第九章 嫌いじゃないから
四月になった。
悠介の会社では新年度が始まり、去年は自分が教えられる側だった研修の一部を、今度は新入社員へ説明する立場になった。大した仕事ではないのに妙に緊張し、終わったあと上司から「去年より顔つき変わったな」と笑われた。
琴葉も二年目になっていた。
担当する仕事が増え、企画会議へ呼ばれる回数も増えたらしい。以前は先輩についていくだけだった取材にも一人で行くようになり、忙しいと言いながらも、仕事そのものは充実しているようだった。
それぞれ少しずつ社会人らしくなっていく。
大学を卒業した頃に想像していた未来に、二人はちゃんと近づいていた。
ただ、その未来の中で二人が一緒に過ごす時間だけが、思っていたより増えなかった。
◇
四月の終わり。
『GWどうする?』
悠介が送った。
返信が来たのは一時間ほど後だった。
『3日に実家帰る』
『何日まで?』
『5日の夜』
『4日会える?』
しばらく既読がつかない。
悠介は仕事を続けた。
昼休みになってスマートフォンを見る。
『家族で出かけるかも』
『そっか』
『まだ決まってない』
『分かったら教えて』
『うん』
そのまま三日が過ぎた。
悠介からは聞かなかった。
琴葉からも連絡はなかった。
五月三日の夜。
『今着いた』
久しぶりに琴葉から届いた。
『おかえり』
『ただいま』
『明日は?』
送ろうとして、一度指が止まる。
結局送った。
『明日どう?』
十分ほどして返事が来る。
『午前中おばあちゃんの家行って、夜家族でご飯になった』
『そっか』
『ごめん』
『大丈夫』
『5日は?』
『午後なら少し』
『じゃあ会おう』
『うん』
会える。
たったそれだけなのに、悠介は少し安心した。
◇
五月五日。
二人はひよりで待ち合わせた。
悠介が先に着いた。
「今日は一人じゃないんだね」
店主が言う。
「来ますよ」
「よかった」
「何が?」
「最近一人多かったから」
「仕事忙しいんですよ」
「そうだね」
悠介は窓際の席へ座った。
時計を見る。
午後二時五分。
約束は二時。
昔なら琴葉はたいてい五分前には来ていた。
二時十分。
二時十五分。
スマートフォンが震える。
『ごめん、少し遅れます』
『大丈夫』
二時二十七分。
扉のベルが鳴った。
「ごめんなさい」
琴葉が少し息を切らして入ってくる。
「大丈夫」
「バス遅れて」
「珍しいね」
「連休だからかな」
琴葉が席へ座る。
店主が紅茶を持ってきた。
「おかえり」
「ただいまです」
「久しぶりだね」
「ごめんなさい、全然来られなくて」
「謝ることじゃないよ」
店主はいつものように笑った。
琴葉も笑う。
その光景を見ながら悠介は、少しだけ安心した。
ここにいれば昔と同じになれるような気がした。
◇
「仕事どう?」
悠介が聞く。
「忙しいです」
「相変わらず?」
「最近さらに」
「そんなに?」
「担当増えたんですよ」
琴葉は鞄からスマートフォンを出し、何枚か写真を見せた。
「これ、この前取材行ったところ」
「へえ」
「地方の小さい出版社なんですけど、面白くて」
「一人で行ったの?」
「はい」
「すごいじゃん」
「最初めちゃくちゃ緊張しました」
「でもできた?」
「何とか」
琴葉は楽しそうに話す。
仕事について話している時の表情は、東京で初めてインターンをした頃と似ていた。
「悠介は?」
「俺も最近新人入ってきた」
「先輩じゃないですか」
「一応」
「教えてる?」
「少しだけ」
「大丈夫なんですか」
「失礼だな」
「ちゃんと教えられるんですか」
「昨日も説明した」
「分かりやすかった?」
「知らない」
「聞いてくださいよ」
「怖いだろ」
琴葉が笑った。
悠介も笑う。
会えば話せる。
笑える。
だからやっぱり大丈夫なのではないかと思った。
◇
店を出たのは午後四時過ぎだった。
「もう帰る?」
悠介が聞く。
「どうしよう」
「時間ある?」
「六時くらいまでなら」
「じゃあ少し歩こう」
「うん」
二人は商店街を抜けた。
大学時代によく歩いた道。
琴葉がふと立ち止まる。
「あ」
「何?」
「ここ、なくなってる」
以前、小さな雑貨店があった場所だった。
今は別の店になっている。
「ああ、去年閉まったよ」
「そうなんだ」
「知らなかった?」
「うん」
琴葉は新しい看板を見る。
「栞買った店ですよね」
「そう」
「覚えてるんだ」
「覚えてるよ」
悠介は笑う。
「あの栞、まだ持ってる?」
「ありますよ」
「使ってる?」
「使ってます」
「よかった」
「悠介のキーケースは?」
「今も使ってる」
「本当に?」
「見る?」
鞄から鍵を出す。
茶色の革。
少し擦れて色が変わっている。
「だいぶ使いましたね」
「毎日だから」
琴葉が指先で触れる。
「何か嬉しい」
「何で」
「ちゃんと使ってくれてるから」
「琴葉がくれたし」
それだけ言って、二人はまた歩き始めた。
◇
公園の近くまで来た。
付き合う前、初めて休日に会った日に座った公園だった。
「懐かしい」
琴葉が言う。
「ここも覚えてる?」
「覚えてますよ」
「何話したっけ」
「将来の話」
「そうだっけ?」
「出版社とか」
悠介は思い出す。
あの日の琴葉は、東京に行くかもしれない未来をまだ曖昧に話していた。
出版社へ興味がある。
東京には会社が多い。
でもまだ二年生だから分からない。
あの時は未来があまりに遠くて、二人とも笑っていた。
「本当に行ったね」
悠介が言う。
「東京?」
「うん」
「行きましたね」
「出版社も」
「はい」
「すごいな」
「何が?」
「あの時話してたこと、ちゃんと叶えてる」
琴葉は少しだけ照れたように笑った。
「まだ全然です」
「でもやりたかった仕事してるでしょ」
「そうですね」
「よかったね」
「うん」
琴葉は前を向いた。
「悠介も残りましたね」
「地元?」
「うん」
「残った」
「仕事は?」
「結構好きだよ」
「ならよかった」
二人とも、自分で選んだ場所にいた。
それぞれ間違った選択をしたわけではない。
だから余計に、何かを責めることができなかった。
◇
ベンチへ座った。
初めて来た時と同じ場所ではなかったが、景色はそれほど変わっていなかった。
「次いつ会えますかね」
