最終章 いつもの窓際の席
琴葉と別れてから、季節が一つ変わった。
夏の終わりに聞こえていた蝉の声はいつの間にか消え、朝晩の空気が少しずつ冷たくなっていた。
悠介の生活は、驚くほど普通に続いていた。
朝起きる。
会社へ行く。
仕事をする。
昼を食べる。
夕方になれば帰る。
たまに同期と飲みに行き、休日には友人と出かけることもある。
仕事にも慣れた。
上司から任されることが増え、後輩から質問されることも増えた。
何か面白いことがあれば笑うし、疲れれば早く寝る。
琴葉がいなくなったからといって、日常が止まることはなかった。
それが少し不思議だった。
大学時代の悠介に、いつか琴葉と別れる日が来ると教えたなら、きっともっと大変なことを想像したと思う。
何も手につかなくなるとか、毎日思い出して苦しくなるとか、何か大きく変わるものだと思ったかもしれない。
実際は違った。
傷ついていても腹は減る。
朝になれば目は覚める。
月曜日になれば仕事へ行かなければならない。
そして、そうやって毎日を繰り返しているうちに、琴葉を思い出さない時間が少しずつ増えていった。
忘れたわけではない。
ただ、思い出が生活の真ん中から少しずつ端へ移動していった。
それだけだった。
◇
十一月のある土曜日。
悠介は久しぶりに商店街を歩いていた。
特に目的はなかった。
午前中に用事を済ませ、昼を食べる場所を考えながら歩いているうちに、気づけば昔と同じ道へ入っていた。
角を曲がる。
少し色の褪せた外壁。
小さな木の看板。
黒板には白い文字で、
『本日の珈琲』
と書かれている。
喫茶ひより。
悠介は店の前で立ち止まった。
最後に来たのは二か月ほど前だった。
琴葉と別れたあと、一人で窓際に座った日。
それ以来、何となく来ていなかった。
避けていたわけではない。
ただ、行く理由が少し薄くなっていた。
悠介は扉を開ける。
小さなベルが鳴った。
「いらっしゃい」
聞き慣れた声。
店主がカウンターの奥から顔を上げる。
「久しぶり」
「お久しぶりです」
「元気そうだね」
「まあまあです」
「今日は仕事?」
「休みです」
「珍しいね、この時間」
「何となく来ました」
「それが一番いいよ」
店主が笑う。
悠介も少し笑った。
店内を見る。
休日の昼過ぎということもあって、いつもより客が多かった。
カウンターに一人。
奥のテーブルに老夫婦。
大学生らしい二人組。
そして窓際の席は、
空いていた。
悠介はそこへ向かった。
◇
「いつもの?」
店主が聞く。
「お願いします」
「今の季節ならホットでいい?」
「はい」
「了解」
悠介は椅子へ座る。
向かいには誰もいない。
それがもう、以前ほど不自然には感じられなかった。
窓の外を人が歩いている。
親子。
買い物袋を持つ夫婦。
自転車で通り過ぎる高校生。
大学生らしい二人が笑いながら駅の方向へ向かっている。
昔、自分たちもあんなふうに歩いていたのだろうかと思う。
「どうぞ」
店主が珈琲を置く。
「ありがとうございます」
「仕事は?」
「順調です」
「そう」
「最近ちょっと任されること増えて」
「いいじゃない」
「その分忙しいですけど」
「若いうちは忙しいくらいがいい」
「店主みたいなこと言いますね」
「店主だからね」
悠介が笑う。
「そういう意味じゃないです」
「分かってるよ」
店主はカウンターへ戻る。
相変わらずだった。
その変わらなさがありがたかった。
◇
珈琲を飲みながら、悠介はスマートフォンを取り出した。
何となく写真を開く。
最近の仕事関係の写真。
友人と食べた料理。
会社の飲み会。
旅行先の風景。
指を動かしているうちに、少し古い写真が出てきた。
青い水槽。
その前に並んだ二人。
初めて一緒に撮った写真だった。
一枚目では少し固い。
二枚目では琴葉が笑っていて、悠介もつられて笑っている。
「消さないでくださいよ」
あの日、琴葉が言った。
「機種変しても?」
「そこまで?」
「せっかく二人で撮った最初の写真だから」
悠介は、そのやり取りまで覚えていた。
写真は今も残っている。
消そうと思ったことはない。
見ないようにしたこともない。
ただ、以前ほど頻繁には開かなくなった。
悠介は少しだけ写真を見てから、画面を閉じた。
