かつて、この山に土地を守る月峰神がいたという。
その神は『懸けましくも畏き神』として恐れられ、同時に麓の村人達から深く途切れることのない信仰を集めていた。
その村ではごく稀に、人の身でありながら神の声をキくことの出来る少女が生まれた。
血筋か、はたまた偶然か。人の身に宿るその異才は、過酷な自然と共に生きる村にとっての宝であった。
『ああ、稀代の宝だ』
『ようやく現れた生き神様だ』
その少女は神の御心を聞き受け、村に神託として授けて人々を導いた。
故に村では、その神の子を『生き神』と呼び、月峰神と共に崇めたのだという———。
幼くして人の理から外れることになった彼女は、神職や村人によって蝶よ花よと大切に育てられ、いつしか十四の可愛らしい娘に育っていた。
✳✳✳
神の声をキき、人々に届ける。
それが私の、生き神として生まれた者の使命だ。
私――アンズは、物心がついた時から神の声がキこえていた。
この社から出たことがないから、外の世界のことをほとんど知らない。
境内から出ると神の力が失われてしまうと言われている。
だから、この社と境内が私の知る世界の全てだ。
毎朝、伝えられた神託を聞いた村の長は、深々と頭を下げて退出していく。
村人達の安堵した表情を見るたび、胸の奥が温かくなる。
私の言葉ひとつで、人々の暮らしが守られる。
この身に宿る特別な力は、村の命運そのものだった。
けれど、境内の向こう側へと去っていく人々を見送るたび、心のどこかで冷たい風が吹き抜けるのも事実だった。
あの鳥居の向こうには、一体どんな世界が広がっているのだろう?
聞いたこともない花が咲いているのだろうか。見たこともない空の色があるのだろうか。
「ねぇ、カタクリ。村の人はどうして、私をここから出してくれないのかな」
傍らで分厚い古書を開いていた少年――カタクリに視線を向ける。
私と同じように社で育った彼もまた、外の世界を知らないんだって。
カタクリは読破したばかりの本をパタンと閉じ、静かに私を見た。
夕闇が差し込む部屋で、その黄色の瞳の奥には影のような深い静けさが宿っている。
「もしも……もしもね。私がただの女の子だったら、あの鳥居の向こうを歩けていたのかな」
ぽつりと呟いた問いかけに、カタクリはすぐに答えなかった。
「私、この山もこの土地も好きだよ。みんなの役に立てるのも嬉しい。でも……」
胸の中に溜め込んでいた小さな願望が、ポロポロと零れ落ちそうになる。
「アンズ。……ここから出たいか?」
その問いに、私は言葉を詰まらせた。
「お前が本当に望むというのなら、オレはどんな手段を使ってでも力を貸してやる」
「っ……え?」
カタクリの言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。
いつも感情を表に出さず、ただ静かに私の傍らにいた彼が、まっすぐな瞳で私を見つめている。
「一度出れば、戻ることは許されない。それでも出たいか」
「……うん」
「分かった」
カタクリの返答は短かった。
「明日になれば村人が旅人を連れて来る。それまで待っていろ」
この土地に足を踏み入れた旅人には、神託を授ける決まりがある。
旅人に神託を授けるのはいつぶりだろう?
そして山に招かれたマレビトだった場合、神職達は社を離れ、それぞれの家にこもって身を清めなければならない。
――つまり明日は、社を囲む村人達の監視が最も薄くなる日だった。
その神は『懸けましくも畏き神』として恐れられ、同時に麓の村人達から深く途切れることのない信仰を集めていた。
その村ではごく稀に、人の身でありながら神の声をキくことの出来る少女が生まれた。
血筋か、はたまた偶然か。人の身に宿るその異才は、過酷な自然と共に生きる村にとっての宝であった。
『ああ、稀代の宝だ』
『ようやく現れた生き神様だ』
その少女は神の御心を聞き受け、村に神託として授けて人々を導いた。
故に村では、その神の子を『生き神』と呼び、月峰神と共に崇めたのだという———。
幼くして人の理から外れることになった彼女は、神職や村人によって蝶よ花よと大切に育てられ、いつしか十四の可愛らしい娘に育っていた。
✳✳✳
神の声をキき、人々に届ける。
それが私の、生き神として生まれた者の使命だ。
私――アンズは、物心がついた時から神の声がキこえていた。
この社から出たことがないから、外の世界のことをほとんど知らない。
境内から出ると神の力が失われてしまうと言われている。
だから、この社と境内が私の知る世界の全てだ。
毎朝、伝えられた神託を聞いた村の長は、深々と頭を下げて退出していく。
村人達の安堵した表情を見るたび、胸の奥が温かくなる。
私の言葉ひとつで、人々の暮らしが守られる。
この身に宿る特別な力は、村の命運そのものだった。
けれど、境内の向こう側へと去っていく人々を見送るたび、心のどこかで冷たい風が吹き抜けるのも事実だった。
あの鳥居の向こうには、一体どんな世界が広がっているのだろう?
聞いたこともない花が咲いているのだろうか。見たこともない空の色があるのだろうか。
「ねぇ、カタクリ。村の人はどうして、私をここから出してくれないのかな」
傍らで分厚い古書を開いていた少年――カタクリに視線を向ける。
私と同じように社で育った彼もまた、外の世界を知らないんだって。
カタクリは読破したばかりの本をパタンと閉じ、静かに私を見た。
夕闇が差し込む部屋で、その黄色の瞳の奥には影のような深い静けさが宿っている。
「もしも……もしもね。私がただの女の子だったら、あの鳥居の向こうを歩けていたのかな」
ぽつりと呟いた問いかけに、カタクリはすぐに答えなかった。
「私、この山もこの土地も好きだよ。みんなの役に立てるのも嬉しい。でも……」
胸の中に溜め込んでいた小さな願望が、ポロポロと零れ落ちそうになる。
「アンズ。……ここから出たいか?」
その問いに、私は言葉を詰まらせた。
「お前が本当に望むというのなら、オレはどんな手段を使ってでも力を貸してやる」
「っ……え?」
カタクリの言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。
いつも感情を表に出さず、ただ静かに私の傍らにいた彼が、まっすぐな瞳で私を見つめている。
「一度出れば、戻ることは許されない。それでも出たいか」
「……うん」
「分かった」
カタクリの返答は短かった。
「明日になれば村人が旅人を連れて来る。それまで待っていろ」
この土地に足を踏み入れた旅人には、神託を授ける決まりがある。
旅人に神託を授けるのはいつぶりだろう?
そして山に招かれたマレビトだった場合、神職達は社を離れ、それぞれの家にこもって身を清めなければならない。
――つまり明日は、社を囲む村人達の監視が最も薄くなる日だった。



