八月の蛍

 浩太の二十年の足取りは、容易には掴めなかった。戸籍はそのまま、住民票は職権消除。就労の記録も、納税の記録も、どこにもない。行方不明者の届も、二十年間一度も出されていなかった。あの晚あの子を逃がした側の人間に、届を出せるはずもなかった。

 突破口は、医療記録だった。五年前、県立医療センターの循環器科に、保険証を持たない自費診療の患者が現れている。名乗った名前は偽名だったが、カルテに記された両手の陳旧性熱傷の所見が、遺体の傷痕と一致した。初診時に患者が書いた住所は、県北部の山あいの集落だった。

 城見町から山を二つ越えた、戸数三十ばかりの集落である。柚木と拓海は、その一軒の古い平屋を訪ねた。庭先に夏野菜が実り、縁側に日に焼けた老人が座っていた。上原治郎、七十八歳。

「警察かね」

 上原は、二人の名刺を見ようともしなかった。

「少し、確認させていただきたいことがありまして」

 拓海が、遺体の顔写真を見せた。修整で、できる限り穏やかに整えたものだった。

 上原は写真を長いこと見て、それから庭の向こうの山に目をやった。

「……死んだかね、あの人」

「ご存知ですか」

「名前は知らん。聞かなかったからな。ここらでは、そのほうが互いに楽なんだ」

 上原は、ぽつりぽつりと話した。

 五年前の夏、男はふらりとこの集落に現れた。峠の道普請を黙って手伝い、その夏はそのまま上原の家の納屋に寝泊まりした。以来、夏になると必ず戻ってきた。田畑を手伝い、賃金は受け取らなかった。飯と寝る場所があればいい、と言った。

「働き者だったよ。手を見ればわかる。大工の手だ。うちの納屋の屋根も、隣の婆さんのところの縁側も、あの人が直した。ここらの年寄りは、みんな世話になっている」

 話の途中で、隣家の老婆が盆に冷や麦を載せて縁側へ上がり込んできた。刑事が来ていると聞いて、居ても立ってもいられなかったらしい。

「あの人が直してくれた縁側ですよ、ここ」

 老婆は、勧められもしないうちから話した。

「雨で腐っていたのを見かねて、三日で。お代は、と訊いたら、笑って、梅干しでいいです、と。本当に梅干しの壺を一つ持って帰りました。……あの人はね、刑事さん、直すときに必ず古い板を一枚は残すんです。全部新しくしたら家が別ものになって、住んでいる者が寂しいだろうから、と。そういうことを言う職人が、今どきいますか」

 老婆は、袖で目を押さえた。

「死んだなんて。……名前も知らないのに、こんなに泣けるものですかね」

「名前はね、おばあさん」

 柚木は、静かに言った。

「もうじき新聞に載ります。いい名前です。覚えてやってください」

「毎年、いたんですか」

「いや。いるのは夏だけだ。七月の頭に来て、盆過ぎに消える。それが今年で、五年になる」

 拓海は、手帳から顔を上げた。

「夏の間、何か変わった様子は」

「夜、出かけていた」

 上原は、こともなげに言った。

「八月に入るとな。夜の八時頃に出て、明け方に帰る。どこへ行くとも言わん。こっちも聞かん。ただ、あれは山を越えていた。朝帰ると、ズボンの裾に、こっちの山にはない種類の草の実が付いていたからな」

「山の向こうというと」

 拓海は、縁側から庭の向こうの山を見た。

 夏の夕方の山は、青黒く、深かった。あの尾根のどこかに古い峰道が通っている。健脚で片道四時間。病んだ心臓なら、その倍か。それを、年に一度、たった一晩のために。

「上原さん。その峰道、我々でも歩けますか」

「歩けないことはないが、勧めんな。夜はまず無理だ。月のない晩は、自分の足元も見えん」

「その道を、あの人は」

「ああ」

 老人は、湯呑みの茶をゆっくりと啜った。

「通い慣れた道でも、夜の山は夜の山だ。滑れば沢まで落ちる。……それでも通う道というのは、刑事さん、道の先によほどのものがあるということだ。わしはそう思うことにして、聞かなかった」

「城見の町だろうな」

 老人は、やはりこともなげに言った。

「わしも若い頃は猟をしていたから、わかる。ここから城見の川へ抜ける古い峰道がある。健脚なら片道四時間。あの人はそれを一晩で往復していたんだ。……何をしに行っていたのかは知らんよ。知らんが」