悲しくはなかった。
少し懐かしかった。
それで十分だった。
◇
「そういえば」
店主がカウンターから言った。
「はい?」
「琴葉ちゃん、先月来たよ」
悠介の手が少し止まった。
「……そうなんですか」
「うん」
「いつ?」
「三週間くらい前かな」
「一人で?」
「一人」
悠介は珈琲を見る。
「元気そうでした?」
「元気そうだったよ」
「そっか」
「仕事忙しいって」
「でしょうね」
それ以上聞くべきか少し迷った。
東京でどうしているのか。
今も出版社で働いているのか。
仕事は楽しいのか。
誰か新しい人がいるのか。
聞こうと思えば聞けた。
けれど、悠介は聞かなかった。
「何か言ってました?」
代わりにそれだけ聞く。
店主は少し考える。
「特には」
「そっか」
「珈琲じゃなく紅茶飲んで」
「そこは変わらないですね」
「変わらないね」
店主が笑う。
「ここ座ってたよ」
窓際の席。
悠介は向かいの椅子を見る。
「そうなんだ」
「君のことは聞かなかった」
店主が言う。
「……はい」
「でも」
「何ですか?」
「帰る時、この席ちょっと見てた」
悠介は何も言わなかった。
店主もそれ以上は話さなかった。
◇
琴葉がここに座った。
三週間前。
自分と同じように一人で。
紅茶を飲んで。
窓の外を見て。
何を考えていたのだろう。
悠介のことを思い出したのかもしれない。
何も考えていなかったのかもしれない。
その答えを知る必要はないと思った。
以前なら知りたかった。
琴葉が何を考えているのか。
今日は何をしたのか。
今何を食べたいのか。
明日は何時に起きるのか。
何でも知りたかった。
今は違う。
知らなくてもいい。
知らないままでも、あの時間がなくなるわけではない。
◇
店の扉が開いた。
ベルが鳴る。
悠介は反射的に顔を上げた。
知らない女性だった。
一瞬だけ、自分でもおかしくなった。
まだどこかで期待していたらしい。
偶然、琴葉が入ってくることを。
そんな都合のいいことが起きれば、何かが変わるかもしれないと。
けれど実際には何も起きない。
琴葉は来ない。
悠介は珈琲を飲む。
それでいいと思った。
◇
夕方になり、客が少しずつ減っていった。
窓から差し込む光が低くなる。
「もうこんな時間か」
悠介が時計を見る。
「長居したね」
店主が言う。
「大学の頃はもっといましたよ」
「そうだった」
「迷惑でした?」
「今さら?」
「今だから聞ける」
「別に。空いてたし」
「じゃあよかった」
悠介は少し笑った。
「俺たち、相当来てましたよね」
「相当だね」
「週何回くらい?」
「多い時は五回」
「そんなに?」
「いたよ」
「ほぼ毎日じゃん」
「だから注文覚えたんだよ」
「確かに」
悠介は窓際の席を見る。
「最初、琴葉がここ座ってましたよね」
「そうだね」
「俺、隣のテーブルで」
「覚えてるよ」
「本当に?」
「君、すごい店内見てたから」
「琴葉にも言われた」
「入る店間違えた人みたいだった」
「それも言われた」
二人で笑う。
少しして、店主が言った。
「いい時間だった?」
悠介は顔を上げる。
「何がですか」
「ここで過ごした時間」
悠介は少し考えた。
でも答えはすぐに出た。
「はい」
「ならいいね」
「それだけ?」
「それ以上何かいる?」
悠介は笑った。
「いらないかも」
「でしょ」
店主はそれ以上何も言わなかった。
人生について語ることもなければ、恋愛について教えることもしない。
ただ、カウンターの中でいつものようにカップを拭いている。
悠介はその距離感が好きだった。
◇
店を出る前。
悠介は会計を済ませた。
「また来ます」
「うん」
「次いつか分からないですけど」
「店やってるうちはいつでも」
「来年も?」
「多分」
「再来年も?」
「さあねえ」
「前、同じ話した気がする」
「琴葉ちゃんと?」
「はい」
「ならまた来年確認しなよ」
「そうします」
扉へ向かう。
ベルが鳴る。
外へ出ると、冷たい風が吹いた。
悠介はコートのポケットへ手を入れる。
その時、指先に鍵が触れた。
琴葉からもらったキーケース。
今も使っている。
革は以前より柔らかくなり、角の色が少し変わっていた。
買った時より、今の方が自分のものらしく見える。
