五年ぶりの機長は抱きしめる前に許可を取る

 十二月の初め。
 美緒の携帯に一通のメッセージが届いた。
『次の休みの日、午後四時に展望デッキで待っている。来なくてもいい。おまえの自由だ』
 怜司からだった。
 場所の指定が胸を打った。
 展望デッキ。
 五年前、二人が何度も通った場所。
 あの約束を交わした場所。
 美緒はスマートフォンを握りしめたまましばらく動けなかった。
 行くべきか。
 行かないべきか。
 夜、ベッドの中で何度も寝返りを打った。
 翌朝、鏡の前で美緒は自分に問いかけた。
 ──私は何が怖いの?
 ──もう一度傷つくこと。
 ──でもこのまま何も選ばずにいたら?
 それは五年前の自分と同じ選択ではないか。
 彼を責めながら、結局自分も傷つくのを恐れて逃げているのではないか。
 美緒は鏡の中の自分に苦笑した。
「……私も大概だな」
 決めた。
 行こう。
 どんな答えを出すにしても、自分の目で彼の言葉を最後まで聞いてみよう。

 当日。
 十二月の空は澄み切っていた。
 冷たい風がデッキのフェンスを撫でていく。遠くの滑走路では大きな機体がゆっくりと離陸の準備を進めている。
 怜司はフェンスにもたれて待っていた。
 私服だった。黒のコート。紺のマフラー。見慣れた制服ではないその姿は五年前の彼を思い出させた。
 美緒が近づくと、彼ははっと顔を上げた。
「……来てくれたのか」
「来ないほうがよかったですか」
「いや」
 怜司はふっと息を吐いた。
「来てくれて本当に嬉しい」
 その声が少し震えていた。
 美緒は胸がきゅっとなった。
「寒くないか」
「……少し」
「これを」
 怜司は反射的にマフラーを外し、美緒の首に巻こうとして、直前で手を止めた。
「……巻いてもいいか」
「……はい」
 彼は慎重にそっとマフラーを巻いてくれた。温もりが首元に残る。
 それから二人は並んでフェンスに寄りかかった。
 しばらく無言だった。
 離陸していく飛行機のエンジン音だけが空気を震わせる。
「ここでおまえと見ていた」
 怜司がぽつりと言った。
「五年前も。……あの日も本当はここで話すつもりだった」
「あの日?」
「別れを告げた日だ」
 美緒の呼吸が止まる。
「結局俺はこの場所に来られなかった。ここでおまえの顔を見たら言えなくなると思った。だから電話で一方的に告げた」
「…………」
「最低だった」
 怜司は頭を下げた。
「もう一度謝らせてくれ。おまえをどれほど傷つけたか、五年かけてようやく理解した」
「怜司さん」
「聞いてくれ。おまえが最後に送ってくれたメールに、俺は五年間、返信を書き続けていた」
 彼はスマートフォンを取り出し、下書きフォルダの画面を見せた。
 日付の違う書きかけの文面が数えきれないほど並んでいる。どれも「元気か」の三文字で止まっていた。
「送る勇気がなかった。……それだけだ。守ろうとしたんじゃない」
 風が二人の髪を揺らした。
「今は違う」
 怜司はまっすぐに言った。
「おまえが俺を選ばない可能性もちゃんとわかってる。それでも俺はおまえが好きだ」
 その声は静かで揺るぎなかった。
「もう一度おまえを愛させてほしい。それが許されないならせめておまえが幸せになるのを見守らせてほしい」
 美緒の目に涙が滲んだ。
 彼は続ける。
「それからひとつ白状する」
「……なんですか」
「飛行機ならどんな状況でも冷静に判断できる。悪天候でも機体のトラブルでも手順を信じて最適解を選べる」
 怜司は苦しそうに眉を寄せた。
「でもおまえのことになるとどうしていいかわからなくなる。判断も言葉も全部うまくいかない」
 彼は自嘲気味に笑った。
「格好悪いだろ」
 沈黙。
 美緒は涙を浮かべたまま吹き出した。
「はい」
「…………」
「すごく格好悪いです」
「……容赦ないな」
「でも」
 美緒は涙を拭って彼を見上げた。
「今のあなたのほうが好きかもしれません」
 怜司の目が見開かれた。
 息をのんだ。
「…………本当か」
「本当です」
 美緒ははっきりと言った。
「五年前のあなたは格好よかったけれど少し遠かった。完璧に見えて、私はいつも背伸びをしていました。でも今のあなたはちゃんと隣にいてくれる」
 風が二人のあいだをそっと通り抜ける。
「私はまだ五年前の傷が完全に消えたわけではありません」
 美緒は正直に言った。
「また突然いなくなるんじゃないかってときどき怖くなる。たぶんこれからもそうなる日があると思います」
「…………」
「だから約束してほしいんです」
 彼女は背筋を伸ばして怜司を見つめた。
「二度と私の人生を勝手に決めないこと。困難があれば一人で抱え込まずに一緒に考えること。たとえ答えが出なくても逃げずに隣で悩み続けること」
 怜司は一秒も迷わなかった。
「約束する」
 はっきりと答えた。
「今度は何も隠さない」
 その言葉は風の中に確かに刻まれた。
 美緒はゆっくりと頷いた。
 そしてずっと言えなかった言葉を口にした。
「私も」
 声が少し震える。
「私もあなたが好きです」
 怜司の呼吸が止まった。
「五年間忘れようとして忘れられなくて。あなたの顔を見るたびに悔しくて嬉しくて苦しくて。……でもそれでもあなたが好きでした」
 涙がぽろぽろと頬を伝って落ちた。
 怜司ははじかれたように手を伸ばした。
 抱きしめようとして、直前でぴたりと止まる。
 指先が美緒の肩の数センチ手前で固まっている。
「…………」
 彼は深く息を吸ってから尋ねた。
「抱きしめてもいいか」
 美緒は目を見開いた。
 かつては彼女の気持ちを聞かなかった男が。
 今は答えを待っている。
 その事実がどうしようもなく愛おしかった。
 美緒は答える代わりに自分から彼の胸に飛び込んだ。
「……遅いです」
 涙声で囁く。
 怜司の腕がようやく彼女の背中を強く強く抱きしめた。
 温かい。
 五年前と同じ温もり。
 けれど確かにそれとは違う、成長した腕。
「悪かった」
 彼の声が耳元で震えていた。
「これからは遅れないようにする」
「仕事だけは遅れないでくださいね」
「おまえのところには最優先で着陸する」
「飛行機で来ないでください!」
 美緒が思わず叫ぶと、怜司は肩を震わせて笑った。
 笑い声が冬の空に溶けていく。
「約束、覚えてるか」
 怜司がふと言った。
「機長になったら、おまえを最初にフライトに乗せるって」
「覚えてます。ずっと覚えてました」
「最初、にはならなかったがな」
 怜司は苦く笑った。
「だから、いちばん大事な客として乗ってほしい。……俺の便に」
「職権乱用じゃないですか?」
「チケットは自分で買え」
「そこは奢ってよ!」
 五年前に失った時間は戻らない。
 けれどこれからの時間は二人で選んでいける。
 夕焼けが空を茜色に染めはじめていた。
 滑走路の向こうで一機の飛行機がゆっくりと空へ舞い上がっていく。
 二人は並んでそれを見送った。
 寄り添った肩の温もりが確かな約束のように、冬の風の中で揺れずにそこにあった。

