それからの黒瀬怜司はおかしかった。
再会までの彼は空港のどこにでもいる優秀な機長のひとりでしかなかったはずだ。ところが再会の翌週から、彼は頻繁にゲート17の周辺に現れるようになった。
しかも毎回、理由が苦しい。
「ここのコーヒー機の調子を見に来た」
「機長のお仕事ではありませんよね」
「確認事項はすべて俺の仕事だ」
「それは言いすぎです」
美緒が呆れていると、怜司は「ほら」と紙袋を差し出した。
「昼は食べたのか」
「食べました」
「何を」
「どうして報告しなければならないんですか」
「顔色が悪い。何か食べろ」
紙袋の中身はコンビニのサンドイッチだった。卵とハム。しかもちょうど美緒が一番好きな組み合わせだ。
「……これ」
「乗務前に買ったが多く買いすぎた。余りだ」
「サンドイッチを余らせて買う人がいますか」
「いる。俺だ」
彼は堂々と言い切って、さっさと歩き去った。
美緒はその背中を見送りながら、紙袋を持ったまま固まる。
あとで真帆に聞かされた。
「機長、水瀬さんのシフトを運航課経由で何度も確認してたらしいですよ。『この時間帯に昼を食べる暇がなさそうだ』って」
「は?」
「黒瀬機長が手書きでメモしてたって。見た人がいます」
「なにしてるのあの人!」
「溺愛ですね」
「違う!」
「でもサンドイッチは食べるんですよね」
「食べ物に罪はないから」
美緒は真っ赤な顔で卵サンドをかじった。
おいしかった。
翌日も、怜司はゲート17へ向かった。
十メートル手前で、足が止まった。
カウンターの向こうで、美緒が乗客に深く頭を下げている。声をかけるつもりだった。何を言うかも決めていた。
──決めていたのに。
「機長? どうされました」
通りかかった地上スタッフに声をかけられ、怜司は表情を変えずに答えた。
「進入復行だ」
「はい?」
「なんでもない」
踵を返す背中を、少し離れた場所から相馬が眺めていた。
「黒瀬さん、また着陸やり直しですか」
「うるさい」
どんな悪天候でも手順どおりに降りられる男が、たった一人の前では降りられない。
相馬は缶コーヒーを飲みながら、笑いを堪えるのに苦労した。
別の日。
美緒は国際線ターミナルで案内業務に就いていた。英語を話す乗客のグループが乗り継ぎのゲートがわからず困っている。
「Excuse me. Could you tell us where to find our connecting flight?」
「Of course. May I see your boarding passes?」
搭乗券を確認し、美緒は笑顔で続ける。
「Thank you. Your connecting gate has changed to Gate 112. Please take this corridor, and you'll see a moving walkway on your left. It'll take about eight minutes on foot. If you need any assistance, I'll be glad to walk you there.」
「Oh, that's very kind of you. Thank you so much!」
乗客に笑顔で手を振って見送り、ふと顔を上げると。
少し離れた柱の陰に制服姿の男がいた。
──また、いる。
「見ていらしたんですか」
近づいて声をかけると、怜司は悪びれもせずに頷いた。
「英語、上達したな」
「五年も経てばそれくらい変わります」
「そうか」
怜司は視線を落とした。
「好みや癖は覚えていた。でも、おまえが何を考えて、何に悩んでいたのかは、聞こうとしなかった。俺は何も知らないままだった」
五年前の彼は、美緒の英語の勉強に付き合うと言いながら、結局いつも自分の飛行訓練の話ばかりしていた。それがあの頃の二人の「日常」だった。
彼は何も知らないまま美緒の人生から出ていったのだ。
そして今、こんなふうにようやく「知らなかった」と認めている。
「……そうですね」
やっとのことで絞り出した声は、自分でも驚くほど小さかった。
一方そのころ。