悠介は一度だけそれを見て、またポケットへ戻した。
◇
駅までの道を歩く。
何百回も歩いた道。
商店街を抜ける。
横断歩道。
あの日、琴葉へ告白した場所。
信号は赤だった。
悠介は立ち止まる。
目の前には何人かの人がいる。
学生。
会社員。
買い物帰りの女性。
青になる。
人が歩き始める。
悠介も歩く。
あの日と違って、隣に琴葉はいない。
それでも信号は変わる。
道は続く。
駅へ向かう。
◇
ホームへ着く。
電車まで少し時間があった。
ベンチに座る。
向かいのホームに電車が入ってくる。
扉が開き、人が降りる。
悠介はぼんやりそれを見ていた。
その時。
一人の女性が視界に入った。
長い髪。
コート。
本を抱えている。
胸が一瞬だけ跳ねた。
琴葉。
そう思った。
でも顔を上げた女性は、全く知らない人だった。
悠介は小さく息を吐く。
そして笑った。
まだ間違えることがある。
たぶん、しばらくはあるのだろう。
似た髪型。
似た声。
同じ香り。
紅茶。
本屋。
雨。
そういうものを見るたびに思い出す日もある。
それでいい。
忘れる必要はない。
◇
電車へ乗る。
窓際に座る。
街が流れていく。
スマートフォンを取り出す。
琴葉とのトーク画面を開いた。
最後のやり取りから、もう何か月も経っている。
送ろうと思えば送れる。
『元気?』
それだけでいい。
きっと返事は来るだろう。
琴葉なら、たぶん返してくれる。
でも悠介は送らなかった。
嫌いだからではない。
話したくないからでもない。
今は、それぞれの生活をちゃんと歩いているから。
無理に昔へ戻らなくてもいいと思えた。
悠介は画面を閉じた。
◇
十二月。
クリスマスイブ。
今年、悠介はひよりへ行かなかった。
仕事だった。
帰宅したのは午後九時過ぎ。
駅前にはイルミネーションが灯り、カップルや家族連れで賑わっている。
悠介はコンビニで夕食を買った。
以前なら少し寂しいと思ったかもしれない。
でも今年は、それほどでもなかった。
家へ着く。
コートを脱ぐ。
スマートフォンを見る。
友人からのメッセージ。
会社のグループ。
家族。
琴葉からはない。
当然だった。
悠介も送らない。
それでも一瞬だけ思った。
東京は今、どんな夜だろう。
仕事は終わっただろうか。
今年は誰かと過ごしているのだろうか。
すぐに考えるのをやめた。
知らなくていい。
それは悲しいことではなかった。
ただ、お互いの人生が別々に続いているということだった。
◇
さらに季節が進んだ。
三月。
久しぶりに大学の近くへ行く用事があった。
仕事で取引先へ向かう途中だった。
少し時間があったので、悠介は大学の正門まで歩いた。
春休み中で人は少ない。
中庭の桜はまだ蕾だった。
一年前。
二年前。
琴葉とここに立った。
「来年も見ましょうね」
そう言われた。
「再来年も」
約束した。
結局、今年は一人だった。
悠介は桜を見上げる。
「約束破ったな」
誰に言うでもなく呟いた。
でも不思議と、それほど悲しくなかった。
約束は守れなかった。
だからといって、約束した時の気持ちまで嘘になるわけではない。
あの時は本当に、来年も一緒にいると思っていた。
それで十分だった。
◇
六月。
雨の日。
仕事が早く終わった。
悠介は駅へ向かう途中、ふと思い立って商店街へ入った。
傘に雨粒が当たる。
喫茶ひより。
扉を開く。
ベルが鳴る。
「いらっしゃい」
店主が顔を上げる。
「雨の日に珍しいね」
「何となく」
「いつもの?」
「お願いします」
悠介は窓際を見る。
空いている。
座る。
外は雨。
三年前とも、四年前とも似た景色。
店主が水を運んでくる。
一つ。
そのあとカウンターへ戻ろうとして、一瞬だけ手が止まった。
何かを思い出したように、隣のテーブルに置こうとしていたもう一つのグラスを持ち直す。
ほんの一瞬のことだった。
悠介は気づいた。
でも何も言わなかった。
店主も言わない。
水は一つ。
今は、それで正しい。
◇
珈琲が運ばれる。
悠介は窓の外を見る。
雨の中、一人の大学生らしい女性が走っている。
折り畳み傘。
少し曲がっている。
悠介は思わず笑った。
「どうしたの?」
店主が聞く。
「いや」
「何?」
「昔思い出して」
「ああ」
店主も窓の外を見る。
「傘?」