 上原は、そこで初めて少しだけ言い淀んだ。

「一度だけな、帰ってきたあの人の顔を、朝の土間で見たことがある。なんというかな。……拝んできた者の顔をしていた。寺や神社から帰ってきた者の顔だ。ああいう顔をする用事なら、ろくでもない用事ではあるまいと思って、それきり何も聞かなかった」

 柚木は、深く頷いた。

「最後に会ったのは、いつです」

「七月の十五日の夕方だ。今年うちへ来たのは十日過ぎでな、いつもの年より顔色が悪かった。飯も減っていなかった。その十五日の夕方だ。『世話になりました』と、初めて改まって頭を下げた。今晩、町へ行ってくる、と。いつもは行き先など言わない人が、その日に限って、町、と言った」

「止めなかったんですか」

「止める筋合いがないのでな」

 上原は、静かに言った。

「ただ、握り飯を二つ持たせた。……帰ってこなかった。荷物が納屋に残っているから、いずれ取りに戻るかと思っていたが」

 上原は立ち上がり、二人を納屋に案内した。

 納屋の隅に、几帳面に畳まれた布団と、小さな行李が一つあった。行李の中には、着替えが少し。工具がひと揃い。数珠が一つ。そして、底のほうから古い菓子箱が出てきた。

 箱の中には、川原の小石が入っていた。二十ばかり。どれも白く丸い、よく似た石だった。石の一つ一つに、細い筆で小さく年号が書いてあった。平成十九年。平成二十年。平成二十一年……最後の石には、令和七年、とあった。

「これは……」

 拓海が、息を呑んだ。

 二十個の石。二十回の八月。

「あの人が、毎年拾って帰っていたんだ」

 上原が、後ろから覗き込んで言った。

「石に筆で書いているのは見たことがある。何の石か聞いたら、笑って、土産です、と言っていた。……土産って、誰へのだろうな」

 柚木は、白い石を一つ手のひらに載せた。よく撫でられたのだろう、石は絹のような手触りになっていた。

「自分へのでしょう」

 柚木は、静かに言った。

「今年も行った。今年も見た。今年もあの灯りは点いていた。……その証拠の石です。この人はな、上原さん、二十年間、年に一晩だけ自分の生まれた町に帰っていたんです。誰にも見られないように、山を越えて。母親の家の提灯の灯りを、遠くから見るためだけに」

 上原は、長いこと黙っていた。それから、庭の向こうの山に向かってぽつりと言った。

「……そうか。それは、拝んできた者の顔にもなるわな」

 行李は、正式な手続きを踏んで預かることになった。

 拓海が両手で抱えて車に運ぶとき、上原が後ろから声をかけた。

「刑事さん。その荷物、軽いだろう」

「……はい。驚くほど」

「三十六年生きた男の荷物が、片手で持てる。それがどういう三十六年だったか、あんたたち、よく考えてやってくれ」

 上原はそれだけ言うと、縁側に戻っていった。夕方の光の中で、老人は、男が直したという納屋の屋根をいつまでも見上げていた。

 帰りの峠道で、拓海は助手席の窓から暮れていく山並みを見ていた。

「石は、十九個じゃないとおかしくないですか」

 ふと、気づいて言った。

「火事の翌年の平成十九年から去年の令和七年まで、毎年一つなら十九個です。でも、二十ありました」

「よくそこに気づきましたね」

 柚木は、前を見たまま言った。

「一番古い石だけ、年号がなかっただろう。あれだけ、色も形も少し違った」

「気づきませんでした」

「あれはたぶん、火事の年の石だ。逃げた晩に川原で拾ったものじゃないかな。……十六の子どもが、着の身着のままで夜の町を出るときに、川原の石ころを一つだけポケットに入れたんだ」

 拓海は、何も言えなかった。

 その石だけが年号を持たないことの意味を考えていた。あの夜は、記録するまでもない夜だったのだ。忘れようがない夜には、印は要らない。

「柚木さん。浩太さんは七月十五日の夜に町へ行って、十六日の夜明けまでに死んだ。医者の見立てとも合います。でも、今年は例年より早い。いつもは八月なのに」

「そうだ。そこが今のところ、一番の宿題だ」

 柚木は、峠を下りながら言った。

「なぜ今年に限って八月まで待たなかったのか。なぜ提灯の点いていない七月の町へ行ったのか。……答えを知っているのは本人だけだ。だから俺たちは、本人の代わりに、道端の石ころ一つまで確認して回るんだ」