乗務前のブリーフィングルームで、副操縦士の相馬悠斗はホットコーヒーを片手に、隣の席の不機嫌な機長を観察していた。
「ねえ、黒瀬さん」
「なんだ」
「いま俺、独り言を言いますね」
「勝手にしろ」
「この前ゲート17で水瀬さんとちょっと話したんですよ。ほら、うちの便のお客さんが忘れ物して取りに戻ったとき。水瀬さん、すごく親身に対応してくれて。しかも俺のこと『相馬さん、お疲れさまです』ってちゃんと名前覚えててくれたんですよね」
ぐしゃ。
鈍い音がした。怜司の手の中の紙コップが握りつぶされていた。
「コーヒーがこぼれた」
「ええ、見てましたけど」
「おまえには関係ない」
「関係ないのは分かってるんですけど、黒瀬さんいま、目が本気でしたよ?」
「気のせいだ」
「操縦桿を握ってるときより集中してましたよ」
「相馬」
「はい」
「黙れ」
「でも俺、水瀬さんとは別になんでもないですし」
「聞いていない」
「聞いてない顔じゃなかったですけど」
相馬は堪えきれずに吹き出した。
「黒瀬さん、嫉妬してますよね」
「してない」
「じゃあなんで俺が水瀬さんと話したって言っただけでそんな顔するんですか」
「おまえは操縦に集中しろ」
「はいはい。でもね、黒瀬さん」
相馬は笑いを引っ込めて、少しだけ真面目な声になった。
「俺、前から思ってたんですよ。この人、仕事のときは誰よりも冷静なのに、本当に大事なものを前にしたときだけ判断が極端に遅くなるか極端に雑になるって」
怜司は答えなかった。
潰れた紙コップを見つめていた。
「そのうち取り返しのつかないことになりますよ」
相馬の言葉は冗談の形をしていながら、不思議なほど芯があった。
「水瀬さんなんですよね。前に酔った勢いで話してくれた、あの人」
「忘れろ」
「忘れません。あれ、ちゃんと聞いてましたから」
その夜、美緒は残業を終えて従業員用の出口から出ようとしていた。
外には冷たい雨が降っていた。
傘を忘れたことに気づき、美緒はため息をつく。折り畳み傘はロッカーに置きっぱなしだ。取りに戻る気力もない。
「仕方ない。走ろう」
覚悟を決めて踏み出そうとしたそのとき。
頭上に黒い傘が差し出された。
「風邪をひく」
振り向くと怜司が立っていた。制服の上に黒のコートを羽織っている。
「なんでいるんですか」
「たまたまだ」
「機長っていつも『たまたま』が多いですね」
「事実だ」
怜司は自分のコートを脱いで、無言で美緒の肩にかけた。
「ちょっとやめてください!」
「寒そうだった」
「寒くないです」
「唇が紫だ」
「紫じゃありません」
「紫だ」
押し問答の末、結局美緒はコートを返せずに、駅までの道を傘の下で並んで歩くことになった。
雨音だけが響く。
美緒は俯いたまま、ぽつりと言った。
「優しくしないでください」
「…………」
「勘違いするので」
怜司の足が止まった。
傘の縁から雨の滴がぽたぽたと落ちる。
しばらくして彼は低く答えた。
「勘違いじゃない」
「……え?」
「俺は今でもおまえが好きだ」
世界から音が消えた。
雨も車の音も遠くの飛行機の轟音も。
ただ、彼の声だけがまっすぐ耳に届いた。
「五年前に俺がしたことは許されないと思ってる。それでも言わずにいたらまた同じ過ちを繰り返す気がした。だから言う。……好きだ、美緒」
名前を呼ばれたのは五年ぶりだった。
喉の奥が熱くなる。何か言わなきゃと思うのに、唇が震えて言葉にならない。
「返事は今すぐじゃなくていい」
「……」
「知っておいてほしかった」
彼は美緒の手に傘の柄をそっと握らせた。
「これは持っていけ」
「あなたはどうするんですか」
「俺は走る」
「風邪ひきますよ」
「問題ない。体は強い」
言うや否や、怜司は雨の中へ駆け出していった。濡れていく背中があっという間に遠ざかる。
美緒はその場に立ち尽くした。
肩には彼のコートの温もりが残っている。
──ずるい。
心の底からそう思った。
逃げ場のない告白をして、答えを強要せず、傘まで置いていく。
そんなの嫌いになれるわけがない。
けれど。
「信じられない」
誰にともなく美緒は呟いた。
信じられないのだ。あの日「おまえの人生まで背負うつもりはない」と言った人が、今さら「好きだ」と言うことを。
この温もりがまた突然消えるかもしれないことを。