「はい」
「壊れてるね」
「ですね」
二人で笑う。
それだけだった。
◇
悠介は珈琲を飲みながら思う。
もしあの日、講義が休講にならなかったら。
もしこの道へ入らなかったら。
もしひよりを見つけなかったら。
もし琴葉の傘が壊れなかったら。
きっと二人は出会わなかった。
人生には、そういう偶然がたくさんあるのだろう。
出会わないまま終わる人。
少しだけ話す人。
長く一緒にいる人。
そして、大切だったのに離れていく人。
昔の悠介なら、最後まで一緒にいられなかった恋を失敗だと思ったかもしれない。
でも今は違う。
琴葉と出会ったことで本を読むようになった。
誰かの好きなものを知る楽しさを覚えた。
何でもない日を誰かと過ごすことが、こんなに幸せなのだと知った。
人を好きになるということが、特別な日に何かをすることではなく、相手の明日を自然に自分の生活へ入れていくことなのだと知った。
そして、好きなまま離れることもあるのだと知った。
それらは全部、琴葉と出会わなければ知らなかったことだった。
だから、あの恋は失敗ではない。
終わった。
ただ、それだけだ。
◇
雨は少しずつ弱くなっていった。
悠介は時計を見る。
「そろそろ帰ります」
「うん」
会計を済ませる。
「また来る?」
店主が聞く。
「来ますよ」
「いつ?」
「分かりません」
「じゃあまたそのうち」
「はい」
悠介は扉を開ける。
外へ出る。
雨はほとんど止んでいた。
傘を閉じる。
商店街を歩く。
駅までの道。
空にはまだ雲が残っている。
でも西の方だけ少し明るい。
悠介は歩きながら、ふと琴葉のことを思い出した。
元気だろうか。
ちゃんとご飯を食べているだろうか。
本は今もたくさん読んでいるだろうか。
茶色の栞はまだ使っているだろうか。
分からない。
それでいい。
もしどこかで偶然会ったなら、その時は普通に笑える気がした。
「久しぶり」
と。
そしてきっと、琴葉も、
「久しぶり」
と返す。
それだけでいい。
◇
駅前の横断歩道。
信号は赤。
悠介は立ち止まる。
隣には誰もいない。
以前なら、そのことを寂しいと思った。
今はただ一人で立っている。
信号が青になる。
悠介は歩き出す。
途中で空を見上げる。
雨上がりの雲の隙間から、ほんの少しだけ夕方の光が差していた。
綺麗だと思った。
誰かに送ろうとは思わなかった。
写真も撮らなかった。
ただ自分で見た。
それも悪くなかった。
◇
あの日。
小さな喫茶店の窓際で本を読んでいた女の子を見つけた。
名前も知らなかった。
話したこともなかった。
ただ、そこにいると少しだけ嬉しかった。
やがて名前を知った。
一緒に歩いた。
同じものを食べた。
何時間も話した。
恋をした。
手をつないだ。
何度も「また明日」と言った。
明日が当たり前に続くと思っていた。
そして、いつかその言葉を言わない日が来た。
それでも。
言えなくなったからといって、言っていた日々まで消えるわけではない。
明日を約束できた日が確かにあった。
その人と過ごす明日を楽しみに眠れた夜があった。
会えることを当たり前に思えるほど、近くにいた時間があった。
それは、きっと幸せだった。
悠介は駅へ向かって歩いていく。
もう隣に琴葉はいない。
けれど、あの頃の自分たちを否定する必要もない。
別々の街。
別々の仕事。
別々の毎日。
きっと琴葉も今、自分の場所で今日を生きている。
そして悠介も、自分の明日へ向かっている。
もう二人で同じ「また明日」を言うことはないのかもしれない。
それでもあの言葉は、これからもずっと、悠介の中で温かいまま残っていく。
運命だったとは思わない。
永遠だったとも思わない。
ただ、人生の途中で偶然出会い、好きになり、一緒に過ごした。
それだけの恋だった。
けれど悠介にとっては、それで十分だった。
何でもなかったはずの日々が、振り返れば一番大切な時間になっていた。
そして今日も、明日は来る。
誰かと一緒でも。
一人でも。
それぞれの場所で。
悠介は歩いていく。
あの小さな喫茶店を背にして。
いつもの席に残った記憶と、もう言わなくなった言葉を胸のどこかに置いたまま。
「また明日」
それは別れの言葉ではなく、二人が確かに幸せだった日々の名前だった。
