いつもの席で、また明日

第二章 名前を知った日

 翌日の午後、四限の講義が終わる少し前から、悠介は窓の外ばかり気にしていた。

 昨日一日降り続いていた雨はすっかり上がり、大学の中庭にはまだ小さな水たまりが残っていたものの、雲の切れ間から差し込む陽射しは昨日よりずっと明るく、開け放たれた窓から入ってくる風には初夏らしい柔らかな匂いが混じっていた。

 教壇では教授が残り時間を気にする様子もなく話を続けている。

 悠介はノートを取りながら、昨日駅前で別れた琴葉の言葉を思い出していた。

『たぶん明日』

 壊れた折り畳み傘を「ひより」に置いてきたことに気づき、彼女は確かにそう言った。

 そして最後に、

『また明日』

 と笑った。

 別に約束をしたわけではない。

 何時に会おうとも言っていないし、そもそも琴葉は傘を取りに行くだけで、悠介に会いに来るわけでもない。

 それくらい分かっている。

 それなのに講義が終わると、悠介はいつもより少しだけ早く荷物を鞄へ入れていた。

「瀬戸、今日バイト?」

 隣に座っていた友人に聞かれ、悠介は立ち上がりながら首を横に振った。

「今日はない」

「じゃあ飯行かない?」

「悪い、ちょっと寄るところある」

「珍しいな。どこ?」

「喫茶店」

「……お前が?」

「何だよ」

「いや、お前が一人で喫茶店に通うような大学生活送ってたことに驚いてる」

「失礼だな」

「ファミレスでドリンクバー五時間粘るタイプだと思ってた」

「それは高校まで」

「大学生になって急に品が出たな」

「珈琲飲んでるだけだよ」

 適当に手を振って教室を出たものの、喫茶店へ向かう理由を聞かれた時に琴葉のことを言わなかった自分が少しだけ気になった。

 まだ何でもない。

 昨日初めて話しただけの相手だ。

 それなのに説明するのが妙に照れくさかった。



 大学を出て、いつもの大通りではなく一本裏の商店街へ入る。

 昨日まで降り続いた雨の名残で路面はところどころ濡れていて、古い店の軒先から落ちる雫が陽射しを受け、小さく光っていた。

 八百屋の前を通り、文房具店を過ぎる。

 その先に「ひより」の看板が見えてきた時、悠介はほんの少し歩く速度を落とした。

 別に緊張する必要なんてない。

 そう思いながら扉を開ける。

 小さなベルが鳴った。

「いらっしゃい」

 いつもの店主の声がする。

 悠介は無意識に窓際へ目を向けた。

 誰もいなかった。

「あれ」

 思わず声が漏れる。

「どうした?」

「いや、別に」

 店主がこちらを見る。

「アイス?」

「今日はアイスで」

「はいよ」

 いつもの席へ座り、鞄を隣の椅子へ置いた。

 琴葉の窓際の席は空いている。

 昨日までなら何も思わなかったはずなのに、その空席が妙に目についた。

 時計を見る。

 午後四時二十七分。

 昨日この時間にはいたような気がする。

 いや、そもそも昨日と今日で講義の時間割が同じとは限らない。

 文学部なら校舎だって違う。

 帰宅したかもしれないし、友達とどこかへ行っているかもしれない。

 そんな当たり前のことを考えていると、店主がアイス珈琲を持ってきた。

「はい」

「ありがとうございます」

 グラスを受け取る。

 店主は戻らない。

「……何ですか」

「いや」

「何です?」

「今日は窓際見てるなと思って」

「見てないですよ」

「見てたよ」

「席が空いてたから」

「いつも空いてる時あるけど」

「よく見てますね」

「店主だからね」

 悠介はストローを触りながら店主から視線を逸らした。

「昨日の子ならまだ来てないよ」

「聞いてないです」

「そう?」

「傘を忘れてたから、取りに来るのかなと思っただけです」

「なるほどね」

「何ですか、その言い方」

「何も」

 店主は笑いながらカウンターへ戻っていった。

 悠介は小さく息を吐き、本を取り出した。