琴葉が聞く。
「六月?」
「たぶん」
「今月は?」
「月末まで結構厳しいです」
「俺も来週出張あるし」
「どこ?」
「大阪」
「初めて聞いた」
悠介は一瞬黙る。
「言ってなかった?」
「聞いてないです」
「来週から二泊」
「そっか」
琴葉が笑う。
「楽しんできてください」
「仕事だから」
「でも大阪」
「たこ焼き食べるくらい」
「写真送って」
「うん」
少し沈黙。
「私も来月、京都行くかも」
「仕事?」
「取材」
「初めて聞いた」
「今決まったばっかです」
「ああ」
どちらも知らない予定がある。
以前なら、予定が決まった瞬間に話していた。
今は聞かれるまで言わないことが増えた。
その事実を二人とも感じていた。
◇
「悠介」
「ん?」
「一個聞いていいですか」
「いいよ」
琴葉はすぐには言わなかった。
風が木の葉を揺らす。
「最近」
「うん」
「寂しいですか?」
悠介は琴葉を見る。
「何が?」
「私たち」
冗談ではなかった。
琴葉は前を向いたまま話している。
「会えないこととか、話さないこととか」
悠介は少し考えた。
「寂しいよ」
「やっぱり」
「琴葉は?」
「寂しいです」
「うん」
「でも」
琴葉は膝の上で指を組んだ。
「前と違う気がする」
悠介は黙った。
「前は会えないと、すごく会いたかったんです」
「うん」
「今も会いたいですよ」
「うん」
「でも、仕事が忙しい時とか」
琴葉は言葉を選ぶ。
「会わなきゃって思う時がある」
悠介の胸の奥が少しだけ重くなった。
「分かる」
そう答えた。
琴葉が悠介を見る。
「分かります?」
「うん」
「本当に?」
「俺もたまに思うから」
言ってしまったあと、二人とも何も言わなかった。
その言葉を認めるのが怖かった。
会いたいではなく、会わなきゃ。
電話したいではなく、電話しなきゃ。
連絡したいではなく、返さなきゃ。
いつからか、好きでしていたことの中に義務のようなものが混ざるようになっていた。
「嫌いになったわけじゃないんです」
琴葉が言う。
「分かってる」
「本当に違うんです」
「俺も」
「会えば嬉しいし」
「うん」
「今日だって楽しい」
「俺も楽しい」
「なのに」
琴葉が少し笑う。
「変ですね」
悠介も笑った。
「変だね」
それ以上、続けることができなかった。
◇
その日はいつもより早く別れた。
駅へ向かう。
「今日はありがとう」
琴葉が言った。
「何が?」
「会ってくれて」
「それ言う?」
「だって久しぶりだから」
「こっちこそ」
駅へ着く。
琴葉の電車まであと五分。
「次」
悠介が言う。
「六月?」
「うん」
「予定分かったら連絡します」
「俺も」
琴葉が頷く。
「じゃあ」
「うん」
一瞬だけ迷い、琴葉が言った。
「またね」
「また」
それだけだった。
もう「また明日」は言わなかった。
◇
六月になっても、二人は会わなかった。
仕事の予定が合わなかった。
一度、悠介が東京へ行けそうな週末があったが、琴葉に取材が入った。
別の週は琴葉が地元へ帰れるはずだったが、悠介に会社の行事が入った。
『また合わなかったね』
『ですね』
『七月かな』
『そうかも』
『長いな』
『うん』
そのあと何を書けばいいのか分からなくなった。
悠介は画面を閉じた。
◇
ある日の夜。
琴葉から電話が来た。
午後十一時を少し過ぎていた。
「珍しい」
『まだ起きてました?』
「うん」
『よかった』
「どうした?」
琴葉は少し黙った。
『声聞きたくなって』
その言葉が嬉しかった。
「俺も」
『本当?』
「本当」
『ならよかった』
少しの間、仕事の話をした。
京都での取材。
悠介の大阪出張。
東京の暑さ。
地元の雨。
普通の話。
でも、どちらも何か別のことを考えているのが分かる。
『悠介』
「ん?」
『私たち、大丈夫だと思います?』
またその言葉だった。
「どうだろう」
初めて、そう答えた。
電話の向こうが静かになる。
『前は絶対大丈夫って言ってたのに』
「言ってたね」
『私もそう思ってました』
「うん」
『今は?』
悠介は天井を見る。
「好きだよ」
『……うん』
「琴葉のことは今も好き」
『私も』
「でも」
続きが出てこない。
好きなのに。
それなのに。
その二つの言葉の間にあるものを、悠介はうまく説明できなかった。
『一回ちゃんと話した方がいいのかもしれないですね』
琴葉が言った。
「うん」
『電話じゃなくて』
「会って?」
『うん』
「いつ?」
『来月、連休ありますよね』
「ある」
『帰ります』
「分かった」
『ひより行っていいですか』
悠介は少しだけ胸が痛んだ。
「もちろん」
『じゃあそこで』
「うん」
少し沈黙。
『おやすみ』
「おやすみ」
『……またね』
「うん」
「またね」
通話が切れた。
悠介はしばらくスマートフォンを握ったまま動かなかった。
何を話すのか。
たぶん、二人とも分かっていた。
◇
七月。
約束の日。
悠介はひよりへ向かった。
空はよく晴れていた。
三年前、二人が初めて話した頃とは違って雨は降っていない。
店の扉を開く。
「いらっしゃい」
店主が顔を上げる。
「久しぶり」
「そうですね」
「今日は琴葉ちゃんも?」
「来ます」
「そっか」
それ以上、店主は聞かなかった。
悠介はいつもの窓際へ座った。
数分後。
ベルが鳴る。
「こんにちは」
琴葉が入ってくる。
「久しぶり」
悠介が言う。
「久しぶり」
琴葉が向かいへ座る。
店主が珈琲と紅茶を持ってくる。
「ゆっくりしてって」
「ありがとうございます」
琴葉が言う。
店主は二人を一度だけ見て、カウンターへ戻った。
◇
最初の十分ほどは、普通の話をした。
仕事。
実家。
最近読んだ本。
悠介が大阪で買った土産を渡した。
「今さらだけど」
「ありがとう」
「賞味期限は大丈夫」
「そこ心配してたんですか」
「結構前だから」
「帰ったら食べます」
笑う。
それでも二人とも分かっていた。
今日はその話をするために来たのではない。
琴葉が紅茶のカップを置いた。
「悠介」
「うん」
「前の電話のこと」
「うん」
「考えました?」
「考えた」
「私も」
窓の外を車が通る。
店内にはピアノが流れている。
