第三章 また明日
六月も半ばを過ぎると、大学へ向かう道には夏の気配が少しずつ混じり始めていた。
梅雨が終わったわけではなく、朝には晴れていた空が午後になると突然曇り、講義を終えて校舎を出る頃には細かな雨が降っていることも珍しくない。それでも気温だけは確実に上がっていて、雨上がりの舗道から立ち上る湿った空気に触れるたび、悠介は今年も長い夏が近づいているのだと感じていた。
そんな季節の変化とは関係なく、悠介と琴葉の日常には一つの習慣ができていた。
講義が終わる。
大学を出る。
一本裏の商店街へ入る。
そして「ひより」の扉を開ける。
どちらが先に行くのかは決まっていない。
悠介が先の日もあれば、琴葉が窓際で本を読みながら待っている日もある。
最初の頃は「今日行く?」と確認していたのに、いつの間にかそれすら必要なくなっていた。
行けない日だけ連絡する。
そのために二人が連絡先を交換したのは、三度目に待ち合わせた日のことだった。
『こういう時、連絡先知らないの不便ですよね』
琴葉が何気なく言ったのがきっかけだった。
深い意味などなかったと思う。
悠介もそう思ってスマートフォンを取り出した。
それなのに家へ帰ったあと、連絡先に追加された「宮下琴葉」という名前を何度か開いてしまったことは誰にも言っていない。
◇
「今日、遅かったですね」
六月二十一日の午後四時過ぎ、悠介がひよりへ入ると、琴葉はすでにいつもの席に座っていた。
「教授の話が終わらなくて」
「四限?」
「そう。終了時間過ぎてるのに『最後に一つだけ』って言って、そこから十五分」
「最後じゃないですね」
「最後の中に最後が何個もあるタイプ」
「いる」
琴葉が笑いながら本を閉じる。
悠介は向かいの椅子へ鞄を置いた。
「アイス珈琲でいい?」
店主が聞く。
「お願いします」
「もう注文聞く必要ないな」
「たまには変えるかもしれないですよ」
「じゃあ今日はクリームソーダ?」
「アイス珈琲で」
「ほら」
店主が笑いながら戻っていく。
琴葉が小さく笑った。
「完全に常連ですね」
「宮下さんもでしょ」
「私は先輩です」
「何の?」
「ひより歴」
「一年違うだけじゃないですか」
「一年は大きいですよ」
「じゃあ先輩、今日のおすすめは?」
「紅茶」
「自分が飲んでるだけでしょ」
「おすすめです」
こんな会話をすることにも、もう慣れていた。
最初の頃は沈黙になると少しだけ気まずくて、何か話題を探していた気がする。
今は違う。
琴葉が本を読んでいる隣で悠介がスマートフォンを見ていても、何とも思わない。
話したくなれば話す。
黙りたければ黙る。
同じテーブルにいながら、それぞれ別のことをしている時間さえ心地よかった。
悠介は運ばれてきた珈琲を一口飲み、窓の外を眺めた。
「夏休み、何かするんですか?」
「急ですね」
「暑くなってきたから」
「理由になってます?」
「たぶん」
琴葉は本に栞を挟んだ。
「実家帰るくらいかな」
「実家、遠いんですか?」
「電車で二時間くらい」
「微妙」
「そうなんですよ。遠くはないけど気軽に帰るほど近くもない」
「何日くらい?」
「一週間くらいかな。瀬戸さんは?」
「ほぼバイト」
「寂しい大学生」
「金がないんです」
「現実的」
「宮下さんみたいに優雅に紅茶飲んでる場合じゃない」
「瀬戸さんも毎週珈琲飲んでるじゃないですか」
「これは必要経費」
「何の?」
悠介は答えようとして、少し考えた。
「……大学生活?」
「広いなあ」
琴葉が笑った。
悠介も笑いながらグラスを持つ。
ただ、その時ふと思った。
琴葉が実家へ帰れば、一週間は会わない。
当たり前のことなのに、その一週間を少し長いと感じている自分がいた。
◇
それから数日後、二人は初めて大学の中で偶然会った。
昼休み。
悠介が友人と食堂へ向かっている途中、向こうから琴葉が歩いてきた。
隣には女性が二人いる。
琴葉もすぐに悠介へ気づいた。
「あ」
足を止める。
「お疲れ」
「お疲れさまです」
いつもなら普通の会話だった。
けれど大学で会うと、なぜか妙に違和感があった。
ひよりでは何時間も話しているのに、大学という別の場所で見る琴葉は、少しだけ知らない人のように見える。
