第1話 後ろの席から回ってきた手紙
「だから、私は窓側がいいって言ってるの!」
朝の教室に、椅子を引く音より大きな声が響いた。
ホームルームまであと七分。二年三組では、来週の校外学習で使う四人班を決めている途中だった。
黒板の前では、実行委員の男子が困った顔で名簿を持っている。そのすぐそばで、真帆と彩香がにらみ合っていた。
「私だって窓側がいいよ。酔いやすいんだから」
「私も酔うもん。先に言ったの私だし」
「先に言えば何でも通るわけじゃないでしょ」
教室のあちこちから、「また始まった」という空気が流れてくる。
私は机の上に国語の教科書を置きながら、小さく息を吐いた。
できれば、今日は関わりたくなかった。
昨日は委員会の役割分担。その前は文化祭の展示場所。先週は掃除当番の交代。気づけば私は、クラスで何か揉めるたびに呼ばれる人になっている。
別に、話し合いが嫌いなわけじゃない。
むしろ好きだ。
ぐちゃぐちゃに絡まった言葉の中から、「本当は何に困っているのか」を見つける瞬間は、パズルの最後の一片がはまる時に少し似ている。
でも。
「二葉ー!」
ほら来た。
実行委員の男子が、助けを求めるように私を見た。
「ちょっとだけ頼む!」
クラス中の視線まで集まる。
私はまだ一ページも開いていない教科書を閉じた。
「先生が来るまでね」
そう言って立ち上がると、真帆と彩香が同時に私へ向き直った。
「二葉、聞いて! 彩香が――」
「真帆が勝手なこと――」
「待って」
手を上げると、二人とも口を閉じた。
私は黒板の横に貼られたバスの座席表を見る。班ごとに四人ずつ座る予定で、二人は同じ班。窓側の席はひとつしかない。
「どっちが正しいかは、今は決めない」
「え?」
真帆が眉を寄せた。
「まず、二人とも絶対に外せない条件を一個だけ教えて。『できれば』じゃなくて、『これだけは困る』っていうやつ」
彩香がすぐに答える。
「私、バスで酔う。通路側だと外が見えないから無理」
真帆も負けじと言った。
「私も酔うよ。しかも後ろの方だともっと気持ち悪くなる」
「じゃあ真帆は、窓側そのものより前の方が大事?」
真帆が一瞬止まる。
「……あ。そうかも」
「彩香は?」
「私は外が見えれば、後ろでもたぶん大丈夫」
私は座席表を指でなぞった。
「今の班のままだと一個しか窓側がない。でも隣の班、窓側に座りたい人がいないよね」
そこにいた奈奈が、「うん、私は通路側がいい」と手を上げる。
「だったら班を一人だけ入れ替えれば、真帆は前方の通路側、彩香は後方の窓側にできる。班の組み合わせも、仲のいい子を一人ずつ残せるよ」
実行委員が名簿を見比べる。
「ほんとだ。これなら人数も男女のバランスも変わらない」
「真帆、それならどう?」
「前なら……うん。むしろ窓側じゃなくてもいいかも」
「彩香は?」
「私は外が見えるなら大丈夫」
さっきまでぶつかっていた二人が、拍子抜けしたように顔を見合わせた。
「じゃあ、それで」
「私も」
決着まで、たぶん三分もかかっていない。
教室の後ろから小さな拍手が起こった。
「さすが交渉の天才!」
誰かが面白がって言う。
「全国大会優勝は伊達じゃないねー」
「はいはい。大げさ」
私は自分の席へ戻った。
去年、中学生向けの交渉コンテストで全国優勝したのは本当だ。でも、こういう時にその肩書きを出されると、少しだけむずがゆい。
席につくと、奈奈が斜め前から振り返った。
「また解決したね、何でも解決係さん」
「その呼び方やめて」
「でも頼られてるじゃん」
「頼られるのと、毎回呼ばれるのは別問題」
「贅沢だなあ」
奈奈は笑って前を向いた。
そのタイミングで担任が入ってきて、教室が一気に静かになる。
私は今度こそ国語の教科書を開いた。
朝から一仕事終えた気分だった。
だから、その日の三時間目に、まさかもうひとつ面倒そうなものが回ってくるとは思っていなかった。
国語の授業中。
先生が古文の意味を説明している時、私の右ひじに、こつ、と何かが当たった。
小さく折られた紙だった。
誰から?
