屋台の子ども。それが次の鍵だった。
火事の当時七歳なら、いまは二十七歳。当時の救急搬送の記録から、名前はすぐに割れた。宮本知也。城見町出身。火傷は左の足首に軽度。搬送先は隣町の病院。
その後の足取りも、難しくはなかった。高校まで町にいて、大学進学で外へ出た。現在は県内の工業都市で、機械部品の会社に勤めている。
柚木と拓海は、その工業都市の外れの古いアパートを訪ねた。返事があったのは、三度目のチャイムだった。
「どなたですか」
「県警捜査一課の柚木と申します。宮本知也さんですね。二十年前の、城見町の火事の件で伺いました」
ドアの向こうで、長い沈黙があった。やがて、チェーンが外れる音がした。
宮本知也は、二十七という歳よりも幼く見える男だった。細い体。伏し目がち。だが、二人を部屋へ入れ、椅子を勧める仕草は丁寧だった。
「新聞、見ました」
知也のほうから、先に言った。
「川で見つかった人。……あの人、なんですよね。木戸さんなんですよね」
「その確認をしている最中です。覚えているんですか」
「覚えてます」
知也は、即座に言った。
「七つでしたけど、覚えてます。忘れたことなんか、ないです」
拓海は、その言い方の強さに少し驚いた。
「あの晩のことを、聞かせてもらえますか」
「親が、祭りで屋台を出してたんです。たこ焼きの屋台です。日が暮れてから、店の釣り銭の箱を倉庫に忘れたとかで、僕が取りに行かされて。倉庫の中で屋台の場所はわかったんですけど、暗くて、箱を探してるうちに、変な臭いがして……気がついたら、入口のほうが真っ赤でした」
知也の目は、二十年前の倉庫の中を見ていた。
「煙で、息ができなくて。泣くこともできなくて、屋台の下にもぐり込んだんです。そうしたら、火の中から人が来て、僕を引っ張り出して、抱えたんです。ちっとも慌ててない声で、言いました。『大丈夫だ。目をつぶってろ。すぐ出る』って」
「それが」
「木戸さんです。木戸浩太さん」
知也は、まっすぐに二人を見た。
「外に出てから見たら、木戸さんの両手、皮がめくれてました。僕を抱えるのに、燃えてる屋台の柱をどけたからです。それでも僕には、熱かっただろう、ごめんな、って言ったんです。自分の手のことは、なんにも言わずに」
部屋の中が、静かになった。窓の外を、貨物列車の音が通り過ぎた。
「そのあと」
柚木が、静かに促した。
「そのあとが……ひどかったんです」
知也は、膝の上で拳を握った。
「何日かして、大人たちが言い出したんです。火をつけたのはあの子だ、って。僕は親に言いました。違う、あの人は僕を助けてくれた人だ、って。何回も言いました。そうしたら親は、なんて言ったと思いますか」
知也は、笑おうとして失敗した。
「『わかってる。わかってるから、もうその話はするな』です。わかってるから、するな、ですよ。学校の先生も同じでした。町内会の大人も。誰も、僕の話を聞かなかったわけじゃないんです。聞いた上で、蓋をしたんです」
「宮本さん。念のための確認ですが、火が出る前、倉庫の中や外で、誰か見かけませんでしたか」
「……ずっと、考えてたんです、それ。七つの記憶だから、あてにならないんですけど」
知也は、額に手を当てた。
「釣り銭の箱を探してるとき、裏のほうで音がしたんです。金属を叩くみたいな、カン、カン、っていう音。誰か作業してるのかな、と思ったのを覚えてます。祭りの晩に、倉庫の裏で作業なんて変だと、子ども心にも思ったから」
「音は、何度も?」
「何度も。……そのすぐあとくらいです、変な臭いがし始めたのは」
柚木と拓海は、目を見交わした。七歳の耳が二十年保管してきた音が、調書の一行になる瞬間だった。
「あなたは、それからどうしました」
「七つの子どもに、何ができますか」
知也の声が、初めて震えた。
「黙りました。黙って、大きくなりました。でも、忘れたことはないです。僕は、命の恩人が悪者にされるのを黙って見ていた人間です。二十年間、ずっとそうです。あの町を出たのも、本当はそれが理由です。あの町にいたら、息ができなかった」
拓海は、目の前の男から目が離せなかった。救われた子どもも、二十年間、逃げ続けていたのだ。
「宮本さん」
柚木は、ゆっくりと言った。
