食事の夜から怜司は変わった。
いや、正確には「変わらないように努力している」のだと美緒には分かった。
空港ですれ違えばきちんと会釈をする。必要な業務連絡は的確にこなす。けれど、あの紙袋を差し出される昼休みは来なくなった。
話しかけてこない。
見つめてもこない。
「あれ、やりすぎじゃないですか」
休憩室で真帆が小声で言った。
「黒瀬機長、ゲートの前を通るとき水瀬さんのほうを絶対に見ないようにしてますよ。わざと首を反対に向けてます。ちょっと不自然なくらい」
「そう」
「あれ辛いと思いますよ。あの人、顔に出ないタイプだから余計に」
「私は別に」
「別に?」
「別に困ってない。静かでいいし」
嘘だった。
静かすぎて落ち着かない。
あの紙袋を差し出される昼休みが、いつの間にか「ないと寂しいもの」になっていた。
──何を期待しているの。
美緒は自分に問いかけた。
追いかけられるのが嫌だったわけじゃない。むしろ彼が本当に自分の気持ちを理解しようとしているのかを確かめたかった。
なのにいざ距離を取られると、今度は不安になる。
もしかしてこのまままた何も言わずに離れていくのではないか。
五年前と同じように。
最悪のタイミングは重なるものだ。
その日、国際線のゲートで乗り継ぎ客のトラブルが起きた。
別のターミナルから移動してきた乗客のグループが、遅延の影響で搭乗予定の便に間に合わなくなりそうになった。美緒は現場の判断で、特別に搭乗手続きの時間を延長して案内を進めた。
結果、全員が無事に搭乗できた。
だが、その結果に胸を張れたのは、ほんの十分間だけだった。
「水瀬さん」
ゲートの責任者である桐谷主任が険しい顔で彼女を呼んだ。
「ちょっと来なさい」
会議室に呼ばれた美緒は、そこで厳しい叱責を受けた。
「手続きの延長は私に報告してから行うべきだった。君の独断で本来のルールを曲げたんだぞ。もしその影響で他の便に遅れが出ていたらどうするつもりだった」
「申し訳ありません」
「結果的に問題は起きなかった。それは認める。しかし規則は規則だ。次はない」
美緒は唇を引き結んで深く頭を下げた。
反論したい気持ちがなかったわけではない。時間がなかった。連絡する余裕がなかった。目の前には焦って泣きそうな乗客がいた。
それでも桐谷の言っていることは間違いではない。
部屋を出て廊下を歩きながら、美緒は何度も深呼吸をした。泣かない。ここで泣いたら負けだ。
誰もいない休憩室の隅に腰を下ろして、ようやく肩の力が抜けた。
自分のしたことは正しかったのか。
乗客を助けたことは間違いじゃなかったと思う。
でもルールを破った。
自分の判断に自信が持てない。
膝を抱えて俯いていたとき。
ドアが開いた。
「…………」
顔を上げると、そこに怜司が立っていた。
制服のまま帽子を小脇に抱えている。ちょうどフライトの合間に立ち寄ったのだろう。
彼は美緒の様子を一目で見て取ったようだった。
けれど何も言わなかった。
扉の近くに立ったまま動かない。声もかけない。ただそこにいる。
──待っている。
美緒は直感的に理解した。
彼は美緒が自分から話すのを待っているのだ。
五年前の彼ならきっと「どうした」と即座に聞き、「そんなことで落ち込むな」と一蹴し、解決策を並べ立てたはずだ。
けれど今の彼は違う。
美緒は膝に額を押しつけたまま、小さな声で言った。
「少しだけ話を聞いてもらえますか」
「ああ」
怜司は近づいてきた。向かいの椅子を引き、腰を下ろす。それからまた何も言わずに待った。
美緒はぽつぽつと話しはじめた。
乗客のこと。判断のこと。主任に叱られたこと。ルールを曲げたことが本当に正しかったのか分からないこと。
怜司は一度も口を挟まなかった。
頷きもしないで、まっすぐに美緒の話を聞いている。
話し終えたあと、美緒ははっとした。
いつもならここで何か言われるはずだ。「それは判断ミスだ」とか「次からこうしろ」とか。