「今日行きます?」
琴葉が聞いた。
「行く」
「じゃああとで」
「うん」
それだけ言って別れる。
数歩進んだところで、隣を歩いていた友人が悠介を見る。
「誰?」
「友達」
「文学部?」
「うん」
「いつの間に文学部に友達できたんだよ」
「喫茶店で」
「喫茶店?」
「前言っただろ」
「ああ、最近通ってるところ?」
「そう」
友人は一度振り返り、遠ざかる琴葉を見た。
「へえ」
「何」
「いや」
「何だよ」
「喫茶店ってそういうことか」
「どういうことだよ」
「別に」
「お前もそれ言うのかよ」
「何の話?」
「何でもない」
友人はニヤニヤしている。
「付き合ってんの?」
「違う」
「じゃあ好きなの?」
「違うって」
「即答」
「普通に友達」
「毎日のように喫茶店で会う?」
「毎日じゃない」
「週何回?」
「二、三回」
「十分多いだろ」
「たまたま」
「待ち合わせて?」
「……最近は」
「それ、たまたまって言わないんだよ」
悠介は面倒になって歩く速度を上げた。
「飯行くぞ」
「逃げた」
「腹減っただけ」
友人の笑い声を背中で聞きながら、悠介は少しだけ考えていた。
好きなのか。
聞かれてすぐに否定した。
別に嘘をついたつもりはない。
琴葉といるのは楽しい。
会えれば嬉しい。
連絡が来れば少し気になる。
でも、それが恋愛なのかと言われればよく分からない。
ただ一つ確かなのは、琴葉と出会う前より大学へ来るのが少し楽しくなったということだった。
◇
その日の夕方、ひよりへ行くと琴葉は先に来ていた。
「さっき一緒にいた人、友達ですか?」
「高校からの」
「何かこっち見てましたよね」
「気にしなくていいです」
「何か言ってました?」
「何も」
「怪しい」
「宮下さんの友達も見てたでしょ」
「ああ」
「何か言われた?」
「何も」
「絶対言われてる」
琴葉が紅茶を飲みながら笑う。
「同じですよ」
「何て言われた?」
「瀬戸さんから」
「うん」
「そっちから言ってください」
「嫌です」
「じゃあ私も言いません」
「ずるいな」
「お互い様です」
しばらく互いに黙る。
先に耐えられなくなったのは悠介だった。
「……付き合ってるのって聞かれた」
琴葉の手が止まった。
「あ」
「そっちは?」
「同じです」
「やっぱり」
「やっぱりって何ですか」
「いや、そうかなって」
「それで?」
「何が?」
「何て答えたんですか」
悠介は一瞬迷った。
「友達って」
「……そうですか」
「宮下さんは?」
「同じです」
「そっか」
「はい」
会話が止まった。
なぜだろう。
何も間違っていない。
二人は友達だ。
付き合っているわけではない。
それなのに「友達」という言葉を改めて口にすると、少しだけ物足りないような感じがした。
琴葉も同じことを考えているのかは分からない。
彼女は窓の外を眺めながら、ストローのない紅茶をスプーンで意味もなく混ぜていた。
「……今日」
琴葉が言った。
「はい」
「帰り、本屋寄ってもいいですか?」
「本屋?」
「駅前の」
「いいですよ」
「欲しい本があって」
「じゃあ行きましょう」
友達。
その言葉の意味を考えるのは、それで一度終わった。
◇
駅前の本屋へ二人で入るのは初めてだった。
琴葉は店へ入るなり文芸書の棚へ向かい、悠介は特に欲しいものもないまま後ろについていった。
「これです」
琴葉が一冊の本を手に取る。
「小説?」
「はい」
「面白い?」
「まだ読んでないから買うんです」
「確かに」
「瀬戸さん、本当に本読まないですよね」
「最近読んでる」
「この前ひよりで開いてたやつ?」
「そう」
「どこまで行きました?」
「四十二ページ」
「二週間で?」
「結構進んだでしょ」
「全然」
「厳しいな文学部」
琴葉は呆れたように笑い、本棚からもう一冊取り出した。
「じゃあ、これ読んでみてください」
「何?」
「短編集」
「分厚い」
「一話ずつ短いから」
「宿題?」
「おすすめ」
「買えってこと?」
「貸します」
琴葉は自分が持っていた鞄を開き、同じ本を取り出した。
「持ってるの?」
「好きだから」
「だったら最初からそれ貸すつもりだった?」
「今日持ってたのは偶然です」
「本当に?」
「本当に」
差し出された本を受け取る。