そう思った瞬間、後ろの席からシャープペンシルの先が机を一度だけ軽く叩いた。
匠だ。
私は少し驚いて振り返りかけ、すぐに前を向いた。
匠は私の後ろの席に座っている。
同じクラスになって半年。必要なことは話すけれど、誰かに頼み事をするタイプではない。むしろ、困っていても自分で何とかしてしまう方だ。
その匠が、授業中に手紙?
先生に見つからないよう、私は紙を教科書の陰に置いた。
四角く、きっちり折ってある。
一度だけ迷ってから開く。
そこには、短い文章が書かれていた。
『放課後、第二理科室へ。
会議を助けて。
星の地平線を終わらせたくない』
私は二度読んだ。
意味の分からない言葉がひとつある。
星の地平線。
何かの名前らしい。
それより気になったのは、文字だった。
匠の字はいつも、定規で測ったみたいに整っている。ノートを借りたことがあるから知っている。
でも今日の文字は、最後の「ない」だけ少し右上がりで、線も重なっていた。
急いで書いたのか。
それとも、焦っていたのか。
私は後ろを見なかった。
代わりに紙を元の形へ折り戻し、筆箱の下へ隠す。
会議を助けて。
それだけなら、いつもの「何でも解決係」と大差ない。
断ってもいいはずだ。
むしろ断った方がいい。
放課後は図書室で読みたかった本もあるし、今朝だって十分働いた。
なのに、授業が終わっても、その紙のことが頭から離れなかった。
昼休み、匠はいつも通りだった。
友達に数学のノートを見せ、購買のパンを食べ、私には何も言わない。
放課後になっても、念押しすらしてこなかった。
それが余計に気になった。
「二葉、帰ろ」
奈奈が鞄を肩にかける。
私は一秒だけ迷ってから立ち上がった。
「ごめん。ちょっと第二理科室に寄る」
「第二理科室?」
「頼まれごと」
奈奈は目を細めた。
「また何でも解決係?」
「たぶん」
「ほどほどにね」
軽く手を振る奈奈と別れ、私は特別教室棟へ向かった。
第二理科室は、普段ほとんど使われていない。廊下の端まで来ると、窓から入る夕方の光が床を細長く照らしていた。
扉の前で立ち止まる。
中から声が聞こえた。
「だから、そこを変えたら意味がないって言ってるでしょ!」
女子の声。
続いて、低い男子の声。
「意味がなくなるんじゃなくて、安全側に寄せるだけだよ」
「それやったら審査資料、全部直しじゃん。締め切り分かってる?」
三人。
しかも、かなり揉めている。
私はポケットから例の手紙を取り出した。
『星の地平線を終わらせたくない』
朝の班決めとは、ずいぶん違う温度の言葉だ。
ひとつ息を吸い、扉をノックする。
中の声が止まった。
「どうぞ」
匠の声だった。
扉を開ける。
最初に目に入ったのは、人ではなかった。
理科室の中央に、私の肩幅くらいある薄いパネルが立っている。
白っぽく半透明で、その表面には細い骨組みが何本も走っていた。中央から外へ広がる線は、どこかで見たものに似ている。
私は思わず一歩近づいた。
「……チョウチョ?」
「正確には、蝶の翅脈を参考にしてる」
窓際にいた匠が答えた。
その向かいには、長い髪をひとつに結んだ女子と、椅子を逆向きにして座る男子。
三人とも同じ二年生だ。でも、三人とも別々の机に離れている。
話し合いをしていた、というより。
話し合えなくなったあと、みたいだった。
長い髪の女子が私を見る。
「匠。この子が?」
「うん」
匠が立ち上がった。
いつもと同じ静かな顔なのに、机の端をつかむ指だけが少し強く曲がっている。
「二葉。来てくれてありがとう」
私は手紙を持ち上げた。
「まだ助けるとは言ってないよ」
すると、椅子を逆向きにしていた男子が「あ、そういうタイプ?」と苦笑した。
長い髪の女子は笑わなかった。
「じゃあ、見てから決めて」
彼女は中央の不思議なパネルを指した。
「このままだと、星の地平線は今日で終わるから」
朝よりずっと難しそうな話だった。
でも、その瞬間。
少しだけ、胸の奥が動いた。
揉めている人がいるからじゃない。
三人とも、本当は終わらせたくない顔をしていたからだ。
私は鞄を近くの机へ置いた。
