八月の蛍

 七月十五日の夕方、木戸浩太は納屋の前で上原治郎に頭を下げた。

「世話になりました」

 五年目の夏で、初めて口にする挨拶だった。行き先を訊かれないことはわかっていた。この集落の人々は、訊かないことで人を住まわせてくれる。その静けさにどれだけ救われてきたか、言葉にしたことはなかった。

「今晩、町へ行ってきます」

 町、と言ったとき、老人の眉がわずかに動いたのを浩太は見た。見て、見なかったことにした。上原は何も言わず、奥へ入って、竹の皮に包んだ握り飯を二つ持たせてくれた。

「気をつけてな」

「はい。……上原さん。納屋の屋根、去年直したところは五年は保ちます。五年経ったら、北側の瓦だけ、誰かに見てもらってください」

「ああ」

「本当に、世話になりました」

 浩太はもう一度、深く頭を下げた。腰を折ると、胸の奥で心臓が抗議するように重く波打った。慣れた痛みだった。この五年、心臓と自分は古い夫婦のような間柄になっていた。互いの機嫌の底が、だいたい読める。

 ――今晩は、保ってくれ。

 浩太は、胸の内側に声をかけた。

 ――今晩と、明日の朝までで、いいから。

 峰道に入る頃、日が落ちた。

 健脚なら片道四時間の道を、今年は六時間かかると見ていた。足首は浮腫んで、登りのたびに心臓が胸の壁を叩いた。十歩あるいて、立ち止まる。息を整える。また十歩。三好医師の顔が浮かんだ。行けるうちに行きなさい、と言った、あの真っ直ぐな目。

 ――先生。行けるうち、というのは、今晩のことです。

 夜の山は、匂いで歩けた。二十年通った道だ。杉の匂いが切れて下草の匂いが濃くなれば、尾根が近い。楢の幹に手を突いて休むたび、樹皮の感触が掌の古い火傷の痕にざらりと触れた。

 この手で、ずいぶん直したな、と思った。

 納屋の屋根。隣の婆さんの縁側。その前の土地では、寺の山門の階段。そのまた前は、海べりの町で漁具小屋の梁。名前のない男の仕事は、値札のつかない仕事だ。だが、直した場所は嘘をつかない。雨の日に漏らなければ、それが領収書だった。

 ――おっちゃん。俺は、一人前になれただろうか。

 谷村幸治の顔は、二十年経っても少しも古びなかった。鉢巻きの下の、日焼けした笑い顔。浩太は俺の一番弟子だ、と恥ずかしげもなく人に言う声。冬の橋の下から拾い上げてくれた、あの大きな手。

 そのおっちゃんは、火の中で、行け、と言った。子どもを連れて先に出ろ、と。

 浩太は、行った。行って、それきり、恩人は煙の向こうに消えた。

 二十年は長かったのか短かったのか、自分でもわからなかった。

 十六の冬は、海べりの町の飯場にいた。歳を二十と偽って、誰も信じていなかったが、誰も確かめなかった。ああいう場所には、名前を訊かない優しさと、名前を訊かない冷たさが、同じ顔で並んでいた。

 二十代は、あちこちの現場を渡った。橋。堤防。寺の修理。手が仕事を覚えるほど、雇い主は名前を訊かなくなった。腕のいい者の過去を詮索しないのは、あの世界の礼儀だった。谷村の教えは、体のどこを切っても出てきた。曲がった材を見ると、捨てる前に使える場所を探した。人に対しても、いつの間にか同じ癖がついていた。

 忘れられないのは、最初の年だ。十七になった年の盆、いても立ってもいられずに飯場を抜け、夜行と山越えで町へ戻った。捕まるかもしれないと震えながら、それでも、母がどうしているかだけを一目確かめたかった。

 尾根から見下ろした町の南の外れに、小さな灯りが一つ点いていた。

 軒先の、提灯だった。

 あのときの膝の震えを、浩太は二十年経っても覚えている。母は待っていた。息子が火付けと呼ばれている町の真ん中で、帰ってくる目印を堂々と軒に吊るしていた。あれは灯りではなかった。旗だった。うちの子は帰ってくる、という、たった一人の反乱の旗だった。

 あの晩から、八月の山越えは年中行事になった。どんな現場にいても、盆だけは休みを取った。理由は誰にも言わなかった。墓参りで、と言うと、たいていの親方は黙って行かせてくれた。嘘ではなかった。半分は、谷村の墓に――近づくことはできないから、川向こうの峰から――手を合わせるための旅だった。

 行李の底の数珠は、三十のときに古道具屋で買った。谷村の葬式に、自分は出ていない。出られるはずもなかった。だから毎年、盆の山越えの晩、川向こうの寺の方角に、峰道の途中で手を合わせた。数珠は、そのためだけの道具だった。年に一晩しか使わない数珠が、二十年で手に馴染んで飴色になった。

 ――おっちゃん。今年で、しまいです。

 浩太は今夜も、峰の途中で川向こうに手を合わせてきた。

 ――それから、今年はちゃんと寄らせてもらいます。二十年ぶんの礼を、まとめて言いに。

 尾根に出ると、風が変わった。

 眼下に、城見の町の灯が見えた。

 浩太は岩に腰を下ろし、握り飯を一つ、ゆっくり食べた。米の甘さが腹の底に沁みた。二十年、この尾根から町を見おろすたびに同じことを思った。あの灯の一つ一つの下に、人の暮らしがある。俺を憎んでいる暮らしが、いくつもある。それでもあの町は、俺の町だ、と。