表紙の角が少し擦れている。
何度も読んだのだろう。
「大事な本じゃないんですか」
「大事ですよ」
「俺に貸していいの?」
「返してくれるでしょ」
「まあ」
「じゃあ大丈夫」
琴葉はそう言って笑った。
悠介は本を鞄へ入れる。
借りた本。
ただそれだけなのに、少しだけ特別なものを預かったような気がした。
◇
本屋を出ると、空はもう暗くなり始めていた。
「お腹空きません?」
琴葉が言った。
「空いた」
「何か食べて帰ろうかな」
「ひよりで食べればよかった」
「ナポリタン?」
「一回食べてみたい」
「美味しいですよ」
「食べたことあるんだ」
「ひより歴一年ですから」
「先輩だった」
「敬ってください」
二人は駅前を歩きながら店を探した。
結局入ったのは、どこにでもあるような小さな定食屋だった。
向かい合って座り、悠介は生姜焼き定食、琴葉は唐揚げ定食を頼んだ。
「こういう店来るんですね」
悠介が言う。
「どういう意味ですか」
「もっと洒落たところ行くのかと」
「また偏見」
「文学部だから」
「文学部を何だと思ってるんですか」
「紅茶と本」
「瀬戸さんの中の文学部、たぶん百年前で止まってますよ」
「唐揚げ食べるんだ」
「食べますよ」
「安心した」
「何に?」
料理が運ばれてくる。
琴葉は普通に唐揚げへレモンを絞った。
「あ」
悠介が言う。
「何ですか」
「かける派なんだ」
「嫌いですか?」
「自分のなら好きにすれば」
「瀬戸さんは?」
「かけない」
「合わないですね」
「ここで?」
「重要ですよ」
「じゃあ友達やめる?」
何気なく言った。
琴葉は箸を止める。
「……それは嫌です」
悠介も一瞬だけ動きを止めた。
「冗談ですよ」
「分かってます」
琴葉は唐揚げを一つ食べる。
悠介も生姜焼きへ箸を伸ばした。
それ以上、その話はしなかった。
ただ「嫌です」と言った時の琴葉の声が、帰宅してからも少しだけ耳に残った。
◇
それから二人は、ひより以外でも会うようになった。
大学の食堂で一緒に昼を食べる日ができた。
講義の空き時間に図書館で待ち合わせることもあった。
琴葉が買い物へ行くと言えば悠介がついていき、悠介がアルバイトまで時間があると言えば琴葉が駅前を一緒に歩いた。
休日に会うことだけは、まだなかった。
大学へ行く日。
講義のある時間。
その延長に相手がいる。
二人の関係は、まだそのくらいだった。
けれど悠介のスマートフォンには琴葉からのメッセージが増えていた。
『今日四限休講になった』
『いいな』
『ひより先行ってるね』
『三十分くらいで行く』
『了解』
ある日は、
『今日バイト?』
『ある』
『そっか』
『どうした?』
『別に』
『その別に絶対何かあるだろ』
『ひより行こうかなと思っただけ』
『明日は?』
『行ける』
『じゃあ明日』
『うん。また明日』
そんな短いやり取りばかりだった。
特別な言葉は一つもない。
それでも通知欄に琴葉の名前が出ると、悠介は他のメッセージより先に開くようになっていた。
◇
六月最後の金曜日。
悠介はアルバイトを終え、午後十時過ぎに駅へ向かっていた。
スマートフォンが震える。
琴葉。
『起きてる?』
悠介は少し笑った。
『まだ十時だけど』
すぐ既読になる。
『瀬戸さんなら寝てるかと思って』
『俺を何歳だと思ってる』
『82』
『ひよりの店主より上じゃん』
『確かに』
『今バイト終わった』
『お疲れさま』
『宮下さんは?』
『課題中』
『頑張れ』
『飽きた』
『頑張れ』
『冷たい』
悠介は駅前のベンチへ座った。
電車まであと十分。
『電話する?』
送ってから、少しだけ迷った。
今まで二人は電話をしたことがない。
数秒。
既読。
少し間があって、
『する』
と返ってきた。
悠介が発信する。
「もしもし」
『もしもし』
いつも聞いている声なのに、電話越しだと少し違って聞こえる。
「課題は?」
『開いてます』
「やってない?」
『やってません』
「ダメじゃん」
『瀬戸さんが電話してきたから』
「人のせいにするなよ」
琴葉が笑う。
悠介も笑った。
そこから話し始める。
今日のバイト。
琴葉の課題。
昼に食べたもの。
店主が新しい珈琲豆を仕入れたと言っていたこと。