 普段ほとんど読まない文庫本だった。

 以前友人から借りたままになっていたもので、せっかく喫茶店に来るなら少しくらい読んでみようと思って持ってきた。

 ページを開く。

 三行読む。

 入口のベルが鳴る。

 顔を上げる。

 年配の女性だった。

 また本へ戻る。

 五行。

 ベル。

 顔を上げる。

 会社員らしい男性。

「……何してんだ俺」

 自分でも少しおかしくなって、悠介は苦笑した。

 待っているつもりなんてなかった。

 なのに完全に待っている。

 それを認めたくなくて、今度こそ本へ集中しようとした時だった。

 カラン。

 ベルが鳴った。

「こんにちは」

 聞き覚えのある声に、今度は考えるより先に顔を上げていた。

 宮下琴葉が立っていた。

 白いブラウスに淡い色のデニムを合わせ、肩には小さな鞄を掛けている。

 彼女は店内を見回し、悠介を見つけると少し驚いたあとで笑った。

「あ、本当にいた」

 その一言が妙に嬉しかった。

「本当にって何ですか」

「いるかなって思ってたので」

「俺も」

 言ってから気づく。

 琴葉が少し目を丸くする。

「私が?」

「いや、傘取りに来るって言ってたから」

「ああ」

 琴葉が笑う。

「そういうことですね」

「そういうことです」

 なぜか必死に言い直している自分が恥ずかしい。

 店主がカウンターから声をかけた。

「傘なら預かってるよ」

「すみません。完全に忘れてました」

「昨日も忘れて帰ったからね」

「それは雨のせいです」

「雨のせいにされたら雨も困るよ」

 琴葉は笑いながら店主から壊れた折り畳み傘を受け取った。

 そのままいつもの窓際へ向かおうとして、途中で足を止める。

 悠介を見る。

 自分の席を見る。

 そして窓際を見る。

「……どうしよう」

「何が?」

「昨日あれだけ話したのに、今日また一個空けて座るの変じゃないですか」

 悠介は思わず笑った。

「確かに」

「でも急に同じテーブルも変かなって」

「別にいいんじゃないですか」

「どっちが?」

「同じテーブル」

 言ってから少し緊張した。

 琴葉はほんの一瞬考え、それから鞄を悠介の向かいの椅子へ置いた。

「じゃあ、今日だけ」

「今日だけなんだ」

「まだ二日目ですから」

「何の二日目?」

「ちゃんと話すようになってから」

「そこ数えてるんですか」

「今決めました」

 琴葉はそう言って笑った。

 それが、二人が初めて同じテーブルに座った日だった。



「宮下さんって、いつからここ来てるんですか?」

 注文した紅茶が運ばれてくると、悠介は前から少し気になっていたことを聞いた。

「一年くらい前かな」

「そんな前から?」

「一年生の時からです。大学の友達に教えてもらって」

「その友達は?」

「もう来てません」

「何で?」

「駅前に新しいカフェできたから」

「ああ」

「そっちの方が写真映えするらしいです」

「確かにここ、写真映えは」

 悠介は店内を見回す。

 年季の入った木製テーブル。

 少し色褪せた壁。

 古い振り子時計。

 カウンターには店主が適当に置いたらしい新聞。

「しないですね」

「そこは否定してくださいよ」

 琴葉が笑う。

「でも宮下さんは残ったんですね」

「こっちの方が好きなので」

「何で?」

 琴葉は紅茶を一口飲んでから、窓の外を見る。

「静かだからかな」

「それだけ?」

「あと、誰も急いでないから」

 悠介は少しだけ首を傾げた。

「誰も急いでない?」

「大学って、みんな結構急いでません?」

「授業とか?」

「それもあるけど、就活どうするとか、資格取らなきゃとか、インターン行かなきゃとか、一年生の時からそういう話ばっかりする人もいるじゃないですか」

「いる」

「もちろん大事なんですけど、ずっと先のことばっかり考えてると疲れるんですよね」

