八月の蛍

 八月二日、日曜日。

 城見町の夏祭りは、夕方の六時に始まった。

 商店街から神社へ抜ける道の両側に、屋台が並んだ。たこ焼き。かき氷。金魚すくい。射的。裸電球の紐が宵の空に何本も渡され、太鼓の音が町の底から響いていた。

 人出は例年より多い、と誰もが言った。

 理由は、口に出さなくても皆わかっていた。この夏、町は、二十年間信じてきた話が嘘だったことを知らされた。その居心地の悪さを抱えたまま家に閉じこもっていられるほど、夏祭りというものは冷たくできていない。人は、確かめに出てきたのだった。自分の町が、まだ自分の町であるかどうかを。

 木戸初枝は、六時半に家を出た。

 鼠色の地味な着物に、それでも帯だけは若い頃の朝顔の柄を締めていた。玄関の軒には、いつもの盆より十日ばかり早く、あの提灯が灯っていた。

「本当に、いいんでしょうかね」

 門の前で、初枝はもう一度言った。迎えに来た拓海は頷いた。今日の拓海はスーツではなかった。洗いざらしのシャツを着て、ただの若者の顔をしていた。

「いいんです。約束したでしょう、たこ焼き」

「そうでした。約束は、守らないとね」

 柚木は少し遅れて合流した。開襟シャツに、うちわを一本、腰の後ろに差していた。どこから見ても、休みの日の中年男だった。

 三人で祭りの道へ入った。

 最初の十メートル、拓海は正直に緊張していた。人々が初枝に気づく。気づいて、どうするか。二十年、この人を黙って遠巻きにしてきた町だ。今さら、どんな顔をするのか。

 最初に動いたのは、酒屋の主人だった。

 店の前に出した縁台でラムネの箱を開けていた主人は、初枝を見ると手を止めた。それから、のそりと立ち上がって道の真ん中まで出てきた。

「……初枝さん」

「ご無沙汰、しています」

「ラムネ、飲んでいってくれ」

 主人はそれだけ言って、栓を抜いた一本を初枝の手に押しつけた。ビー玉が瓶の中でからりと鳴った。

「浩太のやつ、うちの店先でよくこれを飲んでいた。……あんたの分は、二十年分、うちにツケがある。今日から返していくよ」

 初枝は瓶を両手で受け取って、深く頭を下げた。主人は照れたのか、怒ったような顔で縁台に戻っていった。

 それが、始まりだった。

 金物屋の女房が走ってきて、初枝の手を握った。かき氷の屋台の男が勘定を受け取らなかった。誰もが、上手には言えなかった。すまなかった、と正面から言えた者は、実は少なかった。ただ、ラムネを持たせ、氷を持たせ、手を握った。この町の人間の詫び方は、そういう形をしていた。

「……刑事さん」

 人混みの中で、初枝が小さく言った。

「私は二十年、この道を下を向いて歩いていました。道というのは、こんなに明るいものでしたかね」

 拓海は、答える代わりにたこ焼きの屋台を指差した。

「約束、果たしてもらいます」

「はいはい。大玉の店にしましょう。浩太が、いつも並んでいた店です」

 七時半、宮本知也が妻と息子を連れて現れた。

 息子は五つで、綿菓子を握りしめていた。知也は初枝の前に立つと、しばらく言葉を探していた。探して、見つからなくて、結局、隣の息子の頭に手を置いた。

「……木戸さん。息子です。五つになりました」

「まあ」

 初枝は腰をかがめて、子どもと目の高さを合わせた。

「いいお顔。お父さんの小さい頃にそっくりですね」

「木戸さん、俺は」

「知也くん」

 初枝は立ち上がって、首を振った。

「何も言わなくていいの。あなたが七つのとき、あの火の中からあなたを連れて出たのは、うちの浩太です。そしてあなたは、こんな立派なお父さんになって、こんな可愛い子を連れて、今日ここにいる。……浩太のしたことは、無駄ではなかった。それが今日、目で見えました。私にとって、これほどありがたい晩はありません」

 知也はうつむいた。肩が震えていた。妻が黙って、その背中に手を当てた。

 五つの息子だけが、不思議そうに大人たちの顔を見上げていた。それから、握っていた綿菓子を、ずい、と初枝に差し出した。

「……おばちゃん、たべる?」

 湿った空気が、ふっとほどけた。初枝は笑って、綿菓子をひとちぎりだけもらった。

「ありがとう。……甘いこと。今年の夏で、いちばん甘い」

 人混みの端に、谷村美砂子の姿があった。

 夫の遺影のある家から、二十年ぶりに祭りへ出てきたのだという。美砂子は初枝を見つけると足を止め、その場で動けなくなった。

 先に歩み寄ったのは、初枝だった。

「美砂子さん」

「……初枝さん。私は、あなたに合わせる顔が」

「何をおっしゃいます」

 初枝は、美砂子の両手を自分の両手で包んだ。

「刑事さんから、みんな聞きました。あなたはあの晩、うちの子に本当のことを教えてくださった。高瀬が仕組んでいる、と。……あなたが教えてくださったから、あの子は何も知らないまま捕まる目に遭わずに済んだんです。あの子は手紙に書いていました。谷村のおばさんが教えてくれた、と。恨み言ではない書き方で、です」