何の意味もない話だった。
電車が来た。
乗る。
降りる。
家まで歩く。
それでも電話は続いていた。
「もう家着いた」
『早いですね』
「駅から近いから」
『いいな』
「宮下さんは?」
『一人暮らしだから大学は近いです』
「実家帰りたい?」
『たまに』
「夏休み帰るんでしょ」
『うん』
少し間が空いた。
『八月の最初から一週間くらい』
「そっか」
『……何ですか』
「何が?」
『声』
「普通だけど」
『ちょっと残念そう』
「そんなことない」
『本当に?』
「一週間でしょ」
『うん』
「すぐじゃん」
『ですよね』
「……でも」
『でも?』
「ひより、一人になるな」
電話の向こうが静かになった。
「宮下さん?」
『私も今それ思ってました』
悠介は足を止めた。
『一週間、瀬戸さんいないのと同じだから』
「俺はいるよ」
『私からしたらいないのと同じです』
「なるほど」
『だから』
「うん」
『帰ってきたら、また行きましょう』
「ひより?」
『はい』
「もちろん」
琴葉が小さく笑う。
『よかった』
それからさらに三十分ほど話した。
電話を切ったのは午後十一時を過ぎてからだった。
『おやすみなさい』
「おやすみ」
『また明日』
「また明日」
通話が終わる。
悠介は暗くなった画面をしばらく見ていた。
その時初めて、あることに気づいた。
明日は土曜日だった。
大学は休み。
ひよりへ行く約束もしていない。
それなのに琴葉は「また明日」と言った。
悠介は少し考えてからメッセージを送った。
『明日って』
すぐ既読。
『何?』
『大学休みだけど』
少し時間が空いた。
『知ってる』
悠介は画面を見ながら笑った。
『じゃあ何時?』
今度はすぐに返ってきた。
『2時』
『ひより?』
『たまには違うところ行きません?』
悠介の指が止まる。
大学でもない。
講義のついででもない。
ひよりでもない。
二人が初めて、休日に会う。
『どこ行く?』
『それは明日決める』
『何も決めてないの?』
『はい』
『適当だな』
『嫌ですか?』
悠介は少しだけ考えた。
答えは考えるまでもなかった。
『全然』
『じゃあ駅前に2時』
『了解』
最後に琴葉から一つだけ届いた。
『また明日』
悠介も同じ言葉を返した。
『また明日』
それまで何度も使ってきた言葉だった。
喫茶店で別れる時。
駅の改札で別れる時。
メッセージを終える時。
いつの間にか二人にとって、それは単なる挨拶ではなくなっていた。
明日も会いたい。
たぶん、二人ともまだその意味を言葉にはしていなかった。
恋人ではない。
告白もしていない。
好きだと言ったこともない。
それでも明日が来れば、相手に会えることを当たり前のように期待している。
そんな関係になっていた。
◇
翌日、午後一時五十分。
悠介は駅前にいた。
約束より十分早い。
自分でも少し早すぎたと思う。
スマートフォンを見る。
琴葉からメッセージ。
『着きました』
時刻は一時五十一分。
悠介が顔を上げる。
少し離れた場所に琴葉が立っていた。
大学で見る服装とは少し違い、淡い色のワンピースに小さな鞄を持っている。
向こうも悠介を見つけた。
「あ」
笑う。
「早いですね」
「宮下さんも」
「十分前ですよ」
「俺も」
「何で?」
「そっちこそ」
二人とも答えない。
琴葉が笑った。
「じゃあ」
「うん」
「行きます?」
「どこへ?」
「まだ決めてません」
「本当に何も考えてなかったんだ」
「歩きながら決めましょう」
二人は並んで歩き始めた。
いつもの商店街とは反対方向へ。
ひよりも大学もない場所へ。
悠介はまだ、それをデートとは呼ばなかった。
琴葉もきっと同じだったと思う。
ただ二人とも、大学が休みの日にわざわざ早く家を出て、約束の時間より十分前に駅へ来ていた。
その理由については、どちらも聞かなかった。
聞いてしまえば、それまで曖昧だった何かに名前をつけなければならない気がしたから。
だからこの日は、まだ友達のままでよかった。
並んで歩ければ、それで十分だった。
そして別れる時にはきっと、また同じ言葉を交わすのだろう。
また明日。
その言葉を、いつまでも言えるような気がしていた。
――第四章「好きになるまで」へ続く。