何度も聞いた曲なのかもしれない。
それでも悠介には初めて聞くように感じられた。
「琴葉はどう思った?」
悠介が聞く。
琴葉はしばらく答えなかった。
「このまま続けたいです」
「うん」
「本当は」
声は落ち着いている。
「でも、続けるって何なんだろうって思いました」
悠介は黙って聞く。
「会う予定を何か月も先まで調整して、電話する時間を探して、連絡できなかったら謝って」
「うん」
「会えたら嬉しいのに、そのために仕事の予定動かせないかなとか考えて」
琴葉は少しだけ笑う。
「最近、会うことが予定になっちゃった気がするんです」
「分かる」
「大学の頃は違った」
「うん」
「授業終わったらひより行けば会えた」
「そうだったね」
「何も考えなくても会えたんです」
「うん」
「今は会うために頑張らないと会えない」
琴葉は紅茶を見る。
「頑張るのが嫌なわけじゃないです」
「分かってる」
「悠介に会うためなら頑張れるって思ってた」
少し間がある。
「でも最近、その頑張ることに疲れてる自分がいて」
悠介は目を伏せた。
「俺も」
琴葉が顔を上げる。
「悠介も?」
「うん」
「……そっか」
「ごめん」
「何で謝るんですか」
「分からない」
二人とも少し笑った。
こんな時まで同じだった。
◇
「俺も続けたいよ」
悠介が言った。
「うん」
「今も好きだし」
「私も」
「東京行くって言われた時、本当に大丈夫だと思ってた」
「私もです」
「電話できるし、月二回会えばいいって」
「計画立てましたね」
「完璧とか言ってた」
「言ってた」
琴葉が小さく笑う。
「あの時は本当にできると思ってた」
「うん」
「でも仕事って」
悠介は言葉を探す。
「予定通りにならないね」
「ならないです」
「疲れてる時に電話するの、しんどい日もあった」
「私も」
「でも電話断ったら琴葉が寂しいかなと思って」
「私も同じこと考えてました」
「だから無理して電話して」
「それで話してても、二人とも眠くて」
「うん」
また笑う。
楽しい思い出ではないのに、二人が同じことを考えていたことがおかしかった。
◇
しばらく誰も話さなかった。
店主がカウンターの中でカップを拭いている。
外では自転車のベルが鳴った。
この場所だけは、昔と何も変わらない。
「悠介」
「ん?」
「嫌いになった?」
琴葉が聞いた。
悠介は迷わなかった。
「なってない」
琴葉が小さく頷く。
「私も」
それだけだった。
それだけなのに、悠介の胸が強く締めつけられた。
嫌いになったのなら簡単だったかもしれない。
怒れる理由があれば、相手を責められた。
裏切られたのなら、終わりに名前をつけられた。
でも何もない。
琴葉は悪くない。
悠介も悪くない。
二人ともただ、自分の生活を懸命に過ごしてきただけだった。
「別れた方がいいのかな」
悠介が言った。
自分の声なのに遠く聞こえた。
琴葉はすぐには答えなかった。
「……私も」
少しだけ息を吸う。
「それ考えてました」
「うん」
「でも言いたくなかった」
「俺も」
「言ったら終わるから」
「うん」
琴葉は少し俯いた。
「終わりたくないです」
「俺も終わりたくない」
「じゃあ」
琴葉が顔を上げる。
「続けます?」
悠介は答えられなかった。
続けたい。
でも今までと同じことを続ければ、また互いに「会わなきゃ」「電話しなきゃ」と思う日々へ戻っていく。
そしていつか、本当に相手のことを嫌いになってしまうかもしれない。
「このまま続けてさ」
悠介が言う。
「うん」
「いつか連絡来るの嫌になったらどうする?」
琴葉が黙る。
「会うのも面倒になって」
「……うん」
「それで喧嘩して」
「うん」
「最後に嫌いになったら」
悠介は琴葉を見る。
「それの方が嫌だ」
琴葉の目が少し揺れた。
「私も」
声が小さくなる。
「嫌いになりたくない」
「うん」
「悠介のこと」
「俺も」
二人はそれ以上、言葉を続けられなかった。
◇
どれくらい時間が経ったのか分からない。
珈琲は冷めていた。
琴葉の紅茶もほとんど減っていない。
「じゃあ」
琴葉が言った。
「うん」
「終わりにします?」
悠介は窓の外を見た。
何度も琴葉を見つけた窓。
初めて会った頃、店へ入るたびにこの席を確認していた。
琴葉がいるだけで少し嬉しかった。
「……うん」
答えた。
それだけで、三年近く続いた関係が終わった。
大きな言葉はなかった。
泣きながら抱きしめることもなかった。
約束を破ったと責めることもなかった。
ただ二人で話して、二人で決めた。
だからこそ、現実味がなかった。
◇
「変ですね」
琴葉が言う。
「何が?」
「別れた感じしない」
「俺も」
「今までと同じ場所にいるからかな」
「かも」
「悠介」
「ん?」
琴葉は少しだけ笑った。
「今までありがとう」
「それ言われると本当に終わる感じする」
「終わるんですよ」
「そうだけど」
「じゃあ言わない方がいい?」
「いや」
悠介も笑う。
「俺もありがとう」
「うん」
「楽しかった」
「私も」
「かなり」
「私もかなり」
二人とも笑った。
それなのに、笑ったあと何を話せばいいのか分からなかった。
◇
店を出る。
「ありがとうございました」
琴葉が店主へ言う。
「またおいで」
「はい」
店主はいつも通りだった。
けれど二人が扉へ向かう時、何かを言いたそうにしているようにも見えた。
結局、何も言わなかった。
◇
二人は駅まで歩いた。
いつもの道。
歩く速さも昔と同じ。
「明日東京戻る?」
悠介が聞く。
「うん。昼の電車」
「そっか」
「悠介は仕事?」
「月曜から」
「私も」
「また忙しいね」
「ですね」
普通の会話。
数十分前まで恋人だった二人が、何を話せばいいのか分からないまま普通の話をしていた。
駅が近づく。
悠介は少しだけ歩く速度を落とした。
琴葉も同じだった。
それでも駅は近づいてくる。
◇
改札前。
二人は立ち止まった。
「じゃあ」
琴葉が言う。
「うん」
言葉が続かない。
これまでなら簡単だった。
また明日。
また電話。
また来週。
次につながる言葉が必ずあった。
でも今日は違う。
次の約束をしないと決めたばかりだった。
「連絡」
琴葉が言いかける。
「うん」
