河川敷へ行く前に、二人は一度旅館へ戻った。日が完全に落ちてから動く、というのが柚木の判断だった。
「掘るにしても、令状の手配が要る。今晩はまず、場所の確認だけだ」
柚木は旅館の部屋で県警本部に電話を入れ、検証許可状の請求準備を頼んだ。それから、ゆっくりと茶を淹れた。こういうときの柚木は急がない。急がないことで、何かを整えているように見えた。
拓海は、窓の外の駐車場を見るともなしに見ていた。そして、気づいた。
「柚木さん。あの車、昼からずっといます」
旅館の駐車場の外れに、灰色のセダンが一台、頭から突っ込んで停まっていた。運転席に男が一人。エンジンは切っている。だが、降りる気配もない。
「ほう」
柚木は、湯呑みを持ったまま窓辺に立った。カーテンの陰から、一瞥しただけだった。
「昼から、じゃないな。昨日の夕方からだ」
「気づいてたんですか」
「気づいていた。ナンバーも控えてある。町の者の車じゃない。隣の市の、高瀬興産という会社のリース車だ」
拓海は、思わず柚木の顔を見た。
「高瀬って……町議の」
「そうだ。高瀬昭悟。最初の晩に、役場で我々を迎えてくれたあの人だ。町議で、建設会社の会長で、この町の仕事はだいたい高瀬興産を通っていく。……宮本知也さんに『老婆心』の電話をかけてきたのも、あの人だったな」
「なぜ、僕らを見張るんですか」
「さあな」
柚木は、茶を一口飲んだ。
「見張られて困ることは、我々には何もない。だから見張らせておけばいい。……ただな、三雲。一つだけ頭に入れておけ。二十年前の火事の噂の出どころを、俺はずっと考えている。『木戸の子が火をつけた』という話は、火事の三日後に町中へ一斉に広がっている。噂というのは普通、水が染みるようにじわじわ広がるものだ。一斉に広がる噂は、噂じゃない。意図的におこなわれた事だ」
「誰かが、意図的に...」
「意図のある人間は、この町には当時から一人しかいない」
柚木は、それ以上は言わなかった。湯呑みを置いて、上着を取った。
「河川敷は明日の朝にしよう。今晩あの車の前で掘りに行くのは、手の内を見せに行くようなものだ。今日はもう寝ろ」
夕食のあと、拓海は一人で旅館の裏の川端を歩いた。
考えを整理したいときに歩くのは、この夏に柚木から移った癖だった。川面には今夜も蛍が出ていた。数は、来たばかりの頃より目に見えて減っていた。七月が終わろうとしているのだった。
二十年前の夏も、と拓海は思った。この光の下を、十六歳の少年が夜通し歩いたのだ。火傷の手に包帯を巻き、たった一人で。あの晩の浩太の耳に、この川の音はどう聞こえていたのだろう。
土手の上から、木戸の家の方角に小さな灯りが見えた。初枝の家の、居間の灯りだった。提灯の白は闇の中では見えない。それでも、あの軒先にあれが吊るされていることを、拓海はもう知っていた。
――憎むのに使う力を、待つほうに回していたんです。
初枝の言葉が、川音に混じって戻ってきた。この事件が終わったら、と拓海は思った。終わったら、自分はあの言葉を一生持って歩くことになるだろう。刑事の持ち物は手帳と拳銃だけではないのだと、この町に教わっていた。
だが、その晩、拓海は眠れなかった。
十一時を過ぎて、自動販売機で水でも買おうと旅館の裏口を出たとき、暗がりから声をかけられた。
「三雲さん、だったな。県警の」
街灯の下に、男が立っていた。四十代半ば。がっしりした体に、仕立てのいいポロシャツ。日に焼けた顔が笑っていた。目は笑っていなかった。
「どちら様ですか」
「高瀬興産の松本といいます。専務をやらせてもらっています」
男は、名刺を差し出した。松本健太。拓海は受け取らなかった。受け取らないまま、相手の顔と名刺を順に記憶した。
「こんな時間に、何のご用ですか」
「いや、用というほどのことじゃないんです。ご苦労さんだなあ、と思いましてね」
松本は、名刺を引っ込めて胸ポケットに戻した。その仕草にまで余裕があった。
