七月の第三日曜日の早朝、河川敷の工事用フェンスの内側に、軽トラックが一台停まっていた。休みの現場へ資材を取りに来た男が、積み荷を整理していて、見慣れないものを見つけた。
川の中だった。白い足。その先に、濃紺の上着。
男は最初、流れ着いた古着だと思ったという。近づいて、悲鳴を上げた。
警察が到着したのは、通報から四十分後だった。県警捜査一課の柚木は、現場に着くなり河原の泥に膝をつき、死体の顔を覗き込んだ。三十代後半の男。長く陽と風に晒された者に特有の、深い皺が刻まれていた。両手には古い傷痕があった。火傷の痕だ。手の甲から前腕にかけて、網の目のように広がっていた。
「身元の手がかりは、今のところなしです。所持品は古い地図が一枚。防水の袋に入っていました。それだけです」
若い相棒の三雲拓海が、上流を見ながら言った。
「何か、わかりますか」
柚木は立ち上がり、両手の古い傷をもう一度眺めた。
「火だな」
拓海も、その痕には気づいていた。
「ええ。かなり古いものに見えます」
「二十年、いや、それ以上は経っている。若い頃に負ったものだ」
遺体は県立医療センターに運ばれた。法医学の鑑定は、翌日の午後に出た。
死因は、致死性不整脈による心停止。溺死ではなかった。おそらく川べりで発作を起こし、そのまま水に落ちたのだろうと検案医は言った。肺に水はほとんど入っていない。水に入る前に、心臓が止まっていたことになる。死亡推定時刻は三、四日前の夜間。七月十五日の夜から、十六日の夜明け前までと判断された。
鑑定の出た日の夕方、柚木は霊安室に足を運んだ。本来なら、もう行く用のない場所だった。
白い布の下から男の右手だけを出して、長いこと眺めた。火傷の痕の上に、別の歴史が重なっていた。掌の付け根の分厚い胼胝。金槌を握り続けた者の胼胝だ。指の節は太く、爪は短く切り揃えられ、深爪一つなかった。
「三雲。この手を見ろ」
「火傷の痕ですか」
「いや。爪だ」
柚木は、男の指先をそっと布の下に戻した。
「身元の割れない仏を、俺は何人も見てきた。暮らしが荒れれば、爪は正直に崩れる。だがこの男の爪は、死ぬ前日まで手入れされていた。名前を捨てても、暮らしまでは捨てなかったということだ。……どこの誰かは知らんが、この男はどこかで、まっとうに働いて生きてきた」
拓海は、手帳に「爪」と一文字だけ書いた。何の証拠にもならない観察だった。だが後になって思えば、この事件のすべてが、この一文字から始まっていた。
三雲拓海は、県警捜査一課に上がって二年目である。
刑事を志したのは、二十五年前に死んだ兄の慎吾のことがあったからだった。中学二年、十四歳だった兄は、二月の夕方、校舎の屋上から落ちて死んだ。拓海は四歳で、兄の顔も声も、もう自分では思い出せない。
事故だ、の一言では片がつかなかった。教師が突き落としたということになり、その男が七年服役して、それで終わった話になっていた。嘘だったとわかったのは、二十五年経ってからだ。子どもの拓海が兄のことを何か訊いても、母は仏壇の前で口をつぐみ、記録はとうに閉じていて、大人は誰一人、最後まで聞いてはくれなかった。あのとき欲しかったのは犯人ではなく、話を終わりまで聞く人間だった。二十五年目に、それをやる刑事が一人だけいた。
兄が遺した青いビー玉は、いまも実家の仏壇の抽斗にある。これは自分のものだと胸を張れる仕事をした日に返してもらう、と母に預けたきり、まだ取りに行っていない。そのことを、一課の誰にも言っていない。
検案医は、報告書の余白に書けなかった所見を一つ、口頭で付け加えた。
「刑事さん。この心臓は、拡張型心筋症の末期の姿です。直接の死因はそこから来た不整脈でしょうが、よくここまでもったというのが正直なところです。心臓の状態から見て、相当前から階段を上るのも辛かったはずです。それがこの下肢の筋肉です。矛盾しています。動けば死ぬ体で、直前まで山道でも歩いていたような脚をしている」
「無理をして歩き続けていた、ということですか」
「医学的には、そうなります。人間的には……よほどの用事があったんでしょうな」
身元は、なかなか割れなかった。全国の指紋データベースを照合しても該当がなかった。運転免許も健康保険も、この男の名前を知らなかった。三十六、七年を生きた人間が、書類の上ではどこにも存在していなかった。
県警本部三階の捜査室で、柚木は鑑定結果の報告書を読みながら茶を飲んでいた。
「まだ身元不明ですか」
拓海が言った。
「ああ」
柚木は報告書のページを繰った。