「……しない方がいいですよね」
悠介は少し考えた。
「最初は」
「そうですよね」
「じゃないと変わらないし」
「うん」
「何か本当に必要なことあったらしていいと思うけど」
「分かりました」
「琴葉も」
「うん」
琴葉が少し笑う。
「友達に戻るのかな」
悠介は答えられなかった。
「分からない」
「ですよね」
「すぐは無理かも」
「私も」
少し沈黙。
駅のアナウンスが聞こえる。
「悠介」
「ん?」
「一つだけ」
「何?」
琴葉は迷ったあと、ゆっくり言った。
「付き合わなければよかったって思います?」
悠介はすぐ首を振った。
「思わない」
「本当に?」
「絶対思わない」
「そっか」
「琴葉は?」
「私も」
琴葉は笑った。
「よかった」
「うん」
「それ聞けただけで」
「うん」
もう十分だった。
◇
琴葉が改札へ向かう。
二歩。
三歩。
そして振り返る。
悠介もまだそこにいた。
目が合う。
どちらも何かを言おうとした。
でも言葉が出ない。
琴葉が少しだけ手を上げる。
「じゃあね」
「うん」
悠介も手を上げる。
「じゃあ」
それだけだった。
また明日とは言わなかった。
言えなかったのではない。
言わなかった。
その言葉には、もう続きがあるから。
明日も話す。
明日も会う。
明日も二人でいる。
今はもう、その約束をしてはいけない。
琴葉は改札の向こうへ消えた。
悠介はしばらく同じ場所に立っていた。
◇
帰り道。
ひよりの前を通った。
もう閉店時間が近い。
窓から店内が見える。
いつもの席は空いていた。
悠介は立ち止まらず、そのまま歩いた。
スマートフォンが震えた。
思わず取り出す。
会社の連絡だった。
少しだけ期待してしまった自分に気づく。
琴葉から来るはずはない。
そう決めたのだから。
ホーム画面を閉じる。
歩き出す。
◇
その夜。
何度もスマートフォンを手に取った。
琴葉とのトーク画面。
最後のメッセージは数日前のものだった。
『明日何時くらい?』
『2時で』
『ひより?』
『うん』
『分かった』
それだけ。
いつもなら、そのあとに「また明日」があった。
今回はなかった。
悠介は画面をしばらく見たあと、スマートフォンを伏せた。
消さなかった。
写真も。
連絡先も。
もらったキーケースも。
何一つ捨てなかった。
別れたからといって、過ごした時間までなくなるわけではないと思ったから。
◇
翌日。
朝七時。
目が覚める。
スマートフォンを見る。
何も来ていない。
当然だった。
以前なら琴葉から、
『起きた?』
と来ることがあった。
自分から送ることもあった。
それがないだけで、朝が妙に静かだった。
昼。
琴葉はそろそろ東京へ戻っただろうかと思う。
でも連絡しない。
夜。
仕事の準備をしながら、明日の天気を見る。
ふと、琴葉のいる東京の天気まで見ようとしてやめる。
もう知らなくてもいいことなのだと思った。
そのことが一番寂しかった。
◇
東京へ戻った琴葉も、似たような夜を過ごしていたのかもしれない。
けれど悠介には分からない。
もう確かめることはできない。
以前なら電話一本で知ることができた。
今日は何を食べた。
仕事はどうだった。
疲れた。
眠い。
明日は早い。
そんな小さなことまで知っていた人の一日が、急に見えなくなる。
別れるということは、相手を嫌いになることではなく、その人の日常を知る権利を少しずつ手放していくことなのだと、悠介は初めて知った。
◇
一週間が過ぎた。
二週間。
一か月。
連絡はしなかった。
最初の頃は毎日思い出した。
何かあるたび琴葉へ話そうとして、その必要がないことに気づいた。
面白い看板を見た。
新しい店ができた。
会社で褒められた。
昼に食べたものが思っていたより美味しかった。
雨が降った。
ひよりの前を通った。
どれも以前なら琴葉に送っていた。
今は自分の中だけで終わる。
少しずつ、それにも慣れていった。
◇
二か月後。
悠介は久しぶりにひよりへ入った。
「いらっしゃい」
店主が言う。
「久しぶり」
「そうですね」
「元気?」
「まあ」
「珈琲?」
「お願いします」
悠介は窓際へ向かう。
いつもの席。
少し迷ってから座った。
店主が水を持ってくる。
一つ。
テーブルへ置く。
「……」
店主は一度だけ悠介を見る。
「琴葉ちゃんは?」
聞かないと思っていた。
悠介は少し笑った。
「別れました」
店主は驚いた顔をしなかった。
「そっか」
「はい」
それだけだった。
慰めもない。
理由も聞かない。
しばらくして珈琲を持ってくる。
「ゆっくりしてって」
「ありがとうございます」
悠介は窓の外を見る。
初めてここへ来た日のことを思い出す。
一人で入った。
窓際に琴葉がいた。
名前も知らなかった。
あの頃、自分がこの人を好きになるなんて思っていなかった。
そしてその恋が終わる日が来ることも知らなかった。
それでも。
悠介は珈琲を飲む。
付き合わなければよかったとは、やはり思わなかった。
出会わなければよかったとも思わない。
好きにならなければよかったとも。
三年近くの時間が最後に別れへつながったからといって、その途中にあった笑顔まで失敗になるわけではない。
少なくとも悠介は、そう思いたかった。
窓の外では、夏の光が商店街へ差し込んでいる。
琴葉のいない席。
それを見ても、以前ほど胸は痛まなかった。
でも少しだけ寂しい。
きっとそれでいいのだと思った。
嫌いになったから離れたのではない。
嫌いになりたくなかったから、離れた。
だから二人は最後まで、相手を好きだった時間を壊さずに終えることができたのかもしれない。
悠介はもう「大丈夫」とは言わなかった。
大丈夫ではない日もある。
寂しい日もある。
思い出す日もある。
それでも時間は進む。
明日は来る。
ただ、その明日に琴葉がいるとは限らない。
それだけのことだった。
そして悠介はようやく気づいた。
あれほど何度も交わした「また明日」という言葉は、永遠を約束するための言葉ではなかった。
明日も会える今日があることを、確かめるための言葉だったのだ。
だからこそ、言えなくなった最後の日まで、その一言はずっと幸せだった。
――最終章「いつもの窓際の席」へ続く。