けれど、怜司は黙っていた。
「何かないんですか」
「何が」
「アドバイスとか」
「聞かれていない」
「でも」
「おまえが求めるなら言う。求めないなら言わない」
美緒は目を丸くした。
「あなたこんなふうに人の話を聞ける人でしたっけ」
「おまえに教わった」
淡々と当たり前のように返された。
「…………え?」
「五年前、おまえが俺の話を最後まで聞いてくれた。何も言わずに聞いてくれた。あのとき救われていたことに気づくのが遅れた」
美緒の胸がつんと痛んだ。
「だから今度は俺が聞く番だと思った」
「そんなのおかしいです」
笑ってしまった。
涙が頬を伝う。けれど不思議と悲しくはなかった。
怜司はポケットからハンカチを取り出して、無言で差し出した。
「ありがとうございます」
「ああ」
彼女が涙を拭っているあいだ、怜司は手を伸ばしかけて止めた。
抱きしめたい。
その衝動が顔に出ていた。美緒には分かった。
けれど彼は拳を膝の上で握りしめて堪えた。
「判断についてひとつだけ言っていいか」
「はい」
「おまえの判断は現場の最善だったと思う。ただ、規則を曲げた事実は消えない。だから報告は必要だ。次から迷ったら先に短い一報だけでも入れろ。主任に、事後ではなく途中で」
「はい」
「それができればおまえの判断はもっと信頼される」
やっぱりこの人は的確だ。
美緒はハンカチを握りしめたまま小さく頷いた。
「ありがとうございます」
しばらくの沈黙。
やがて怜司が低い声で言った。
「美緒」
「はい」
「俺はおまえにもう一度選んでほしい」
彼の目は真剣だった。
「でも選ばないならそれも受け入れる。おまえの人生はおまえのものだ」
美緒は息を詰めた。
それは五年前の彼が決して言えなかった言葉だった。
彼の胸の中でどれだけの葛藤があったのか。どれだけの時間をかけてこの一言にたどり着いたのか。
気づけば美緒は涙をこぼしていた。
「……ずるい」
「何がだ」
「そんなこと言われたら嫌いになれないじゃないですか」
怜司は一瞬固まった。
そしてほんのわずかに口元を緩めた。
「それは困るな」
「困らないでください」
「いや困る。……嬉しすぎて」
彼にしては珍しく率直すぎる言葉だった。
美緒は顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。
翌日。
空港の屋上の休憩スペースで、相馬悠斗は缶コーヒーを二つ持って怜司のもとへやって来た。
「どうぞ」
「悪いな」
「で、どうなんです?」
「何がだ」
「水瀬さんとのこと」
「…………」
怜司は缶を開けず、遠くの滑走路を見つめた。
「追いかけないと決めた」
「へえ。珍しい」
「…………」
「だって黒瀬さん、本当は今すぐにでも駆け寄って抱きしめて誰にも渡したくないって顔してますよ」
「顔に出てるか」
「ダダ漏れです」
怜司は缶を握る手に力を込めた。
「相馬」
「はい」
「おまえはなぜ俺にそこまで言う」
「友達だからです」
あっさりと答えて、相馬は柵にもたれた。
「それに見てられないんですよ。黒瀬さんがまた同じことをしそうで」
「同じこと」
「怖いから先に逃げる」
怜司の肩がびくりと揺れた。
「黒瀬さんは彼女に嫌われるのが怖いから先に逃げようとしているだけです」
相馬の声は穏やかだったが容赦がなかった。
「五年前もそうだったんでしょう。今回も気をつけないと同じ穴にはまりますよ。『追いかけない』のは尊重じゃなくて傷つくのが怖いからじゃないですか?」
「否定はできない」
「でしょう」
「だが今回は違う」
「どう違うんです」
「彼女が来るなら受け止める。来ないなら受け入れる。そのどちらでも俺は彼女の隣から逃げない」
相馬は目を細めた。
「それならいいです」
怜司はようやくプルタブを引いた。
缶コーヒーが軽く触れ合う。
「応援してますよ、機長」
「おまえに言われると不安だ」
「ひどい!」
二人の笑い声が風に乗って青空へ溶けていった。