「分かった」
三人の視線が集まる。
「まず、何が起きてるのか聞かせて」
【終】
「だから、私は窓側がいいって言ってるの!」
朝の教室に、椅子を引く音より大きな声が響いた。
ホームルームまであと七分。二年三組では、来週の校外学習で使う四人班を決めている途中だった。
黒板の前では、実行委員の男子が困った顔で名簿を持っている。そのすぐそばで、真帆と彩香がにらみ合っていた。
「私だって窓側がいいよ。酔いやすいんだから」
「私も酔うもん。先に言ったの私だし」
「先に言えば何でも通るわけじゃないでしょ」
教室のあちこちから、「また始まった」という空気が流れてくる。
私は机の上に国語の教科書を置きながら、小さく息を吐いた。
できれば、今日は関わりたくなかった。
昨日は委員会の役割分担。その前は文化祭の展示場所。先週は掃除当番の交代。気づけば私は、クラスで何か揉めるたびに呼ばれる人になっている。
別に、話し合いが嫌いなわけじゃない。
むしろ好きだ。
ぐちゃぐちゃに絡まった言葉の中から、「本当は何に困っているのか」を見つける瞬間は、パズルの最後の一片がはまる時に少し似ている。
でも。
「二葉ー!」
ほら来た。
実行委員の男子が、助けを求めるように私を見た。
「ちょっとだけ頼む!」
クラス中の視線まで集まる。
私はまだ一ページも開いていない教科書を閉じた。
「先生が来るまでね」
そう言って立ち上がると、真帆と彩香が同時に私へ向き直った。
「二葉、聞いて! 彩香が――」
「真帆が勝手なこと――」
「待って」
手を上げると、二人とも口を閉じた。
私は黒板の横に貼られたバスの座席表を見る。班ごとに四人ずつ座る予定で、二人は同じ班。窓側の席はひとつしかない。
「どっちが正しいかは、今は決めない」
「え?」
真帆が眉を寄せた。
「まず、二人とも絶対に外せない条件を一個だけ教えて。『できれば』じゃなくて、『これだけは困る』っていうやつ」
彩香がすぐに答える。
「私、バスで酔う。通路側だと外が見えないから無理」
真帆も負けじと言った。
「私も酔うよ。しかも後ろの方だともっと気持ち悪くなる」
「じゃあ真帆は、窓側そのものより前の方が大事?」
真帆が一瞬止まる。
「……あ。そうかも」
「彩香は?」
「私は外が見えれば、後ろでもたぶん大丈夫」
私は座席表を指でなぞった。
「今の班のままだと一個しか窓側がない。でも隣の班、窓側に座りたい人がいないよね」
そこにいた奈奈が、「うん、私は通路側がいい」と手を上げる。
「だったら班を一人だけ入れ替えれば、真帆は前方の通路側、彩香は後方の窓側にできる。班の組み合わせも、仲のいい子を一人ずつ残せるよ」
実行委員が名簿を見比べる。
「ほんとだ。これなら人数も男女のバランスも変わらない」
「真帆、それならどう?」
「前なら……うん。むしろ窓側じゃなくてもいいかも」
「彩香は?」
「私は外が見えるなら大丈夫」
さっきまでぶつかっていた二人が、拍子抜けしたように顔を見合わせた。
「じゃあ、それで」
「私も」
決着まで、たぶん三分もかかっていない。
教室の後ろから小さな拍手が起こった。
「さすが交渉の天才!」
誰かが面白がって言う。
「全国大会優勝は伊達じゃないねー」
「はいはい。大げさ」
私は自分の席へ戻った。
去年、中学生向けの交渉コンテストで全国優勝したのは本当だ。でも、こういう時にその肩書きを出されると、少しだけむずがゆい。
席につくと、奈奈が斜め前から振り返った。
「また解決したね、何でも解決係さん」
「その呼び方やめて」
「でも頼られてるじゃん」
「頼られるのと、毎回呼ばれるのは別問題」
「贅沢だなあ」
奈奈は笑って前を向いた。
そのタイミングで担任が入ってきて、教室が一気に静かになる。
私は今度こそ国語の教科書を開いた。
朝から一仕事終えた気分だった。
だから、その日の三時間目に、まさかもうひとつ面倒そうなものが回ってくるとは思っていなかった。
国語の授業中。
先生が古文の意味を説明している時、私の右ひじに、こつ、と何かが当たった。
小さく折られた紙だった。
誰から?