 憎まれることには、とうに折り合いがついていた。

 折り合いのつかないものは、一つだけだった。あの灯の中の、南の外れの、一番小さい灯。

 下りは、登りより心臓に楽で、膝に辛かった。

 途中の岩場で一度、足を滑らせた。とっさに掴んだ楢の枝が体を支えた。枝を放すとき、浩太は木の幹を掌でぽんと叩いた。この道の木々には二十年分の借りがある。掴ませてもらった枝、雨を凌がせてもらった洞、目印にさせてもらった曲がり幹。礼を言う相手が人間だけだと思っているうちは、山は越えられない。それも、この二十年で覚えたことだった。

 沢の音が近づき、やがて木々の間から町の灯が近くなった。

 山を下りきったのは、日付の変わる頃だった。

 川沿いの小道は、月明かりで白かった。浩太は、川面の上を小さな緑の光がいくつも行き交っているのに気づいて、足を止めた。

 蛍だった。

 ――七月なのに、まだいるのか。

 いや、七月だからか、と思い直した。二十年、八月の夜にしかこの町へ来なかった。八月の川に、蛍はもういない。子どもの頃に見たきりの光だった。橋の下で段ボールを敷いて寝た晩も、この光だけは金のかからない贅沢として、いくらでも見られた。

 蛍は、綺麗だった。それだけのことだった。それだけのことが、この歳になると涙が出るほどありがたかった。

 母の家の前に立ったのは、午前一時を回った頃だった。

 軒先に、提灯があった。

 灯は、入っていなかった。八月ではないのだから当たり前だった。わかっていて来た。わかっていたのに、灯りのない白い提灯は、思っていたよりずっとこたえた。

 ――かまわない。

 浩太は、胸の中で言った。

 ――提灯があるだけで、上等だ。二十年、一年も欠かさずにそこに提灯がある。それがどういうことか、俺は知っている。

 紙が、新しかった。今年もまた張り替えてある。この提灯は、古びることを許されていないのだ。帰ってくる者の目印が古びたら、待つほうの気持ちが古びたことになってしまうから。母は、そういう理屈で生きる人だった。

 雨戸の奥から、かすかに寝息のような気配がした。気のせいかもしれなかった。それでも浩太は、その気配に向かって、二十年でいちばん深く頭を下げた。

「……母ちゃん。ただいま」

 声には、しなかった。唇だけで言った。

「今年は早く来た。それから、今年はもう山へは戻らない。用事が一つ残っているんだ。それを済ませたら――済ませたらな、母ちゃん。俺はもう、逃げるのをやめる」

 毎年、盆の明けの朝には、この軒先で提灯の火を消してから山へ戻った。蝋燭が燃え尽きる前に、指を湿してそっと摘む。それだけの悪戯だった。それだけのことが、二十年間の、たった一つの返事だった。母がそれに気づいているのかどうか、確かめる術はなかった。気づいていてほしいと願う資格も、ないと思っていた。

 今夜は、消す火がなかった。

 代わりに浩太は、白い提灯の縁に、火傷の痕の残る指先で一度だけそっと触れた。

「……行ってくる」

 河川敷に着いたとき、東の空はまだ暗かった。

 打ち上げ台の基礎は、二十年前と同じ場所にあった。北東の角。あの晩、十六歳の自分が火傷の手に包帯を巻いたまま、夜通しかかって掘った場所。

 缶の中身を、警察に届ける。

 それが最後の用事だった。二十年前は、届ける先がなかった。町も警察も高瀬の側にあった。今は違うかもしれない。違わないかもしれない。それでも、死んだ人間の身元を調べる過程で、警察は必ずあの缶に行き当たる。行き当たるように、地図に印を付け、防水の袋に入れて、胸のポケットに仕舞ってきた。

 自分で掘り出せれば、それでよし。掘り出せなくても――この体が、地図を運ぶ。

 浩太は、基礎の角にしゃがんで土に手を突いた。

 二度、土を掻いたところで、心臓が来た。

 波というより、壁だった。胸の真ん中に冷たい壁がせり上がってきて、息の通り道を塞いだ。浩太は土の上に膝をつき、それからゆっくりと、川のほうへ体を向けて座り込んだ。慌てなかった。この発作の顔は知っていた。いつもより大きいだけだ。

 ――そうか。今晩か。

 痛みの向こうで、浩太は妙に静かだった。

 三好の声がした。急性の心停止なら、苦しむ時間は短い。では、それでいきます、と自分が答えた声もした。段取りの顔、と先生は思っただろうか。段取りは、本当にあの診察室で組み上がったのだ。夏まで生きる。山を越える。母の家に寄る。缶を掘る。掘れなければ、地図ごと見つかる。……どの道を通っても、荷物は届く。

 川面で、蛍が光った。

 一つ、二つ。それから、数えきれなくなった。

 小さな緑の火が、水の上に点々と連なっていた。

 ――提灯だ。

 浩太は、思った。

 ――川いっぱいに、提灯が出ている。

 こんなにたくさんの目印は、見たことがなかった。二十年、たった一つの提灯を目印に暗い山を越えてきた。最後の晩に川がこんなに灯りを並べてくれるのなら、もう道に迷いようがなかった。

 痛みが、ふっと遠くなった。

 橋の下の冬の晩、飯を三杯食わせてくれた家の湯気。鉋の削り屑の匂い。母ちゃんの飯。あれが、いちばんうまい。手紙にはそう書いた。生きて言えなかったことは、あの缶がいつか言ってくれる。

 ――母ちゃん。

 浩太は川に向かって、最後にもう一度だけ唇を動かした。

 ――ただいま。

 蛍の光が、揺れながら水の上を渡っていった。

 夜明け前の川は、静かに、静かに流れていた。