五年ぶりの機長は抱きしめる前に許可を取る

 十一月の第二週。
 その日の朝は不穏な色をした雲が関東の空に低く垂れ込めていた。
「午後から、発達した低気圧に向かって南風が強まります。関東でも広い範囲で強い風と雨の見込みです」
 空港の運航管理室では、気象情報のモニターを前にスタッフたちが険しい顔で議論していた。
 美緒はゲートの朝礼でその情報を共有された。
「本日は天候による遅延と到着空港の変更が発生する可能性があります。お客様への案内は特に丁寧に。慌てず焦らず正確に」
 桐谷主任の声がいつもより硬い。
 美緒はメモを取りながら深く頷いた。
 先日の件があってから桐谷との関係は少しだけ変わっていた。報告を細かく入れるようになったら「それでいい」と短く言われたのだ。それだけで胸がじんわりと温かくなった。
「水瀬さん」
「はい」
「今日は国内線の到着側のサポートに回ってくれ。人手が足りない」
「承知しました」
 美緒は運航スケジュールを確認した。午後の到着便がいくつか並んでいる。
 その中の一つに目が止まった。
「蒼翔航空 四〇八便、機長:黒瀬怜司」
 どくんと心臓が鳴る。
 彼が今日乗務している。しかも悪天候のなかを。
 ──大丈夫。あの人は大丈夫。
 美緒は自分に言い聞かせてスケジュール表を閉じた。

 その頃、四〇八便のコックピットでは。
「ATIS、確認しました。到着空港、風が強まっています。クロスウインドの成分は限界に近いですね」
 副操縦士の相馬が報告する。
「現在の気象は」
「ええ、直前の観測値で風向が不安定になっています。ガスト(突風)もかなり」
 怜司は計器を睨んだまま短く頷いた。
「運航管理と再度連絡を取る。代替空港の天候は」
「少し離れていますが状況は良好です。燃料にも余裕があります」
「了解。まず目的地の最新情報を待つ。その間に代替案の準備を。客室乗務員にも状況の共有を」
「了解しました」
 怜司の声は静かだった。
 焦りも迷いもない。冷静に情報を整理し、選択肢を並べていく。
 彼にとってコックピットは「恐れを手放す場所」だった。判断に必要な情報があり、手順があり、仲間がいる。恐れる必要はない。やるべきことを順番に確実にこなすだけだ。
 ──それなのに。
 地上で美緒がこの便の到着を待っている。
 その事実が胸のどこかに小さな重みとして残っていた。
 けれどそれは不思議と、足を地につけてくれる重みでもあった。
 彼はその重みを抱えたまま、操縦桿を握った。
 今は乗客の安全が最優先だ。
「相馬」
「はい」
「何かあればすぐに言え。遠慮はいらない。二人で判断する」
「……了解です、機長」
 相馬は少しだけ笑った。
「やっぱり頼りになりますね」
「おだてても何も出ない」
「ほんとに出ないんですか? 昼飯とか」
「帰ってからな」
 コックピットに短い笑いが生まれた。
 それは緊張をほぐすための、優秀な機長にしかできないさりげない配慮だった。

 やがて運航管理から連絡が入る。
『四〇八便、目的地空港の風が運用基準を超える可能性が高くなっています。代替空港への変更を推奨します』
 怜司は一秒も迷わなかった。
「了解。代替空港への変更を決定する。副操縦士、進路の再設定を。客室乗務員長に連絡、状況を共有する」
「了解」
「黒瀬さん。……彼女のいる空港に着陸できませんでしたね」
「風の問題だ」
「はいはい」
 怜司は少しだけ口を引き結んだが否定はしなかった。
 機内にアナウンスが流れた。
『ご搭乗の皆様、機長の黒瀬です。ただいま目的地の空港で強い風の影響により着陸を見合わせる状況となっております。安全を最優先に代替空港へ向かうことを決定いたしました』
 落ち着いた低い声。
 不思議なほど乗客の不安をなだめる声だった。
『到着時刻には遅れが生じる見込みですが、運航には十分な燃料と機体の状態を確保しております。最新の状況は随時お知らせいたします。ご不便をおかけしますことをお詫び申し上げます』
 機内のあちこちでほっと息を吐く気配があった。
 客室乗務員が通路を行き来して乗客の様子を確認していく。小さな子どもが泣き出したのを見て、CAの一人が膝をつきあやしている。
 コックピットで相馬が呟いた。
「やっぱり機長の声は安心しますね」
「声で飛行機は飛ばない」
「でも声で乗客の心は落ち着きます」
「そうか」
 怜司はわずかに口の端を緩めた。
 その表情は一瞬で消えた。

