いつもの席で、また明日

第五章 何でもない毎日

 付き合い始めたからといって、翌日から何かが劇的に変わったわけではなかった。

 朝起きれば大学へ行き、講義を受け、昼になれば食堂で友人と話し、授業が終われば商店街を抜けて「ひより」へ向かう。悠介が先に着く日もあれば琴葉が窓際で待っている日もあり、店主は相変わらず注文を聞く前からアイス珈琲と紅茶を用意していて、二人はいつもの席に座って昨日までと同じような話をした。

 変わったことがあるとすれば、駅までの帰り道で時々手をつなぐようになったことと、別れたあとに届くメッセージが少し増えたことくらいだった。

『着いた?』

『今着いた』

『お疲れさま』

『宮下さんは?』

『あと二駅』

『気をつけて』

『はい』

 そして最後は大抵、

『また明日』

 で終わる。

 付き合う前から何度も交わしていた言葉なのに、恋人になってから見ると少しだけ違って感じられた。

 それでも二人は、急に恋人らしく振る舞おうとはしなかった。

 呼び方もまだ「瀬戸さん」と「宮下さん」のままだった。



「いつまで名字で呼ぶんですか?」

 付き合い始めて一週間ほど経った頃、ひよりで琴葉が突然そんなことを言った。

「何が?」

「私たち」

「駄目?」

「駄目じゃないですけど」

 琴葉は紅茶を飲みながら少し考える。

「付き合ってる感じしないなと思って」

「じゃあ琴葉?」

 悠介が何の準備もなく言うと、琴葉の手が止まった。

「……急ですね」

「今言ったの宮下さんでしょ」

「そうですけど」

「琴葉」

「二回言わなくていいです」

「慣れようと思って」

「私が慣れてないです」

 頬が少し赤くなっている。

 悠介はそれを見て、面白くなった。

「琴葉」

「やめてください」

「なんで」

「恥ずかしいから」

「じゃあ宮下さんに戻す?」

「それも嫌です」

「難しいな」

 琴葉は少し悩んでから、悠介を見る。

「……悠介」

 今度は悠介が黙った。

「どうですか」

「何が」

「恥ずかしいでしょ」

「ちょっと」

「ほら」

「でも悪くない」

「私もです」

 その日から二人は、少しずつ下の名前で呼ぶようになった。

 最初は意識していた。

 呼ぶたびにどこか照れくさく、名前を言った直後に二人とも笑ってしまうこともあった。

 けれど一週間もすると、それが普通になった。

「悠介」

「何?」

「砂糖取って」

「はい」

「ありがとう」

 そんな何でもない会話の中に自分の名前があることを、悠介は思っていた以上に気に入っていた。



 夏休みの後半、二人は初めて少し遠出をした。

 旅行と呼ぶほどのものではなく、電車で一時間ほどの街へ出かけ、古い商店街を歩いて昼を食べ、川沿いにある小さな水族館へ行っただけだった。

「魚、好きだったっけ?」

 入口で悠介が聞く。

「特別好きではないです」

「じゃあ何でここ?」

「涼しいから」

「理由それ?」

「夏は重要ですよ」

「確かに」

 館内へ入ると、薄暗い通路の両側に水槽が並んでいた。

 青い光の中を小さな魚が泳ぎ、天井に揺れる水の反射が映っている。

 琴葉は思っていたより楽しそうだった。

「あれ見て」

「どれ?」

「あの隅にいる魚」

「動いてないね」

「疲れたんですかね」

「魚も夏バテするのかな」

「水の中なのに?」

「知らない」

「経済学部だから?」

「便利な反撃覚えたな」

 琴葉が笑う。

 二人で水槽を覗き込み、説明を読んでは適当な感想を言い合う。

 途中、家族連れに頼まれて写真を撮ってあげた後、その母親から「お二人も撮りましょうか」と言われた。

 悠介と琴葉は顔を見合わせた。

「どうする?」

「せっかくだし」

「お願いします」

 琴葉のスマートフォンを渡す。

 二人で大きな水槽の前に並んだ。

「もう少し近づいてください」

 言われて、悠介が一歩寄る。

 琴葉の肩が触れた。

「はい、撮りますね」

 写真が一枚。

「もう一枚いきます」

 二枚目。

 礼を言ってスマートフォンを受け取る。

「見せて」

 悠介が横から覗く。

 一枚目は二人とも少し固い。

 二枚目は琴葉が笑っていて、悠介もつられて笑っていた。

「一枚目変ですね」

「緊張してる」

「写真だけ見ると付き合いたてっぽい」

「付き合いたてでしょ」

「そうでした」

 琴葉は二枚目をしばらく見ていた。

「これ送りますね」

「うん」