――完――
琴葉と別れてから、季節が一つ変わった。
夏の終わりに聞こえていた蝉の声はいつの間にか消え、朝晩の空気が少しずつ冷たくなっていた。
悠介の生活は、驚くほど普通に続いていた。
朝起きる。
会社へ行く。
仕事をする。
昼を食べる。
夕方になれば帰る。
たまに同期と飲みに行き、休日には友人と出かけることもある。
仕事にも慣れた。
上司から任されることが増え、後輩から質問されることも増えた。
何か面白いことがあれば笑うし、疲れれば早く寝る。
琴葉がいなくなったからといって、日常が止まることはなかった。
それが少し不思議だった。
大学時代の悠介に、いつか琴葉と別れる日が来ると教えたなら、きっともっと大変なことを想像したと思う。
何も手につかなくなるとか、毎日思い出して苦しくなるとか、何か大きく変わるものだと思ったかもしれない。
実際は違った。
傷ついていても腹は減る。
朝になれば目は覚める。
月曜日になれば仕事へ行かなければならない。
そして、そうやって毎日を繰り返しているうちに、琴葉を思い出さない時間が少しずつ増えていった。
忘れたわけではない。
ただ、思い出が生活の真ん中から少しずつ端へ移動していった。
それだけだった。
◇
十一月のある土曜日。
悠介は久しぶりに商店街を歩いていた。
特に目的はなかった。
午前中に用事を済ませ、昼を食べる場所を考えながら歩いているうちに、気づけば昔と同じ道へ入っていた。
角を曲がる。
少し色の褪せた外壁。
小さな木の看板。
黒板には白い文字で、
『本日の珈琲』
と書かれている。
喫茶ひより。
悠介は店の前で立ち止まった。
最後に来たのは二か月ほど前だった。
琴葉と別れたあと、一人で窓際に座った日。
それ以来、何となく来ていなかった。
避けていたわけではない。
ただ、行く理由が少し薄くなっていた。
悠介は扉を開ける。
小さなベルが鳴った。
「いらっしゃい」
聞き慣れた声。
店主がカウンターの奥から顔を上げる。
「久しぶり」
「お久しぶりです」
「元気そうだね」
「まあまあです」
「今日は仕事?」
「休みです」
「珍しいね、この時間」
「何となく来ました」
「それが一番いいよ」
店主が笑う。
悠介も少し笑った。
店内を見る。
休日の昼過ぎということもあって、いつもより客が多かった。
カウンターに一人。
奥のテーブルに老夫婦。
大学生らしい二人組。
そして窓際の席は、
空いていた。
悠介はそこへ向かった。
◇
「いつもの?」
店主が聞く。
「お願いします」
「今の季節ならホットでいい?」
「はい」
「了解」
悠介は椅子へ座る。
向かいには誰もいない。
それがもう、以前ほど不自然には感じられなかった。
窓の外を人が歩いている。
親子。
買い物袋を持つ夫婦。
自転車で通り過ぎる高校生。
大学生らしい二人が笑いながら駅の方向へ向かっている。
昔、自分たちもあんなふうに歩いていたのだろうかと思う。
「どうぞ」
店主が珈琲を置く。
「ありがとうございます」
「仕事は?」
「順調です」
「そう」
「最近ちょっと任されること増えて」
「いいじゃない」
「その分忙しいですけど」
「若いうちは忙しいくらいがいい」
「店主みたいなこと言いますね」
「店主だからね」
悠介が笑う。
「そういう意味じゃないです」
「分かってるよ」
店主はカウンターへ戻る。
相変わらずだった。
その変わらなさがありがたかった。
◇
珈琲を飲みながら、悠介はスマートフォンを取り出した。
何となく写真を開く。
最近の仕事関係の写真。
友人と食べた料理。
会社の飲み会。
旅行先の風景。
指を動かしているうちに、少し古い写真が出てきた。
青い水槽。
その前に並んだ二人。
初めて一緒に撮った写真だった。
一枚目では少し固い。
二枚目では琴葉が笑っていて、悠介もつられて笑っている。
「消さないでくださいよ」
あの日、琴葉が言った。
「機種変しても?」
「そこまで?」
「せっかく二人で撮った最初の写真だから」
悠介は、そのやり取りまで覚えていた。
写真は今も残っている。
消そうと思ったことはない。
見ないようにしたこともない。
ただ、以前ほど頻繁には開かなくなった。
悠介は少しだけ写真を見てから、画面を閉じた。
悲しくはなかった。
