八月の蛍

 宮本知也が城見町の実家に電話をかけたのは、柚木たちが帰った日の夜だった。

「父さん。俺、警察に話したから」

 受話器の向こうで、父の息が止まるのがわかった。

「……何を」

「二十年前のこと。木戸さんが僕を助けてくれたこと。全部」

「馬鹿もんが」

 父の声は、怒鳴り声ではなかった。それが、かえって重かった。

「今さらそんな話を掘り返して、誰が得をするんだ。あの子はもう死んでるんだぞ」

「得とか損とかの話じゃない」

「損の話だ!」

 今度は、怒鳴り声だった。

「うちは町で商売してるんだ。町内の付き合いで生きてるんだ。高瀬さんのところの筋に睨まれたら、うちみたいな店は」

「父さん」

 知也は、静かに遮った。

「僕が七つのとき、僕の話に蓋をしたのは、僕を守るためだった。そう思うことにしてる。……でも、今度は違うだろう。今度蓋をしたら、それはただの保身だ」

 長い沈黙のあと、電話は切れた。

 週末、知也は久しぶりに城見町の実家に帰った。話を電話で終わらせたくなかったからだ。

 居間には、両親が並んで座っていた。まるで通夜の席のようだった。

「もう、町内で噂になってる」

 母が、低い声で言った。

「知也が警察に余計なことをしゃべった、って。今日、組の寄り合いで、お父さんは隅に座らされたんだよ」

「余計なこと、って何だよ」

 知也は、自分の声が震えるのを聞いた。

「人が人を助けた話だぞ。それのどこが余計なんだ」

「この町ではな」

 それまで黙っていた父が、口を開いた。

「二十年間、あの火事は『あの子がつけた』ということで、みんな腹に収めてきたんだ。収めた上に、みんなの暮らしが保たれている。今さらそれをひっくり返されたら、どの顔で誰と付き合えばいいのかわからなくなる。……余計だ。真実でもな、知也。遅すぎた真実というのは、余計なものなんだ」

 知也は、父の顔を見た。老いた、疲れた顔だった。この人は悪人ではない。それは知っている。弱いだけだ。そして、この町の大人はみんな、同じ弱さの中で生きてきた。

「父さん。一つだけ教えてくれ」

「なんだ」

「二十年前、僕の口を塞いだとき、父さんは、木戸さんが無実だと知っていたのか」

 父は答えなかった。母はうつむいた。その沈黙が答えだった。

「……そうか」

 知也は立ち上がった。玄関で靴を履いていると、母が追ってきて、小さな包みを持たせようとした。菓子か何かだろう。知也は一度断ろうとして、受け取った。それを断るのは、何かが違う気がした。

「母さん。俺は、あんたたちを責めに帰ってきたんじゃない」

 知也は、靴紐を結びながら言った。

「二十年前、七つの俺には何もできなかった。今の俺にはできる。それだけのことなんだ。……あの人はな、火の中で僕に言ったんだ。大丈夫だ、目をつぶってろ、と。俺はもう、目をつぶるのをやめる。それだけだ」

 実家から自分のアパートに戻った夜、知也は妻に初めて二十年前の話をした。

 息子を寝かしつけたあとの、狭い台所だった。妻は麦茶を注ぎながら聞き始め、注いだ麦茶に一度も口をつけないまま、最後まで聞いた。

「……どうして、今まで言ってくれなかったの」

「言えば、あの町の話をしなきゃならないから。あの町の話をしたら、黙っていた自分の話をしなきゃならないから」

 知也は、コップの中の氷が溶けていくのを見ていた。

「格好悪いだろう。命の恩人が悪者にされるのを、二十年、黙って見ていた男だ」

「七つの子どもだったんでしょう」

「七つのときは、な。だけど、十七のときも、二十七の今年までも、黙っていたのは、もう子どもじゃなかった」

 妻はしばらく黙っていた。それから、コップを持ち上げて、ぬるくなった麦茶を一息に飲んだ。

「私ね、あなたと結婚してから、ずっと不思議だったことがあるの」

「なんだ」

「あの子が転んだとき。よその子でも、あなた、真っ先に走っていくでしょう。それで、抱き上げて必ず同じことを言うの。大丈夫だ、目をつぶってろ、って。……あれ、誰かの真似だったのね」