「だがな、三雲。人間は、名前を持たずに三十何年も生きられるものじゃない。名前を持たずに生きる——それには、相当な覚悟がいる」
「覚悟、ですか」
「逃げていたのか、隠れていたのか。どちらにしても理由がある」
その理由の端緒は、七月二十三日に一本の電話でもたらされた。かけてきたのは、県北部の城見町で教育委員会に勤める職員だった。新聞の記事を見た、身元不明の男の両手に火傷の痕があると書いてあった、それで思い出したことがある、という電話だった。
「二十年前に、うちの町で火事があったんです。夏祭りの夜に、河川敷の倉庫が焼けました。人が一人、亡くなっています。そのとき、火をつけたと疑われた少年がいて――その夜のうちに、町からいなくなりました。その子は、火の中で両手に火傷を負っていたはずです」
「その火事は、何年前です」
電話を代わった柚木が訊いた。
「二十年前です。平成十八年の八月。夏祭りの夜でした」
受話器を置いて、柚木はしばらく黙っていた。
「二十年前の八月の火事。両手の火傷。そして今年の七月、その町を流れる川の、下流で死んでいた男」
「偶然にしては、できすぎていますね」
「できすぎた話には、たいてい人間の意思が入っている」
柚木と拓海は、その日の夕方、城見町へ車を走らせた。
町は静かだった。山あいの小さな町。川沿いに民家が数十軒。田んぼと、柑橘の畑。駅はなく、バスは一日に六本。七月下旬の夜、川べりを走ると、水面の上に小さな緑の光が点々と舞っていた。蛍だった。
「まだいるんだな」
柚木が呟いた。
「今年は遅いんだそうです。七月の頭が雨続きだったから」
役場で待っていたのは、電話をくれた職員ではなく、町議の高瀬昭悟という男だった。連絡を聞いて駆けつけたのだという。五十代半ば。恰幅がよく、名刺には建設会社の会長の肩書きも刷られていた。
「二十年前の火事は、夏祭りの夜に起こったんです。河川敷の倉庫が焼けました。祭りの備品や屋台を置いてあった倉庫です」
「亡くなったのは」
「青年団の谷村幸治さん。三十八歳の大工でした。その晩、倉庫の管理を任されていた人です」
メモを取っていた拓海が、手を止めて顔を上げた。
「出火の原因は」
「当時の調べでは、倉庫内の配線の漏電ということになりました。ですから、正式には放火ではありません。事故です」
高瀬は、そこで一呼吸置いた。
「ただ、町の中で噂が立ったんです。火が出たとき、倉庫の中に一人の少年がいた。あの子がつけたんじゃないか、と。その少年は、その夜のうちに町を出ました。二十年、戻ってきていません」
「名前は」
「木戸浩太。当時十六歳です。父親はなく、母親と二人暮らしでした。……正直に申し上げて、弱い立場の子でした」
柚木は静かに聞いていた。
「その子が、死体で帰ってきた、と」
「可能性がある、ということです。両手の火傷は、あの子が火の中から屋台にいた子どもを担ぎ出したときのものだと聞いています。時期も合う。ただ、確実なところは」
「わかっています」
柚木は湯呑みを置いて立ち上がった。
「身元はこちらで確認します。母親がご存命なら、型の照合ですぐに出る。そのうえで――少し、町の話を聞かせてもらいたい。二十年前の夏、この町で何があったのかを」
役場を出ると、とうに日が暮れていた。高瀬の案内で、二人は河川敷まで歩いた。焼けた倉庫は建て替えられ、新しいコンクリートの建物が川沿いに建っていた。そのすぐ横に、木組みの櫓があった。夏祭りの盆踊りに使うのだという。
「火事の後、警察の捜査はどうなったんです」
「出火原因は配線の漏電、事件性なし。それで処理されたはずです。ただ、その後も町の中では、放火ではないか、あの子ではないか、という噂だけがずっと残りました」
「木戸浩太が町を出たのは、火事の当日ですか」
「当日の夜です。翌朝には、もういませんでした」
柚木は、新しい倉庫を眺めた。
「二十年で、噂は消えましたか」
「消えませんよ」
高瀬は即答した。それから、失言に気づいたように目を伏せた。
「……人が一人、死んでいますから。町の人間の多くは、今でもあの子を恨んでいると思います。子どもの頃にそう聞かされて育った者は、疑いもしない。それが二十年です」
柚木は川を見つめた。
七月下旬の川の上に、蛍がまだ舞っていた。小さな緑の光が、五十キロ下流であの男が見つかった、その同じ川の上を、音もなく行き来していた。
「母親は」
「初枝さんという方です。まだ町に住んでおられます。ただ、」
高瀬は言葉を選んだ。
「ずっと、お一人で耐えてきた方です」
拓海が、柚木の横に立った。
「会いに行くんですね」
