第2話 壁の向こうのダンサー
「人形なんか、どこにもいなかったぞ」
土曜日の帰り道、蓮はそう言って首をかしげた。七海が振り向いたときには、白い壁から影が消えていたのだから仕方ない。
でも七海は、ちゃんと見た。腕を広げる細い影と、それを追いかける小さな影。二人は、まるで音楽に合わせたように動いていた。
その晩、七海はノートに広場の絵を描いた。壁、街灯、古い回廊。頭の中では位置がすぐに立体になるのに、肝心の影を生んだものだけが見つからない。
翌月曜日の放課後、七海は蓮の机にノートを広げた。
「もう一回、確かめに行きたい!」
「テスト勉強は?」
「先に十五分だけ!」
「おまえの十五分って、いつも一時間だろ」
言い返そうとして、七海は口を閉じた。先週、模型の屋根を直していたら夕飯の時間を過ぎたのは事実だ。
「じゃあ、三十分。時計も持っていく」
「最初からそう言えよ」
蓮はため息をつきながらも、自分の筆箱から小さな定規を出した。
「土曜におまえが屋台へ置いてきたやつ。今度はなくすな」
「ありがとう! ……それ、なんで月曜まで持ってたの?」
「渡すの忘れてただけだ」
そう言う蓮の耳が少し赤い。七海は気づかず、定規をノートの間に挟んだ。
風見広場には、ほかにも二人が来てくれた。
「『踊る人影の謎』って聞いたら、行くしかないでしょ!」
伊吹は両手を広げて、広場の真ん中でくるりと回った。いつも教室を笑わせるのが得意な男子だ。
その後ろから、ひよりが控えめに手を振る。普段は人前であまり話さないけれど、不思議なものを見つけると、ノートに細かな字がどんどん増える。
「ひより、来てくれてありがとう。何か持ってる?」
「風の向き、記録したくて。……小さい旗」
ひよりの手には、細い棒に紙を結んだ道具があった。七海は目を輝かせた。
「最高! 私は場所を調べるから、ひよりは風をお願い」
「う、うん」
広場の奥の白い壁には、まだ何も映っていない。夕日が回廊の柱の間を赤く照らしていた。
七海はノートをベンチに置き、壁の前から数歩ずつ立ち位置を変えた。正面では見えない回廊の外側に、細いすき間がある。けれど植え込みと柵が重なり、奥はのぞけなかった。
「向こうに何かあるのかな」
七海が首を伸ばすと、蓮が柵の札を指した。『関係者以外立入禁止』と書かれている。
「見るならこっち側からだ。越えるなよ」
「わかってる。測るのは、入っていい場所だけ!」
七海は柵から離れ、壁と灯りのおおよその位置をノートに描いた。線を一本引くと、頭の中で広場が小さく折りたたまれていく。
「七海の頭の中って、紙でできてるの?」
「たまにのりが足りないけどね」
伊吹の言葉に自分で答えたら、蓮に「そこは認めるのか」と笑われた。
やがて街灯がともった。
「あっ!」
七海が指さすより早く、ひよりが小さく声を上げる。
白い壁に、長い腕の影が現れた。ゆっくり左へ向いて、くるり。そして少し遅れて、小さな影が右から滑り込んでくる。二つは近づいたかと思うと離れ、壁の端で消えた。
「ほら、土曜日と同じ!」
「本当だ。人間が踊ってるみたいだな」
蓮が回廊の見えるところを見回す。壁の前にも、柱の間にも、踊る人はいない。
少しして、また長い腕の影が現れた。左へ向いて、回って、小さい影が右から追う。
「順番まで同じだよ!」
七海の胸が高鳴った。誰かが動かしているなら、同じ振り付けを繰り返しているのだろうか。
伊吹は低い声を作り、両手をゆらゆらさせた。
「夜になると壁から出てくる、百年前のダンサー……。ひゅうう」
「ちょっと、やめなよ」
七海が笑いかけたそのとき、背後から小さな声がした。
「……おばけ、いるの?」
振り向くと、ランドセルを背負った女の子が、通りの端で立ちすくんでいた。目には涙が浮かんでいる。
「百年前って、ほんと?」
伊吹の両手がぴたりと止まる。
七海はしゃがみ、女の子と目の高さを合わせた。
「まだ正体がわからないんだ。でも、あの影がどこから来るのか、私たち調べてるところなの」
そして伊吹を見上げた。
「正体がわからないのに、怖がらせないで」
「……ごめん。面白いと思って、つい」
伊吹もしゃがんだ。
「さっきの百年前って話、僕の作り話なんだ。ごめんね」
女の子は唇を結んだまま、まだ壁を見ていた。
七海はノートを一枚めくり、鉛筆で小さな人形を描いた。