四月になった。
悠介の会社では新年度が始まり、去年は自分が教えられる側だった研修の一部を、今度は新入社員へ説明する立場になった。大した仕事ではないのに妙に緊張し、終わったあと上司から「去年より顔つき変わったな」と笑われた。
琴葉も二年目になっていた。
担当する仕事が増え、企画会議へ呼ばれる回数も増えたらしい。以前は先輩についていくだけだった取材にも一人で行くようになり、忙しいと言いながらも、仕事そのものは充実しているようだった。
それぞれ少しずつ社会人らしくなっていく。
大学を卒業した頃に想像していた未来に、二人はちゃんと近づいていた。
ただ、その未来の中で二人が一緒に過ごす時間だけが、思っていたより増えなかった。
◇
四月の終わり。
『GWどうする?』
悠介が送った。
返信が来たのは一時間ほど後だった。
『3日に実家帰る』
『何日まで?』
『5日の夜』
『4日会える?』
しばらく既読がつかない。
悠介は仕事を続けた。
昼休みになってスマートフォンを見る。
『家族で出かけるかも』
『そっか』
『まだ決まってない』
『分かったら教えて』
『うん』
そのまま三日が過ぎた。
悠介からは聞かなかった。
琴葉からも連絡はなかった。
五月三日の夜。
『今着いた』
久しぶりに琴葉から届いた。
『おかえり』
『ただいま』
『明日は?』
送ろうとして、一度指が止まる。
結局送った。
『明日どう?』
十分ほどして返事が来る。
『午前中おばあちゃんの家行って、夜家族でご飯になった』
『そっか』
『ごめん』
『大丈夫』
『5日は?』
『午後なら少し』
『じゃあ会おう』
『うん』
会える。
たったそれだけなのに、悠介は少し安心した。
◇
五月五日。
二人はひよりで待ち合わせた。
悠介が先に着いた。
「今日は一人じゃないんだね」
店主が言う。
「来ますよ」
「よかった」
「何が?」
「最近一人多かったから」
「仕事忙しいんですよ」
「そうだね」
悠介は窓際の席へ座った。
時計を見る。
午後二時五分。
約束は二時。
昔なら琴葉はたいてい五分前には来ていた。
二時十分。
二時十五分。
スマートフォンが震える。
『ごめん、少し遅れます』
『大丈夫』
二時二十七分。
扉のベルが鳴った。
「ごめんなさい」
琴葉が少し息を切らして入ってくる。
「大丈夫」
「バス遅れて」
「珍しいね」
「連休だからかな」
琴葉が席へ座る。
店主が紅茶を持ってきた。
「おかえり」
「ただいまです」
「久しぶりだね」
「ごめんなさい、全然来られなくて」
「謝ることじゃないよ」
店主はいつものように笑った。
琴葉も笑う。
その光景を見ながら悠介は、少しだけ安心した。
ここにいれば昔と同じになれるような気がした。
◇
「仕事どう?」
悠介が聞く。
「忙しいです」
「相変わらず?」
「最近さらに」
「そんなに?」
「担当増えたんですよ」
琴葉は鞄からスマートフォンを出し、何枚か写真を見せた。
「これ、この前取材行ったところ」
「へえ」
「地方の小さい出版社なんですけど、面白くて」
「一人で行ったの?」
「はい」
「すごいじゃん」
「最初めちゃくちゃ緊張しました」
「でもできた?」
「何とか」
琴葉は楽しそうに話す。
仕事について話している時の表情は、東京で初めてインターンをした頃と似ていた。
「悠介は?」
「俺も最近新人入ってきた」
「先輩じゃないですか」
「一応」
「教えてる?」
「少しだけ」
「大丈夫なんですか」
「失礼だな」
「ちゃんと教えられるんですか」
「昨日も説明した」
「分かりやすかった?」
「知らない」
「聞いてくださいよ」
「怖いだろ」
琴葉が笑った。
悠介も笑う。
会えば話せる。
笑える。
だからやっぱり大丈夫なのではないかと思った。
◇
店を出たのは午後四時過ぎだった。
「もう帰る?」
悠介が聞く。
「どうしよう」
「時間ある?」
「六時くらいまでなら」
「じゃあ少し歩こう」
「うん」
二人は商店街を抜けた。
大学時代によく歩いた道。
琴葉がふと立ち止まる。
「あ」
「何?」
「ここ、なくなってる」
以前、小さな雑貨店があった場所だった。
今は別の店になっている。
「ああ、去年閉まったよ」
「そうなんだ」
「知らなかった?」
「うん」
琴葉は新しい看板を見る。
「栞買った店ですよね」
「そう」
「覚えてるんだ」
「覚えてるよ」
悠介は笑う。
「あの栞、まだ持ってる?」
「ありますよ」
「使ってる?」
「使ってます」
「よかった」
「悠介のキーケースは?」
「今も使ってる」
「本当に?」
「見る?」
鞄から鍵を出す。
茶色の革。
少し擦れて色が変わっている。
「だいぶ使いましたね」
「毎日だから」
琴葉が指先で触れる。
「何か嬉しい」
「何で」
「ちゃんと使ってくれてるから」
「琴葉がくれたし」
それだけ言って、二人はまた歩き始めた。
◇
公園の近くまで来た。
付き合う前、初めて休日に会った日に座った公園だった。
「懐かしい」
琴葉が言う。
「ここも覚えてる?」
「覚えてますよ」
「何話したっけ」
「将来の話」
「そうだっけ?」
「出版社とか」
悠介は思い出す。
あの日の琴葉は、東京に行くかもしれない未来をまだ曖昧に話していた。
出版社へ興味がある。
東京には会社が多い。
でもまだ二年生だから分からない。
あの時は未来があまりに遠くて、二人とも笑っていた。
「本当に行ったね」
悠介が言う。
「東京?」
「うん」
「行きましたね」
「出版社も」
「はい」
「すごいな」
「何が?」
「あの時話してたこと、ちゃんと叶えてる」
琴葉は少しだけ照れたように笑った。
「まだ全然です」
「でもやりたかった仕事してるでしょ」
「そうですね」
「よかったね」
「うん」
琴葉は前を向いた。
「悠介も残りましたね」
「地元?」
「うん」
「残った」
「仕事は?」
「結構好きだよ」
「ならよかった」
二人とも、自分で選んだ場所にいた。
それぞれ間違った選択をしたわけではない。
だから余計に、何かを責めることができなかった。
◇
ベンチへ座った。
初めて来た時と同じ場所ではなかったが、景色はそれほど変わっていなかった。
「次いつ会えますかね」
