午前七時四十分。
羽田発の便を前に、第一ターミナルの搭乗ゲートはいつもの慌ただしさに包まれていた。
「お客様、ご気分はいかがですか。無理に歩かなくて大丈夫です。いま車椅子をお持ちしますので」
水瀬美緒は膝を折り、ベンチに座り込んだ高齢の男性と目線を合わせた。顔色は青白く、額には冷や汗が浮いている。搭乗直前に突然の動悸を訴えたのだ。
「あ、あの……飛行機に乗れなくなってしまうでしょうか。孫の結婚式に間に合わなくて……」
「大丈夫です。まずは体調が最優先です。看護スタッフを呼んでいますからゆっくり呼吸しましょう。……はい、吸って、吐いて。そう、お上手です」
インカムに手を添え、美緒は声を落として関係部署へ連絡する。
「ゲート17、旅客サービス水瀬です。乗客一名、体調不良。医務室への搬送を要請します。搭乗手続きに遅れが出る見込みです。運航側への共有をお願いします」
返事を待つあいだにも搭乗口には列ができはじめていた。ほかの乗客への案内、預け荷物の確認、遅延に苛立つビジネスマンへの説明。やることは山ほどある。
「遅れるのか? 十時から会議なんだよ」
「申し訳ございません。状況が分かり次第すぐにご案内いたします。お急ぎのところお時間をいただいております」
深く頭を下げながら、美緒は頭の中で段取りを組み替えていく。笑顔は崩さない。焦っている顔を見せれば不安は列全体に伝染するからだ。
空港で働いてもうすぐ七年。自分の仕事が誰かの「いちばん大切な日」の入口に立つ仕事だと知っている。だから誇りがある。
そのとき。
「状況を説明してくれ」
背後から低い声がした。
耳に馴染みすぎて、振り返る前から背中が覚えていた。
──嘘でしょう。
ゆっくりと振り返る。濃紺の制服。肩章に刻まれた四本線。きっちりと締められたネクタイ。端正な顔立ちは五年前より少しだけ削げ、その分だけ大人の影を帯びていた。
黒瀬怜司だった。三十一歳での昇格は異例の早さだと、噂になっていた。
時間が止まった。
一秒か二秒か。美緒の喉の奥で五年分の言葉が全部つかえて動かなくなる。
「聞こえなかったか。状況を説明してくれ」
怜司の目はまっすぐ美緒の胸元の名札を見ていた。そしてそこでほんのわずか止まった。
それだけだった。
彼は何も言わず、すぐに視線を上げる。
「搭乗予定の乗客一名が体調不良です」
美緒は自分でも驚くほど平坦な声が出たことに安堵した。仕事の声だ。仕事のときだけは自分の声を信じられる。
「動悸と発汗の訴えがあり、現在は意識清明、医務室への搬送手配済みです。搭乗手続きは最大で四十分ほど遅れる見込みです。当該のお客様のお預け入れ荷物がすでに貨物室に搭載されており、搭乗不可の場合は取り降ろし対応が必要になります」
「搬送の到着予定は」
「あと三分で医務スタッフが到着します」
「了解。その乗客が搭乗不可となった場合の荷物の取り降ろしは先に地上班に準備させておけ。判断を待ってから動いたら間に合わない」
「すでに手配済みです」
怜司の眉がほんの少しだけ動いた。
「なら問題ない。コックピット側には俺から伝える。出発時刻は状況を見て再調整する」
それだけ言うと、彼は携帯端末を取り出しててきぱきと連絡を入れはじめた。副操縦士、客室乗務員、運航管理。矢継ぎ早に出される指示は短く的確で、一切の無駄がない。
周囲のスタッフが自然と彼の周りに集まっていく。ざわついていた空気がゆっくりと落ち着いていく。
──ああ、この人は本当に機長になったんだ。
美緒はぼんやりとそう思った。
夢を叶えたんだ。
誇らしい気持ちと胸の奥がきゅっと痛む感覚が同時に押し寄せる。
その痛みに美緒は気づかないふりをした。
二十分後。体調を崩した男性は医務室で処置を受け、念のため搭乗を見合わせることになった。孫の結婚式には午後の便に振り替えて向かうという。「ありがとう、お嬢さん」と手を握られ、美緒はようやく少し肩の力を抜いた。
手荷物の取り降ろしが完了したのは、そこからさらに二十分後だった。搭乗を終えた乗客たちが機内に落ち着き、ゲート周辺にようやく静けさが戻る。
美緒は搭乗口の脇でペットボトルのお茶に口をつけた。その瞬間。
「久しぶりだな。今月から羽田基地に戻った。……おまえがここにいることは知っていた」
お茶を噴き出しかけた。ぎりぎりで堪え、むせながら振り向く。搭乗橋の入口に制服姿の怜司が立っていた。
「取り降ろし完了の確認書類を受け取りに来た。五分で出る」
「お久しぶりです、機長」
美緒はできるかぎり他人行儀に頭を下げた。