「消さないでくださいよ」

「消さないよ」

「機種変しても?」

「そこまで?」

「せっかく二人で撮った最初の写真だから」

 悠介は琴葉を見る。

「じゃあ残す」

「約束です」

「はい」

 その写真は、二人の写真フォルダの中で最初の一枚になった。



 それから写真は少しずつ増えていった。

 ひよりのテーブルに並んだ珈琲と紅茶。

 公園で買ったアイス。

 大学の中庭。

 琴葉が悠介のノートに描いた下手な猫。

 悠介が撮った、窓際で本を読んでいる琴葉。

「勝手に撮ったでしょ」

「バレた?」

「音しました」

「結構いいよ」

「消してください」

「嫌」

「何で」

「好きだから」

「……そういう言い方ずるい」

 琴葉はそう言いながらも、本気で消そうとはしなかった。

 写真だけではない。

 二人の間には、細かな習慣がいくつも増えていった。

 琴葉が朝一番の講義の日は悠介が「起きた?」と送る。

 悠介が金曜日のアルバイトを終える頃には、琴葉から「お疲れさま」と届く。

 試験前はひよりで一緒に勉強し、終わった日は少しだけ高いものを食べる。

 琴葉が本を貸し、悠介が感想を言う。

 悠介は相変わらず読むのが遅かったが、借りた本だけは最後まで読むようになっていた。

「どうでした?」

 ある日、琴葉に貸された小説を返しながら悠介が答える。

「面白かった」

「それだけ?」

「最後のところ好きだった」

「どこですか」

「主人公が戻らないところ」

「意外」

「何で?」

「悠介は分かりやすく幸せな終わりが好きだと思ってた」

「好きだけど」

「じゃあ何で?」

 悠介は少し考える。

「戻らなくても、それまでが無駄になるわけじゃないから」

 琴葉は一瞬だけ黙った。

「……珍しく文学部っぽい」

「俺経済学部なんだけど」

「知ってます」

「褒めてる?」

「かなり」

「じゃあもっと言って」

「調子乗るから嫌です」

 二人は笑った。

 その時は、それが自分たちの未来に重なる言葉になるとは思いもしなかった。



 夏が終わり、大学の後期が始まった。

 九月になっても昼間は暑かったが、夕方になると少しずつ風が涼しくなり、ひよりの窓から差し込む光も以前より柔らかくなっていた。

「夏休み終わった」

 琴葉が机に突っ伏す。

「始まって三日目だけど」

「もう疲れた」

「休み長すぎたんだよ」

「戻りたい」

「夏休みに?」

「はい」

「何する?」

「寝ます」

「俺と会わないの?」

 琴葉が顔を上げる。

「会いますよ」

「ならいい」

「……自然にそういうこと言うようになりましたね」

「何が?」

「前なら言わなかった」

「そう?」

「そうです」

 琴葉は少し笑い、また机に頬をつけた。

「でも、いいです」

「何が」

「こういうの」

 悠介は何となく意味が分かって、それ以上聞かなかった。

 二人はまだ付き合って一か月ほどだった。

 それなのに、不思議なくらい以前からこうしていたような気がした。



 秋になると、悠介は琴葉の実家へ初めて行った。

 家族へ正式に挨拶するような大げさなものではなく、琴葉が実家へ忘れ物を取りに帰ると言ったので、そのついでに近くまで一緒に行ったのがきっかけだった。

「本当に来るんですか?」

 電車の中で琴葉が聞く。

「今さら?」

「だって実家ですよ」

「家の前まででいいよ」

「それも変じゃないですか」

「じゃあ駅で待ってる」

「それも悪いし」

「どうすればいいんだよ」

「……来ます?」

「いいの?」

「たぶん」

「たぶん?」

「お母さんには友達連れてくるって言いました」

「彼氏じゃなくて?」

「そこまで言う必要ないかなって」

「隠されてる」

「そういう意味じゃないです」

 琴葉が少し困ったように笑った。

 結局、家へ着いて十分も経たないうちに母親に見抜かれた。

「悠介くん、琴葉と付き合ってるの?」

「お母さん!」

 琴葉の声が家中に響いた。

 悠介は答えに困りながら笑う。

「はい」

「やっぱり」

「なんで分かるの」

「普通の友達連れてきただけで、あなたそんなに緊張しないでしょ」

「してない」

「朝から服三回変えてたじゃない」

「言わなくていいから」

 悠介は笑いをこらえる。

「笑わないで」

「ごめん」

 琴葉は耳まで赤くしていた。

 そのあと父親にも紹介され、家族と一緒に昼食を食べることになった。

