フィルムの現像結果が上がってきたのは、発掘から二日後の朝だった。
二十年前の使い捨てカメラ。フィルムは熱と年月で傷んでいたが、県警の技術班は二十七枚のうち九枚を、見られる状態まで復元した。
捜査本部代わりに借りた城見署の小会議室で、柚木と拓海はその九枚を机に並べた。
最初の数枚は、祭りの写真だった。屋台。櫓。浴衣の子ども。撮ったのは浩太ではない。カメラの持ち主――倉庫の裏に落ちていた、誰かのカメラだ。
問題は、最後の三枚だった。
夜の倉庫の裏手。フラッシュが焚かれている。写っているのは、倉庫の裏の配管周りにかがみ込む作業服の男の背中。次の一枚では、男が立ち上がり、半分だけ振り向いている。若い男だった。そして最後の一枚はぶれていた。カメラを持った人間が慌てて動いたのだろう。地面と、逃げる足だけが写っていた。
「この振り向いている顔」
柚木が、写真の一点を指の背でそっと叩いた。
「二十年、歳を取らせてみろ」
拓海は、写真の中の若い男の顔を見つめた。細めた目。張った顎。日に焼けた額。そこに二十年分の肉と脂を乗せ、仕立てのいいポロシャツを着せた。
「……松本だ」
声が掠れた。
「松本健太。高瀬興産の専務。旅館の裏で、僕に『掘ってはいけない土がある』と言った男です」
「そうだ。二十年前は、高瀬興産の現場の若い衆だった男だ。工事記録も出た。火事の一か月前、倉庫の改修に入っていた業者は高瀬興産。ガス配管の再接続をやった作業員の名簿に、松本健太の名前がある」
柚木は、写真を並べ直した。
「絵が見えてきたな。松本は配管をしくじった。倉庫はガス漏れを起こしていた。谷村さんは臭い臭いと言い続けていた。そして八月六日の晩、祭りのどさくさの中でとうとう火が出た。過失だ。過失だが、死人が出た。会社の看板と、高瀬の家の名前に傷が付く。……そこで誰かが、火付けの子どもを一人、拵えることにしたんだ」
「このカメラを落とした人は、誰なんですか。火事の晩、倉庫の裏で松本が配管を触っているところを撮った人がいる。この人は、何もかも見ていたことになります」
「そこだ」
柚木は頷いた。それから、最初の数枚の祭りの写真をもう一度、順に並べ直した。
「答えはな、三雲、たぶんこちら側に写っている」
柚木の指が、一枚の上で止まった。
屋台の並ぶ通り。裸電球の下で、鉢巻きを締めた男が一人、照れたように笑って、こちらに手を挙げている写真だった。日焼けした、人の好さそうな顔。
拓海は、その顔を知っていた。仏間の遺影で、同じ笑い方をしていた。
「……谷村幸治さんだ」
「そうだ。祭りの晩、倉庫の番に立つ亭主を通りで撮った人間がいる。こんな照れた顔は、家の者にしか向けない顔だ。……このカメラは、谷村の家のカメラだ」
その日の夕方、二人はもう一度、谷村美砂子の家の仏間に座っていた。
柚木は何も言わずに、復元された写真を一枚ずつ卓の上に並べた。祭りの通り。屋台。そして、鉢巻き姿で照れ笑いする谷村幸治。
美砂子は、その一枚を見た瞬間、両手で口を覆った。
「……ああ」
声は、それきりしばらく出てこなかった。
「このカメラは、あなたのですね」
柚木が、静かに訊いた。美砂子は、写真から目を離さないまま頷いた。
「うちのです。あの晩、なくしたんです。……この写真、私が撮りました。主人の最後の写真です。撮った覚えはあるのに、カメラごとなくなって、二十年、この顔を思い出の中でしか見られなかった」
「聞かせてもらえますか。カメラをどこでなくしたのかを」
美砂子は、長いこと膝の上の手を握ったり開いたりしていた。それから、観念したように話し始めた。
「八時過ぎでした。主人に夜食を届けに倉庫へ行ったんです。表にいなかったから、裏へ回りました。そうしたら……裏の、配管のところに人がかがんでいたんです。作業服の若い男の人が。こんな時間に工事かしら、と思って、私は手に持っていたカメラを構えてしまったんです。祭りの晩で、写す癖がついていて。……フラッシュが光りました。男の人が振り向きました。私は怖くなって、カメラを落として逃げました」
「なぜ、怖かったんです」
「……高瀬興産の人だとわかったからです。配管の工事のことで、主人が役場に文句を言うと言っていた矢先でしたから。見てはいけないものを見た、と体が先にわかったんです」