怜司の眉間に皺が寄る。
「その呼び方はやめろ」
「あなたの希望を聞く義務はありません」
「俺は、おまえの──」
「お客様でも同僚でもないなら、役職でお呼びするのが適切かと」
「相変わらずかわいくないな」
かちんと来た。
「あなたこそ相変わらず失礼ですね。五年ぶりの第一声がそれですか」
「第一声は『状況を説明してくれ』だっただろ」
「それは仕事でしょう!」
「なら、これが二声目だ」
「屁理屈!」
思わず声が大きくなった。近くを通りかかった地上スタッフが驚いたようにこちらを見る。美緒は慌てて口を押さえ、咳払いをした。
怜司はそんな彼女をじっと見ていた。
からかっているのではない。かといって怒っているのでもない。何かを確かめるように見つめている。
「な、なんですか」
「いや」
彼は小さく首を振る。それからほんの一瞬だけ昔の彼の顔になった。
「元気そうでよかった」
それは驚くほど柔らかい声だった。
五年前に展望デッキで聞いた声とまったく同じ声。
美緒が何かを返すより早く、怜司は踵を返して搭乗橋の奥へ歩き去っていく。制服の背中が搭乗橋の向こうに消え、見えなくなった。
しばらく美緒は動けなかった。
やがてのろのろとカウンターの陰にしゃがみ込む。
「なんなの、あの人」
泣くつもりなんてなかった。もう何とも思っていないはずだった。あの日「おまえの人生まで背負うつもりはない」と言い放たれて、泣いて怒って、それでも立ち上がって、五年かけてようやく平気になったはずだった。
それなのに。
たった一言で心が乱れる。
悔しい。
悔しくて悔しくて、目の縁が熱くなる。
「水瀬さん? 大丈夫ですか?」
後ろから声がして、美緒は飛び上がった。後輩の桜井真帆が心配そうにのぞき込んでいる。
「あ、ううん! ちょっと立ちくらみ!」
「顔真っ赤ですけど」
「朝ごはん食べ損ねたの!」
「それ、さっきの黒瀬機長の件と関係あります?」
「ない! まったくない!」
真帆はにやにやしながら首を傾げた。
「へえ。じゃああの機長が水瀬さんの名札を二秒くらい見つめてたのも関係ないんですね」
「見てた? 見てたの?」
「見てました。全員見てました」
「全員!?」
空港は噂が飛ぶのが速い。飛行機より速い。
美緒は頭を抱えた。
羽田発の便を前に、第一ターミナルの搭乗ゲートはいつもの慌ただしさに包まれていた。
「お客様、ご気分はいかがですか。無理に歩かなくて大丈夫です。いま車椅子をお持ちしますので」
水瀬美緒は膝を折り、ベンチに座り込んだ高齢の男性と目線を合わせた。顔色は青白く、額には冷や汗が浮いている。搭乗直前に突然の動悸を訴えたのだ。
「あ、あの……飛行機に乗れなくなってしまうでしょうか。孫の結婚式に間に合わなくて……」
「大丈夫です。まずは体調が最優先です。看護スタッフを呼んでいますからゆっくり呼吸しましょう。……はい、吸って、吐いて。そう、お上手です」
インカムに手を添え、美緒は声を落として関係部署へ連絡する。
「ゲート17、旅客サービス水瀬です。乗客一名、体調不良。医務室への搬送を要請します。搭乗手続きに遅れが出る見込みです。運航側への共有をお願いします」
返事を待つあいだにも搭乗口には列ができはじめていた。ほかの乗客への案内、預け荷物の確認、遅延に苛立つビジネスマンへの説明。やることは山ほどある。
「遅れるのか? 十時から会議なんだよ」
「申し訳ございません。状況が分かり次第すぐにご案内いたします。お急ぎのところお時間をいただいております」
深く頭を下げながら、美緒は頭の中で段取りを組み替えていく。笑顔は崩さない。焦っている顔を見せれば不安は列全体に伝染するからだ。
空港で働いてもうすぐ七年。自分の仕事が誰かの「いちばん大切な日」の入口に立つ仕事だと知っている。だから誇りがある。
そのとき。
「状況を説明してくれ」
背後から低い声がした。
耳に馴染みすぎて、振り返る前から背中が覚えていた。
──嘘でしょう。
ゆっくりと振り返る。濃紺の制服。肩章に刻まれた四本線。きっちりと締められたネクタイ。端正な顔立ちは五年前より少しだけ削げ、その分だけ大人の影を帯びていた。
黒瀬怜司だった。三十一歳での昇格は異例の早さだと、噂になっていた。
時間が止まった。
一秒か二秒か。美緒の喉の奥で五年分の言葉が全部つかえて動かなくなる。
「聞こえなかったか。状況を説明してくれ」
怜司の目はまっすぐ美緒の胸元の名札を見ていた。そしてそこでほんのわずか止まった。
それだけだった。
