八月の蛍

 県立医療センターの循環器科の医長は、三好という五十代の医師だった。偽名の自費診療の患者の件で照会をかけると、カルテを前に、迷いのない口調で語った。

「守秘義務はありますが、ご本人が亡くなられた以上、捜査に協力します。……この患者さんのことは、よく覚えています。五年間、忘れた年はありません」

「どういう患者でした」

「初診は五年前の七月です。労作時の胸痛で来られました。検査の結果は拡張型心筋症。心臓の筋肉が弱っていく病気です。当時すでにかなり進行していて、本来なら即入院、いずれは移植も視野に入る状態でした」

「入院は」

「断られました。保険証がない、名前も本当の名前ではない、それでも診てもらえますか、と初診のときに正面から言われましてね。事情は聞かないでください、悪いことをして逃げているんじゃありません、ただ、名乗れない理由があるんです、と」

 三好は、カルテの端を指でなぞった。

「普通なら、お断りする場面です。ただ……その人の目がね、刑事さん。嘘をつく人間の目ではなかった。それで、自費診療で薬だけでも、ということになりました。以来、年に二回、必ず来られました。七月と十二月に。現金で、きちんと払って」

「病状は」

「坂道を下るようでした。三年目には、いつ急変してもおかしくない数値でした。私は毎回、入院を勧めました。せめて障害認定を取って保険で治療しましょう、名前のことは私がなんとか口添えします、とまで言いました」

「断られた」

「ええ。毎回、同じ言い方でした。『先生、私にはあと何回、夏が来ますか』……年数じゃないんです、この人の訊き方は。何年、ではなく、何回、夏が来ますか、なんです」

 柚木と拓海は、顔を見合わせた。

「先生は、なんと」

「三年目の冬に、正直に言いました。次の夏は来ます。その次はわかりません、と。……そうしたらあの人、なんと言ったと思います。『では、あと二回は行けますね』と、笑ったんです。どこへ行くのかは知りませんが、あの人の頭の中には、夏に一つ、どうしても欠かせない用事があったんです」

「先生。五年も通って、身の上話は、本当に一度も」

「一度も、です。こちらも訊きません。ただ……一度だけ、妙なことを訊かれたことがあります。三年目でしたか。『先生、心臓というのは、字の通り心の臓器ですか。心配や後悔で悪くなるものですか』と」

「なんと答えられました」

「医学的には無関係ではありません、長い心労は心臓の敵です、と答えました。そうしたらあの人、妙に納得した顔で言ったんです。『では、私のこれは病気ではなく、勘定ですね』と。……勘定、ですよ、刑事さん。自分の病気を、何かの支払いのように言ったんです。私はあのとき、この人は自分の人生ときっちり帳尻を合わせるつもりなんだな、と思って、なぜか無性に腹が立ちました。医者の仕事は、患者の帳尻に付き合うことではありませんから」

「最後に診られたのは」

「去年の十二月です。数値は限界を超えていました。歩くだけで発作が出るレベルです。私は言いました。あなたの心臓は次の夏まで保つかどうか、五分五分です。もし保っても、夏の暑い時期に無理をしたら、その場で止まります、と」

「本人は」

「長いこと黙っていました。それから、訊かれました。『先生。止まるとしたら、苦しいですか』……私は、急性の心停止なら苦しむ時間は短い、と答えました。そうしたら頭を下げて、『では、それでいきます』と」

 三好は、そこで言葉を切った。診察室の窓の外で、蝉が鳴いていた。

「それでいきます、ですよ。刑事さん。私は三十年医者をやっていますが、死ぬ話をあんな顔で受け取った患者は初めてです。覚悟とも違う。なんというか……段取りの顔でした。死ぬまでにやることの段取りが、あの人の中でその場で組み上がった。そういう顔でした」

「今年は、来られましたか」

「六月の末に一度だけ。予約なしで、ふらっと。薬を三か月分ください、と言われるので診察したら――もう、いつ止まってもおかしくない心臓でした。私は最後にもう一度だけ入院を勧めました。そうしたらあの人、初めて自分の話をしたんです」