少し懐かしかった。
それで十分だった。
◇
「そういえば」
店主がカウンターから言った。
「はい?」
「琴葉ちゃん、先月来たよ」
悠介の手が少し止まった。
「……そうなんですか」
「うん」
「いつ?」
「三週間くらい前かな」
「一人で?」
「一人」
悠介は珈琲を見る。
「元気そうでした?」
「元気そうだったよ」
「そっか」
「仕事忙しいって」
「でしょうね」
それ以上聞くべきか少し迷った。
東京でどうしているのか。
今も出版社で働いているのか。
仕事は楽しいのか。
誰か新しい人がいるのか。
聞こうと思えば聞けた。
けれど、悠介は聞かなかった。
「何か言ってました?」
代わりにそれだけ聞く。
店主は少し考える。
「特には」
「そっか」
「珈琲じゃなく紅茶飲んで」
「そこは変わらないですね」
「変わらないね」
店主が笑う。
「ここ座ってたよ」
窓際の席。
悠介は向かいの椅子を見る。
「そうなんだ」
「君のことは聞かなかった」
店主が言う。
「……はい」
「でも」
「何ですか?」
「帰る時、この席ちょっと見てた」
悠介は何も言わなかった。
店主もそれ以上は話さなかった。
◇
琴葉がここに座った。
三週間前。
自分と同じように一人で。
紅茶を飲んで。
窓の外を見て。
何を考えていたのだろう。
悠介のことを思い出したのかもしれない。
何も考えていなかったのかもしれない。
その答えを知る必要はないと思った。
以前なら知りたかった。
琴葉が何を考えているのか。
今日は何をしたのか。
今何を食べたいのか。
明日は何時に起きるのか。
何でも知りたかった。
今は違う。
知らなくてもいい。
知らないままでも、あの時間がなくなるわけではない。
◇
店の扉が開いた。
ベルが鳴る。
悠介は反射的に顔を上げた。
知らない女性だった。
一瞬だけ、自分でもおかしくなった。
まだどこかで期待していたらしい。
偶然、琴葉が入ってくることを。
そんな都合のいいことが起きれば、何かが変わるかもしれないと。
けれど実際には何も起きない。
琴葉は来ない。
悠介は珈琲を飲む。
それでいいと思った。
◇
夕方になり、客が少しずつ減っていった。
窓から差し込む光が低くなる。
「もうこんな時間か」
悠介が時計を見る。
「長居したね」
店主が言う。
「大学の頃はもっといましたよ」
「そうだった」
「迷惑でした?」
「今さら?」
「今だから聞ける」
「別に。空いてたし」
「じゃあよかった」
悠介は少し笑った。
「俺たち、相当来てましたよね」
「相当だね」
「週何回くらい?」
「多い時は五回」
「そんなに?」
「いたよ」
「ほぼ毎日じゃん」
「だから注文覚えたんだよ」
「確かに」
悠介は窓際の席を見る。
「最初、琴葉がここ座ってましたよね」
「そうだね」
「俺、隣のテーブルで」
「覚えてるよ」
「本当に?」
「君、すごい店内見てたから」
「琴葉にも言われた」
「入る店間違えた人みたいだった」
「それも言われた」
二人で笑う。
少しして、店主が言った。
「いい時間だった?」
悠介は顔を上げる。
「何がですか」
「ここで過ごした時間」
悠介は少し考えた。
でも答えはすぐに出た。
「はい」
「ならいいね」
「それだけ?」
「それ以上何かいる?」
悠介は笑った。
「いらないかも」
「でしょ」
店主はそれ以上何も言わなかった。
人生について語ることもなければ、恋愛について教えることもしない。
ただ、カウンターの中でいつものようにカップを拭いている。
悠介はその距離感が好きだった。
◇
店を出る前。
悠介は会計を済ませた。
「また来ます」
「うん」
「次いつか分からないですけど」
「店やってるうちはいつでも」
「来年も?」
「多分」
「再来年も?」
「さあねえ」
「前、同じ話した気がする」
「琴葉ちゃんと?」
「はい」
「ならまた来年確認しなよ」
「そうします」
扉へ向かう。
ベルが鳴る。
外へ出ると、冷たい風が吹いた。
悠介はコートのポケットへ手を入れる。
その時、指先に鍵が触れた。
琴葉からもらったキーケース。
今も使っている。
革は以前より柔らかくなり、角の色が少し変わっていた。
買った時より、今の方が自分のものらしく見える。
悠介は一度だけそれを見て、またポケットへ戻した。