雨は止む気配を見せなかった。
再会までの彼は空港のどこにでもいる優秀な機長のひとりでしかなかったはずだ。ところが再会の翌週から、彼は頻繁にゲート17の周辺に現れるようになった。
しかも毎回、理由が苦しい。
「ここのコーヒー機の調子を見に来た」
「機長のお仕事ではありませんよね」
「確認事項はすべて俺の仕事だ」
「それは言いすぎです」
美緒が呆れていると、怜司は「ほら」と紙袋を差し出した。
「昼は食べたのか」
「食べました」
「何を」
「どうして報告しなければならないんですか」
「顔色が悪い。何か食べろ」
紙袋の中身はコンビニのサンドイッチだった。卵とハム。しかもちょうど美緒が一番好きな組み合わせだ。
「……これ」
「乗務前に買ったが多く買いすぎた。余りだ」
「サンドイッチを余らせて買う人がいますか」
「いる。俺だ」
彼は堂々と言い切って、さっさと歩き去った。
美緒はその背中を見送りながら、紙袋を持ったまま固まる。
あとで真帆に聞かされた。
「機長、水瀬さんのシフトを運航課経由で何度も確認してたらしいですよ。『この時間帯に昼を食べる暇がなさそうだ』って」
「は?」
「黒瀬機長が手書きでメモしてたって。見た人がいます」
「なにしてるのあの人!」
「溺愛ですね」
「違う!」
「でもサンドイッチは食べるんですよね」
「食べ物に罪はないから」
美緒は真っ赤な顔で卵サンドをかじった。
おいしかった。
翌日も、怜司はゲート17へ向かった。
十メートル手前で、足が止まった。
カウンターの向こうで、美緒が乗客に深く頭を下げている。声をかけるつもりだった。何を言うかも決めていた。
──決めていたのに。
「機長? どうされました」
通りかかった地上スタッフに声をかけられ、怜司は表情を変えずに答えた。
「進入復行だ」
「はい?」
「なんでもない」
踵を返す背中を、少し離れた場所から相馬が眺めていた。
「黒瀬さん、また着陸やり直しですか」
「うるさい」
どんな悪天候でも手順どおりに降りられる男が、たった一人の前では降りられない。
相馬は缶コーヒーを飲みながら、笑いを堪えるのに苦労した。
別の日。
美緒は国際線ターミナルで案内業務に就いていた。英語を話す乗客のグループが乗り継ぎのゲートがわからず困っている。
「Excuse me. Could you tell us where to find our connecting flight?」
「Of course. May I see your boarding passes?」
搭乗券を確認し、美緒は笑顔で続ける。
「Thank you. Your connecting gate has changed to Gate 112. Please take this corridor, and you'll see a moving walkway on your left. It'll take about eight minutes on foot. If you need any assistance, I'll be glad to walk you there.」
「Oh, that's very kind of you. Thank you so much!」
乗客に笑顔で手を振って見送り、ふと顔を上げると。
少し離れた柱の陰に制服姿の男がいた。
──また、いる。
「見ていらしたんですか」
近づいて声をかけると、怜司は悪びれもせずに頷いた。
「英語、上達したな」
「五年も経てばそれくらい変わります」
「そうか」
怜司は視線を落とした。
「好みや癖は覚えていた。でも、おまえが何を考えて、何に悩んでいたのかは、聞こうとしなかった。俺は何も知らないままだった」
五年前の彼は、美緒の英語の勉強に付き合うと言いながら、結局いつも自分の飛行訓練の話ばかりしていた。それがあの頃の二人の「日常」だった。
彼は何も知らないまま美緒の人生から出ていったのだ。
そして今、こんなふうにようやく「知らなかった」と認めている。
「……そうですね」
やっとのことで絞り出した声は、自分でも驚くほど小さかった。
一方そのころ。
乗務前のブリーフィングルームで、副操縦士の相馬悠斗はホットコーヒーを片手に、隣の席の不機嫌な機長を観察していた。