「ああ」
柚木は、夜の川を見ながら小さく頷いた。
「確認だけが、俺の仕事だ」
川の中だった。白い足。その先に、濃紺の上着。
男は最初、流れ着いた古着だと思ったという。近づいて、悲鳴を上げた。
警察が到着したのは、通報から四十分後だった。県警捜査一課の柚木は、現場に着くなり河原の泥に膝をつき、死体の顔を覗き込んだ。三十代後半の男。長く陽と風に晒された者に特有の、深い皺が刻まれていた。両手には古い傷痕があった。火傷の痕だ。手の甲から前腕にかけて、網の目のように広がっていた。
「身元の手がかりは、今のところなしです。所持品は古い地図が一枚。防水の袋に入っていました。それだけです」
若い相棒の三雲拓海が、上流を見ながら言った。
「何か、わかりますか」
柚木は立ち上がり、両手の古い傷をもう一度眺めた。
「火だな」
拓海も、その痕には気づいていた。
「ええ。かなり古いものに見えます」
「二十年、いや、それ以上は経っている。若い頃に負ったものだ」
遺体は県立医療センターに運ばれた。法医学の鑑定は、翌日の午後に出た。
死因は、致死性不整脈による心停止。溺死ではなかった。おそらく川べりで発作を起こし、そのまま水に落ちたのだろうと検案医は言った。肺に水はほとんど入っていない。水に入る前に、心臓が止まっていたことになる。死亡推定時刻は三、四日前の夜間。七月十五日の夜から、十六日の夜明け前までと判断された。
鑑定の出た日の夕方、柚木は霊安室に足を運んだ。本来なら、もう行く用のない場所だった。
白い布の下から男の右手だけを出して、長いこと眺めた。火傷の痕の上に、別の歴史が重なっていた。掌の付け根の分厚い胼胝。金槌を握り続けた者の胼胝だ。指の節は太く、爪は短く切り揃えられ、深爪一つなかった。
「三雲。この手を見ろ」
「火傷の痕ですか」
「いや。爪だ」
柚木は、男の指先をそっと布の下に戻した。
「身元の割れない仏を、俺は何人も見てきた。暮らしが荒れれば、爪は正直に崩れる。だがこの男の爪は、死ぬ前日まで手入れされていた。名前を捨てても、暮らしまでは捨てなかったということだ。……どこの誰かは知らんが、この男はどこかで、まっとうに働いて生きてきた」
拓海は、手帳に「爪」と一文字だけ書いた。何の証拠にもならない観察だった。だが後になって思えば、この事件のすべてが、この一文字から始まっていた。
三雲拓海は、県警捜査一課に上がって二年目である。
刑事を志したのは、二十五年前に死んだ兄の慎吾のことがあったからだった。中学二年、十四歳だった兄は、二月の夕方、校舎の屋上から落ちて死んだ。拓海は四歳で、兄の顔も声も、もう自分では思い出せない。
事故だ、の一言では片がつかなかった。教師が突き落としたということになり、その男が七年服役して、それで終わった話になっていた。嘘だったとわかったのは、二十五年経ってからだ。子どもの拓海が兄のことを何か訊いても、母は仏壇の前で口をつぐみ、記録はとうに閉じていて、大人は誰一人、最後まで聞いてはくれなかった。あのとき欲しかったのは犯人ではなく、話を終わりまで聞く人間だった。二十五年目に、それをやる刑事が一人だけいた。
兄が遺した青いビー玉は、いまも実家の仏壇の抽斗にある。これは自分のものだと胸を張れる仕事をした日に返してもらう、と母に預けたきり、まだ取りに行っていない。そのことを、一課の誰にも言っていない。
検案医は、報告書の余白に書けなかった所見を一つ、口頭で付け加えた。
「刑事さん。この心臓は、拡張型心筋症の末期の姿です。直接の死因はそこから来た不整脈でしょうが、よくここまでもったというのが正直なところです。心臓の状態から見て、相当前から階段を上るのも辛かったはずです。それがこの下肢の筋肉です。矛盾しています。動けば死ぬ体で、直前まで山道でも歩いていたような脚をしている」
「無理をして歩き続けていた、ということですか」
「医学的には、そうなります。人間的には……よほどの用事があったんでしょうな」
身元は、なかなか割れなかった。全国の指紋データベースを照合しても該当がなかった。運転免許も健康保険も、この男の名前を知らなかった。三十六、七年を生きた人間が、書類の上ではどこにも存在していなかった。
県警本部三階の捜査室で、柚木は鑑定結果の報告書を読みながら茶を飲んでいた。
「まだ身元不明ですか」
拓海が言った。
「ああ」
柚木は報告書のページを繰った。
「だがな、三雲。人間は、名前を持たずに三十何年も生きられるものじゃない。名前を持たずに生きる——それには、相当な覚悟がいる」