六月も半ばを過ぎると、大学へ向かう道には夏の気配が少しずつ混じり始めていた。
梅雨が終わったわけではなく、朝には晴れていた空が午後になると突然曇り、講義を終えて校舎を出る頃には細かな雨が降っていることも珍しくない。それでも気温だけは確実に上がっていて、雨上がりの舗道から立ち上る湿った空気に触れるたび、悠介は今年も長い夏が近づいているのだと感じていた。
そんな季節の変化とは関係なく、悠介と琴葉の日常には一つの習慣ができていた。
講義が終わる。
大学を出る。
一本裏の商店街へ入る。
そして「ひより」の扉を開ける。
どちらが先に行くのかは決まっていない。
悠介が先の日もあれば、琴葉が窓際で本を読みながら待っている日もある。
最初の頃は「今日行く?」と確認していたのに、いつの間にかそれすら必要なくなっていた。
行けない日だけ連絡する。
そのために二人が連絡先を交換したのは、三度目に待ち合わせた日のことだった。
『こういう時、連絡先知らないの不便ですよね』
琴葉が何気なく言ったのがきっかけだった。
深い意味などなかったと思う。
悠介もそう思ってスマートフォンを取り出した。
それなのに家へ帰ったあと、連絡先に追加された「宮下琴葉」という名前を何度か開いてしまったことは誰にも言っていない。
◇
「今日、遅かったですね」
六月二十一日の午後四時過ぎ、悠介がひよりへ入ると、琴葉はすでにいつもの席に座っていた。
「教授の話が終わらなくて」
「四限?」
「そう。終了時間過ぎてるのに『最後に一つだけ』って言って、そこから十五分」
「最後じゃないですね」
「最後の中に最後が何個もあるタイプ」
「いる」
琴葉が笑いながら本を閉じる。
悠介は向かいの椅子へ鞄を置いた。
「アイス珈琲でいい?」
店主が聞く。
「お願いします」
「もう注文聞く必要ないな」
「たまには変えるかもしれないですよ」
「じゃあ今日はクリームソーダ?」
「アイス珈琲で」
「ほら」
店主が笑いながら戻っていく。
琴葉が小さく笑った。
「完全に常連ですね」
「宮下さんもでしょ」
「私は先輩です」
「何の?」
「ひより歴」
「一年違うだけじゃないですか」
「一年は大きいですよ」
「じゃあ先輩、今日のおすすめは?」
「紅茶」
「自分が飲んでるだけでしょ」
「おすすめです」
こんな会話をすることにも、もう慣れていた。
最初の頃は沈黙になると少しだけ気まずくて、何か話題を探していた気がする。
今は違う。
琴葉が本を読んでいる隣で悠介がスマートフォンを見ていても、何とも思わない。
話したくなれば話す。
黙りたければ黙る。
同じテーブルにいながら、それぞれ別のことをしている時間さえ心地よかった。
悠介は運ばれてきた珈琲を一口飲み、窓の外を眺めた。
「夏休み、何かするんですか?」
「急ですね」
「暑くなってきたから」
「理由になってます?」
「たぶん」
琴葉は本に栞を挟んだ。
「実家帰るくらいかな」
「実家、遠いんですか?」
「電車で二時間くらい」
「微妙」
「そうなんですよ。遠くはないけど気軽に帰るほど近くもない」
「何日くらい?」
「一週間くらいかな。瀬戸さんは?」
「ほぼバイト」
「寂しい大学生」
「金がないんです」
「現実的」
「宮下さんみたいに優雅に紅茶飲んでる場合じゃない」
「瀬戸さんも毎週珈琲飲んでるじゃないですか」
「これは必要経費」
「何の?」
悠介は答えようとして、少し考えた。
「……大学生活?」
「広いなあ」
琴葉が笑った。
悠介も笑いながらグラスを持つ。
ただ、その時ふと思った。
琴葉が実家へ帰れば、一週間は会わない。
当たり前のことなのに、その一週間を少し長いと感じている自分がいた。
◇
それから数日後、二人は初めて大学の中で偶然会った。
昼休み。
悠介が友人と食堂へ向かっている途中、向こうから琴葉が歩いてきた。
隣には女性が二人いる。
琴葉もすぐに悠介へ気づいた。
「あ」
足を止める。
「お疲れ」
「お疲れさまです」
いつもなら普通の会話だった。
けれど大学で会うと、なぜか妙に違和感があった。
ひよりでは何時間も話しているのに、大学という別の場所で見る琴葉は、少しだけ知らない人のように見える。
「今日行きます?」