 思っていたより普通だった。

 父親は仕事の話を少し聞いただけで、母親は大学生活について楽しそうに質問し、琴葉の高校時代の話をいくつもしてくれた。

「この子、昔から忘れ物多くて」

「お母さん」

「高校の修学旅行の日も」

「それ言わないで」

「聞きたい」

「悠介も乗らないで」

 家では少しだけ口調の違う琴葉が新鮮だった。

 帰り際、飼っている犬が玄関までついてきた。

「写真で見てたより大きい」

「太ったんです」

「本人の前で言うなよ」

「本当だから」

 悠介が頭を撫でる。

「懐いてる」

「誰にでもですよ」

「嫉妬?」

「犬にしません」

 そう言いながら琴葉も犬の頭を撫でる。

 二人の手が触れた。

 何となく笑う。

 それを母親が少し離れたところから見ていた。



 帰りの電車。

 二人は並んで座っていた。

「疲れた」

 琴葉が言う。

「俺の方が疲れたよ」

「何で」

「彼氏として親に会ったの初めてだから」

「私もです」

「そりゃそうか」

「変でした?」

「全然」

「お母さん喋りすぎでしょ」

「面白かった」

「余計なことばっかり」

「修学旅行の話とか」

「忘れてください」

「無理」

「最悪」

 琴葉は笑いながら窓へ視線を向けた。

 少しして、肩が悠介に触れる。

 眠そうだった。

「寝ていいよ」

「寝ません」

「さっきあくびしてた」

「してないです」

「してた」

「……じゃあ少しだけ」

 琴葉が悠介の肩にもたれる。

 電車の一定の揺れ。

 窓の外を流れる景色。

 数分後には琴葉の呼吸が静かになっていた。

 悠介は起こさないように動かず、窓へ目を向けた。

 こういう時間が好きだった。

 特別な場所へ行かなくてもいい。

 何か大きな思い出を作らなくてもいい。

 隣にいる。

 それだけで十分だった。

 そして当時の悠介は、こういう時間こそ簡単にはなくならないものだと思っていた。



 十月。

 二人で初めて迎える悠介の誕生日が来た。

 その日は講義が終わったあと、琴葉から「ひよりに来て」とだけ連絡があった。

 いつもと変わらない店へ入る。

「いらっしゃい」

 店主が言う。

 窓際に琴葉がいた。

 テーブルの上には小さな箱。

「おめでとうございます」

「ありがとう」

「二十一歳ですね」

「そう」

「大人」

「二十歳から大人だろ」

「そうでした」

「雑だな」

 悠介が座る。

「これ」

 琴葉が箱を差し出す。

「プレゼント?」

「一応」

「開けていい?」

「どうぞ」

 中に入っていたのは革のキーケースだった。

 派手ではなく、暗い茶色のシンプルなもの。

「前、鍵そのまま鞄に入れてたでしょ」

「見てたの?」

「何回も探してたから」

「確かに」

「これならなくさないかなって」

 悠介は手に取る。

「ありがとう。普通に嬉しい」

「普通にって何ですか」

「かなり嬉しい」

「ならよかった」

 悠介はキーケースを眺めながら思い出した。

「これさ」

「はい」

「前に琴葉へ栞買った店じゃない?」

 琴葉が少し驚く。

「分かりました?」

「革の感じ似てる」

「そうです」

「わざわざ?」

「たまたま前通ったので」

「本当に?」

「半分くらいわざわざ」

「半分なんだ」

 琴葉が笑う。

 その日、店主が小さなケーキをサービスしてくれた。

「店から」

「いいんですか?」

「常連の誕生日だからね」

「俺、琴葉より通ってる期間短いですけど」

「回数はもう同じくらいじゃない?」

「そんな来てます?」

「来てるよ」

 店主は笑いながらカウンターへ戻った。

 琴葉がケーキを見る。

「半分ずつ食べます?」

「琴葉の誕生日じゃないけど」

「いいじゃないですか」

「じゃあ半分」

 二人で小さなケーキを分けた。

 後から考えれば何でもない誕生日だった。

 高級な店へ行ったわけでもない。

 豪華なプレゼントでもない。

 写真も一枚しか撮っていない。

 それでも悠介の中では、その年の誕生日が妙に強く残ることになる。



 十一月。

 寒くなると、ひよりでの注文が変わった。

「ホット?」

 店主が聞く。

「お願いします」

 悠介が答える。

「琴葉ちゃんは?」

「いつもの紅茶で」

「はいよ」

 窓の外では風に吹かれた落ち葉が歩道を転がっている。

「一年早いですね」

 琴葉が言う。

「まだ終わってないよ」

