八月の蛍

 拓海が初めての失敗をしたのは、城見町での聞き込みの二日目だった。

 浩太の身元は、初枝から採取した口腔内細胞のDNA型との照合で正式に確認された。川で見つかった男は、木戸浩太だった。享年三十六。県警は身元を公表し、二人は死亡前後の足取りを追って、町での聞き込みを始めた。

 最初の一軒目から、空気は張り詰めていた。

「ああ、あいつか」

 商店街の酒屋の主人は、写真を見るなり顔をしかめた。六十がらみの、腕の太い男だった。

「やっぱり帰ってきていたのか。よく帰って来られたもんだ。人殺しの火付けが」

「亡くなる前の晩、七月十五日の夜に、この辺で見かけた人を探しているんです」

「見てないな。見ていても、警察には言わん」

「なぜですか」

「あいつのために、この町の人間が動く筋合いはないからだ」

 主人は、写真を突き返した。

 拓海は、その手つきにかっとなった。ならなかった、と後で言えるほど、自分を制御できなかった。

「あの、一つだけ言わせてください」

 言葉が、勝手に出た。

「木戸さんが放火をしたという証拠は、当時も今も何一つありません。逆です。当時の消防記録には、木戸さんが火の中から七歳の子どもを助け出した、と書いてあります。その火傷が、遺体の両手に残っていました。皆さんが二十年恨んできた人は、放火犯ではなく、人命救助をした人なんです」

 店の中が、しんとなった。

 主人の顔色が変わった。赤くなったのではない。白くなったのだ。

「……兄ちゃん、あんた、今、何て言った」

「ですから、木戸さんは放火犯では」

「出ていけ」

 主人の声は低かった。

「二十年だぞ。俺たちはあの火事の話を、二十年、そうやって腹に収めてきたんだ。谷村さんの葬式で泣いて、火付けの子どもを恨んで、それで気を済ませて生きてきたんだ。今さら警察が来て、あんたたちの二十年は間違いでした、はい、そうですか、と言えるか。出ていけ!」

 通りに出ると、夏の陽が白かった。次の店でも、その次の家でも、似たことが起こった。拓海が「無実」に触れた途端、扉は閉ざされた。三軒目では、老いた女に言われた。

「じゃあ、私たちは二十年、無実の子を恨んでいたというんですか。私たちが悪者だと言うんですか。あんた、それを言いに来たんですか」

 夕方までに、聞き込みの成果はほとんど何もなかった。それどころか、夜には町内会から城見署へ、「県警の若い刑事が町民の感情を逆撫でしている」という苦情の電話が入った。

 旅館に戻る川沿いの道で、拓海は柚木に頭を下げた。

「すみませんでした。聞き込みでへまをしました。」

「へまをした、うん....見事に」

 柚木は、責める調子もなく言った。それが、かえってこたえた。

「僕は、間違ったことは言っていません」

 拓海は、言わずにいられなかった。

「木戸さんは無実です。町の人が信じている話のほうが、間違っているんです」

「そうだ。あんたの言ったことは、全部正しい」

 柚木は立ち止まった。川の上に、蛍が一つ流れた。

「正しくて、それで、誰の口も開かなかった。……三雲。あんたは今日、何をしに行ったんだ。町の人を言い負かしに行ったのか、話を聞きに行ったのか」

 拓海は、言葉に詰まった。

「話を聞きに、です」

「本当にか」

 柚木の声は、静かなままだった。

「俺には、おまえが今日、二十年分の間違いを正しに行ったように見えた。それは裁判官の仕事だ。俺たちの仕事じゃない。……いいか、三雲。人は、間違っていたと認めるのに順番がいる。いきなり正面から、あんたは二十年間違っていた、と言われたら、人間は認めるより先に心を閉ざす。認めたら、自分の二十年が崩れるからだ」

「じゃあ、どうすれば」

「どうもしなくていい」

 柚木は、また歩き出した。

「明日、俺と一緒にもう一度同じ店を回れ。今度は何もしゃべらなくていい。ただ、聞くだけだ」

 翌日、柚木は昨日の酒屋の暖簾を平然とくぐった。拓海は、その後ろで身を硬くした。

「昨日はうちの若いのが、大変失礼しました」

 柚木は、まずそう言って頭を下げた。主人は、ばつが悪そうにそっぽを向いた。

「別に。……で、今日は何だ」

「いや、今日は事件の話じゃないんです。少し教えてもらいたいことがありまして。谷村幸治さんというのは、どういう人でした」

 主人は、虚を突かれた顔をした。

「谷村さん?」

「ええ。火事で亡くなった大工さんです。どうも、話を聞けば聞くほどいい人らしいので、どんな人だったのか知りたくなりまして」

 主人の表情が、ゆっくりとほどけていった。

「……いい人、なんてもんじゃないよ。うちの店の棚、あれはみんな谷村さんの手だ。金のない年寄りの家の修理は、材料代だけでやっていた。祭りの櫓も、あの人が仕切っていた。あの人が死んで、この町の祭りは半分死んだんだ」

「なるほど。それで」

 柚木は、店先の丸椅子に勝手に腰を下ろした。

「それで、その谷村さんは、若い者の面倒もよく見た、と」

「見た見た。気のいい人だったからな。……ああ、そうだ。あの子もだ」

 主人は、そこで自分から言った。

「あの、木戸のところの子も、谷村さんがずっと連れて歩いていた。現場の帰りに二人でうちへ寄って、あの子にラムネを買ってやっていた。谷村さんが言っていたよ。『この子は筋がいい。俺の跡継ぎだ』と」