「あなたに、二つ伝えることがあります。一つは確認です。あなたの記憶にある通り、当時の消防の記録にも、木戸浩太が火の中からあなたを連れて出た、とはっきり書いてある。あなたの記憶は正しい。七つのあなたが見たものは、本物です」
知也の目に、みるみる涙が盛り上がった。
「もう一つは頼みです。いつか、その話を正式な調書として話してもらうことになるかもしれない。そのときは」
「話します」
柚木の言葉が終わる前に、知也は言った。
「二十年、待ってたんです。誰かがそれを聞きに来てくれるのを。……刑事さん。僕、ずっと考えてました。なんで木戸さんは逃げたんだろう、って。僕という証人がいるのに。僕が、この人は僕を助けたんです、と言えば、少なくとも人助けをした人だということは証明できたのに」
「あなたは、なぜだと思いますか」
知也は、しばらく黙った。
「……大人になってから、思うようになりました。木戸さんは、僕を巻き込みたくなかったんじゃないか、って。あのとき、町はどうかしてました。木戸さんをかばう者は、誰でも敵にされました。七つの子どもでもです。現に僕は、木戸さんをかばって、しばらく学校でいじめられました。親が僕の口を塞いだのは、半分は僕を守るためでもあったんです」
「なるほど」
「木戸さんが黙って消えたから、僕はそれ以上ひどい目に遭わずに済んだ。……そう考えると、あの人は最後まで僕を助けてくれていたことになるんです。二十年前の火の中と、そのあとの二十年と、二回」
柚木は、静かに頷いた。
「いい供述です。いや――いい話だ」
辞去する間際、知也は玄関先で二人を呼び止めた。
「刑事さん。一つだけ、聞いてもらえますか。供述とは関係ないことなんですけど」
「どうぞ」
「僕、二十年間、あの人にありがとうを言ってないんです」
知也は、自分の左の足首のあたりに目を落とした。
「七つのときは、言う前にあの人が消えました。大人になってからは、探す手立てがなかった。生きていてくれたら、いつか言える、と思ってました。新聞を見た朝、最初に思ったのは……ああ、言う相手がいなくなった、でした。礼って、刑事さん、言う相手がいなくなったら、どこへ持っていけばいいんですか」
柚木は、すぐには答えなかった。夕方の光の中で、しばらく若い男の顔を見ていた。
「宮本さん。礼は手紙と同じです。宛先がなくなっても、手紙そのものは消えない。……あなたはこれから、調書に、あの人のしたことをあなたの言葉で残す。それが宛先です。紙に書かれた礼は、口で言う礼より長生きするんです」
知也は、唇を結んで深く頷いた。ドアが閉まるまで、頭を下げ続けていた。
帰りの車は、しばらく無言だった。高速道路に入ったところで、拓海が口を開いた。
「証人はいた。生きていた。記憶も確かだった。それなのに、二十年間、誰もこの人の話を聞きに来なかった」
「そういうことだ」
「警察も、です」
「そういうことだ」
柚木は、繰り返した。責任を薄める言い方をしなかった。
「二十年前、この県の警察は、七つの子どもの話を聞きに行かなかった。行っていたら、浩太の二十年は違うものになっていたかもしれん。……三雲、これは覚えておけ。事件で一番あとまで残る傷はな、犯人がつけた傷じゃない。聞いてもらえなかった、という傷だ」
拓海は、ハンドルを握る柚木の横顔を見た。十五年前、兄のことを訊いて回っていた中学生の自分に、この人のような大人が一人でもいたら、と思った。思ってから、その考えを胸の奥へ押し戻した。今日は、宮本知也の話だった。
「柚木さんは、だから聞くんですか。誰にでも、あんなに時間をかけて」
「俺は茶を飲んでいるだけだ」
柚木は、いつもの調子で言った。それから、少しだけ真顔になった。
「……だがな。人の話を、遮らずに最後まで聞く。それだけのことをしてもらえないまま一生を終える人間が、世の中には大勢いる。せめて警察くらいは、聞く側にいなければならん。取調べでもそうだ。落とすんじゃない、拾うんだ。拾うにはまず、どこに落ちているのかを聞かないとわからんだろう」
拓海は、手帳を開いてその言葉を書き留めようとして、やめた。
書かなくても忘れない言葉というものがある。そのことを、拓海はこの町に来てから何度も知らされていた。