 三好は、カルテを閉じて、まっすぐに柚木を見た。

「『先生には世話になったので、一つだけ言っておきます。私はこの夏、二十年ぶりに母親に顔を見せに行きます。それから、やり残した用事を一つ片付けます。それが済んだら、この心臓、いつ止まってもらっても文句はありません』……私が、お母さんはどちらに、と訊いたら、『山の向こうです』と、それだけ。帰り際に深々と頭を下げて、『五年間、名前も聞かずに診てくださって、ありがとうございました。私の名前はね、先生』」

 三好の声が、初めて詰まった。

「『木戸浩太といいます。覚えておいてもらえたら、うれしい』と。……新聞であの名前を見たとき、私は診察室で一人で泣きました。いい歳をして」

 長い沈黙のあと、柚木は静かに頭を下げた。

「先生。あなたはこの五年間、この男のたった一人の身内のようなものでした。礼を言います」

「身内だなんて、そんな」

「いや」

 柚木は、首を振った。

「名前を聞かずに五年間、人を診る。それは身内のすることです。……最後に一つだけ。六月の末の時点で、本人は『夏に行く』と言っていた。それなのに実際に町へ行ったのは七月の十五日です。予定より早い。心当たりはありますか」

 三好は、少し考えた。

「……七月の頭に電話がありました。薬のことで一度だけ、連絡先を教えてあったんです。体調を訊いたら、『足が浮腫んできた』と。それは末期の兆候です。私は言いました。『やり残した用事があるなら、八月まで待ってはいけない。行けるうちに行きなさい』と」

「そうですか」

 柚木は、深く頷いた。

「その一言が、あの男を間に合わせたんです。先生、あなたの処方は最後まで正しかった」

 診察室を出たところで、年配の看護師が遠慮がちに二人を呼び止めた。あの患者のことなら自分も覚えている、と言った。

「いつも、朝一番の、一番混まない時間に来られるんです。ほかの患者さんの迷惑にならないように、と。お会計は、封筒に釣り銭の要らないように揃えて。……一度だけ、山の花を持ってきてくださったことがあります。受付が殺風景だと思って、と。名前も言わない人が、花だけ置いていくんですよ。変わった人だと、みんなで笑って……いい人だと、みんなで言っていました」

 看護師は、そこで声を詰まらせた。

「本当の名前、新聞で見ました。木戸さん。……私たちはあの人のことを何も知らなかったのに、五年も、知っている気になっていたんです」

「それでいいんです」

 柚木は、静かに言った。

「名前は知らなくても、人柄は知っていた。人間の付き合いで大事なのは、たいてい後のほうです」

 病院を出ると、西日が駐車場を焼いていた。

 車に乗り込んでも、拓海はしばらくエンジンをかけなかった。

「柚木さん。整理させてください。浩太さんは五年前に病気を知って、それから毎年夏、山越えで町に帰っていた。医者には『夏に欠かせない用事がある』。今年は死期を悟って、『二十年ぶりに母親に顔を見せに行く』『やり残した用事を一つ片付ける』と言った」

「そうだ」

「顔見せというのは、提灯を見に行くことだとして……『やり残した用事』がわかりません。二十年間、毎年帰っていたのに、まだ残っていた用事です」

「そこだ」

 柚木は、助手席で腕を組んだ。

「毎年できることなら、二十年のうちにやっている。つまりその用事は、毎年の夜歩きではできないことだった。……考えられることは二つ。一つは、誰かに会うこと。姿を見せたら二十年の逃亡が終わってしまうから、生きているうちはできなかった。もう一つは」

「もう一つは?」

「何かを、出すことだ」

 柚木は、フロントガラスの向こうの夕焼けを見た。

「二十年、出せなかったものを、死ぬ前に出しに来た。……三雲、思い出せ。遺体の所持品だ。防水の袋に、古い地図が一枚。あの地図、ただの道案内にしては妙に大事にしまわれていたと思わないか」

 拓海は、はっとして、証拠品の記録を頭に呼び出した。昭和五十年代の古い道路地図。ところどころに、鉛筆の印。

「地図の印、山道のルートだと思っていました」

「半分はな。だが、印の中に一つだけ、道の上ではないところに付いているものがあった。河川敷だ。城見の河川敷の、打ち上げ台のあたりに小さい丸が一つ」

 柚木は、シートベルトを締めた。

「今晩、河川敷へ行こう。二十年前の八月からずっとそこにあるものを、確認しに」