「覚悟、ですか」
「逃げていたのか、隠れていたのか。どちらにしても理由がある」
その理由の端緒は、七月二十三日に一本の電話でもたらされた。かけてきたのは、県北部の城見町で教育委員会に勤める職員だった。新聞の記事を見た、身元不明の男の両手に火傷の痕があると書いてあった、それで思い出したことがある、という電話だった。
「二十年前に、うちの町で火事があったんです。夏祭りの夜に、河川敷の倉庫が焼けました。人が一人、亡くなっています。そのとき、火をつけたと疑われた少年がいて――その夜のうちに、町からいなくなりました。その子は、火の中で両手に火傷を負っていたはずです」
「その火事は、何年前です」
電話を代わった柚木が訊いた。
「二十年前です。平成十八年の八月。夏祭りの夜でした」
受話器を置いて、柚木はしばらく黙っていた。
「二十年前の八月の火事。両手の火傷。そして今年の七月、その町を流れる川の、下流で死んでいた男」
「偶然にしては、できすぎていますね」
「できすぎた話には、たいてい人間の意思が入っている」
柚木と拓海は、その日の夕方、城見町へ車を走らせた。
町は静かだった。山あいの小さな町。川沿いに民家が数十軒。田んぼと、柑橘の畑。駅はなく、バスは一日に六本。七月下旬の夜、川べりを走ると、水面の上に小さな緑の光が点々と舞っていた。蛍だった。
「まだいるんだな」
柚木が呟いた。
「今年は遅いんだそうです。七月の頭が雨続きだったから」
役場で待っていたのは、電話をくれた職員ではなく、町議の高瀬昭悟という男だった。連絡を聞いて駆けつけたのだという。五十代半ば。恰幅がよく、名刺には建設会社の会長の肩書きも刷られていた。
「二十年前の火事は、夏祭りの夜に起こったんです。河川敷の倉庫が焼けました。祭りの備品や屋台を置いてあった倉庫です」
「亡くなったのは」
「青年団の谷村幸治さん。三十八歳の大工でした。その晩、倉庫の管理を任されていた人です」
メモを取っていた拓海が、手を止めて顔を上げた。
「出火の原因は」
「当時の調べでは、倉庫内の配線の漏電ということになりました。ですから、正式には放火ではありません。事故です」
高瀬は、そこで一呼吸置いた。
「ただ、町の中で噂が立ったんです。火が出たとき、倉庫の中に一人の少年がいた。あの子がつけたんじゃないか、と。その少年は、その夜のうちに町を出ました。二十年、戻ってきていません」
「名前は」
「木戸浩太。当時十六歳です。父親はなく、母親と二人暮らしでした。……正直に申し上げて、弱い立場の子でした」
柚木は静かに聞いていた。
「その子が、死体で帰ってきた、と」
「可能性がある、ということです。両手の火傷は、あの子が火の中から屋台にいた子どもを担ぎ出したときのものだと聞いています。時期も合う。ただ、確実なところは」
「わかっています」
柚木は湯呑みを置いて立ち上がった。
「身元はこちらで確認します。母親がご存命なら、型の照合ですぐに出る。そのうえで――少し、町の話を聞かせてもらいたい。二十年前の夏、この町で何があったのかを」
役場を出ると、とうに日が暮れていた。高瀬の案内で、二人は河川敷まで歩いた。焼けた倉庫は建て替えられ、新しいコンクリートの建物が川沿いに建っていた。そのすぐ横に、木組みの櫓があった。夏祭りの盆踊りに使うのだという。
「火事の後、警察の捜査はどうなったんです」
「出火原因は配線の漏電、事件性なし。それで処理されたはずです。ただ、その後も町の中では、放火ではないか、あの子ではないか、という噂だけがずっと残りました」
「木戸浩太が町を出たのは、火事の当日ですか」
「当日の夜です。翌朝には、もういませんでした」
柚木は、新しい倉庫を眺めた。
「二十年で、噂は消えましたか」
「消えませんよ」
高瀬は即答した。それから、失言に気づいたように目を伏せた。
「……人が一人、死んでいますから。町の人間の多くは、今でもあの子を恨んでいると思います。子どもの頃にそう聞かされて育った者は、疑いもしない。それが二十年です」
柚木は川を見つめた。
七月下旬の川の上に、蛍がまだ舞っていた。小さな緑の光が、五十キロ下流であの男が見つかった、その同じ川の上を、音もなく行き来していた。
「母親は」
「初枝さんという方です。まだ町に住んでおられます。ただ、」
高瀬は言葉を選んだ。
「ずっと、お一人で耐えてきた方です」
拓海が、柚木の横に立った。
「会いに行くんですね」
「ああ」
柚木は、夜の川を見ながら小さく頷いた。
「確認だけが、俺の仕事だ」