琴葉が聞く。
「六月?」
「たぶん」
「今月は?」
「月末まで結構厳しいです」
「俺も来週出張あるし」
「どこ?」
「大阪」
「初めて聞いた」
悠介は一瞬黙る。
「言ってなかった?」
「聞いてないです」
「来週から二泊」
「そっか」
琴葉が笑う。
「楽しんできてください」
「仕事だから」
「でも大阪」
「たこ焼き食べるくらい」
「写真送って」
「うん」
少し沈黙。
「私も来月、京都行くかも」
「仕事?」
「取材」
「初めて聞いた」
「今決まったばっかです」
「ああ」
どちらも知らない予定がある。
以前なら、予定が決まった瞬間に話していた。
今は聞かれるまで言わないことが増えた。
その事実を二人とも感じていた。
◇
「悠介」
「ん?」
「一個聞いていいですか」
「いいよ」
琴葉はすぐには言わなかった。
風が木の葉を揺らす。
「最近」
「うん」
「寂しいですか?」
悠介は琴葉を見る。
「何が?」
「私たち」
冗談ではなかった。
琴葉は前を向いたまま話している。
「会えないこととか、話さないこととか」
悠介は少し考えた。
「寂しいよ」
「やっぱり」
「琴葉は?」
「寂しいです」
「うん」
「でも」
琴葉は膝の上で指を組んだ。
「前と違う気がする」
悠介は黙った。
「前は会えないと、すごく会いたかったんです」
「うん」
「今も会いたいですよ」
「うん」
「でも、仕事が忙しい時とか」
琴葉は言葉を選ぶ。
「会わなきゃって思う時がある」
悠介の胸の奥が少しだけ重くなった。
「分かる」
そう答えた。
琴葉が悠介を見る。
「分かります?」
「うん」
「本当に?」
「俺もたまに思うから」
言ってしまったあと、二人とも何も言わなかった。
その言葉を認めるのが怖かった。
会いたいではなく、会わなきゃ。
電話したいではなく、電話しなきゃ。
連絡したいではなく、返さなきゃ。
いつからか、好きでしていたことの中に義務のようなものが混ざるようになっていた。
「嫌いになったわけじゃないんです」
琴葉が言う。
「分かってる」
「本当に違うんです」
「俺も」
「会えば嬉しいし」
「うん」
「今日だって楽しい」
「俺も楽しい」
「なのに」
琴葉が少し笑う。
「変ですね」
悠介も笑った。
「変だね」
それ以上、続けることができなかった。
◇
その日はいつもより早く別れた。
駅へ向かう。
「今日はありがとう」
琴葉が言った。
「何が?」
「会ってくれて」
「それ言う?」
「だって久しぶりだから」
「こっちこそ」
駅へ着く。
琴葉の電車まであと五分。
「次」
悠介が言う。
「六月?」
「うん」
「予定分かったら連絡します」
「俺も」
琴葉が頷く。
「じゃあ」
「うん」
一瞬だけ迷い、琴葉が言った。
「またね」
「また」
それだけだった。
もう「また明日」は言わなかった。
◇
六月になっても、二人は会わなかった。
仕事の予定が合わなかった。
一度、悠介が東京へ行けそうな週末があったが、琴葉に取材が入った。
別の週は琴葉が地元へ帰れるはずだったが、悠介に会社の行事が入った。
『また合わなかったね』
『ですね』
『七月かな』
『そうかも』
『長いな』
『うん』
そのあと何を書けばいいのか分からなくなった。
悠介は画面を閉じた。
◇
ある日の夜。
琴葉から電話が来た。
午後十一時を少し過ぎていた。
「珍しい」
『まだ起きてました?』
「うん」
『よかった』
「どうした?」
琴葉は少し黙った。
『声聞きたくなって』
その言葉が嬉しかった。
「俺も」
『本当?』
「本当」
『ならよかった』
少しの間、仕事の話をした。
京都での取材。
悠介の大阪出張。
東京の暑さ。
地元の雨。
普通の話。
でも、どちらも何か別のことを考えているのが分かる。
『悠介』
「ん?」
『私たち、大丈夫だと思います?』
またその言葉だった。
「どうだろう」
初めて、そう答えた。
電話の向こうが静かになる。
『前は絶対大丈夫って言ってたのに』
「言ってたね」
『私もそう思ってました』
「うん」
『今は?』
悠介は天井を見る。
「好きだよ」
『……うん』
「琴葉のことは今も好き」
『私も』
「でも」
続きが出てこない。
好きなのに。
それなのに。
その二つの言葉の間にあるものを、悠介はうまく説明できなかった。
『一回ちゃんと話した方がいいのかもしれないですね』
琴葉が言った。
「うん」
『電話じゃなくて』
「会って?」
『うん』
「いつ?」
『来月、連休ありますよね』
「ある」
『帰ります』
「分かった」
『ひより行っていいですか』
悠介は少しだけ胸が痛んだ。
「もちろん」
『じゃあそこで』
「うん」
少し沈黙。
『おやすみ』
「おやすみ」
『……またね』
「うん」
「またね」
通話が切れた。
悠介はしばらくスマートフォンを握ったまま動かなかった。
何を話すのか。
たぶん、二人とも分かっていた。
◇
七月。
約束の日。
悠介はひよりへ向かった。
空はよく晴れていた。
三年前、二人が初めて話した頃とは違って雨は降っていない。
店の扉を開く。
「いらっしゃい」
店主が顔を上げる。
「久しぶり」
「そうですね」
「今日は琴葉ちゃんも?」
「来ます」
「そっか」
それ以上、店主は聞かなかった。
悠介はいつもの窓際へ座った。
数分後。
ベルが鳴る。
「こんにちは」
琴葉が入ってくる。
「久しぶり」
悠介が言う。
「久しぶり」
琴葉が向かいへ座る。
店主が珈琲と紅茶を持ってくる。
「ゆっくりしてって」
「ありがとうございます」
琴葉が言う。
店主は二人を一度だけ見て、カウンターへ戻った。
◇
最初の十分ほどは、普通の話をした。
仕事。
実家。
最近読んだ本。
悠介が大阪で買った土産を渡した。
「今さらだけど」
「ありがとう」
「賞味期限は大丈夫」
「そこ心配してたんですか」
「結構前だから」
「帰ったら食べます」
笑う。
それでも二人とも分かっていた。
今日はその話をするために来たのではない。
琴葉が紅茶のカップを置いた。
「悠介」
「うん」
「前の電話のこと」
「うん」
「考えました?」
「考えた」
「私も」
窓の外を車が通る。
店内にはピアノが流れている。
何度も聞いた曲なのかもしれない。