琴葉が聞いた。
「行く」
「じゃああとで」
「うん」
それだけ言って別れる。
数歩進んだところで、隣を歩いていた友人が悠介を見る。
「誰?」
「友達」
「文学部?」
「うん」
「いつの間に文学部に友達できたんだよ」
「喫茶店で」
「喫茶店?」
「前言っただろ」
「ああ、最近通ってるところ?」
「そう」
友人は一度振り返り、遠ざかる琴葉を見た。
「へえ」
「何」
「いや」
「何だよ」
「喫茶店ってそういうことか」
「どういうことだよ」
「別に」
「お前もそれ言うのかよ」
「何の話?」
「何でもない」
友人はニヤニヤしている。
「付き合ってんの?」
「違う」
「じゃあ好きなの?」
「違うって」
「即答」
「普通に友達」
「毎日のように喫茶店で会う?」
「毎日じゃない」
「週何回?」
「二、三回」
「十分多いだろ」
「たまたま」
「待ち合わせて?」
「……最近は」
「それ、たまたまって言わないんだよ」
悠介は面倒になって歩く速度を上げた。
「飯行くぞ」
「逃げた」
「腹減っただけ」
友人の笑い声を背中で聞きながら、悠介は少しだけ考えていた。
好きなのか。
聞かれてすぐに否定した。
別に嘘をついたつもりはない。
琴葉といるのは楽しい。
会えれば嬉しい。
連絡が来れば少し気になる。
でも、それが恋愛なのかと言われればよく分からない。
ただ一つ確かなのは、琴葉と出会う前より大学へ来るのが少し楽しくなったということだった。
◇
その日の夕方、ひよりへ行くと琴葉は先に来ていた。
「さっき一緒にいた人、友達ですか?」
「高校からの」
「何かこっち見てましたよね」
「気にしなくていいです」
「何か言ってました?」
「何も」
「怪しい」
「宮下さんの友達も見てたでしょ」
「ああ」
「何か言われた?」
「何も」
「絶対言われてる」
琴葉が紅茶を飲みながら笑う。
「同じですよ」
「何て言われた?」
「瀬戸さんから」
「うん」
「そっちから言ってください」
「嫌です」
「じゃあ私も言いません」
「ずるいな」
「お互い様です」
しばらく互いに黙る。
先に耐えられなくなったのは悠介だった。
「……付き合ってるのって聞かれた」
琴葉の手が止まった。
「あ」
「そっちは?」
「同じです」
「やっぱり」
「やっぱりって何ですか」
「いや、そうかなって」
「それで?」
「何が?」
「何て答えたんですか」
悠介は一瞬迷った。
「友達って」
「……そうですか」
「宮下さんは?」
「同じです」
「そっか」
「はい」
会話が止まった。
なぜだろう。
何も間違っていない。
二人は友達だ。
付き合っているわけではない。
それなのに「友達」という言葉を改めて口にすると、少しだけ物足りないような感じがした。
琴葉も同じことを考えているのかは分からない。
彼女は窓の外を眺めながら、ストローのない紅茶をスプーンで意味もなく混ぜていた。
「……今日」
琴葉が言った。
「はい」
「帰り、本屋寄ってもいいですか?」
「本屋?」
「駅前の」
「いいですよ」
「欲しい本があって」
「じゃあ行きましょう」
友達。
その言葉の意味を考えるのは、それで一度終わった。
◇
駅前の本屋へ二人で入るのは初めてだった。
琴葉は店へ入るなり文芸書の棚へ向かい、悠介は特に欲しいものもないまま後ろについていった。
「これです」
琴葉が一冊の本を手に取る。
「小説?」
「はい」
「面白い?」
「まだ読んでないから買うんです」
「確かに」
「瀬戸さん、本当に本読まないですよね」
「最近読んでる」
「この前ひよりで開いてたやつ?」
「そう」
「どこまで行きました?」
「四十二ページ」
「二週間で?」
「結構進んだでしょ」
「全然」
「厳しいな文学部」
琴葉は呆れたように笑い、本棚からもう一冊取り出した。
「じゃあ、これ読んでみてください」
「何?」
「短編集」
「分厚い」
「一話ずつ短いから」
「宿題?」
「おすすめ」
「買えってこと?」
「貸します」
琴葉は自分が持っていた鞄を開き、同じ本を取り出した。
「持ってるの?」
「好きだから」
「だったら最初からそれ貸すつもりだった?」
「今日持ってたのは偶然です」
「本当に?」
「本当に」
差し出された本を受け取る。