* * *

 春。
 空港の桜は満開を過ぎ、風に舞う花びらが滑走路沿いの道を薄紅色に染めていた。
 交際を再開してから四か月。
 黒瀬怜司は相変わらず多忙だった。国際線の乗務が重なれば数日日本を離れることもある。それでも以前と違うことが一つあった。
 彼はきちんと共有するようになったのだ。
「来週の火曜から木曜まで、ロンドン便。木曜の夜に戻る」
「了解です。気をつけて。お土産は紅茶がいいな」
「了解した」
「冗談だよ!」
「覚えた」
 こういうやりとりが日常になった。
 父親の件も少しずつ整理が進んでいた。会社の問題については怜司が美緒にすべてを話した。借入の状況、親族との関係、これからの見通し。
 美緒は黙って最後まで聞いた。
「それであなたはどうしたいの」
 そう尋ねられて、怜司はしばらく考え込んだ。
「パイロットは続ける。会社は経営を任せられる人間を外から迎える方向で父と話をつけた。俺は株主として関わるだけにする」
「それでいいの?」
「ああ。一人で決めたわけじゃない。父とも何度も話し合った」
 その言葉に美緒は微笑んだ。
「じゃあ私にできることはあんまりないね」
「いや」
 怜司は首を横に振った。
「聞いてくれたことが一番助けになった」
 美緒は少し照れくさそうに紅茶を口に運んだ。
 美緒のほうも変わった。
 遠慮して自分の希望を隠すことをやめた。
「今日は洋食が食べたい」
「了解した」
「それと帰りに本屋さんに寄りたい」
「了解した」
「あとできれば手をつなぎたい」
「…………了解した」
 怜司は顔を赤くしてそっぽを向いた。
 その反応が毎回おかしくて愛おしい。
 美緒はくすくす笑いながら彼の手をぎゅっと握った。