それでも悠介には初めて聞くように感じられた。
「琴葉はどう思った?」
悠介が聞く。
琴葉はしばらく答えなかった。
「このまま続けたいです」
「うん」
「本当は」
声は落ち着いている。
「でも、続けるって何なんだろうって思いました」
悠介は黙って聞く。
「会う予定を何か月も先まで調整して、電話する時間を探して、連絡できなかったら謝って」
「うん」
「会えたら嬉しいのに、そのために仕事の予定動かせないかなとか考えて」
琴葉は少しだけ笑う。
「最近、会うことが予定になっちゃった気がするんです」
「分かる」
「大学の頃は違った」
「うん」
「授業終わったらひより行けば会えた」
「そうだったね」
「何も考えなくても会えたんです」
「うん」
「今は会うために頑張らないと会えない」
琴葉は紅茶を見る。
「頑張るのが嫌なわけじゃないです」
「分かってる」
「悠介に会うためなら頑張れるって思ってた」
少し間がある。
「でも最近、その頑張ることに疲れてる自分がいて」
悠介は目を伏せた。
「俺も」
琴葉が顔を上げる。
「悠介も?」
「うん」
「……そっか」
「ごめん」
「何で謝るんですか」
「分からない」
二人とも少し笑った。
こんな時まで同じだった。
◇
「俺も続けたいよ」
悠介が言った。
「うん」
「今も好きだし」
「私も」
「東京行くって言われた時、本当に大丈夫だと思ってた」
「私もです」
「電話できるし、月二回会えばいいって」
「計画立てましたね」
「完璧とか言ってた」
「言ってた」
琴葉が小さく笑う。
「あの時は本当にできると思ってた」
「うん」
「でも仕事って」
悠介は言葉を探す。
「予定通りにならないね」
「ならないです」
「疲れてる時に電話するの、しんどい日もあった」
「私も」
「でも電話断ったら琴葉が寂しいかなと思って」
「私も同じこと考えてました」
「だから無理して電話して」
「それで話してても、二人とも眠くて」
「うん」
また笑う。
楽しい思い出ではないのに、二人が同じことを考えていたことがおかしかった。
◇
しばらく誰も話さなかった。
店主がカウンターの中でカップを拭いている。
外では自転車のベルが鳴った。
この場所だけは、昔と何も変わらない。
「悠介」
「ん?」
「嫌いになった?」
琴葉が聞いた。
悠介は迷わなかった。
「なってない」
琴葉が小さく頷く。
「私も」
それだけだった。
それだけなのに、悠介の胸が強く締めつけられた。
嫌いになったのなら簡単だったかもしれない。
怒れる理由があれば、相手を責められた。
裏切られたのなら、終わりに名前をつけられた。
でも何もない。
琴葉は悪くない。
悠介も悪くない。
二人ともただ、自分の生活を懸命に過ごしてきただけだった。
「別れた方がいいのかな」
悠介が言った。
自分の声なのに遠く聞こえた。
琴葉はすぐには答えなかった。
「……私も」
少しだけ息を吸う。
「それ考えてました」
「うん」
「でも言いたくなかった」
「俺も」
「言ったら終わるから」
「うん」
琴葉は少し俯いた。
「終わりたくないです」
「俺も終わりたくない」
「じゃあ」
琴葉が顔を上げる。
「続けます?」
悠介は答えられなかった。
続けたい。
でも今までと同じことを続ければ、また互いに「会わなきゃ」「電話しなきゃ」と思う日々へ戻っていく。
そしていつか、本当に相手のことを嫌いになってしまうかもしれない。
「このまま続けてさ」
悠介が言う。
「うん」
「いつか連絡来るの嫌になったらどうする?」
琴葉が黙る。
「会うのも面倒になって」
「……うん」
「それで喧嘩して」
「うん」
「最後に嫌いになったら」
悠介は琴葉を見る。
「それの方が嫌だ」
琴葉の目が少し揺れた。
「私も」
声が小さくなる。
「嫌いになりたくない」
「うん」
「悠介のこと」
「俺も」
二人はそれ以上、言葉を続けられなかった。
◇
どれくらい時間が経ったのか分からない。
珈琲は冷めていた。
琴葉の紅茶もほとんど減っていない。
「じゃあ」
琴葉が言った。
「うん」
「終わりにします?」
悠介は窓の外を見た。
何度も琴葉を見つけた窓。
初めて会った頃、店へ入るたびにこの席を確認していた。
琴葉がいるだけで少し嬉しかった。
「……うん」
答えた。
それだけで、三年近く続いた関係が終わった。
大きな言葉はなかった。
泣きながら抱きしめることもなかった。
約束を破ったと責めることもなかった。
ただ二人で話して、二人で決めた。
だからこそ、現実味がなかった。
◇
「変ですね」
琴葉が言う。
「何が?」
「別れた感じしない」
「俺も」
「今までと同じ場所にいるからかな」
「かも」
「悠介」
「ん?」
琴葉は少しだけ笑った。
「今までありがとう」
「それ言われると本当に終わる感じする」
「終わるんですよ」
「そうだけど」
「じゃあ言わない方がいい?」
「いや」
悠介も笑う。
「俺もありがとう」
「うん」
「楽しかった」
「私も」
「かなり」
「私もかなり」
二人とも笑った。
それなのに、笑ったあと何を話せばいいのか分からなかった。
◇
店を出る。
「ありがとうございました」
琴葉が店主へ言う。
「またおいで」
「はい」
店主はいつも通りだった。
けれど二人が扉へ向かう時、何かを言いたそうにしているようにも見えた。
結局、何も言わなかった。
◇
二人は駅まで歩いた。
いつもの道。
歩く速さも昔と同じ。
「明日東京戻る?」
悠介が聞く。
「うん。昼の電車」
「そっか」
「悠介は仕事?」
「月曜から」
「私も」
「また忙しいね」
「ですね」
普通の会話。
数十分前まで恋人だった二人が、何を話せばいいのか分からないまま普通の話をしていた。
駅が近づく。
悠介は少しだけ歩く速度を落とした。
琴葉も同じだった。
それでも駅は近づいてくる。
◇
改札前。
二人は立ち止まった。
「じゃあ」
琴葉が言う。
「うん」
言葉が続かない。
これまでなら簡単だった。
また明日。
また電話。
また来週。
次につながる言葉が必ずあった。
でも今日は違う。
次の約束をしないと決めたばかりだった。
「連絡」
琴葉が言いかける。
「うん」
「……しない方がいいですよね」