いや、正確には「変わらないように努力している」のだと美緒には分かった。
空港ですれ違えばきちんと会釈をする。必要な業務連絡は的確にこなす。けれど、あの紙袋を差し出される昼休みは来なくなった。
話しかけてこない。
見つめてもこない。
「あれ、やりすぎじゃないですか」
休憩室で真帆が小声で言った。
「黒瀬機長、ゲートの前を通るとき水瀬さんのほうを絶対に見ないようにしてますよ。わざと首を反対に向けてます。ちょっと不自然なくらい」
「そう」
「あれ辛いと思いますよ。あの人、顔に出ないタイプだから余計に」
「私は別に」
「別に?」
「別に困ってない。静かでいいし」
嘘だった。
静かすぎて落ち着かない。
あの紙袋を差し出される昼休みが、いつの間にか「ないと寂しいもの」になっていた。
──何を期待しているの。
美緒は自分に問いかけた。
追いかけられるのが嫌だったわけじゃない。むしろ彼が本当に自分の気持ちを理解しようとしているのかを確かめたかった。
なのにいざ距離を取られると、今度は不安になる。
もしかしてこのまままた何も言わずに離れていくのではないか。
五年前と同じように。
最悪のタイミングは重なるものだ。
その日、国際線のゲートで乗り継ぎ客のトラブルが起きた。
別のターミナルから移動してきた乗客のグループが、遅延の影響で搭乗予定の便に間に合わなくなりそうになった。美緒は現場の判断で、特別に搭乗手続きの時間を延長して案内を進めた。
結果、全員が無事に搭乗できた。
だが、その結果に胸を張れたのは、ほんの十分間だけだった。
「水瀬さん」
ゲートの責任者である桐谷主任が険しい顔で彼女を呼んだ。
「ちょっと来なさい」
会議室に呼ばれた美緒は、そこで厳しい叱責を受けた。
「手続きの延長は私に報告してから行うべきだった。君の独断で本来のルールを曲げたんだぞ。もしその影響で他の便に遅れが出ていたらどうするつもりだった」
「申し訳ありません」
「結果的に問題は起きなかった。それは認める。しかし規則は規則だ。次はない」
美緒は唇を引き結んで深く頭を下げた。
反論したい気持ちがなかったわけではない。時間がなかった。連絡する余裕がなかった。目の前には焦って泣きそうな乗客がいた。
それでも桐谷の言っていることは間違いではない。
部屋を出て廊下を歩きながら、美緒は何度も深呼吸をした。泣かない。ここで泣いたら負けだ。
誰もいない休憩室の隅に腰を下ろして、ようやく肩の力が抜けた。
自分のしたことは正しかったのか。
乗客を助けたことは間違いじゃなかったと思う。
でもルールを破った。
自分の判断に自信が持てない。
膝を抱えて俯いていたとき。
ドアが開いた。
「…………」
顔を上げると、そこに怜司が立っていた。
制服のまま帽子を小脇に抱えている。ちょうどフライトの合間に立ち寄ったのだろう。
彼は美緒の様子を一目で見て取ったようだった。
けれど何も言わなかった。
扉の近くに立ったまま動かない。声もかけない。ただそこにいる。
──待っている。
美緒は直感的に理解した。
彼は美緒が自分から話すのを待っているのだ。
五年前の彼ならきっと「どうした」と即座に聞き、「そんなことで落ち込むな」と一蹴し、解決策を並べ立てたはずだ。
けれど今の彼は違う。
美緒は膝に額を押しつけたまま、小さな声で言った。
「少しだけ話を聞いてもらえますか」
「ああ」
怜司は近づいてきた。向かいの椅子を引き、腰を下ろす。それからまた何も言わずに待った。
美緒はぽつぽつと話しはじめた。
乗客のこと。判断のこと。主任に叱られたこと。ルールを曲げたことが本当に正しかったのか分からないこと。
怜司は一度も口を挟まなかった。
頷きもしないで、まっすぐに美緒の話を聞いている。
話し終えたあと、美緒ははっとした。
いつもならここで何か言われるはずだ。「それは判断ミスだ」とか「次からこうしろ」とか。
けれど、怜司は黙っていた。