 そんなある日の朝。
 美緒がゲート17で乗客の案内の準備をしていると。
 制服姿の怜司が搭乗前のブリーフィングを終えて顔を出した。
「美緒」
「機長、ここは職場です」
「わかっている」
「では名前で呼ぶのは控えてください」
「ならば水瀬」
「それも微妙です」
「どう呼べばいい」
「……黒瀬機長と水瀬でお願いします」
「承知した。水瀬」
「はい、機長」
 周囲のスタッフがちらちらとこちらを見ている。
 真帆が背後で口元を押さえて震えていた。
「何か用件は」
「今日、仕事が終わったら空けておけ」
「命令ですか?」
「デートの誘いだ」
「言い方!」
 美緒の声がゲート中に響いた。
 数人の乗客がちらりと振り返る。美緒は真っ赤になって頭を下げた。
「失礼いたしました!」
 怜司は悪びれもせずにやりと笑った。
「何か問題でも」
「問題だらけです! ここは公共の場で私は仕事中であなたは機長で──」
「おまえに許可を取りに来た」
「……はい?」
 怜司は一歩近づいた。
 低い声で周囲に聞こえない程度に囁く。
「今夜ちゃんと迎えに来る。約束する」
 美緒の心臓がどくんと跳ねた。
 彼はそっと彼女の手を制服の袖口の陰で握った。
 温かい。
 そしてすぐに離した。
「では行ってくる」
「いってらっしゃいませ、機長」
 美緒は仕事用の笑顔で深く頭を下げた。
 けれど顔を上げた瞬間、小さく唇を動かした。
 ──約束ですからね。
 怜司は一瞬だけ目を見開き、それから満足そうに微笑んだ。
 彼は乗務員用の通路へ歩いていく。
 その背中は五年前よりずっと広く見えた。

「機長、私情を挟まないでください」
 歩きながら後ろから声がした。
 副操縦士の相馬だった。
「挟んでいない」
「ばっちり挟んでましたよ。ゲート17の周辺、全員見てましたから」
「問題ない。業務連絡の範囲だ」
「手を握るのが業務連絡ですか」
「…………見ていたのか」
「見えました」
 相馬は肩をすくめてにやにや笑った。
「ま、いいですけどね。機長が幸せそうだと副操縦士の俺も気分がいいんで」
「……おまえに言われると複雑だな」
「素直に喜んでくださいよ」
 怜司は息を漏らした。
「相馬」
「はい」
「ありがとう」
「え」
 相馬が足を止めた。
「何だって?」
「聞こえなかったならいい」
「いやいやいや、もう一回! 今『ありがとう』って言いました? 黒瀬機長が? 俺に?」
「言っていない」
「言いましたよ! 証人は周囲のCAさん全員です!」
「聞こえていない」
「機長、素直じゃないですね!」
「うるさい。フライトに集中しろ」
「はーい」
 二人の笑い声が廊下に響いた。
 機体の整備を終えた旅客機が朝の光の中で翼を広げている。
 今日も空は青く澄んでいた。

 その夜。
 勤務を終えた美緒が従業員出口を出ると、そこに見慣れた背の高い影があった。
「お疲れさま」
「本当に迎えに来たんですか」
「約束した」
 怜司は当たり前のようにそう答えた。
 そして、紙袋を差し出した。
「サンドイッチ?」
「余りだ」
「また余らせたんですか」
「いや」
 怜司は少しだけ視線を逸らした。
「今日は、二人分買った。……一緒に食べようと思って」
 美緒は吹き出した。
「それ、余りじゃないですね」
「そうだな」
 春の夜風が二人のあいだを優しく通り抜ける。
 美緒は少し迷ってから言った。
「ねえ、怜司さん」
「なんだ」
「ひとつお願いがあります」
「言ってみろ」
「次の休みにまた展望デッキに行きたい」
「……いいのか」
「はい。今度は飛行機を見るだけじゃなくて」
 美緒は少し頬を染めた。
「あなたの隣でこれからのことをゆっくり話したいです」
 怜司は息を呑んだ。
 それから柔らかく微笑んだ。
「喜んで」
 手が自然に触れ合う。
 二人は並んで夜の道を歩きはじめた。
 遠くの空を旅客機の灯りが星のようにゆっくりと横切っていく。
 もう彼女の前から勝手に飛び立つことはない。
 そして彼女の待つ場所へは、安全に、必ず帰ってくる。
 彼は飛行機を安全に目的地へ導く機長であり、そして、彼女の気持ちを何より大切にする、たった一人の恋人だった。


了