悠介は少し考えた。
「最初は」
「そうですよね」
「じゃないと変わらないし」
「うん」
「何か本当に必要なことあったらしていいと思うけど」
「分かりました」
「琴葉も」
「うん」
琴葉が少し笑う。
「友達に戻るのかな」
悠介は答えられなかった。
「分からない」
「ですよね」
「すぐは無理かも」
「私も」
少し沈黙。
駅のアナウンスが聞こえる。
「悠介」
「ん?」
「一つだけ」
「何?」
琴葉は迷ったあと、ゆっくり言った。
「付き合わなければよかったって思います?」
悠介はすぐ首を振った。
「思わない」
「本当に?」
「絶対思わない」
「そっか」
「琴葉は?」
「私も」
琴葉は笑った。
「よかった」
「うん」
「それ聞けただけで」
「うん」
もう十分だった。
◇
琴葉が改札へ向かう。
二歩。
三歩。
そして振り返る。
悠介もまだそこにいた。
目が合う。
どちらも何かを言おうとした。
でも言葉が出ない。
琴葉が少しだけ手を上げる。
「じゃあね」
「うん」
悠介も手を上げる。
「じゃあ」
それだけだった。
また明日とは言わなかった。
言えなかったのではない。
言わなかった。
その言葉には、もう続きがあるから。
明日も話す。
明日も会う。
明日も二人でいる。
今はもう、その約束をしてはいけない。
琴葉は改札の向こうへ消えた。
悠介はしばらく同じ場所に立っていた。
◇
帰り道。
ひよりの前を通った。
もう閉店時間が近い。
窓から店内が見える。
いつもの席は空いていた。
悠介は立ち止まらず、そのまま歩いた。
スマートフォンが震えた。
思わず取り出す。
会社の連絡だった。
少しだけ期待してしまった自分に気づく。
琴葉から来るはずはない。
そう決めたのだから。
ホーム画面を閉じる。
歩き出す。
◇
その夜。
何度もスマートフォンを手に取った。
琴葉とのトーク画面。
最後のメッセージは数日前のものだった。
『明日何時くらい?』
『2時で』
『ひより?』
『うん』
『分かった』
それだけ。
いつもなら、そのあとに「また明日」があった。
今回はなかった。
悠介は画面をしばらく見たあと、スマートフォンを伏せた。
消さなかった。
写真も。
連絡先も。
もらったキーケースも。
何一つ捨てなかった。
別れたからといって、過ごした時間までなくなるわけではないと思ったから。
◇
翌日。
朝七時。
目が覚める。
スマートフォンを見る。
何も来ていない。
当然だった。
以前なら琴葉から、
『起きた?』
と来ることがあった。
自分から送ることもあった。
それがないだけで、朝が妙に静かだった。
昼。
琴葉はそろそろ東京へ戻っただろうかと思う。
でも連絡しない。
夜。
仕事の準備をしながら、明日の天気を見る。
ふと、琴葉のいる東京の天気まで見ようとしてやめる。
もう知らなくてもいいことなのだと思った。
そのことが一番寂しかった。
◇
東京へ戻った琴葉も、似たような夜を過ごしていたのかもしれない。
けれど悠介には分からない。
もう確かめることはできない。
以前なら電話一本で知ることができた。
今日は何を食べた。
仕事はどうだった。
疲れた。
眠い。
明日は早い。
そんな小さなことまで知っていた人の一日が、急に見えなくなる。
別れるということは、相手を嫌いになることではなく、その人の日常を知る権利を少しずつ手放していくことなのだと、悠介は初めて知った。
◇
一週間が過ぎた。
二週間。
一か月。
連絡はしなかった。
最初の頃は毎日思い出した。
何かあるたび琴葉へ話そうとして、その必要がないことに気づいた。
面白い看板を見た。
新しい店ができた。
会社で褒められた。
昼に食べたものが思っていたより美味しかった。
雨が降った。
ひよりの前を通った。
どれも以前なら琴葉に送っていた。
今は自分の中だけで終わる。
少しずつ、それにも慣れていった。
◇
二か月後。
悠介は久しぶりにひよりへ入った。
「いらっしゃい」
店主が言う。
「久しぶり」
「そうですね」
「元気?」
「まあ」
「珈琲?」
「お願いします」
悠介は窓際へ向かう。
いつもの席。
少し迷ってから座った。
店主が水を持ってくる。
一つ。
テーブルへ置く。
「……」
店主は一度だけ悠介を見る。
「琴葉ちゃんは?」
聞かないと思っていた。
悠介は少し笑った。
「別れました」
店主は驚いた顔をしなかった。
「そっか」
「はい」
それだけだった。
慰めもない。
理由も聞かない。
しばらくして珈琲を持ってくる。
「ゆっくりしてって」
「ありがとうございます」
悠介は窓の外を見る。
初めてここへ来た日のことを思い出す。
一人で入った。
窓際に琴葉がいた。
名前も知らなかった。
あの頃、自分がこの人を好きになるなんて思っていなかった。
そしてその恋が終わる日が来ることも知らなかった。
それでも。
悠介は珈琲を飲む。
付き合わなければよかったとは、やはり思わなかった。
出会わなければよかったとも思わない。
好きにならなければよかったとも。
三年近くの時間が最後に別れへつながったからといって、その途中にあった笑顔まで失敗になるわけではない。
少なくとも悠介は、そう思いたかった。
窓の外では、夏の光が商店街へ差し込んでいる。
琴葉のいない席。
それを見ても、以前ほど胸は痛まなかった。
でも少しだけ寂しい。
きっとそれでいいのだと思った。
嫌いになったから離れたのではない。
嫌いになりたくなかったから、離れた。
だから二人は最後まで、相手を好きだった時間を壊さずに終えることができたのかもしれない。
悠介はもう「大丈夫」とは言わなかった。
大丈夫ではない日もある。
寂しい日もある。
思い出す日もある。
それでも時間は進む。
明日は来る。
ただ、その明日に琴葉がいるとは限らない。
それだけのことだった。
そして悠介はようやく気づいた。
あれほど何度も交わした「また明日」という言葉は、永遠を約束するための言葉ではなかった。
明日も会える今日があることを、確かめるための言葉だったのだ。
だからこそ、言えなくなった最後の日まで、その一言はずっと幸せだった。
――最終章「いつもの窓際の席」へ続く。