 言ってから、主人は黙った。自分の言葉が自分の中の何かにぶつかる音が、聞こえるようだった。

「……跡継ぎだと言われていた子が」

 主人は、誰にともなく呟いた。

「なんで、その谷村さんの倉庫に火をつけるんだ」

 柚木は、何も言わなかった。ただ頷いて、茶の礼を言って店を出た。

 通りを歩きながら、拓海は、たった今目の前で起こったことを反芻していた。柚木は、一度も「無実」と言わなかった。町の人間が自分の足で二十年前の矛盾に躓くように、道の石をそっと並べ直しただけだった。

「柚木さん。昨日の僕は、答えを突きつけて歩いていたんですね」

「ん」

「柚木さんは、問いを置いて歩いている」

「ほう。うまいことを言う」

 柚木は、少し笑った。それから真顔になった。

「三雲。昨日のおまえの失敗は、無駄じゃない。おまえが正面からぶつかったから、町は一晩腹を立てた。腹を立てるというのは、考え始めたということだ。今日、あの親父さんの口から谷村さんの話が出たのは、半分はおまえのおかげだ」

「慰めてくれてるんですか」

「俺は慰めなどしない。確認しているだけだ」

 その日の夕方、拓海は一人で木戸初枝の家に向かった。聞き込みの中で、自分が初枝の息子の名を町中で軽々しく振り回したことを、詫びておきたかった。

 初枝は、玄関先で拓海の詫びを聞くと、家に上げて茶を出した。

「あなた、怒ってくれたんでしょう。浩太のことで、町の人に」

「……怒りました。仕事なのに、感情が出ました」

「うれしかったですよ」

 初枝は、静かに言った。

「二十年でね、刑事さん。あの子のことで怒ってくれた人は、あなたが初めてです」

 拓海は、湯呑みを持ったままうつむいた。目の奥が熱くなるのを隠すのに苦労した。

「……でもね、刑事さん。町の人を、あまり憎まないでやってください」

 初枝は、窓の外の川を見ながら言った。

「あの人たちも騙されていたんです。二十年、嘘の話を抱えさせられて、恨まなくてもいい子を恨まされて。……恨むというのはね、しんどいことなんですよ。二十年も人を恨んだら、体を悪くします。この町は、みんなあの嘘の被害者なんです」

 拓海は顔を上げた。

 息子を悪者にされ続けた母親が、悪者にした側の心配をしていた。

「初枝さんは……悔しくないんですか」

「悔しいですよ」

 初枝は、初めて少しだけ笑った。

「悔しいから、負けないでおこうと思って、毎年提灯を張り替えていたんです。憎むのに使う力をね、待つほうに回していたんです。そのほうが長持ちしますから」

 夕方の川沿いの道で、拓海は下校中の小学生の列とすれ違った。

 子どもたちは、刑事とは知らない二人組に、こんにちは、と声を揃えて頭を下げ、通り過ぎてから、一人が言った。「なあ、火付けの幽霊が川に出るって、本当か」。別の一人が答えた。「出るわけないだろ。ばかだな」。笑い声が、遠ざかっていった。

 拓海は、足を止めた。

 二十年前の嘘は、もう三代目に手を伸ばしていた。あの子たちは火事も浩太も知らない。知らないまま、「火付け」という言葉だけを川の湿気のように吸い込んで育つ。噂の恐ろしさは、憎む者が死に絶えたあとも、言葉だけが生き残ることだ。

 ――急がなければならない。

 拓海は思った。訂正は噂より足が遅い。せめてあの子たちが大人になる前に、この町の言葉を入れ替えてやらなければならない。

 旅館に戻ると、柚木が広間で一人、将棋盤に向かっていた。相手はいない。詰め将棋だった。

「初枝さんのところへ行ってきたのか」

「……はい。わかりますか」

「顔に書いてある」

 柚木は、盤から目を上げずに言った。

「詫びに行くのはいいことだ。だがな、三雲、一つだけ言っておく。刑事の詫びは、言葉で済ませてはいけない。仕事で返すんだ。おまえが今日頭を下げた分は、この事件をちゃんと終わらせることで、初めて釣りが合う」

「はい」

「それと、もう一つ」

 柚木は、駒を一つ、ぱちりと置いた。

「今日おまえが失敗して、詫びて、教えられて、また歩き出した。この一日を忘れずに取っておけ。刑事は何年やっても失敗する。俺もする。大事なのは、失敗しないことじゃない。失敗した日の晩に、ちゃんと誰かの家へ頭を下げに行ける足を持っていることだ」

 詰め将棋の玉が、盤の隅で静かに詰んでいた。

 帰り道、拓海は川沿いを一人で歩いた。

 蛍が水面すれすれを飛んでいた。点いて、消えて、また点いた。

 落とすんじゃない、拾うんだ――柚木のあの言葉が、初めて腹の底に落ちた気がした。拾うべきものは、容疑者の自供だけではない。二十年恨み続けて疲れ果てた町も、恨まれ続けた母親も、間違いに気づき始めた酒屋の主人も、みんなどこかに落ちているのだ。

 警察手帳が、胸の内ポケットでいつもより重かった。その重さの意味を、拓海はこの夜、初めて知った。