 地上では状況が刻一刻と変わっていた。
「到着便、四〇八便は代替空港へ。乗客の乗り継ぎ対応、振替手配を大至急!」
 運航管理室から指示が飛び、空港内がざわつく。
 美緒は到着ロビーで乗客のための案内ボードを準備していた。
「お客様、四〇八便にご搭乗のご家族をお迎えの方は、こちらにお集まりください。到着空港が変更となりました。詳しい状況は順次ご案内いたします」
 不安げな顔の人々が美緒のもとへ集まってくる。
 迎えの家族。ビジネス関係者。小さな子どもを連れた母親。
 その中に白髪の老婦人がいた。杖をついて、震える手でハンカチを握りしめている。
「あの、孫が……孫があの便に」
「ご心配ですよね。安全のために機長が判断して別の空港に向かっています。安全に着陸できる場所へ向かうのはパイロットの大事な仕事です」
 老婦人は「ここで待ちます」と言って、結局夜までロビーを離れなかった。美緒は何度も最新の情報を伝えに行き、そのたびに老婦人の冷えた手をさすった。
「必ず最新の情報をお伝えします。こちらで少し座ってお待ちください」
「ありがとう、お嬢さん」
 その言葉に美緒は笑顔で頷いた。
 けれど胸の奥は嵐のように揺れていた。
 彼があの便の機長だ。
 大丈夫だと信じている。
 信じている。……そのはずなのに。
 もし何かあったら。
 その考えが頭をよぎるたび、美緒は自分の手のひらに爪を立てた。
 仕事をしなければ。今はここにいる人々の不安を少しでも和らげなければ。
 彼を特別扱いしてはいけない。
 彼もまた今、必死に自分の仕事をしているのだから。
 美緒は深く息を吸って笑顔を作り直した。
「次の方、お待たせしました。こちらへどうぞ」
 それが今の自分にできる、彼への信頼の示し方だと思った。

 夕方、四〇八便は代替空港に無事着陸した。乗客は希望に応じて地上の振替便や宿泊の手配を受けた。天候の回復を待ち、夜遅く、残った乗客を乗せた機体は再び出発し、本来の空港へ戻った。
 美緒がすべての業務を終えて時計を見たとき、すでに日付が変わろうとしていた。
「お疲れさま、水瀬さん」
 桐谷が珍しく缶コーヒーを差し出してくれた。
「今日はよく頑張った」
「ありがとうございます」
「それと……」
 桐谷は少し視線を逸らした。
「先日はきつく言いすぎたかもしれない。君の判断は確かに悪くなかった。ただ、報告の仕方を変えてほしかっただけだ」
「いえ、勉強になりました」
「そうか」
 桐谷は咳払いをして去っていった。
 美緒は缶コーヒーを両手で包み、ほんの少し笑った。
 人は変われる。
 そう思えた。
 そしてふと空港の通路を歩いていると。
 向こうから見慣れた制服姿が歩いてきた。
 怜司だった。
 疲労の色がうっすらと顔に浮かんでいる。それでも背筋はまっすぐだ。
 美緒の足が自然と止まった。
 怜司も立ち止まる。
 二人は通路の真ん中で向かい合った。
「お疲れさまでした、機長」
 美緒はできるだけ普通の声で言った。
 怜司はわずかに目を細めた。
「ああ。そっちも大変だったな」
「いえ。私は地上でやるべきことをしていただけです」
「見ていた」
「え?」
「戻ってきたとき到着ロビーを通った。あのご婦人がお孫さんと抱き合っている横に、おまえがいた」
「見ていたんですか」
「ああ。いい仕事だった」
 短い一言。
 それなのにその言葉はどんな称賛よりも胸に染みた。
「機長こそ」
 美緒は少し迷ってから言った。
「本当にすごかったです。到着が遅れても乗客の皆さんが笑顔で降りてきました。皆『機長のアナウンスで安心した』って」
「…………」
 怜司は一瞬、虚を突かれたような顔をした。
「そうか」
 小さく息を吐く。
「それはよかった」
 その表情はとても素直で、年相応の青年のそれだった。
 美緒ははっと気づいた。
 自分が好きだったのは、制服ではなかった。逃げずに責任を果たす、この人の背中だった。この人のこういうところがずっと好きだった。その気持ちは五年前から一ミリも変わっていない。
 けれど、好きだということともう一度信じるということは別だ。
 美緒は視線を落とした。
「お疲れのところ失礼しました。私、これで」
「美緒」
 呼び止められた。
「はい」
「今日はありがとう」
「え?」
「おまえが地上にいると思ったらいつもより落ち着いて飛べた」
 美緒は目を見開いた。
 怜司はそれ以上何も言わなかった。
 会釈をして歩き去っていく。
 その背中を見送りながら、美緒は胸元をぎゅっと押さえた。
 彼の言葉はいつも一番欲しいところにひっそりと落ちてくる。
 けれど美緒はまだ一歩を踏み出せなかった。
 愛している。
 それでも怖い。
 また突然いなくなるのではないか。
 その恐怖はまだ胸の奥に冷たく残っていた。