美砂子は、写真の中の夫の顔を、指の先でそっと撫でた。
「家へ逃げ帰って、一時間もしないうちに半鐘が鳴りました。……倉庫が燃えている、と。私は走りながら、ずっと思っていました。あのとき、私が大きい声を出していたら。あの男の人に、何をしているんですか、と言えていたら。カメラを落とさずに、誰かに見せていたら。……主人は死なずに済んだんじゃないか、と」
「その晩のうちに、高瀬が来た」
「はい。前にお話しした通りです。谷村の管理責任だ、補償だ、と。……私はあの晩、倉庫の裏で見たことを言い出せませんでした。言えば、あんたの見間違いだ、亭主の管理が悪かった話にするぞ、と、そういう話にされる。それが、目を見たらわかりました。そして次の日には浩太が疑われて……私は二重に黙ったんです。見たことにも蓋をして、あの子にも蓋をさせて。二十年、二重の蓋の上に座って生きてきたんです」
仏間は静かだった。線香の煙だけが、まっすぐに立ちのぼっていた。
「谷村さん」
柚木は、写真を証拠品袋に戻さず、一枚だけ卓の上に残した。鉢巻きの、照れ笑いの一枚だった。
「これは複製を作って、原本の手続きが済んだらお返しします。ご主人の最後の写真は、警察の倉庫ではなく、この仏間にあるべきものです」
「……刑事さん」
「それと、もう一つ」
柚木は、鞄からもう一枚の紙を出した。鑑定を終えた、浩太の手記の写しだった。
「河川敷の土の中から、これが出ました。二十年前に浩太さんが埋めた手紙です。……あなたの話が出てきます。読んでください」
美砂子は、読んだ。
――高瀬の人たちが、俺がやったことにするつもりだと、谷村のおばさんが教えてくれた。おっちゃんの名前を守るためだ、と。
そこまで読んで、美砂子は写しを持ったまま、深く頭を垂れた。
「……恨んでいないのですね。この子は、私を」
「恨むどころか」
柚木は、静かに言った。
「この手記のどこを探しても、あなたを責める言葉は一文字もない。あの子にとって、あなたの言葉は罠ではなく、恩人の名前を守る役目だった。十六の子どもは、その役目を二十年、勤め上げたんです。……あなたが二十年座ってきた蓋は、谷村さん、今日でもう要りません」
美砂子は、手記の写しと夫の写真とを順に見た。それから仏壇の遺影を見上げて、絞り出すように言った。
「お父さん。……浩太は、いい子でしたね。私たちの、自慢の子でしたね」
遺影は、写真と同じ顔で笑っていた。
帰り際、美砂子は玄関先で、思い切ったように言った。
「刑事さん。一つ、お願いがあるんです。……あの鉋。あの子の鉋です。お骨が初枝さんのところに帰って、納骨が済んだら、あの鉋をあの子の墓に一緒に入れていただけないでしょうか。初枝さんさえ、よければ」
「なぜです」
訊いたのは拓海だった。美砂子は、少し笑った。
「大工がね、刑事さん、道具なしで向こうへ行ったら仕事になりませんでしょう。あちらには主人がおります。二十年も待たせたのだから、着いたらすぐ親方の現場に入らなければなりません。……手ぶらで行かせたら、主人に叱られます」
拓海は、返事の代わりに深く頭を下げた。この人たちの中で、死は終わりではないのだった。向こうにも現場があり、親方が待っていて、弟子が鉋を持って向かう。そういう世界の絵を、この夏、自分は何枚も見せてもらっている。
署に戻る道すがら、拓海は助手席の柚木に訊いた。
「松本は、二十年前、なぜ逃げたり自首したりしなかったんでしょう。写真を撮られたことはわかっていたはずです。いつばれるかわからない爆弾を抱えて、二十年、あの町にいた」
「逃げられんのだ、ああいう立場の男は」
柚木は、窓の外の田んぼを見ながら言った。
「逃げたら、認めたことになる。自首したら、高瀬を売ることになる。高瀬を売ったら、この町では生きていけない。……そして何より、三雲。あの男はたぶん、罰を待っている。罰されない罪ほど重くなる罪はない。二十年、誰も松本を罰してやらなかった。だから写真を突きつけられた日には、あの男は案外あっさり口を割るだろう。やっと荷物を降ろせる、と思ってな」
「高瀬は、どうなんでしょう。同じように待っているんでしょうか」
「あちらはな」
柚木は、少し考えてから言った。