「もう十一月ですよ」

「確かに」

「出会ったの六月でしたっけ」

「それくらい」

「まだ半年経ってないんだ」

 琴葉が少し驚く。

「もっと前から知ってる感じする」

「俺も」

「変ですね」

「毎週会ってるからじゃない?」

「毎週どころじゃないですよ」

「確かに」

 大学へ行けば会う。

 会わなくても連絡する。

 週末も大抵一日は一緒にいる。

 振り返れば、かなりの時間を共に過ごしていた。

「飽きないですか?」

 琴葉が聞く。

「何に?」

「私に」

「急に何」

「こんなに会ってるから」

「飽きた?」

「まさか」

「じゃあ同じ」

 悠介は珈琲を飲む。

「むしろ、会わない日の方が変な感じする」

 琴葉が少し笑った。

「分かります」

「依存かな」

「それはちょっと嫌ですね」

「じゃあ習慣」

「それならいいかも」

「琴葉が習慣」

「言い方が変」

「でもそうじゃない?」

「まあ」

 琴葉は窓の外を見る。

「悪くないですね」

「何が?」

「習慣になるの」

 悠介は頷いた。

「うん」

 その頃の二人は、恋というものはもっと特別な感情だと思っていた。

 会うたびに胸が高鳴って、常に相手のことを考えていて、特別な日をたくさん作るものなのだと。

 けれど実際に二人の間にあったものは、もっと静かだった。

 朝のメッセージ。

 大学の食堂。

 ひよりの窓際。

 駅までの道。

 夜の電話。

 何時に起きるのか。

 何曜日にアルバイトがあるのか。

 相手が何を食べられないのか。

 どんな時に機嫌が悪くなるのか。

 疲れている時にはどんな声になるのか。

 そんな小さなことを知っていくうちに、相手がいることそのものが日常になっていた。



 十二月。

 街にクリスマスの飾りが増え始めた。

「クリスマスどうします?」

 ひよりで琴葉が聞いた。

「どうするって?」

「何かします?」

「恋人っぽいこと?」

「そういう言い方やめてください」

「でも初めてじゃん」

「そうですけど」

「どこ行きたい?」

 琴葉は少し考える。

「人多いところ嫌です」

「俺も」

「イルミネーションとか」

「人多そう」

「ですよね」

「ひより?」

「クリスマスまで?」

「いいじゃん」

 琴葉は笑った。

「私たちらしいですね」

 結局、クリスマスイブも二人はひよりへ行った。

 店内には店主が置いた小さなツリーが一つだけあり、流れている音楽も普段のピアノから少しだけクリスマスらしいものへ変わっていた。

「寂しい飾りですね」

 琴葉が言う。

「言うねえ」

 店主が笑う。

「もうちょっと何かないんですか」

「去年はツリーもなかったよ」

「進歩したんですね」

「そういうこと」

 客は少なかった。

 窓の外を行き交う人たちは駅前へ向かっている。

 二人はいつもの席で温かい飲み物を飲みながら話をした。

「プレゼント」

 悠介が袋を渡す。

「ありがとうございます」

「大したものじゃないよ」

 琴葉が中を見る。

 手袋。

 淡い灰色のシンプルなものだった。

「前寒いって言ってたから」

「覚えてたんですね」

「そりゃ」

 琴葉が手袋をはめる。

「どう?」

「似合う」

「即答」

「本当に」

「じゃあ使います」

「琴葉は?」

「ありますよ」

 小さな包みを渡される。

 中にはマフラーが入っていた。

「似てますね」

 琴葉が笑う。

「考えること一緒じゃん」

「冬だから」

「もっとお洒落なもの考えればよかった」

「いいですよ。使うものの方が」

「俺もそう思う」

 帰り道、悠介はもらったマフラーをその場で巻いた。

「どう?」

「似合ってます」

「本当に?」

「多分」

「多分?」

「照れるから何回も聞かないで」

 琴葉も新しい手袋をしていた。

 駅へ向かう間、二人は手をつないだ。

 手袋越しだったので温もりはほとんど分からなかったが、それでもなぜか離したくなかった。



 年が明けた。

 二人は三年生になる。

 大学生活も折り返しを過ぎる。

 春になればゼミが始まり、その先には就職活動という言葉が少しずつ現実味を持ってくる。

 けれど、その頃の二人にとって未来はまだずっと先だった。

「三年生ですね」

 三月の終わり。

 ひよりの窓際で琴葉が言った。

「早い」

「この前二年生になった気がする」

「俺たち会った時二年だったじゃん」