「暑い中、よその町まで来て、二十年も前の火事やら川の流れやらを掘り返して回って。ご苦労なことだ。……だけど三雲さん、あんた、若いのに知らないんだなあ。掘っていい土と、掘ってはいけない土が、世の中にはあるんだよ」
「掘ってはいけない土というのは、どこの土ですか」
拓海は、静かに訊いた。声が震えないように、腹に力を入れた。
「たとえば、河川敷とかですか」
松本の目が、一瞬だけ動いた。ほんの一瞬だった。だが、その一瞬を拓海は見た。
「……何の話だ」
「いえ。たとえば、の話です」
「兄ちゃん」
松本は、一歩、間合いを詰めた。街灯の光が、男の顔に濃い影を作った。
「俺はな、親切で言ってるんだ。あんた、県警に入って何年だ。これからだろう。出世もしたいだろう。この町にはな、県議の先生も、本部のお偉いさんもよく出入りしている。あんたの名前がいいほうに聞こえるか、悪いほうに聞こえるか。そんなものはどうにでもなるんだよ」
「それは」
拓海は、息を一つ吸った。
「僕を脅しているんですか。それとも、買収しているんですか。調書に書きますので、どちらか教えてもらえますか」
沈黙があった。川の音だけが、暗がりを流れていった。
やがて松本は、ふっと笑って体を引いた。
「……冗談も通じない子だな。ご苦労さん。おやすみ」
男は、灰色のセダンに乗り込んで去っていった。テールランプが見えなくなるまで、拓海は動けなかった。動けるようになってから、自分の手が汗で濡れていることに気づいた。
部屋に戻ると、柚木が起きて待っていた。
「顔色で、だいたいわかる。誰が来た」
「高瀬興産の松本という専務です。会話は全部覚えています」
拓海は、一言一句を再現した。手帳も見ずに言えた。あの数分間は、体に刻まれていた。
柚木は腕を組んで、最後まで聞いた。
「……上出来だ」
「え」
「『調書に書くのでどちらか教えてくれ』。あれで向こうは引いた。脅しというのはな、三雲、記録されることに一番弱い。闇の中でしか生きられない生きものだからだ」
柚木は、それから真顔になった。
「だが、これではっきりした。あんたが河川敷と口にしたとき、あの男の目が動いた。掘られたら困るものがあそこにあることを、向こうは二十年間、知っていたんだ。……そして今夜、こちらがそこに目をつけたことを、向こうも知った」
「明日の朝、掘るんですね」
「いや」
柚木は、首を振った。
「今晩中に掘る。令状は、ついさっき裁判所から下りた。夜のうちに済ませないと、明日の朝には河川敷に重機が入るぞ。『護岸工事』か何かの名目でな。……向こうが手を打つ前に動く」
柚木は、上着を着た。
「城見署に応援を頼んである。投光器と、スコップと、それから鑑識。三十分後に河川敷で落ち合う。……三雲、眠いか」
「いえ」
拓海は、即座に立ち上がった。
「目が冴えています」
「よろしい」
柚木は、少しだけ笑った。
「二十年ものの土産を、掘り出しに行こう」
河川敷へ向かう車の中で、拓海はハンドルを握る自分の手がまだ強張っているのに気づいていた。松本の声が耳に残っていた。あんたの名前がいいほうに聞こえるか、悪いほうに聞こえるか。
「三雲。緊張しているな」
「……すみません」
「結構なことだ。脅されて平気になったら、刑事はおしまいだ」
柚木は、助手席でのんびりと腕を組んでいた。
「俺も若い頃に一度、偉い人に呼ばれてな。君の将来のために言っておく、あの筋の捜査はほどほどにな、と。丁寧な言葉で二十分。茶まで出た」
「……どうしたんですか」
「茶だけご馳走になって帰った。それから、捜査は続けた」
「それで、どうなったんです」
「出世が五年ほど遅れたな」
柚木は、こともなげに言った。
「だがな、三雲。あのとき捜査をやめていたら、遅れたのは出世じゃなく、俺の性根のほうだった。性根の遅れは取り返しがきかない」
フロントガラスの向こうに、河川敷の投光器の白い光が見えてきた。拓海の手から、いつの間にか強張りが抜けていた。