火事の当時七歳なら、いまは二十七歳。当時の救急搬送の記録から、名前はすぐに割れた。宮本知也。城見町出身。火傷は左の足首に軽度。搬送先は隣町の病院。
その後の足取りも、難しくはなかった。高校まで町にいて、大学進学で外へ出た。現在は県内の工業都市で、機械部品の会社に勤めている。
柚木と拓海は、その工業都市の外れの古いアパートを訪ねた。返事があったのは、三度目のチャイムだった。
「どなたですか」
「県警捜査一課の柚木と申します。宮本知也さんですね。二十年前の、城見町の火事の件で伺いました」
ドアの向こうで、長い沈黙があった。やがて、チェーンが外れる音がした。
宮本知也は、二十七という歳よりも幼く見える男だった。細い体。伏し目がち。だが、二人を部屋へ入れ、椅子を勧める仕草は丁寧だった。
「新聞、見ました」
知也のほうから、先に言った。
「川で見つかった人。……あの人、なんですよね。木戸さんなんですよね」
「その確認をしている最中です。覚えているんですか」
「覚えてます」
知也は、即座に言った。
「七つでしたけど、覚えてます。忘れたことなんか、ないです」
拓海は、その言い方の強さに少し驚いた。
「あの晩のことを、聞かせてもらえますか」
「親が、祭りで屋台を出してたんです。たこ焼きの屋台です。日が暮れてから、店の釣り銭の箱を倉庫に忘れたとかで、僕が取りに行かされて。倉庫の中で屋台の場所はわかったんですけど、暗くて、箱を探してるうちに、変な臭いがして……気がついたら、入口のほうが真っ赤でした」
知也の目は、二十年前の倉庫の中を見ていた。
「煙で、息ができなくて。泣くこともできなくて、屋台の下にもぐり込んだんです。そうしたら、火の中から人が来て、僕を引っ張り出して、抱えたんです。ちっとも慌ててない声で、言いました。『大丈夫だ。目をつぶってろ。すぐ出る』って」
「それが」
「木戸さんです。木戸浩太さん」
知也は、まっすぐに二人を見た。
「外に出てから見たら、木戸さんの両手、皮がめくれてました。僕を抱えるのに、燃えてる屋台の柱をどけたからです。それでも僕には、熱かっただろう、ごめんな、って言ったんです。自分の手のことは、なんにも言わずに」
部屋の中が、静かになった。窓の外を、貨物列車の音が通り過ぎた。
「そのあと」
柚木が、静かに促した。
「そのあとが……ひどかったんです」
知也は、膝の上で拳を握った。
「何日かして、大人たちが言い出したんです。火をつけたのはあの子だ、って。僕は親に言いました。違う、あの人は僕を助けてくれた人だ、って。何回も言いました。そうしたら親は、なんて言ったと思いますか」
知也は、笑おうとして失敗した。
「『わかってる。わかってるから、もうその話はするな』です。わかってるから、するな、ですよ。学校の先生も同じでした。町内会の大人も。誰も、僕の話を聞かなかったわけじゃないんです。聞いた上で、蓋をしたんです」
「宮本さん。念のための確認ですが、火が出る前、倉庫の中や外で、誰か見かけませんでしたか」
「……ずっと、考えてたんです、それ。七つの記憶だから、あてにならないんですけど」
知也は、額に手を当てた。
「釣り銭の箱を探してるとき、裏のほうで音がしたんです。金属を叩くみたいな、カン、カン、っていう音。誰か作業してるのかな、と思ったのを覚えてます。祭りの晩に、倉庫の裏で作業なんて変だと、子ども心にも思ったから」
「音は、何度も?」
「何度も。……そのすぐあとくらいです、変な臭いがし始めたのは」
柚木と拓海は、目を見交わした。七歳の耳が二十年保管してきた音が、調書の一行になる瞬間だった。
「あなたは、それからどうしました」
「七つの子どもに、何ができますか」
知也の声が、初めて震えた。
「黙りました。黙って、大きくなりました。でも、忘れたことはないです。僕は、命の恩人が悪者にされるのを黙って見ていた人間です。二十年間、ずっとそうです。あの町を出たのも、本当はそれが理由です。あの町にいたら、息ができなかった」
拓海は、目の前の男から目が離せなかった。救われた子どもも、二十年間、逃げ続けていたのだ。
「宮本さん」
柚木は、ゆっくりと言った。