「あちらは、荷物だとは思っていない。経費だと思っている。……だから、あちらのほうが手強い」
高瀬側の動きは、こちらの想定より早かった。
翌々日の未明、河川敷の発掘現場の跡に、作業服の男が二人現れた。埋め戻された穴をもう一度掘り返そうとしたのである。証拠がまだ土の中にあると思い込んだのだ。何が掘り出されたのかを警察が公表していなかったから、無理もなかった。
張り込んでいた城見署員が、二人をその場で取り押さえた。二人は高瀬興産の社員で、「松本専務に、埋まっているものを全部引き上げて処分しろと言われた」と、あっさり供述した。
証拠隠滅の教唆である。二十年前の火災そのものはとうに時効だが、木戸浩太の変死をめぐる捜査は現に動いている。その捜査の証拠を消させようとしたのは、二十年前の罪ではなく、今年の罪だった。
逮捕状が出た朝、松本健太は高瀬興産の社屋から出てきたところで、柚木と拓海の前で足を止めた。
「……あんたか」
松本は、拓海を見て吐き捨てるように言った。
「あの晩、素直に言うことを聞いていたら、あんたも楽だったのに」
「松本さん」
拓海は、逮捕状を読み上げる前に一つだけ言った。
「二十年前の八月六日の晩、倉庫の裏であなたを撮った写真があります。あなたはあの晩からずっと、いつか誰かがあの写真を見つける日が来ると思って生きてきたんじゃないですか。……長かったですね」
松本の顔から、初めてあの余裕が剥がれた。剥がれた下から出てきたのは、脅しの顔ではなく、二十年、眠りの浅かった男の疲れた顔だった。
「……ガス管だ」
連行の車の中で、松本は誰に訊かれるでもなく、ぽつりと言った。
「俺がしくじったガス管だ。火は、俺はつけていない。つけていないが……漏れているのはわかっていた。高瀬さんに言ったら、盆の工事は金がかかる、九月に直せ、それまで黙っていろ、と。……だからあの火事はな、俺と高瀬が二人でつけたようなものなんだ」
拓海は、バックミラー越しに松本の顔を見た。
「その話、調書に取らせてもらいます」
「……ああ。取ってくれ」
松本は、目を閉じた。
「二十年、誰かに取ってほしかった話だ」
二十年前の使い捨てカメラ。フィルムは熱と年月で傷んでいたが、県警の技術班は二十七枚のうち九枚を、見られる状態まで復元した。
捜査本部代わりに借りた城見署の小会議室で、柚木と拓海はその九枚を机に並べた。
最初の数枚は、祭りの写真だった。屋台。櫓。浴衣の子ども。撮ったのは浩太ではない。カメラの持ち主――倉庫の裏に落ちていた、誰かのカメラだ。
問題は、最後の三枚だった。
夜の倉庫の裏手。フラッシュが焚かれている。写っているのは、倉庫の裏の配管周りにかがみ込む作業服の男の背中。次の一枚では、男が立ち上がり、半分だけ振り向いている。若い男だった。そして最後の一枚はぶれていた。カメラを持った人間が慌てて動いたのだろう。地面と、逃げる足だけが写っていた。
「この振り向いている顔」
柚木が、写真の一点を指の背でそっと叩いた。
「二十年、歳を取らせてみろ」
拓海は、写真の中の若い男の顔を見つめた。細めた目。張った顎。日に焼けた額。そこに二十年分の肉と脂を乗せ、仕立てのいいポロシャツを着せた。
「……松本だ」
声が掠れた。
「松本健太。高瀬興産の専務。旅館の裏で、僕に『掘ってはいけない土がある』と言った男です」
「そうだ。二十年前は、高瀬興産の現場の若い衆だった男だ。工事記録も出た。火事の一か月前、倉庫の改修に入っていた業者は高瀬興産。ガス配管の再接続をやった作業員の名簿に、松本健太の名前がある」
柚木は、写真を並べ直した。
「絵が見えてきたな。松本は配管をしくじった。倉庫はガス漏れを起こしていた。谷村さんは臭い臭いと言い続けていた。そして八月六日の晩、祭りのどさくさの中でとうとう火が出た。過失だ。過失だが、死人が出た。会社の看板と、高瀬の家の名前に傷が付く。……そこで誰かが、火付けの子どもを一人、拵えることにしたんだ」
「このカメラを落とした人は、誰なんですか。火事の晩、倉庫の裏で松本が配管を触っているところを撮った人がいる。この人は、何もかも見ていたことになります」
「そこだ」
柚木は頷いた。それから、最初の数枚の祭りの写真をもう一度、順に並べ直した。