 琴葉は店内を見回す。

「ここに来ると、おじさんが普通に珈琲淹れてて、時計が動いてて、外を人が歩いてて、それだけだから」

「おじさん呼ばわりされてるぞ」

 カウンターから店主の声が飛んできた。

「聞いてたんですか?」

「狭い店だからね」

「すみません」

「お兄さんなら許す」

「それは無理です」

「ひどいな」

 悠介は笑った。

 琴葉も笑う。

 その笑顔を見ながら、昨日より少しだけ彼女のことを知った気がした。

 文学部の大学二年生。

 一年前からひよりへ通っている。

 紅茶をよく飲む。

 窓際の席が好き。

 そして、少しだけ急ぐのが苦手。

 昨日まで名前すら知らなかった人の情報が、自分の中へ一つずつ増えていく。

 それがなぜか面白かった。



「瀬戸さんは?」

「何が?」

「何でここ来るようになったんですか」

「ああ、偶然です」

「偶然?」

「講義が休講になった日に、いつもと違う道通ったら見つけて」

「それだけ?」

「それだけです」

「へえ」

「何ですか」

「いや」

 琴葉が少しだけ笑う。

「最初の日、覚えてます」

「俺が来た日?」

「はい」

「何で?」

「入口でめちゃくちゃ店内見てたから」

「そんな見てました?」

「見てました。入る店間違えた人みたいに」

「初めてだったから」

「それで私の近くに座った」

「席空いてたからですよ」

「別に何も言ってません」

「その言い方だと何かあるでしょ」

 琴葉が楽しそうに笑った。

「それから何回も来るようになりましたよね」

「気に入ったんで」

「珈琲が?」

「それもある」

「それも?」

 悠介は少し言葉に詰まった。

 店が落ち着く。

 珈琲も好きになった。

 店主との会話も悪くない。

 それは全部本当だった。

 ただ、いつからかこの店へ来る理由の中に、窓際にいる彼女が加わっていたことも否定できない。

「雰囲気とか」

「なるほど」

「何ですか、その顔」

「別に」

 琴葉が紅茶を飲む。

 どこか店主に似た反応だった。

「この店の人、みんなそれ言うな」

「何を?」

「別にって」

「便利な言葉ですから」

「文学部っぽい」

「それ言えばいいと思ってますよね」

「バレた?」

「昨日からバレてます」



 その日は、気がつけば二時間近く話していた。

 大学のこと。

 アルバイトのこと。

 高校時代のこと。

 好きな食べ物。

 苦手な授業。

 最近見た映画。

 琴葉が本を読むようになった理由。

 悠介が経済学部を選んだのは特に経済が好きだったからではなく、将来やりたいことが決まっていなかったからだという話。

 何か特別な話をしたわけではない。

 むしろ、あとから思い出そうとしても全部は思い出せないくらい、どうでもいい会話ばかりだった。

 それでも話は途切れなかった。

「もうこんな時間」

 琴葉が時計を見た。

 午後六時四十八分。

「二時間いた?」

「いましたね」

「課題やるつもりだったのに」

「俺のせい?」

「半分くらい」

「宮下さんも話してたでしょ」

「半分は私のせいです」

「じゃあ五分五分」

「ですね」

 琴葉はノートを鞄へしまった。

 悠介も本を閉じる。

 結局、十ページも読んでいなかった。

「帰ります?」

「はい」

 二人で会計を済ませる。

 店を出ると、雨上がりの空には薄い夕焼けが残っていた。

「今日も駅?」

「はい」

「じゃあ一緒に」

「今日は傘いらないですよ」

「別に傘がないと一緒に帰っちゃいけないわけじゃないでしょ」

 悠介が言うと、琴葉は少しだけ驚いてから笑った。

「確かに」

 二人で駅へ向かう。

 昨日は一本の傘の下だった。

 今日は少し離れて並んで歩く。

 それでも昨日より距離が近く感じた。



 商店街を抜ける頃、琴葉がふと聞いた。