「でも、私は、逃げなさい、と」

「美砂子さん」

 初枝は、包んだ手に力を込めた。

「私たちは二十年、別々の部屋で、同じ子のことを考えて生きてきたんです。もう別々の部屋はやめにしましょう。……あなたのご主人は、うちの子の親方で、恩人です。それなら私たちは、もう親戚のようなものでしょう」

 美砂子は、包まれた手の中で声を殺して泣いた。祭りの雑踏が、その泣き声を優しく隠した。

 射的の屋台の前で、知也の息子が台に顎を載せるようにしてコルク銃を構えていた。狙っているのは、棚のいちばん上の、青い硝子玉の入った小瓶だった。三発撃って、三発とも届かなかった。

「坊主、もう一回だけな」

 屋台の親父が笑って、四発目をおまけした。四発目も届かなかった。子どもが唇を尖らせたとき、親父はひょいと手を伸ばして、小瓶を台に置いた。

「当たっていたよ、今の。風で逸れただけだ」

 誰が見ても、当たっていなかった。子どもは小瓶を両手で受け取って、跳ねるように駆けていった。

 拓海は、その一部始終を少し離れた場所から見ていた。祭りというものは、と思った。ああいう小さな嘘のためにあるのかもしれなかった。二十年前、この町の祭りの夜に生まれた大きな嘘は、人を一人、山の向こうへ追いやった。今夜の小さな嘘は、子どもを一人、跳ねさせている。嘘の使い道を、この町は思い出しつつあるのだった。

 八時、放送が入った。花火の予告だった。

 人の流れが河川敷へ向かい始めた。あの河川敷である。打ち上げ台の櫓は、今年もあの基礎の上に組まれていた。二十年前、十六歳の少年がその足元に一斗缶を埋めた場所の、真上だった。

 土手の斜面に、町の人間がぎっしりと座った。

 初枝と拓海と柚木は、斜面の中ほどに並んで座った。

「初枝さん。一つ、ご報告があります」

 柚木が、うちわを使いながら言った。

「町役場と商工会からの正式な話です。今度の調査結果を受けて、町として、あの倉庫の跡地に銘板を立てることが決まりました。文面の案を預かってきています」

 柚木は、畳んだ紙を初枝に渡した。

 初枝は、提灯の明かりを頼りに読んだ。

 ――平成十八年八月六日、この地の火災において、当時十六歳の木戸浩太さんは、火中に取り残された七歳の児童を救出した。氏の名誉が回復されるまでに二十年を要したことを、この町は忘れない。

「……『この町は忘れない』」

 初枝は、その一行を指でなぞった。

「二十年、忘れられていたのにね」

「ええ。だからこそ、この一行は詫び状です。石に彫る詫び状だ。紙の詫び状は破れますが、石は破れません」

 初枝は、紙を丁寧に畳んで帯の間にしまった。

「……浩太に、読ませたかった」

「読みますよ」

 柚木は、空を見上げた。

「今晩は、大勢帰ってきている晩ですから」

 打ち上げ前の、あの独特の静けさが河川敷に満ちた。

 ざわめきが少しずつ薄れ、子どもたちの声が親の膝元に集まり、誰もが同じ暗い空を見上げる。四千人の町の、たぶん半分がこの土手にいて、同じ方向を向いている。二十年前のあの晩も、火事の半鐘が鳴るまでは、この町はこうして一つの空を見上げていたのだ。

 拓海は、ふと思った。町という生きものが道を間違えるのも、間違いを正すのも、案外こういう晩なのかもしれない。皆が同じものを見ている晩は、憎しみも、詫びも、伝わるのが早い。

 その考えが終わらないうちに、最初の一発が上がった。

 腹に響く音がして、夜空に大輪の菊が開いた。土手じゅうから歓声が上がった。二発目。三発目。光が開くたびに川面が明るくなり、座った人々の顔が昼のように照らされた。

 拓海は、花火の合間に、隣の初枝の横顔を見た。

 初枝は、空を見ていなかった。

 光が川面に映るあたり――二十年前の夏の終わりに、息子が最後に立ったはずの川のふちを見ていた。そうして、口が小さく動いていた。音にはなっていなかった。だが拓海には読めた。

 きれいだねえ、と言っていた。

 誰かに話しかける口の形だった。

 拓海は、目頭が熱くなるのを空を見上げてごまかした。夜空にまた一つ、大きな花が開いた。その光は一瞬で消えたが、消えたあともしばらく目の奥に残った。

 ――本物は、遅れて届く。

 この夏に覚えたことだった。光でも、手紙でも、詫びでも。本当のものは、いつも少し遅れて届く。遅れても、届きさえすれば、それは間に合ったことになるのだと、この町が教えていた。

 最後の連発が上がりきって、煙の匂いだけが川風に流れてきた頃、初枝がぽつりと言った。

「刑事さん。私、決めました」

「何をです」

「来年もここへ来ます。再来年も。……それから、いつか私がいなくなっても、あの提灯だけは誰かに頼んで、盆には出してもらいます。あの子の目印ですから。……帰ってくる家がある、ということだけは、ずっとこの世に残しておきたいんです」

 柚木は、うちわの手を止めて、まっすぐに初枝を見た。

「初枝さん。それは、頼む相手を間違えないでくださいよ」

「はい?」

「俺とこの三雲は、しつこい性分でしてね。一度関わった家の提灯が消えていないか、盆のたびに確認しに来ます。……確認だけが仕事の男ですから」

 初枝は目を丸くして、それから、煙の残る夜空に向かって声を上げて笑った。二十年ぶんの錆が落ちた、乾いた、いい笑い声だった。