「そうでした」

「一年経ってないよ」

「でももうすぐ」

「六月で一年」

「覚えてるんですか?」

「雨の日でしょ」

「私が傘壊した日」

「忘れられない」

「恥ずかしいんですけど」

「でもそれなかったら話してないかも」

「確かに」

 琴葉は少しだけ懐かしそうに窓を見る。

「壊れてよかったのかな」

「傘はかわいそうだけど」

「ですね」

「じゃあ記念に新しい傘買う?」

「何の記念ですか」

「出会った記念」

「そんな記念日作ってたら毎月何かありますよ」

「初めて一緒に飯食った記念」

「いらない」

「初電話記念」

「いらないです」

「初めて名字じゃなく呼んだ記念」

「それはちょっと覚えてない」

「俺も」

 二人で笑う。

 そんなものだった。

 付き合った日は覚えている。

 でも、他の細かな日は少しずつ曖昧になっていった。

 何月何日に初めて映画へ行ったのか。

 いつ初めて長電話をしたのか。

 どの日から自然に手をつなぐようになったのか。

 はっきりとは覚えていない。

 それでよかった。

 記念日にしなくても、二人の中にはたくさんの時間が残っていた。



 春休みの最後の日。

 二人は夕方までひよりにいた。

 店を出る頃には少しだけ冷たい風が吹いていたものの、商店街の端にある桜の木には小さな蕾が見えていた。

「もう春ですね」

 琴葉が言う。

「来週には咲くかな」

「大学の桜きれいですよ」

「去年見た?」

「見ましたよ」

「俺覚えてない」

「興味なかったんでしょ」

「今年は見る」

「何で?」

「琴葉がいるから」

 琴葉が一瞬黙った。

「……最近そういうこと普通に言いますね」

「嫌?」

「嫌じゃないです」

 駅までの道を歩く。

 途中、琴葉が少し前へ出てから振り返った。

「悠介」

「何?」

「来年も見ましょうね」

「桜?」

「うん」

「見るでしょ」

「再来年も」

「卒業してるじゃん」

「卒業しても見に来ればいいですよ」

「じゃあ来よう」

「その次も?」

「毎年来る?」

「飽きるまで」

「じゃあ結構すぐかも」

「私は飽きないかもしれませんよ」

「俺も」

 悠介は笑った。

「じゃあずっと」

 琴葉も笑う。

「ずっとですね」

 何の保証もない約束だった。

 就職先も決まっていない。

 卒業後にどこへ住むのかさえ分からない。

 それでも二人は、来年も再来年も同じ場所で桜を見る未来を簡単に想像することができた。

 それくらい、一緒にいることが当たり前になっていた。

 恋人になったばかりの頃に感じていた緊張は、もうほとんどない。

 代わりにそこにあったのは、隣にいることへの安心だった。

 何かあれば話したい。

 嬉しいことがあれば一番に伝えたい。

 疲れた日は声を聞きたい。

 明日の予定を知っている。

 来週の約束がある。

 来月の話をする。

 来年のことまで、何となく二人で考えている。

 そして悠介は、その日々が特別だとはあまり思っていなかった。

 特別なものなら、もっと強く意識していたはずだから。

 いつもの席。

 いつもの帰り道。

 いつもの声。

 いつもの笑顔。

 それらはもう、悠介の生活の一部だった。

 なくなることなど想像しないくらいに。

 駅へ着く。

 琴葉の電車が来るまであと三分。

「じゃあ大学で」

「月曜日?」

「はい」

「ひよりも?」

「もちろん」

 電車がホームへ入ってくる。

 琴葉が一歩離れた。

「また明日」

「明日日曜だよ」

「あ」

 琴葉が笑う。

「癖になってる」

「じゃあ月曜日」

「……でも」

「何?」

 琴葉は少し考えて、それからいつものように笑った。

「電話するから、また明日でいいです」

 悠介も笑う。

「そっか」

「うん」

「じゃあ、また明日」

「また明日」

 ドアが閉まる。

 電車が動き出す。

 その言葉を、二人はもう何百回も交わしたような気がしていた。

 明日も。

 来週も。

 来年も。

 この先もずっと。

 会えなくても声を聞いて、離れていても同じ言葉を交わせるのだから、二人ならきっと大丈夫なのだと、その頃は本当にそう思っていた。

 何でもない毎日は、続いている間ほど、その大切さに気づきにくい。

 そして二人の大学三年目は、少しずつ未来というものを現実へ変えながら始まろうとしていた。

――第六章「来年の話」へ続く。