表紙の角が少し擦れている。
何度も読んだのだろう。
「大事な本じゃないんですか」
「大事ですよ」
「俺に貸していいの?」
「返してくれるでしょ」
「まあ」
「じゃあ大丈夫」
琴葉はそう言って笑った。
悠介は本を鞄へ入れる。
借りた本。
ただそれだけなのに、少しだけ特別なものを預かったような気がした。
◇
本屋を出ると、空はもう暗くなり始めていた。
「お腹空きません?」
琴葉が言った。
「空いた」
「何か食べて帰ろうかな」
「ひよりで食べればよかった」
「ナポリタン?」
「一回食べてみたい」
「美味しいですよ」
「食べたことあるんだ」
「ひより歴一年ですから」
「先輩だった」
「敬ってください」
二人は駅前を歩きながら店を探した。
結局入ったのは、どこにでもあるような小さな定食屋だった。
向かい合って座り、悠介は生姜焼き定食、琴葉は唐揚げ定食を頼んだ。
「こういう店来るんですね」
悠介が言う。
「どういう意味ですか」
「もっと洒落たところ行くのかと」
「また偏見」
「文学部だから」
「文学部を何だと思ってるんですか」
「紅茶と本」
「瀬戸さんの中の文学部、たぶん百年前で止まってますよ」
「唐揚げ食べるんだ」
「食べますよ」
「安心した」
「何に?」
料理が運ばれてくる。
琴葉は普通に唐揚げへレモンを絞った。
「あ」
悠介が言う。
「何ですか」
「かける派なんだ」
「嫌いですか?」
「自分のなら好きにすれば」
「瀬戸さんは?」
「かけない」
「合わないですね」
「ここで?」
「重要ですよ」
「じゃあ友達やめる?」
何気なく言った。
琴葉は箸を止める。
「……それは嫌です」
悠介も一瞬だけ動きを止めた。
「冗談ですよ」
「分かってます」
琴葉は唐揚げを一つ食べる。
悠介も生姜焼きへ箸を伸ばした。
それ以上、その話はしなかった。
ただ「嫌です」と言った時の琴葉の声が、帰宅してからも少しだけ耳に残った。
◇
それから二人は、ひより以外でも会うようになった。
大学の食堂で一緒に昼を食べる日ができた。
講義の空き時間に図書館で待ち合わせることもあった。
琴葉が買い物へ行くと言えば悠介がついていき、悠介がアルバイトまで時間があると言えば琴葉が駅前を一緒に歩いた。
休日に会うことだけは、まだなかった。
大学へ行く日。
講義のある時間。
その延長に相手がいる。
二人の関係は、まだそのくらいだった。
けれど悠介のスマートフォンには琴葉からのメッセージが増えていた。
『今日四限休講になった』
『いいな』
『ひより先行ってるね』
『三十分くらいで行く』
『了解』
ある日は、
『今日バイト?』
『ある』
『そっか』
『どうした?』
『別に』
『その別に絶対何かあるだろ』
『ひより行こうかなと思っただけ』
『明日は?』
『行ける』
『じゃあ明日』
『うん。また明日』
そんな短いやり取りばかりだった。
特別な言葉は一つもない。
それでも通知欄に琴葉の名前が出ると、悠介は他のメッセージより先に開くようになっていた。
◇
六月最後の金曜日。
悠介はアルバイトを終え、午後十時過ぎに駅へ向かっていた。
スマートフォンが震える。
琴葉。
『起きてる?』
悠介は少し笑った。
『まだ十時だけど』
すぐ既読になる。
『瀬戸さんなら寝てるかと思って』
『俺を何歳だと思ってる』
『82』
『ひよりの店主より上じゃん』
『確かに』
『今バイト終わった』
『お疲れさま』
『宮下さんは?』
『課題中』
『頑張れ』
『飽きた』
『頑張れ』
『冷たい』
悠介は駅前のベンチへ座った。
電車まであと十分。
『電話する?』
送ってから、少しだけ迷った。
今まで二人は電話をしたことがない。
数秒。
既読。
少し間があって、
『する』
と返ってきた。
悠介が発信する。
「もしもし」
『もしもし』
いつも聞いている声なのに、電話越しだと少し違って聞こえる。
「課題は?」
『開いてます』
「やってない?」
『やってません』
「ダメじゃん」
『瀬戸さんが電話してきたから』
「人のせいにするなよ」
琴葉が笑う。
悠介も笑った。
そこから話し始める。
今日のバイト。
琴葉の課題。
昼に食べたもの。
店主が新しい珈琲豆を仕入れたと言っていたこと。