「答えはな、三雲、たぶんこちら側に写っている」
柚木の指が、一枚の上で止まった。
屋台の並ぶ通り。裸電球の下で、鉢巻きを締めた男が一人、照れたように笑って、こちらに手を挙げている写真だった。日焼けした、人の好さそうな顔。
拓海は、その顔を知っていた。仏間の遺影で、同じ笑い方をしていた。
「……谷村幸治さんだ」
「そうだ。祭りの晩、倉庫の番に立つ亭主を通りで撮った人間がいる。こんな照れた顔は、家の者にしか向けない顔だ。……このカメラは、谷村の家のカメラだ」
その日の夕方、二人はもう一度、谷村美砂子の家の仏間に座っていた。
柚木は何も言わずに、復元された写真を一枚ずつ卓の上に並べた。祭りの通り。屋台。そして、鉢巻き姿で照れ笑いする谷村幸治。
美砂子は、その一枚を見た瞬間、両手で口を覆った。
「……ああ」
声は、それきりしばらく出てこなかった。
「このカメラは、あなたのですね」
柚木が、静かに訊いた。美砂子は、写真から目を離さないまま頷いた。
「うちのです。あの晩、なくしたんです。……この写真、私が撮りました。主人の最後の写真です。撮った覚えはあるのに、カメラごとなくなって、二十年、この顔を思い出の中でしか見られなかった」
「聞かせてもらえますか。カメラをどこでなくしたのかを」
美砂子は、長いこと膝の上の手を握ったり開いたりしていた。それから、観念したように話し始めた。
「八時過ぎでした。主人に夜食を届けに倉庫へ行ったんです。表にいなかったから、裏へ回りました。そうしたら……裏の、配管のところに人がかがんでいたんです。作業服の若い男の人が。こんな時間に工事かしら、と思って、私は手に持っていたカメラを構えてしまったんです。祭りの晩で、写す癖がついていて。……フラッシュが光りました。男の人が振り向きました。私は怖くなって、カメラを落として逃げました」
「なぜ、怖かったんです」
「……高瀬興産の人だとわかったからです。配管の工事のことで、主人が役場に文句を言うと言っていた矢先でしたから。見てはいけないものを見た、と体が先にわかったんです」
美砂子は、写真の中の夫の顔を、指の先でそっと撫でた。
「家へ逃げ帰って、一時間もしないうちに半鐘が鳴りました。……倉庫が燃えている、と。私は走りながら、ずっと思っていました。あのとき、私が大きい声を出していたら。あの男の人に、何をしているんですか、と言えていたら。カメラを落とさずに、誰かに見せていたら。……主人は死なずに済んだんじゃないか、と」
「その晩のうちに、高瀬が来た」
「はい。前にお話しした通りです。谷村の管理責任だ、補償だ、と。……私はあの晩、倉庫の裏で見たことを言い出せませんでした。言えば、あんたの見間違いだ、亭主の管理が悪かった話にするぞ、と、そういう話にされる。それが、目を見たらわかりました。そして次の日には浩太が疑われて……私は二重に黙ったんです。見たことにも蓋をして、あの子にも蓋をさせて。二十年、二重の蓋の上に座って生きてきたんです」
仏間は静かだった。線香の煙だけが、まっすぐに立ちのぼっていた。
「谷村さん」
柚木は、写真を証拠品袋に戻さず、一枚だけ卓の上に残した。鉢巻きの、照れ笑いの一枚だった。
「これは複製を作って、原本の手続きが済んだらお返しします。ご主人の最後の写真は、警察の倉庫ではなく、この仏間にあるべきものです」
「……刑事さん」
「それと、もう一つ」
柚木は、鞄からもう一枚の紙を出した。鑑定を終えた、浩太の手記の写しだった。
「河川敷の土の中から、これが出ました。二十年前に浩太さんが埋めた手紙です。……あなたの話が出てきます。読んでください」
美砂子は、読んだ。
――高瀬の人たちが、俺がやったことにするつもりだと、谷村のおばさんが教えてくれた。おっちゃんの名前を守るためだ、と。
そこまで読んで、美砂子は写しを持ったまま、深く頭を垂れた。
「……恨んでいないのですね。この子は、私を」
「恨むどころか」
柚木は、静かに言った。
「この手記のどこを探しても、あなたを責める言葉は一文字もない。あの子にとって、あなたの言葉は罠ではなく、恩人の名前を守る役目だった。十六の子どもは、その役目を二十年、勤め上げたんです。……あなたが二十年座ってきた蓋は、谷村さん、今日でもう要りません」