「掘るにしても、令状の手配が要る。今晩はまず、場所の確認だけだ」
柚木は旅館の部屋で県警本部に電話を入れ、検証許可状の請求準備を頼んだ。それから、ゆっくりと茶を淹れた。こういうときの柚木は急がない。急がないことで、何かを整えているように見えた。
拓海は、窓の外の駐車場を見るともなしに見ていた。そして、気づいた。
「柚木さん。あの車、昼からずっといます」
旅館の駐車場の外れに、灰色のセダンが一台、頭から突っ込んで停まっていた。運転席に男が一人。エンジンは切っている。だが、降りる気配もない。
「ほう」
柚木は、湯呑みを持ったまま窓辺に立った。カーテンの陰から、一瞥しただけだった。
「昼から、じゃないな。昨日の夕方からだ」
「気づいてたんですか」
「気づいていた。ナンバーも控えてある。町の者の車じゃない。隣の市の、高瀬興産という会社のリース車だ」
拓海は、思わず柚木の顔を見た。
「高瀬って……町議の」
「そうだ。高瀬昭悟。最初の晩に、役場で我々を迎えてくれたあの人だ。町議で、建設会社の会長で、この町の仕事はだいたい高瀬興産を通っていく。……宮本知也さんに『老婆心』の電話をかけてきたのも、あの人だったな」
「なぜ、僕らを見張るんですか」
「さあな」
柚木は、茶を一口飲んだ。
「見張られて困ることは、我々には何もない。だから見張らせておけばいい。……ただな、三雲。一つだけ頭に入れておけ。二十年前の火事の噂の出どころを、俺はずっと考えている。『木戸の子が火をつけた』という話は、火事の三日後に町中へ一斉に広がっている。噂というのは普通、水が染みるようにじわじわ広がるものだ。一斉に広がる噂は、噂じゃない。意図的におこなわれた事だ」
「誰かが、意図的に...」
「意図のある人間は、この町には当時から一人しかいない」
柚木は、それ以上は言わなかった。湯呑みを置いて、上着を取った。
「河川敷は明日の朝にしよう。今晩あの車の前で掘りに行くのは、手の内を見せに行くようなものだ。今日はもう寝ろ」
夕食のあと、拓海は一人で旅館の裏の川端を歩いた。
考えを整理したいときに歩くのは、この夏に柚木から移った癖だった。川面には今夜も蛍が出ていた。数は、来たばかりの頃より目に見えて減っていた。七月が終わろうとしているのだった。
二十年前の夏も、と拓海は思った。この光の下を、十六歳の少年が夜通し歩いたのだ。火傷の手に包帯を巻き、たった一人で。あの晩の浩太の耳に、この川の音はどう聞こえていたのだろう。
土手の上から、木戸の家の方角に小さな灯りが見えた。初枝の家の、居間の灯りだった。提灯の白は闇の中では見えない。それでも、あの軒先にあれが吊るされていることを、拓海はもう知っていた。
――憎むのに使う力を、待つほうに回していたんです。
初枝の言葉が、川音に混じって戻ってきた。この事件が終わったら、と拓海は思った。終わったら、自分はあの言葉を一生持って歩くことになるだろう。刑事の持ち物は手帳と拳銃だけではないのだと、この町に教わっていた。
だが、その晩、拓海は眠れなかった。
十一時を過ぎて、自動販売機で水でも買おうと旅館の裏口を出たとき、暗がりから声をかけられた。
「三雲さん、だったな。県警の」
街灯の下に、男が立っていた。四十代半ば。がっしりした体に、仕立てのいいポロシャツ。日に焼けた顔が笑っていた。目は笑っていなかった。
「どちら様ですか」
「高瀬興産の松本といいます。専務をやらせてもらっています」
男は、名刺を差し出した。松本健太。拓海は受け取らなかった。受け取らないまま、相手の顔と名刺を順に記憶した。
「こんな時間に、何のご用ですか」
「いや、用というほどのことじゃないんです。ご苦労さんだなあ、と思いましてね」
松本は、名刺を引っ込めて胸ポケットに戻した。その仕草にまで余裕があった。