「瀬戸さんって下の名前、悠介でしたよね」

「そうです」

「漢字は?」

「悠々の悠に、介護の介」

「説明が急に現実的」

「他に思いつかなかった」

「悠介」

 琴葉が小さく口にする。

 自分の名前なのに、彼女が言うと少し違って聞こえた。

「宮下さんは琴葉ですよね」

「はい」

「琴に葉っぱ?」

「そうです」

「文学部っぽい」

「またそれ」

「でも本当に」

「名前で学部決めてませんからね」

「親が予言したのかも」

「だったら瀬戸さんは何なんですか」

「悠々と介護する」

「福祉学部行った方がよかったんじゃないですか」

「今から転部しようかな」

「頑張ってください」

 くだらない話をしながら駅へ着く。

 昨日と同じ場所。

 二人の使う路線は違うから、ここで別れる。

「じゃあ」

 琴葉が言う。

「また」

 そこで言葉を止めた。

「何ですか?」

「明日、私三限までなんですよね」

「俺もです」

「……じゃあ」

 少しだけ間があった。

「ひより、行きます?」

 悠介は笑った。

「行きます」

「何時くらい?」

「三時半とか」

「じゃあ私もそれくらいに」

 昨日は偶然だった。

 今日は何となくだった。

 でも明日は違う。

 二人が初めて、同じ時間に同じ場所へ行く約束をした。

「じゃあ三時半」

「はい」

 琴葉が改札へ向かう。

 そして昨日と同じように振り返った。

「また明日」

 悠介も手を上げる。

「また明日」

 昨日と同じ言葉だった。

 けれど、その意味はほんの少しだけ変わっていた。



 翌日。

 午後三時二十二分。

 悠介は「ひより」の扉を開けた。

「いらっしゃい」

 店主が時計を見る。

「今日は早いね」

「そうですか?」

「いつも四時過ぎじゃない」

「たまたまです」

「へえ」

「何ですか」

「別に」

「またそれ」

 窓際を見る。

 琴葉はまだ来ていない。

 悠介はいつもの一つ離れた席ではなく、昨日二人で座ったテーブルへ向かった。

 アイス珈琲を注文する。

 時計を見る。

 三時二十七分。

 二十八分。

 スマートフォンを触る。

 まだ連絡先は知らない。

 もし来なかったとしても、確認する方法はない。

 そもそも約束といっても「三時半くらい」という程度だ。

 三時三十一分。

 ベルが鳴った。

「こんにちは」

 琴葉だった。

 悠介を見つける。

「あ、早い」

「そっちが遅い」

「一分ですよ」

「俺十分前からいます」

「それは瀬戸さんが早すぎるんです」

 琴葉が向かいへ座る。

「待ちました?」

「別に」

「便利な言葉使ってる」

「宮下さんに教わったんで」

「じゃあ許します」

 琴葉が笑う。

 悠介も笑った。

 店主がカウンターから声をかける。

「紅茶?」

「お願いします」

「はいよ」

 いつもの店。

 いつもの窓際。

 いつもの珈琲と紅茶。

 昨日までと何も変わっていないはずなのに、悠介には少しだけ違って見えた。

 偶然同じ店にいた二人が、今日は会うためにここへ来ている。

 その違いはとても小さくて、まだ恋なんて言葉を使うほどではなかった。

 それでも、この頃からだったのだと思う。

 大学が終われば、ひよりへ行く。

 ひよりへ行けば、琴葉がいる。

 琴葉がいれば、帰りは一緒に駅まで歩く。

 そんな日々が少しずつ当たり前になっていったのは。

 そして当時の僕たちは、その当たり前に終わりがあるなんて考えもしなかった。

 むしろ明日も、その次の日も、そのまた次の日も同じように続いていくのだと、何の根拠もなく信じていた。

 だからその日も、帰り際に同じ言葉を交わした。

「また明日」

「うん、また明日」

 いつか言えなくなる日が来ることなど、まだ知らないまま。

――第三章「また明日」へ続く。