美砂子は、手記の写しと夫の写真とを順に見た。それから仏壇の遺影を見上げて、絞り出すように言った。
「お父さん。……浩太は、いい子でしたね。私たちの、自慢の子でしたね」
遺影は、写真と同じ顔で笑っていた。
帰り際、美砂子は玄関先で、思い切ったように言った。
「刑事さん。一つ、お願いがあるんです。……あの鉋。あの子の鉋です。お骨が初枝さんのところに帰って、納骨が済んだら、あの鉋をあの子の墓に一緒に入れていただけないでしょうか。初枝さんさえ、よければ」
「なぜです」
訊いたのは拓海だった。美砂子は、少し笑った。
「大工がね、刑事さん、道具なしで向こうへ行ったら仕事になりませんでしょう。あちらには主人がおります。二十年も待たせたのだから、着いたらすぐ親方の現場に入らなければなりません。……手ぶらで行かせたら、主人に叱られます」
拓海は、返事の代わりに深く頭を下げた。この人たちの中で、死は終わりではないのだった。向こうにも現場があり、親方が待っていて、弟子が鉋を持って向かう。そういう世界の絵を、この夏、自分は何枚も見せてもらっている。
署に戻る道すがら、拓海は助手席の柚木に訊いた。
「松本は、二十年前、なぜ逃げたり自首したりしなかったんでしょう。写真を撮られたことはわかっていたはずです。いつばれるかわからない爆弾を抱えて、二十年、あの町にいた」
「逃げられんのだ、ああいう立場の男は」
柚木は、窓の外の田んぼを見ながら言った。
「逃げたら、認めたことになる。自首したら、高瀬を売ることになる。高瀬を売ったら、この町では生きていけない。……そして何より、三雲。あの男はたぶん、罰を待っている。罰されない罪ほど重くなる罪はない。二十年、誰も松本を罰してやらなかった。だから写真を突きつけられた日には、あの男は案外あっさり口を割るだろう。やっと荷物を降ろせる、と思ってな」
「高瀬は、どうなんでしょう。同じように待っているんでしょうか」
「あちらはな」
柚木は、少し考えてから言った。
「あちらは、荷物だとは思っていない。経費だと思っている。……だから、あちらのほうが手強い」
高瀬側の動きは、こちらの想定より早かった。
翌々日の未明、河川敷の発掘現場の跡に、作業服の男が二人現れた。埋め戻された穴をもう一度掘り返そうとしたのである。証拠がまだ土の中にあると思い込んだのだ。何が掘り出されたのかを警察が公表していなかったから、無理もなかった。
張り込んでいた城見署員が、二人をその場で取り押さえた。二人は高瀬興産の社員で、「松本専務に、埋まっているものを全部引き上げて処分しろと言われた」と、あっさり供述した。
証拠隠滅の教唆である。二十年前の火災そのものはとうに時効だが、木戸浩太の変死をめぐる捜査は現に動いている。その捜査の証拠を消させようとしたのは、二十年前の罪ではなく、今年の罪だった。
逮捕状が出た朝、松本健太は高瀬興産の社屋から出てきたところで、柚木と拓海の前で足を止めた。
「……あんたか」
松本は、拓海を見て吐き捨てるように言った。
「あの晩、素直に言うことを聞いていたら、あんたも楽だったのに」
「松本さん」
拓海は、逮捕状を読み上げる前に一つだけ言った。
「二十年前の八月六日の晩、倉庫の裏であなたを撮った写真があります。あなたはあの晩からずっと、いつか誰かがあの写真を見つける日が来ると思って生きてきたんじゃないですか。……長かったですね」
松本の顔から、初めてあの余裕が剥がれた。剥がれた下から出てきたのは、脅しの顔ではなく、二十年、眠りの浅かった男の疲れた顔だった。
「……ガス管だ」
連行の車の中で、松本は誰に訊かれるでもなく、ぽつりと言った。
「俺がしくじったガス管だ。火は、俺はつけていない。つけていないが……漏れているのはわかっていた。高瀬さんに言ったら、盆の工事は金がかかる、九月に直せ、それまで黙っていろ、と。……だからあの火事はな、俺と高瀬が二人でつけたようなものなんだ」
拓海は、バックミラー越しに松本の顔を見た。
「その話、調書に取らせてもらいます」
「……ああ。取ってくれ」
松本は、目を閉じた。
「二十年、誰かに取ってほしかった話だ」