◇
駅までの道を歩く。
何百回も歩いた道。
商店街を抜ける。
横断歩道。
あの日、琴葉へ告白した場所。
信号は赤だった。
悠介は立ち止まる。
目の前には何人かの人がいる。
学生。
会社員。
買い物帰りの女性。
青になる。
人が歩き始める。
悠介も歩く。
あの日と違って、隣に琴葉はいない。
それでも信号は変わる。
道は続く。
駅へ向かう。
◇
ホームへ着く。
電車まで少し時間があった。
ベンチに座る。
向かいのホームに電車が入ってくる。
扉が開き、人が降りる。
悠介はぼんやりそれを見ていた。
その時。
一人の女性が視界に入った。
長い髪。
コート。
本を抱えている。
胸が一瞬だけ跳ねた。
琴葉。
そう思った。
でも顔を上げた女性は、全く知らない人だった。
悠介は小さく息を吐く。
そして笑った。
まだ間違えることがある。
たぶん、しばらくはあるのだろう。
似た髪型。
似た声。
同じ香り。
紅茶。
本屋。
雨。
そういうものを見るたびに思い出す日もある。
それでいい。
忘れる必要はない。
◇
電車へ乗る。
窓際に座る。
街が流れていく。
スマートフォンを取り出す。
琴葉とのトーク画面を開いた。
最後のやり取りから、もう何か月も経っている。
送ろうと思えば送れる。
『元気?』
それだけでいい。
きっと返事は来るだろう。
琴葉なら、たぶん返してくれる。
でも悠介は送らなかった。
嫌いだからではない。
話したくないからでもない。
今は、それぞれの生活をちゃんと歩いているから。
無理に昔へ戻らなくてもいいと思えた。
悠介は画面を閉じた。
◇
十二月。
クリスマスイブ。
今年、悠介はひよりへ行かなかった。
仕事だった。
帰宅したのは午後九時過ぎ。
駅前にはイルミネーションが灯り、カップルや家族連れで賑わっている。
悠介はコンビニで夕食を買った。
以前なら少し寂しいと思ったかもしれない。
でも今年は、それほどでもなかった。
家へ着く。
コートを脱ぐ。
スマートフォンを見る。
友人からのメッセージ。
会社のグループ。
家族。
琴葉からはない。
当然だった。
悠介も送らない。
それでも一瞬だけ思った。
東京は今、どんな夜だろう。
仕事は終わっただろうか。
今年は誰かと過ごしているのだろうか。
すぐに考えるのをやめた。
知らなくていい。
それは悲しいことではなかった。
ただ、お互いの人生が別々に続いているということだった。
◇
さらに季節が進んだ。
三月。
久しぶりに大学の近くへ行く用事があった。
仕事で取引先へ向かう途中だった。
少し時間があったので、悠介は大学の正門まで歩いた。
春休み中で人は少ない。
中庭の桜はまだ蕾だった。
一年前。
二年前。
琴葉とここに立った。
「来年も見ましょうね」
そう言われた。
「再来年も」
約束した。
結局、今年は一人だった。
悠介は桜を見上げる。
「約束破ったな」
誰に言うでもなく呟いた。
でも不思議と、それほど悲しくなかった。
約束は守れなかった。
だからといって、約束した時の気持ちまで嘘になるわけではない。
あの時は本当に、来年も一緒にいると思っていた。
それで十分だった。
◇
六月。
雨の日。
仕事が早く終わった。
悠介は駅へ向かう途中、ふと思い立って商店街へ入った。
傘に雨粒が当たる。
喫茶ひより。
扉を開く。
ベルが鳴る。
「いらっしゃい」
店主が顔を上げる。
「雨の日に珍しいね」
「何となく」
「いつもの?」
「お願いします」
悠介は窓際を見る。
空いている。
座る。
外は雨。
三年前とも、四年前とも似た景色。
店主が水を運んでくる。
一つ。
そのあとカウンターへ戻ろうとして、一瞬だけ手が止まった。
何かを思い出したように、隣のテーブルに置こうとしていたもう一つのグラスを持ち直す。
ほんの一瞬のことだった。
悠介は気づいた。
でも何も言わなかった。
店主も言わない。
水は一つ。
今は、それで正しい。
◇
珈琲が運ばれる。
悠介は窓の外を見る。
雨の中、一人の大学生らしい女性が走っている。
折り畳み傘。
少し曲がっている。
悠介は思わず笑った。
「どうしたの?」
店主が聞く。
「いや」
「何?」
「昔思い出して」
「ああ」
店主も窓の外を見る。
「傘?」
「はい」
