五年ぶりの機長は抱きしめる前に許可を取る

 告白から三日後の夜だった。
 返事をしないまま美緒は毎日を過ごしていた。怜司は約束どおり答えを急かさない。空港で顔を合わせれば挨拶はするし、サンドイッチも相変わらず置いていく。それ以上は踏み込んでこなかった。
 その踏み込んでこないところがまたこたえた。
 ずっと返しそびれていたコートと傘が、ロッカーの紙袋に入っていた。
 シフトを終えて更衣室を出たところで携帯が震えた。
『食事に行かないか。食事だけだ。嫌なら途中で帰っていい』
 怜司からだった。
 短い文面。句読点の位置まで彼らしい。
 美緒は画面をしばらく見つめた。断る理由ならいくらでもある。疲れている。明日も早い。そもそも会う意味がない。
 けれど親指は勝手に動いていた。
『一時間だけなら』
 返信は三秒で来た。
『十分だ。感謝する』
「感謝って……」
 美緒は思わず笑ってしまった。笑ってから慌てて口元を押さえる。
 駄目だ。この人のペースに巻き込まれている。

 空港から車で十分ほどの場所にある小さなレストランだった。
 クリーニング済みのコートと傘を紙袋に入れて、美緒は「食事の前に」と差し出した。
「まだ持っていてもよかったのに」
「そういうわけにはいきません」
 怜司は受け取りながら、わずかに残念そうな顔をした。美緒はその表情を見なかったことにした。
 窓際の席からは遠くに滑走路の灯りが見える。怜司は美緒のために椅子を引こうとして、直前で手を止めた。
「椅子を引いてもいいか」
「え? 普通、そんなこと聞きます?」
「聞くことにした」
「どうして」
「今までは聞かなかったからな」
 淡々と告げられて、美緒は返す言葉を失った。黙って自分で椅子に座る。怜司は少しだけ口の端を持ち上げ、向かいに腰を下ろした。
 メニューを開く前に、怜司は店員ではなく美緒を見た。
「トマトは抜いてもらうか」
「…………覚えているんですか」
「酸味が強いのは特に駄目だっただろう。飲み物は辛口の白のスパークリングでいいか。疲れているときは甘い炭酸より飲みやすいと前に言っていたからな」

 料理が運ばれてきても、二人はしばらく仕事の話ばかりしていた。最近の天候不順のこと。空港の人手不足のこと。先日の高齢の乗客のこと。
「あのときの水瀬の判断は正しかった」
「ありがとうございます。……でも結局搭乗はできませんでした」
「当然だ。安全が最優先だ。できなかったではなく守ったと言え」
「守った」
「そうだ」
 怜司の言葉は不器用なくせにときどき驚くほど優しい。
 美緒はグラスを両手で包んだまま、小さく息を吸った。
 聞くなら今だ。
 聞かなければきっと一生聞けない。
「ひとつだけ聞いてもいいですか」
「ああ」
「どうしてあのとき別れたんですか」
 空気がぴんと張り詰めた。
 怜司はフォークを皿に置く。カチと小さな音がした。
「あの頃は余裕がなかった」
「余裕ですか」
「ああ」
「私は、あなたが夢を諦めなくても応援するつもりでした。何か悩んでいることがあるなら、一緒に悩むつもりでした」
「わかってる」
「わかっていません」
 思ったよりも強い声が出た。
「あなたは一度も私に相談してくれなかった。あの日突然『おまえの人生まで背負うつもりはない』って。私は何を言われたのかしばらく理解できなかった」
 怜司は黙って聞いている。
「それから何度も電話しようとしました。メールも書いて消して。最後にやっとの思いで送った一通にも返事はなかった」
「……見ていた」
「え?」
「そのメールは見ていた。返せなかった」
 美緒の呼吸が止まる。
「どうして」
「返したら揺らぐと思った。おまえの声を聞いたら全部投げ出して会いに行ってしまうと思った」
「それでよかったじゃないですか!」
 思わず声が震えた。周囲の客がちらりとこちらを見る。美緒は唇を噛み、声を落とした。
「……会いに来てほしかったんです」
 怜司は目を閉じた。
 長い長い沈黙があった。
「あの頃の俺は」
 やがて、彼は語りはじめた。
 父親が倒れたこと。経営していた航空関連の会社が資金繰りで行き詰まりかけていたこと。親族から「パイロットなんて夢を追っている場合ではない、会社を継げ」と迫られたこと。
 夢を諦めたくなかった。けれど会社の問題に関われば、家族の借金や訴訟に美緒まで巻き込むかもしれないと思った。
「おまえに不安定な生活をさせたくなかった。俺の問題におまえを引きずり込むのが怖かった。だから俺が全部背負っておまえには何も知らせずに離れるのが最善だと思った」
 語り終えたとき、はっとしたように表情を固めた。
 ──違う。
 今自分が口にしたのは、「守るため」という名前をした言い訳だ。
「いや」
 彼は額に手を当てた。
「違うな。これは理由じゃない。逃げだ」
 美緒は顔を上げた。
 怜司は苦しそうに息を吐く。
「俺はおまえを守ろうとしたんじゃない。おまえに『一緒に背負う』と言われて、それでも俺の事情が重すぎて、結局おまえが離れていくのが怖かった。だから聞く前に自分から切った」
「…………」
「俺はおまえを信じていなかったんだな」
 それは彼が初めて口にした、取り繕いのない本音だった。
 喉の奥が焼けるように熱くなる。
 美緒はずっとこの言葉を聞きたかったのかもしれない。
 けれど聞いてしまうと、胸の奥に溜まっていた五年分の悲しみがせきを切ったように溢れそうになった。
「悪かった」
 怜司はまっすぐに美緒を見て頭を下げた。
「あのとき俺はおまえに選ばせるべきだった。おまえの人生を俺が勝手に決めるべきじゃなかった。本当に悪かった」
 あのプライドの塊のような人が。
 深く深く頭を下げている。
 美緒は膝の上で拳を握りしめた。涙がぽたりと手の甲に落ちる。
「今さら謝られても」
 声がかすれた。
「今さら謝られても五年前には戻れません」
 ナプキンを置き、席を立つ。
「ごちそうさまでした。……帰ります」
 怜司は立ち上がらなかった。
 追いかけてこなかった。
 出口の扉に手をかけたとき、背後でかすかに椅子の軋む音がした。振り返りたい衝動を美緒はぐっと堪える。
 夜風が頬を濡らした涙を冷たく撫でていく。
 タクシーを待ちながら美緒は思った。
 ──追いかけてきてほしかった。
 ──でも追いかけてこなかったことにほっとしている自分もいる。
 矛盾だらけの気持ちを抱えて、彼女は夜空を見上げた。
 遠くを旅客機の赤い灯りがゆっくりと横切っていく。

 その頃、レストランの席には怜司がひとり残っていた。
 美緒の前に置かれた手つかずのパスタ。トマトを抜いてもらった、彼女のための皿。
 彼はそれを見つめていた。
 けれど追いかけてしまえばそれは五年前と同じだ。彼女の気持ちを無視して自分の感情を押しつけることになる。
 今は待つ。
 それが自分にできる唯一の誠実さだと思った。
 拳を握る手が小さく震えていた。