「手を光にかざしたら、壁に影ができるでしょ? あれと似た仕組みかもしれない。だから、怖いものだって決めつけなくていいんだよ」
「ほんとに、ただの影かもしれないの?」
「うん。ちゃんと確かめるまでは、わからないけどね」
女の子は少しだけうなずいた。ちょうど通りの向こうから迎えの保護者が来て、一緒に帰っていく。伊吹はその背中にもう一度「ごめんね」と言った。
「笑わせたかったのに、泣かせかけた」
伊吹がぽつりと言う。
「今度この子に会ったら、ちゃんと説明できるようにしようよ」
七海が言うと、伊吹は真面目な顔でうなずいた。
「七海ちゃん、これ、見て」
ひよりが差し出したノートには、時刻と小さな矢印が並んでいた。
「影が動いてたとき、旗も揺れてた。でも、風が弱くなったところで……」
ひよりは一行を指さす。『五時四十三分 旗が垂れる。影も止まる』。
七海は壁を見た。ちょうど長い影が途中で動きを鈍らせている。ひよりの旗も、さっきまでのようには揺れていない。
数秒後、風がひと吹きすると、小さな影が長い影を追って動いた。
「風と一緒に動いてる!」
七海はノートに大きな矢印を描いた。風が原因だと決まったわけではない。でも、少なくとも偶然とは思えない。
「ひより、よく気づいたね。私、壁しか見てなかった!」
「七海ちゃんが、違うところを見てって言ってくれたから」
ひよりは照れたように笑った。
七海は壁と回廊と灯りを見比べた。見えない場所が、また一つある。けれど、見えないままにしておく必要はない。入れる場所から調べて、わからないことは詳しい人に聞けばいい。
「明日も調べよう。今度は図書館で昔の広場の写真を探すの!」
「待て。もう三十分だぞ」
蓮が腕時計を見せる。
「えっ、ぴったり?」
「正確には三十八分」
「八分なら誤差!」
「時間に縮尺はないからな」
伊吹が吹き出し、ひよりまで肩を震わせた。
帰ろうとした七海の目に、広場の掲示板が入った。新しい紙が一枚、画びょうで留められている。
そこに印刷された見出しを読み、七海は思わず足を止めた。
『古い照明・付属設備の改修について』
踊る影と、古い照明。二つの言葉が、七海の頭の中で一本の線につながった。
【終】
「人形なんか、どこにもいなかったぞ」
土曜日の帰り道、蓮はそう言って首をかしげた。七海が振り向いたときには、白い壁から影が消えていたのだから仕方ない。
でも七海は、ちゃんと見た。腕を広げる細い影と、それを追いかける小さな影。二人は、まるで音楽に合わせたように動いていた。
その晩、七海はノートに広場の絵を描いた。壁、街灯、古い回廊。頭の中では位置がすぐに立体になるのに、肝心の影を生んだものだけが見つからない。
翌月曜日の放課後、七海は蓮の机にノートを広げた。
「もう一回、確かめに行きたい!」
「テスト勉強は?」
「先に十五分だけ!」
「おまえの十五分って、いつも一時間だろ」
言い返そうとして、七海は口を閉じた。先週、模型の屋根を直していたら夕飯の時間を過ぎたのは事実だ。
「じゃあ、三十分。時計も持っていく」
「最初からそう言えよ」
蓮はため息をつきながらも、自分の筆箱から小さな定規を出した。
「土曜におまえが屋台へ置いてきたやつ。今度はなくすな」
「ありがとう! ……それ、なんで月曜まで持ってたの?」
「渡すの忘れてただけだ」
そう言う蓮の耳が少し赤い。七海は気づかず、定規をノートの間に挟んだ。
風見広場には、ほかにも二人が来てくれた。
「『踊る人影の謎』って聞いたら、行くしかないでしょ!」
伊吹は両手を広げて、広場の真ん中でくるりと回った。いつも教室を笑わせるのが得意な男子だ。
その後ろから、ひよりが控えめに手を振る。普段は人前であまり話さないけれど、不思議なものを見つけると、ノートに細かな字がどんどん増える。
「ひより、来てくれてありがとう。何か持ってる?」
「風の向き、記録したくて。……小さい旗」
ひよりの手には、細い棒に紙を結んだ道具があった。七海は目を輝かせた。
「最高! 私は場所を調べるから、ひよりは風をお願い」
「う、うん」
広場の奥の白い壁には、まだ何も映っていない。夕日が回廊の柱の間を赤く照らしていた。
七海はノートをベンチに置き、壁の前から数歩ずつ立ち位置を変えた。正面では見えない回廊の外側に、細いすき間がある。けれど植え込みと柵が重なり、奥はのぞけなかった。