何の意味もない話だった。
電車が来た。
乗る。
降りる。
家まで歩く。
それでも電話は続いていた。
「もう家着いた」
『早いですね』
「駅から近いから」
『いいな』
「宮下さんは?」
『一人暮らしだから大学は近いです』
「実家帰りたい?」
『たまに』
「夏休み帰るんでしょ」
『うん』
少し間が空いた。
『八月の最初から一週間くらい』
「そっか」
『……何ですか』
「何が?」
『声』
「普通だけど」
『ちょっと残念そう』
「そんなことない」
『本当に?』
「一週間でしょ」
『うん』
「すぐじゃん」
『ですよね』
「……でも」
『でも?』
「ひより、一人になるな」
電話の向こうが静かになった。
「宮下さん?」
『私も今それ思ってました』
悠介は足を止めた。
『一週間、瀬戸さんいないのと同じだから』
「俺はいるよ」
『私からしたらいないのと同じです』
「なるほど」
『だから』
「うん」
『帰ってきたら、また行きましょう』
「ひより?」
『はい』
「もちろん」
琴葉が小さく笑う。
『よかった』
それからさらに三十分ほど話した。
電話を切ったのは午後十一時を過ぎてからだった。
『おやすみなさい』
「おやすみ」
『また明日』
「また明日」
通話が終わる。
悠介は暗くなった画面をしばらく見ていた。
その時初めて、あることに気づいた。
明日は土曜日だった。
大学は休み。
ひよりへ行く約束もしていない。
それなのに琴葉は「また明日」と言った。
悠介は少し考えてからメッセージを送った。
『明日って』
すぐ既読。
『何?』
『大学休みだけど』
少し時間が空いた。
『知ってる』
悠介は画面を見ながら笑った。
『じゃあ何時?』
今度はすぐに返ってきた。
『2時』
『ひより?』
『たまには違うところ行きません?』
悠介の指が止まる。
大学でもない。
講義のついででもない。
ひよりでもない。
二人が初めて、休日に会う。
『どこ行く?』
『それは明日決める』
『何も決めてないの?』
『はい』
『適当だな』
『嫌ですか?』
悠介は少しだけ考えた。
答えは考えるまでもなかった。
『全然』
『じゃあ駅前に2時』
『了解』
最後に琴葉から一つだけ届いた。
『また明日』
悠介も同じ言葉を返した。
『また明日』
それまで何度も使ってきた言葉だった。
喫茶店で別れる時。
駅の改札で別れる時。
メッセージを終える時。
いつの間にか二人にとって、それは単なる挨拶ではなくなっていた。
明日も会いたい。
たぶん、二人ともまだその意味を言葉にはしていなかった。
恋人ではない。
告白もしていない。
好きだと言ったこともない。
それでも明日が来れば、相手に会えることを当たり前のように期待している。
そんな関係になっていた。
◇
翌日、午後一時五十分。
悠介は駅前にいた。
約束より十分早い。
自分でも少し早すぎたと思う。
スマートフォンを見る。
琴葉からメッセージ。
『着きました』
時刻は一時五十一分。
悠介が顔を上げる。
少し離れた場所に琴葉が立っていた。
大学で見る服装とは少し違い、淡い色のワンピースに小さな鞄を持っている。
向こうも悠介を見つけた。
「あ」
笑う。
「早いですね」
「宮下さんも」
「十分前ですよ」
「俺も」
「何で?」
「そっちこそ」
二人とも答えない。
琴葉が笑った。
「じゃあ」
「うん」
「行きます?」
「どこへ?」
「まだ決めてません」
「本当に何も考えてなかったんだ」
「歩きながら決めましょう」
二人は並んで歩き始めた。
いつもの商店街とは反対方向へ。
ひよりも大学もない場所へ。
悠介はまだ、それをデートとは呼ばなかった。
琴葉もきっと同じだったと思う。
ただ二人とも、大学が休みの日にわざわざ早く家を出て、約束の時間より十分前に駅へ来ていた。
その理由については、どちらも聞かなかった。
聞いてしまえば、それまで曖昧だった何かに名前をつけなければならない気がしたから。
だからこの日は、まだ友達のままでよかった。
並んで歩ければ、それで十分だった。
そして別れる時にはきっと、また同じ言葉を交わすのだろう。
また明日。
その言葉を、いつまでも言えるような気がしていた。
――第四章「好きになるまで」へ続く。



