ/金属』と書き足す。
「僕ひとりだったら、怪獣しかいなかった。五人で聞いたら、こんなににぎやかになった」
その言い方がうれしくて、私は冊子の端をそっと押さえた。
「あと、何を録ろうか?」
「図書室の返却ベル!」
百華が即答した。
「本を返したときの、ちりん、って音。あれ、すごく澄んでるの。私、図書委員だから先生にも聞けるし」
「いいね。場所が増える」
敬翔が鉛筆を持ち直す。そのとき、立ち会いの先生が言った。
「今日は校内で許可した場所を先に終わらせよう。図書室は担当の先生にも確認してからね」
「じゃあ、次は廊下の窓の音かな」
私が言うと、敬翔は「それもいい」とうなずいた。
百華は「そっか」と笑ったけれど、指先でノートの角をぎゅっと押した。私はその小さな動きに気づいたものの、何か言う前に託也から呼ばれた。
「おーい、僕の大発明も見てくれない?」
託也が持っていたのは、白い紙を切り抜いた蝶と、小さなライトだった。今朝から机の上で工作していたもので、光を当てると壁に蝶の影が映るらしい。
「夜の空を、部屋の中に作れたら面白いでしょ。音の地図の発表にも使えると思って」
託也はどんなときでも肩の力が抜けている。でも新しいものを試すときだけ、目つきが少し真剣になる。
先生の許可をもらって、入り口近くの壁にライトを向ける。すると、白い蝶の影はひっくり返って、羽を下にしたまま壁を横切った。
「……溺れてる?」
私がつぶやくと、百華が噴き出した。
「空を飛ぶんじゃなかったの?」
「計算どおり、とは言いにくいかな」
託也は平然としていたが、すぐに手帳を取り出した。
「光の位置、下すぎた。明日は高さを変えよう。あと紙が回っちゃうから、軸も作り直し」
「失敗なのに楽しそうだね」
「失敗した場所が分かれば、次に直せるだろ?」
敬翔が逆さまの蝶を見上げて、肩を揺らした。
「僕、この蝶、嫌いじゃないな」
「えっ、ほんと?」
「みんなと違う飛び方する蝶が一匹くらいいたっていいじゃん」
託也は一瞬ぽかんとしてから、「じゃあ、この形も記録しとこう」と手帳に線を引いた。
倉庫の向こうから、運動場の歓声が聞こえてきた。部活の練習試合らしい。窓越しに見える生徒たちが、夕陽の中を勢いよく走っている。
敬翔はそちらを見たまま、しばらく何も言わなかった。
私は知っている。去年までは敬翔も、あの中にいた。走るのは特別速くなかったけれど、負けそうになるほどむきになって最後まで追いかける人だった。
「……外、行きたい?」
聞くと、敬翔は少し考えてから答えた。
「走ってるのを見ると、うらやましい日はあるよ。でも今日は、ここで録れた音もあるから」
録音機を持つ手を、ちょっとだけ上げる。
「見学って、ただ待ってるだけだと思ってた。でも運動場にいたら、この扉の音は聞かなかったでしょ」
「そっか」
私はうなずいた。でも、本当は敬翔がまた運動場を走れるようになったらいいのに、とも思った。その気持ちを言葉にすると、彼がせっかく見つけたものを小さくしてしまいそうで、黙っておいた。
「そうだ。ねえ、みんな」
敬翔が地図の白い余白を広げた。
「音がもう少し集まったら、いつかお茶会をしない? 好きな音を一人ひとつ持ってきて、お菓子食べながら聞くの。小さくていいからさ」
「お茶会!」
私はすぐ乗り気になった。
「だったら教室いっぱいに飾りつけしようよ。託也の蝶を壁じゅうに飛ばして、みんなも呼んで。絶対、盛大にね!」
「いや、僕は小さく――」
「任せて! 飾りつけ、私が考える!」
頭の中ではもう、色とりどりの紙飾りが天井から下がっていた。敬翔が喜ぶ顔まで、はっきり想像できる。
百華が何か言いかけたけれど、そこで希成が手を打った。
「はい、終了。片づけの時間」
「えー、もう?」
「約束は約束」
託也はライトを消し、百華はノートをしまった。私が地図を閉じようとすると、敬翔が「ちょっと待って」と指さす。
体育倉庫の欄のいちばん下に、いつのまにか小さな字が加わっていた。
『同じ音でも、ちがって聞こえる。それがおもしろい。』
「これ、今日いちばん大事な発見」
敬翔が言う。
「じゃあ、明日はもっとすごいの見つけようね」
「うん。明日は何がしゃべってるかな」
私たちは顔を見合わせて笑った。
倉庫の扉を先生が閉めると、また、ぎいい、とあの音がした。さっきと同じ、少しくたびれた音。それなのに私は、もうおじいさんのくしゃみだとは思わなかった。
なんだか、誰かが「また聞きにおいで」と言っているみたいだった。
敬翔は地図を胸に抱え、校舎へ続く廊下をゆっくり歩き出す。私もその隣に並んだ。歩幅を合わせるのは、子どものころから得意だった。
だけどその日、私は気づかなかった。
敬翔が「小さくていい」と言った声を、ちゃんと聞いていなかったことに。
【終】