「壊れてるね」
「ですね」
二人で笑う。
それだけだった。
◇
悠介は珈琲を飲みながら思う。
もしあの日、講義が休講にならなかったら。
もしこの道へ入らなかったら。
もしひよりを見つけなかったら。
もし琴葉の傘が壊れなかったら。
きっと二人は出会わなかった。
人生には、そういう偶然がたくさんあるのだろう。
出会わないまま終わる人。
少しだけ話す人。
長く一緒にいる人。
そして、大切だったのに離れていく人。
昔の悠介なら、最後まで一緒にいられなかった恋を失敗だと思ったかもしれない。
でも今は違う。
琴葉と出会ったことで本を読むようになった。
誰かの好きなものを知る楽しさを覚えた。
何でもない日を誰かと過ごすことが、こんなに幸せなのだと知った。
人を好きになるということが、特別な日に何かをすることではなく、相手の明日を自然に自分の生活へ入れていくことなのだと知った。
そして、好きなまま離れることもあるのだと知った。
それらは全部、琴葉と出会わなければ知らなかったことだった。
だから、あの恋は失敗ではない。
終わった。
ただ、それだけだ。
◇
雨は少しずつ弱くなっていった。
悠介は時計を見る。
「そろそろ帰ります」
「うん」
会計を済ませる。
「また来る?」
店主が聞く。
「来ますよ」
「いつ?」
「分かりません」
「じゃあまたそのうち」
「はい」
悠介は扉を開ける。
外へ出る。
雨はほとんど止んでいた。
傘を閉じる。
商店街を歩く。
駅までの道。
空にはまだ雲が残っている。
でも西の方だけ少し明るい。
悠介は歩きながら、ふと琴葉のことを思い出した。
元気だろうか。
ちゃんとご飯を食べているだろうか。
本は今もたくさん読んでいるだろうか。
茶色の栞はまだ使っているだろうか。
分からない。
それでいい。
もしどこかで偶然会ったなら、その時は普通に笑える気がした。
「久しぶり」
と。
そしてきっと、琴葉も、
「久しぶり」
と返す。
それだけでいい。
◇
駅前の横断歩道。
信号は赤。
悠介は立ち止まる。
隣には誰もいない。
以前なら、そのことを寂しいと思った。
今はただ一人で立っている。
信号が青になる。
悠介は歩き出す。
途中で空を見上げる。
雨上がりの雲の隙間から、ほんの少しだけ夕方の光が差していた。
綺麗だと思った。
誰かに送ろうとは思わなかった。
写真も撮らなかった。
ただ自分で見た。
それも悪くなかった。
◇
あの日。
小さな喫茶店の窓際で本を読んでいた女の子を見つけた。
名前も知らなかった。
話したこともなかった。
ただ、そこにいると少しだけ嬉しかった。
やがて名前を知った。
一緒に歩いた。
同じものを食べた。
何時間も話した。
恋をした。
手をつないだ。
何度も「また明日」と言った。
明日が当たり前に続くと思っていた。
そして、いつかその言葉を言わない日が来た。
それでも。
言えなくなったからといって、言っていた日々まで消えるわけではない。
明日を約束できた日が確かにあった。
その人と過ごす明日を楽しみに眠れた夜があった。
会えることを当たり前に思えるほど、近くにいた時間があった。
それは、きっと幸せだった。
悠介は駅へ向かって歩いていく。
もう隣に琴葉はいない。
けれど、あの頃の自分たちを否定する必要もない。
別々の街。
別々の仕事。
別々の毎日。
きっと琴葉も今、自分の場所で今日を生きている。
そして悠介も、自分の明日へ向かっている。
もう二人で同じ「また明日」を言うことはないのかもしれない。
それでもあの言葉は、これからもずっと、悠介の中で温かいまま残っていく。
運命だったとは思わない。
永遠だったとも思わない。
ただ、人生の途中で偶然出会い、好きになり、一緒に過ごした。
それだけの恋だった。
けれど悠介にとっては、それで十分だった。
何でもなかったはずの日々が、振り返れば一番大切な時間になっていた。
そして今日も、明日は来る。
誰かと一緒でも。
一人でも。
それぞれの場所で。
悠介は歩いていく。
あの小さな喫茶店を背にして。
いつもの席に残った記憶と、もう言わなくなった言葉を胸のどこかに置いたまま。
「また明日」
それは別れの言葉ではなく、二人が確かに幸せだった日々の名前だった。
――完――