「ねえ、黒瀬さん」
「なんだ」
「いま俺、独り言を言いますね」
「勝手にしろ」
「この前ゲート17で水瀬さんとちょっと話したんですよ。ほら、うちの便のお客さんが忘れ物して取りに戻ったとき。水瀬さん、すごく親身に対応してくれて。しかも俺のこと『相馬さん、お疲れさまです』ってちゃんと名前覚えててくれたんですよね」
ぐしゃ。
鈍い音がした。怜司の手の中の紙コップが握りつぶされていた。
「コーヒーがこぼれた」
「ええ、見てましたけど」
「おまえには関係ない」
「関係ないのは分かってるんですけど、黒瀬さんいま、目が本気でしたよ?」
「気のせいだ」
「操縦桿を握ってるときより集中してましたよ」
「相馬」
「はい」
「黙れ」
「でも俺、水瀬さんとは別になんでもないですし」
「聞いていない」
「聞いてない顔じゃなかったですけど」
相馬は堪えきれずに吹き出した。
「黒瀬さん、嫉妬してますよね」
「してない」
「じゃあなんで俺が水瀬さんと話したって言っただけでそんな顔するんですか」
「おまえは操縦に集中しろ」
「はいはい。でもね、黒瀬さん」
相馬は笑いを引っ込めて、少しだけ真面目な声になった。
「俺、前から思ってたんですよ。この人、仕事のときは誰よりも冷静なのに、本当に大事なものを前にしたときだけ判断が極端に遅くなるか極端に雑になるって」
怜司は答えなかった。
潰れた紙コップを見つめていた。
「そのうち取り返しのつかないことになりますよ」
相馬の言葉は冗談の形をしていながら、不思議なほど芯があった。
「水瀬さんなんですよね。前に酔った勢いで話してくれた、あの人」
「忘れろ」
「忘れません。あれ、ちゃんと聞いてましたから」
その夜、美緒は残業を終えて従業員用の出口から出ようとしていた。
外には冷たい雨が降っていた。
傘を忘れたことに気づき、美緒はため息をつく。折り畳み傘はロッカーに置きっぱなしだ。取りに戻る気力もない。
「仕方ない。走ろう」
覚悟を決めて踏み出そうとしたそのとき。
頭上に黒い傘が差し出された。
「風邪をひく」
振り向くと怜司が立っていた。制服の上に黒のコートを羽織っている。
「なんでいるんですか」
「たまたまだ」
「機長っていつも『たまたま』が多いですね」
「事実だ」
怜司は自分のコートを脱いで、無言で美緒の肩にかけた。
「ちょっとやめてください!」
「寒そうだった」
「寒くないです」
「唇が紫だ」
「紫じゃありません」
「紫だ」
押し問答の末、結局美緒はコートを返せずに、駅までの道を傘の下で並んで歩くことになった。
雨音だけが響く。
美緒は俯いたまま、ぽつりと言った。
「優しくしないでください」
「…………」
「勘違いするので」
怜司の足が止まった。
傘の縁から雨の滴がぽたぽたと落ちる。
しばらくして彼は低く答えた。
「勘違いじゃない」
「……え?」
「俺は今でもおまえが好きだ」
世界から音が消えた。
雨も車の音も遠くの飛行機の轟音も。
ただ、彼の声だけがまっすぐ耳に届いた。
「五年前に俺がしたことは許されないと思ってる。それでも言わずにいたらまた同じ過ちを繰り返す気がした。だから言う。……好きだ、美緒」
名前を呼ばれたのは五年ぶりだった。
喉の奥が熱くなる。何か言わなきゃと思うのに、唇が震えて言葉にならない。
「返事は今すぐじゃなくていい」
「……」
「知っておいてほしかった」
彼は美緒の手に傘の柄をそっと握らせた。
「これは持っていけ」
「あなたはどうするんですか」
「俺は走る」
「風邪ひきますよ」
「問題ない。体は強い」
言うや否や、怜司は雨の中へ駆け出していった。濡れていく背中があっという間に遠ざかる。
美緒はその場に立ち尽くした。
肩には彼のコートの温もりが残っている。
──ずるい。
心の底からそう思った。
逃げ場のない告白をして、答えを強要せず、傘まで置いていく。
そんなの嫌いになれるわけがない。
けれど。
「信じられない」
誰にともなく美緒は呟いた。
信じられないのだ。あの日「おまえの人生まで背負うつもりはない」と言った人が、今さら「好きだ」と言うことを。
この温もりがまた突然消えるかもしれないことを。
雨は止む気配を見せなかった。