「暑い中、よその町まで来て、二十年も前の火事やら川の流れやらを掘り返して回って。ご苦労なことだ。……だけど三雲さん、あんた、若いのに知らないんだなあ。掘っていい土と、掘ってはいけない土が、世の中にはあるんだよ」
「掘ってはいけない土というのは、どこの土ですか」
拓海は、静かに訊いた。声が震えないように、腹に力を入れた。
「たとえば、河川敷とかですか」
松本の目が、一瞬だけ動いた。ほんの一瞬だった。だが、その一瞬を拓海は見た。
「……何の話だ」
「いえ。たとえば、の話です」
「兄ちゃん」
松本は、一歩、間合いを詰めた。街灯の光が、男の顔に濃い影を作った。
「俺はな、親切で言ってるんだ。あんた、県警に入って何年だ。これからだろう。出世もしたいだろう。この町にはな、県議の先生も、本部のお偉いさんもよく出入りしている。あんたの名前がいいほうに聞こえるか、悪いほうに聞こえるか。そんなものはどうにでもなるんだよ」
「それは」
拓海は、息を一つ吸った。
「僕を脅しているんですか。それとも、買収しているんですか。調書に書きますので、どちらか教えてもらえますか」
沈黙があった。川の音だけが、暗がりを流れていった。
やがて松本は、ふっと笑って体を引いた。
「……冗談も通じない子だな。ご苦労さん。おやすみ」
男は、灰色のセダンに乗り込んで去っていった。テールランプが見えなくなるまで、拓海は動けなかった。動けるようになってから、自分の手が汗で濡れていることに気づいた。
部屋に戻ると、柚木が起きて待っていた。
「顔色で、だいたいわかる。誰が来た」
「高瀬興産の松本という専務です。会話は全部覚えています」
拓海は、一言一句を再現した。手帳も見ずに言えた。あの数分間は、体に刻まれていた。
柚木は腕を組んで、最後まで聞いた。
「……上出来だ」
「え」
「『調書に書くのでどちらか教えてくれ』。あれで向こうは引いた。脅しというのはな、三雲、記録されることに一番弱い。闇の中でしか生きられない生きものだからだ」
柚木は、それから真顔になった。
「だが、これではっきりした。あんたが河川敷と口にしたとき、あの男の目が動いた。掘られたら困るものがあそこにあることを、向こうは二十年間、知っていたんだ。……そして今夜、こちらがそこに目をつけたことを、向こうも知った」
「明日の朝、掘るんですね」
「いや」
柚木は、首を振った。
「今晩中に掘る。令状は、ついさっき裁判所から下りた。夜のうちに済ませないと、明日の朝には河川敷に重機が入るぞ。『護岸工事』か何かの名目でな。……向こうが手を打つ前に動く」
柚木は、上着を着た。
「城見署に応援を頼んである。投光器と、スコップと、それから鑑識。三十分後に河川敷で落ち合う。……三雲、眠いか」
「いえ」
拓海は、即座に立ち上がった。
「目が冴えています」
「よろしい」
柚木は、少しだけ笑った。
「二十年ものの土産を、掘り出しに行こう」
河川敷へ向かう車の中で、拓海はハンドルを握る自分の手がまだ強張っているのに気づいていた。松本の声が耳に残っていた。あんたの名前がいいほうに聞こえるか、悪いほうに聞こえるか。
「三雲。緊張しているな」
「……すみません」
「結構なことだ。脅されて平気になったら、刑事はおしまいだ」
柚木は、助手席でのんびりと腕を組んでいた。
「俺も若い頃に一度、偉い人に呼ばれてな。君の将来のために言っておく、あの筋の捜査はほどほどにな、と。丁寧な言葉で二十分。茶まで出た」
「……どうしたんですか」
「茶だけご馳走になって帰った。それから、捜査は続けた」
「それで、どうなったんです」
「出世が五年ほど遅れたな」
柚木は、こともなげに言った。
「だがな、三雲。あのとき捜査をやめていたら、遅れたのは出世じゃなく、俺の性根のほうだった。性根の遅れは取り返しがきかない」
フロントガラスの向こうに、河川敷の投光器の白い光が見えてきた。拓海の手から、いつの間にか強張りが抜けていた。