そう思った瞬間、後ろの席からシャープペンシルの先が机を一度だけ軽く叩いた。
匠だ。
私は少し驚いて振り返りかけ、すぐに前を向いた。
匠は私の後ろの席に座っている。
同じクラスになって半年。必要なことは話すけれど、誰かに頼み事をするタイプではない。むしろ、困っていても自分で何とかしてしまう方だ。
その匠が、授業中に手紙?
先生に見つからないよう、私は紙を教科書の陰に置いた。
四角く、きっちり折ってある。
一度だけ迷ってから開く。
そこには、短い文章が書かれていた。
『放課後、第二理科室へ。
会議を助けて。
星の地平線を終わらせたくない』
私は二度読んだ。
意味の分からない言葉がひとつある。
星の地平線。
何かの名前らしい。
それより気になったのは、文字だった。
匠の字はいつも、定規で測ったみたいに整っている。ノートを借りたことがあるから知っている。
でも今日の文字は、最後の「ない」だけ少し右上がりで、線も重なっていた。
急いで書いたのか。
それとも、焦っていたのか。
私は後ろを見なかった。
代わりに紙を元の形へ折り戻し、筆箱の下へ隠す。
会議を助けて。
それだけなら、いつもの「何でも解決係」と大差ない。
断ってもいいはずだ。
むしろ断った方がいい。
放課後は図書室で読みたかった本もあるし、今朝だって十分働いた。
なのに、授業が終わっても、その紙のことが頭から離れなかった。
昼休み、匠はいつも通りだった。
友達に数学のノートを見せ、購買のパンを食べ、私には何も言わない。
放課後になっても、念押しすらしてこなかった。
それが余計に気になった。
「二葉、帰ろ」
奈奈が鞄を肩にかける。
私は一秒だけ迷ってから立ち上がった。
「ごめん。ちょっと第二理科室に寄る」
「第二理科室?」
「頼まれごと」
奈奈は目を細めた。
「また何でも解決係?」
「たぶん」
「ほどほどにね」
軽く手を振る奈奈と別れ、私は特別教室棟へ向かった。
第二理科室は、普段ほとんど使われていない。廊下の端まで来ると、窓から入る夕方の光が床を細長く照らしていた。
扉の前で立ち止まる。
中から声が聞こえた。
「だから、そこを変えたら意味がないって言ってるでしょ!」
女子の声。
続いて、低い男子の声。
「意味がなくなるんじゃなくて、安全側に寄せるだけだよ」
「それやったら審査資料、全部直しじゃん。締め切り分かってる?」
三人。
しかも、かなり揉めている。
私はポケットから例の手紙を取り出した。
『星の地平線を終わらせたくない』
朝の班決めとは、ずいぶん違う温度の言葉だ。
ひとつ息を吸い、扉をノックする。
中の声が止まった。
「どうぞ」
匠の声だった。
扉を開ける。
最初に目に入ったのは、人ではなかった。
理科室の中央に、私の肩幅くらいある薄いパネルが立っている。
白っぽく半透明で、その表面には細い骨組みが何本も走っていた。中央から外へ広がる線は、どこかで見たものに似ている。
私は思わず一歩近づいた。
「……チョウチョ?」
「正確には、蝶の翅脈を参考にしてる」
窓際にいた匠が答えた。
その向かいには、長い髪をひとつに結んだ女子と、椅子を逆向きにして座る男子。
三人とも同じ二年生だ。でも、三人とも別々の机に離れている。
話し合いをしていた、というより。
話し合えなくなったあと、みたいだった。
長い髪の女子が私を見る。
「匠。この子が?」
「うん」
匠が立ち上がった。
いつもと同じ静かな顔なのに、机の端をつかむ指だけが少し強く曲がっている。
「二葉。来てくれてありがとう」
私は手紙を持ち上げた。
「まだ助けるとは言ってないよ」
すると、椅子を逆向きにしていた男子が「あ、そういうタイプ?」と苦笑した。
長い髪の女子は笑わなかった。
「じゃあ、見てから決めて」
彼女は中央の不思議なパネルを指した。
「このままだと、星の地平線は今日で終わるから」
朝よりずっと難しそうな話だった。
でも、その瞬間。
少しだけ、胸の奥が動いた。
揉めている人がいるからじゃない。
三人とも、本当は終わらせたくない顔をしていたからだ。
私は鞄を近くの机へ置いた。
「分かった」
三人の視線が集まる。
「まず、何が起きてるのか聞かせて」
【終】