「あなたに、二つ伝えることがあります。一つは確認です。あなたの記憶にある通り、当時の消防の記録にも、木戸浩太が火の中からあなたを連れて出た、とはっきり書いてある。あなたの記憶は正しい。七つのあなたが見たものは、本物です」
知也の目に、みるみる涙が盛り上がった。
「もう一つは頼みです。いつか、その話を正式な調書として話してもらうことになるかもしれない。そのときは」
「話します」
柚木の言葉が終わる前に、知也は言った。
「二十年、待ってたんです。誰かがそれを聞きに来てくれるのを。……刑事さん。僕、ずっと考えてました。なんで木戸さんは逃げたんだろう、って。僕という証人がいるのに。僕が、この人は僕を助けたんです、と言えば、少なくとも人助けをした人だということは証明できたのに」
「あなたは、なぜだと思いますか」
知也は、しばらく黙った。
「……大人になってから、思うようになりました。木戸さんは、僕を巻き込みたくなかったんじゃないか、って。あのとき、町はどうかしてました。木戸さんをかばう者は、誰でも敵にされました。七つの子どもでもです。現に僕は、木戸さんをかばって、しばらく学校でいじめられました。親が僕の口を塞いだのは、半分は僕を守るためでもあったんです」
「なるほど」
「木戸さんが黙って消えたから、僕はそれ以上ひどい目に遭わずに済んだ。……そう考えると、あの人は最後まで僕を助けてくれていたことになるんです。二十年前の火の中と、そのあとの二十年と、二回」
柚木は、静かに頷いた。
「いい供述です。いや――いい話だ」
辞去する間際、知也は玄関先で二人を呼び止めた。
「刑事さん。一つだけ、聞いてもらえますか。供述とは関係ないことなんですけど」
「どうぞ」
「僕、二十年間、あの人にありがとうを言ってないんです」
知也は、自分の左の足首のあたりに目を落とした。
「七つのときは、言う前にあの人が消えました。大人になってからは、探す手立てがなかった。生きていてくれたら、いつか言える、と思ってました。新聞を見た朝、最初に思ったのは……ああ、言う相手がいなくなった、でした。礼って、刑事さん、言う相手がいなくなったら、どこへ持っていけばいいんですか」
柚木は、すぐには答えなかった。夕方の光の中で、しばらく若い男の顔を見ていた。
「宮本さん。礼は手紙と同じです。宛先がなくなっても、手紙そのものは消えない。……あなたはこれから、調書に、あの人のしたことをあなたの言葉で残す。それが宛先です。紙に書かれた礼は、口で言う礼より長生きするんです」
知也は、唇を結んで深く頷いた。ドアが閉まるまで、頭を下げ続けていた。
帰りの車は、しばらく無言だった。高速道路に入ったところで、拓海が口を開いた。
「証人はいた。生きていた。記憶も確かだった。それなのに、二十年間、誰もこの人の話を聞きに来なかった」
「そういうことだ」
「警察も、です」
「そういうことだ」
柚木は、繰り返した。責任を薄める言い方をしなかった。
「二十年前、この県の警察は、七つの子どもの話を聞きに行かなかった。行っていたら、浩太の二十年は違うものになっていたかもしれん。……三雲、これは覚えておけ。事件で一番あとまで残る傷はな、犯人がつけた傷じゃない。聞いてもらえなかった、という傷だ」
拓海は、ハンドルを握る柚木の横顔を見た。十五年前、兄のことを訊いて回っていた中学生の自分に、この人のような大人が一人でもいたら、と思った。思ってから、その考えを胸の奥へ押し戻した。今日は、宮本知也の話だった。
「柚木さんは、だから聞くんですか。誰にでも、あんなに時間をかけて」
「俺は茶を飲んでいるだけだ」
柚木は、いつもの調子で言った。それから、少しだけ真顔になった。
「……だがな。人の話を、遮らずに最後まで聞く。それだけのことをしてもらえないまま一生を終える人間が、世の中には大勢いる。せめて警察くらいは、聞く側にいなければならん。取調べでもそうだ。落とすんじゃない、拾うんだ。拾うにはまず、どこに落ちているのかを聞かないとわからんだろう」
拓海は、手帳を開いてその言葉を書き留めようとして、やめた。
書かなくても忘れない言葉というものがある。そのことを、拓海はこの町に来てから何度も知らされていた。