「向こうに何かあるのかな」
七海が首を伸ばすと、蓮が柵の札を指した。『関係者以外立入禁止』と書かれている。
「見るならこっち側からだ。越えるなよ」
「わかってる。測るのは、入っていい場所だけ!」
七海は柵から離れ、壁と灯りのおおよその位置をノートに描いた。線を一本引くと、頭の中で広場が小さく折りたたまれていく。
「七海の頭の中って、紙でできてるの?」
「たまにのりが足りないけどね」
伊吹の言葉に自分で答えたら、蓮に「そこは認めるのか」と笑われた。
やがて街灯がともった。
「あっ!」
七海が指さすより早く、ひよりが小さく声を上げる。
白い壁に、長い腕の影が現れた。ゆっくり左へ向いて、くるり。そして少し遅れて、小さな影が右から滑り込んでくる。二つは近づいたかと思うと離れ、壁の端で消えた。
「ほら、土曜日と同じ!」
「本当だ。人間が踊ってるみたいだな」
蓮が回廊の見えるところを見回す。壁の前にも、柱の間にも、踊る人はいない。
少しして、また長い腕の影が現れた。左へ向いて、回って、小さい影が右から追う。
「順番まで同じだよ!」
七海の胸が高鳴った。誰かが動かしているなら、同じ振り付けを繰り返しているのだろうか。
伊吹は低い声を作り、両手をゆらゆらさせた。
「夜になると壁から出てくる、百年前のダンサー……。ひゅうう」
「ちょっと、やめなよ」
七海が笑いかけたそのとき、背後から小さな声がした。
「……おばけ、いるの?」
振り向くと、ランドセルを背負った女の子が、通りの端で立ちすくんでいた。目には涙が浮かんでいる。
「百年前って、ほんと?」
伊吹の両手がぴたりと止まる。
七海はしゃがみ、女の子と目の高さを合わせた。
「まだ正体がわからないんだ。でも、あの影がどこから来るのか、私たち調べてるところなの」
そして伊吹を見上げた。
「正体がわからないのに、怖がらせないで」
「……ごめん。面白いと思って、つい」
伊吹もしゃがんだ。
「さっきの百年前って話、僕の作り話なんだ。ごめんね」
女の子は唇を結んだまま、まだ壁を見ていた。
七海はノートを一枚めくり、鉛筆で小さな人形を描いた。
「手を光にかざしたら、壁に影ができるでしょ? あれと似た仕組みかもしれない。だから、怖いものだって決めつけなくていいんだよ」
「ほんとに、ただの影かもしれないの?」
「うん。ちゃんと確かめるまでは、わからないけどね」
女の子は少しだけうなずいた。ちょうど通りの向こうから迎えの保護者が来て、一緒に帰っていく。伊吹はその背中にもう一度「ごめんね」と言った。
「笑わせたかったのに、泣かせかけた」
伊吹がぽつりと言う。
「今度この子に会ったら、ちゃんと説明できるようにしようよ」
七海が言うと、伊吹は真面目な顔でうなずいた。
「七海ちゃん、これ、見て」
ひよりが差し出したノートには、時刻と小さな矢印が並んでいた。
「影が動いてたとき、旗も揺れてた。でも、風が弱くなったところで……」
ひよりは一行を指さす。『五時四十三分 旗が垂れる。影も止まる』。
七海は壁を見た。ちょうど長い影が途中で動きを鈍らせている。ひよりの旗も、さっきまでのようには揺れていない。
数秒後、風がひと吹きすると、小さな影が長い影を追って動いた。
「風と一緒に動いてる!」
七海はノートに大きな矢印を描いた。風が原因だと決まったわけではない。でも、少なくとも偶然とは思えない。
「ひより、よく気づいたね。私、壁しか見てなかった!」
「七海ちゃんが、違うところを見てって言ってくれたから」
ひよりは照れたように笑った。
七海は壁と回廊と灯りを見比べた。見えない場所が、また一つある。けれど、見えないままにしておく必要はない。入れる場所から調べて、わからないことは詳しい人に聞けばいい。
「明日も調べよう。今度は図書館で昔の広場の写真を探すの!」
「待て。もう三十分だぞ」
蓮が腕時計を見せる。
「えっ、ぴったり?」
「正確には三十八分」
「八分なら誤差!」
「時間に縮尺はないからな」
伊吹が吹き出し、ひよりまで肩を震わせた。
帰ろうとした七海の目に、広場の掲示板が入った。新しい紙が一枚、画びょうで留められている。
そこに印刷された見出しを読み、七海は思わず足を止めた。
『古い照明・付属設備の改修について』
踊る影と、古い照明。二つの言葉が、七海の頭の中で一本の線につながった。
【終】