彼は何も言わず、すぐに視線を上げる。
「搭乗予定の乗客一名が体調不良です」
美緒は自分でも驚くほど平坦な声が出たことに安堵した。仕事の声だ。仕事のときだけは自分の声を信じられる。
「動悸と発汗の訴えがあり、現在は意識清明、医務室への搬送手配済みです。搭乗手続きは最大で四十分ほど遅れる見込みです。当該のお客様のお預け入れ荷物がすでに貨物室に搭載されており、搭乗不可の場合は取り降ろし対応が必要になります」
「搬送の到着予定は」
「あと三分で医務スタッフが到着します」
「了解。その乗客が搭乗不可となった場合の荷物の取り降ろしは先に地上班に準備させておけ。判断を待ってから動いたら間に合わない」
「すでに手配済みです」
怜司の眉がほんの少しだけ動いた。
「なら問題ない。コックピット側には俺から伝える。出発時刻は状況を見て再調整する」
それだけ言うと、彼は携帯端末を取り出しててきぱきと連絡を入れはじめた。副操縦士、客室乗務員、運航管理。矢継ぎ早に出される指示は短く的確で、一切の無駄がない。
周囲のスタッフが自然と彼の周りに集まっていく。ざわついていた空気がゆっくりと落ち着いていく。
──ああ、この人は本当に機長になったんだ。
美緒はぼんやりとそう思った。
夢を叶えたんだ。
誇らしい気持ちと胸の奥がきゅっと痛む感覚が同時に押し寄せる。
その痛みに美緒は気づかないふりをした。
二十分後。体調を崩した男性は医務室で処置を受け、念のため搭乗を見合わせることになった。孫の結婚式には午後の便に振り替えて向かうという。「ありがとう、お嬢さん」と手を握られ、美緒はようやく少し肩の力を抜いた。
手荷物の取り降ろしが完了したのは、そこからさらに二十分後だった。搭乗を終えた乗客たちが機内に落ち着き、ゲート周辺にようやく静けさが戻る。
美緒は搭乗口の脇でペットボトルのお茶に口をつけた。その瞬間。
「久しぶりだな。今月から羽田基地に戻った。……おまえがここにいることは知っていた」
お茶を噴き出しかけた。ぎりぎりで堪え、むせながら振り向く。搭乗橋の入口に制服姿の怜司が立っていた。
「取り降ろし完了の確認書類を受け取りに来た。五分で出る」
「お久しぶりです、機長」
美緒はできるかぎり他人行儀に頭を下げた。
怜司の眉間に皺が寄る。
「その呼び方はやめろ」
「あなたの希望を聞く義務はありません」
「俺は、おまえの──」
「お客様でも同僚でもないなら、役職でお呼びするのが適切かと」
「相変わらずかわいくないな」
かちんと来た。
「あなたこそ相変わらず失礼ですね。五年ぶりの第一声がそれですか」
「第一声は『状況を説明してくれ』だっただろ」
「それは仕事でしょう!」
「なら、これが二声目だ」
「屁理屈!」
思わず声が大きくなった。近くを通りかかった地上スタッフが驚いたようにこちらを見る。美緒は慌てて口を押さえ、咳払いをした。
怜司はそんな彼女をじっと見ていた。
からかっているのではない。かといって怒っているのでもない。何かを確かめるように見つめている。
「な、なんですか」
「いや」
彼は小さく首を振る。それからほんの一瞬だけ昔の彼の顔になった。
「元気そうでよかった」
それは驚くほど柔らかい声だった。
五年前に展望デッキで聞いた声とまったく同じ声。
美緒が何かを返すより早く、怜司は踵を返して搭乗橋の奥へ歩き去っていく。制服の背中が搭乗橋の向こうに消え、見えなくなった。
しばらく美緒は動けなかった。
やがてのろのろとカウンターの陰にしゃがみ込む。
「なんなの、あの人」
泣くつもりなんてなかった。もう何とも思っていないはずだった。あの日「おまえの人生まで背負うつもりはない」と言い放たれて、泣いて怒って、それでも立ち上がって、五年かけてようやく平気になったはずだった。
それなのに。
たった一言で心が乱れる。
悔しい。
悔しくて悔しくて、目の縁が熱くなる。
「水瀬さん? 大丈夫ですか?」
後ろから声がして、美緒は飛び上がった。後輩の桜井真帆が心配そうにのぞき込んでいる。
「あ、ううん! ちょっと立ちくらみ!」
「顔真っ赤ですけど」
「朝ごはん食べ損ねたの!」
「それ、さっきの黒瀬機長の件と関係あります?」
「ない! まったくない!」
真帆はにやにやしながら首を傾げた。
「へえ。じゃああの機長が水瀬さんの名札を二秒くらい見つめてたのも関係ないんですね」
「見てた? 見てたの?」
「見てました。全員見てました」
「全員!?」
空港は噂が飛ぶのが速い。飛行機より速い。
美緒は頭を抱えた。