「何かないんですか」
「何が」
「アドバイスとか」
「聞かれていない」
「でも」
「おまえが求めるなら言う。求めないなら言わない」
美緒は目を丸くした。
「あなたこんなふうに人の話を聞ける人でしたっけ」
「おまえに教わった」
淡々と当たり前のように返された。
「…………え?」
「五年前、おまえが俺の話を最後まで聞いてくれた。何も言わずに聞いてくれた。あのとき救われていたことに気づくのが遅れた」
美緒の胸がつんと痛んだ。
「だから今度は俺が聞く番だと思った」
「そんなのおかしいです」
笑ってしまった。
涙が頬を伝う。けれど不思議と悲しくはなかった。
怜司はポケットからハンカチを取り出して、無言で差し出した。
「ありがとうございます」
「ああ」
彼女が涙を拭っているあいだ、怜司は手を伸ばしかけて止めた。
抱きしめたい。
その衝動が顔に出ていた。美緒には分かった。
けれど彼は拳を膝の上で握りしめて堪えた。
「判断についてひとつだけ言っていいか」
「はい」
「おまえの判断は現場の最善だったと思う。ただ、規則を曲げた事実は消えない。だから報告は必要だ。次から迷ったら先に短い一報だけでも入れろ。主任に、事後ではなく途中で」
「はい」
「それができればおまえの判断はもっと信頼される」
やっぱりこの人は的確だ。
美緒はハンカチを握りしめたまま小さく頷いた。
「ありがとうございます」
しばらくの沈黙。
やがて怜司が低い声で言った。
「美緒」
「はい」
「俺はおまえにもう一度選んでほしい」
彼の目は真剣だった。
「でも選ばないならそれも受け入れる。おまえの人生はおまえのものだ」
美緒は息を詰めた。
それは五年前の彼が決して言えなかった言葉だった。
彼の胸の中でどれだけの葛藤があったのか。どれだけの時間をかけてこの一言にたどり着いたのか。
気づけば美緒は涙をこぼしていた。
「……ずるい」
「何がだ」
「そんなこと言われたら嫌いになれないじゃないですか」
怜司は一瞬固まった。
そしてほんのわずかに口元を緩めた。
「それは困るな」
「困らないでください」
「いや困る。……嬉しすぎて」
彼にしては珍しく率直すぎる言葉だった。
美緒は顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。
翌日。
空港の屋上の休憩スペースで、相馬悠斗は缶コーヒーを二つ持って怜司のもとへやって来た。
「どうぞ」
「悪いな」
「で、どうなんです?」
「何がだ」
「水瀬さんとのこと」
「…………」
怜司は缶を開けず、遠くの滑走路を見つめた。
「追いかけないと決めた」
「へえ。珍しい」
「…………」
「だって黒瀬さん、本当は今すぐにでも駆け寄って抱きしめて誰にも渡したくないって顔してますよ」
「顔に出てるか」
「ダダ漏れです」
怜司は缶を握る手に力を込めた。
「相馬」
「はい」
「おまえはなぜ俺にそこまで言う」
「友達だからです」
あっさりと答えて、相馬は柵にもたれた。
「それに見てられないんですよ。黒瀬さんがまた同じことをしそうで」
「同じこと」
「怖いから先に逃げる」
怜司の肩がびくりと揺れた。
「黒瀬さんは彼女に嫌われるのが怖いから先に逃げようとしているだけです」
相馬の声は穏やかだったが容赦がなかった。
「五年前もそうだったんでしょう。今回も気をつけないと同じ穴にはまりますよ。『追いかけない』のは尊重じゃなくて傷つくのが怖いからじゃないですか?」
「否定はできない」
「でしょう」
「だが今回は違う」
「どう違うんです」
「彼女が来るなら受け止める。来ないなら受け入れる。そのどちらでも俺は彼女の隣から逃げない」
相馬は目を細めた。
「それならいいです」
怜司はようやくプルタブを引いた。
缶コーヒーが軽く触れ合う。
「応援してますよ、機長」
「おまえに言われると不安だ」
「ひどい!」
二人の笑い声が風に乗って青空へ溶けていった。