 知也は、答えられなかった。答えの代わりに、目から二十年ものの水が落ちた。

「警察に話したこと、私はいいと思う」

 妻は、空になったコップを静かに流しに置いた。

「その人はあなたに、大丈夫だ、と言ってくれたんでしょう。だったら今度は、あなたがその人の番。死んだ人にも、大丈夫だ、と言ってあげていいのよ。あとのことは全部、私たちでなんとかすればいい」

 日曜日、知也は妻と息子を連れて、川向こうの寺に谷村幸治の墓を訪ねた。

 二十年間、行こうと思って行けなかった場所だった。自分を助けた人が命がけで守ろうとした人の墓に、黙っていた人間が手を合わせる資格はない。そう思って避けてきた。今は違った。話すべきことを話した手には、線香を持つ資格がある気がした。

 墓は、思いのほか綺麗だった。そして、墓前の花立てに、枯れた花が一束そのままにしてあった。

 仏花ではなかった。川原に咲く花を束ねたものだった。とうに枯れているのに片付けられもせず、倒れないようにそっと結わえ直してあった。まるで、枯れたあとまで大事にされている花だった。

「誰だろう。去年の盆のやつかな。……どうして、そのままにしてあるんだろう」

 知也は、その枯れた花をしばらく見ていた。誰かがこれを供え、別の誰かがこれを捨てられずにいる。その二人のことを、なぜか知っている気がした。答えの出ないまま線香を上げ、長いこと手を合わせた。

 帰り際、息子が墓石を指差して言った。

「おとうさん、このおはか、だれの?」

「お父さんの恩人の、そのまた親方の墓だ」

「おんじん、って、なに?」

「助けてくれた人のことだ」

 知也は、息子を抱き上げた。

「それでな、助けてもらった人は、いつか誰かを助けてお返しするんだ。……お前も大きくなったら、覚えておきなさい」

 数日後、知也の勤め先に一本の電話がかかってきた。事務の女性が、怪訝な顔で取り次いだ。

「宮本さん。城見町の、タカセという方から」

 知也は、受話器を持つ手が冷たくなるのを感じた。

「もしもし」

「ああ、宮本くんか。高瀬です。覚えてるかな、町議の」

 声は穏やかだった。穏やかさが、薄い膜のように張り付いていた。

「君のお父さんには昔から世話になっていてね。それで、ちょっと耳に入ったものだから。……君、警察に、昔の火事の話をしたそうだね」

「しました」

「そうか、そうか。いや、責めているんじゃないよ。ただね、二十年も前の話だ。子どもの頃の記憶というのは、あてにならないものでね。あまり請け合ったことを言って、あとで記憶違いでした、ということになったら、君も、君のお父さんの店も格好がつかないだろうと思ってね。年寄りの老婆心だ」

 知也は目を閉じた。

 二十年前、大人たちが自分の口に置いた蓋の正体を見た気がした。蓋は、こういう声でできていたのだ。脅しではない。心配の形をした圧力。断ったのは自分だ、と言わせないための、柔らかい手。

「高瀬さん」

 知也は、目を開けた。

「ご心配、ありがとうございます。でも、記憶違いじゃありません。僕は、木戸さんの手の火傷が、どちら側の手のほうがひどかったかまで覚えています。右手です。僕を右腕で抱えて左手で柱をどけた――のではなく、逆です。左腕で僕を抱えて、右手で柱をどけたからです。そういうことは、忘れないんです」

 受話器の向こうで、短い沈黙があった。

「……そうか。まあ、元気で。お父さんによろしく」

 電話は切れた。

 知也はしばらく受話器を持ったまま立っていた。膝が小さく震えていた。怖くなかった、と言えば嘘になる。だが、後悔はどこを探してもなかった。

 その夜、知也は柚木に電話をかけ、高瀬からの電話の一部始終を伝えた。

「メモも取らずに、よくそれだけ正確に覚えていますね」

 柚木は感心したように言った。

「忘れないことが、僕の取り柄なんです」

「その電話は、こちらで記録に起こしておきます。……宮本さん。一つ言っておきます。あなたが今日されたのは、証人への働きかけというやつです。向こうは藪をつついたつもりで、蛇の尻尾を踏んだ」

「僕、蛇ですか」

「あなたじゃない」

 柚木は、静かに言った。

「二十年前の真実という蛇です。あれはな、宮本さん、どれだけ深く埋めても死なない生きものなんです」