いつもの席で、また明日

第一章 いつもの窓際の席

 その喫茶店を見つけたのは、大学二年の春が終わりかけていた頃だった。

 駅から大学までは歩いて十五分ほどで、ほとんどの学生は大通りをまっすぐ進むのだけれど、その日だけ僕は特に理由もなく一本裏の道へ入った。

 急いでいたわけでもないし、寄り道をしたかったわけでもない。

 講義が一つ休講になり、次の予定まで中途半端に時間が空いてしまったから、少し遠回りして帰ろうと思っただけだった。

 細い道の両側には昔からそこにあるらしい小さな店が並んでいて、クリーニング店や古びた文房具店、店先に野菜を並べた八百屋の前を過ぎたところで、僕は一軒の店に目を留めた。

 木製の小さな看板に、白い文字で名前が書かれていた。

 喫茶 ひより

 洒落たカフェという感じではない。

 外壁は少しくすんだ薄茶色で、入口の横には古い黒板が立て掛けられ、本日の珈琲と手書きされている。ガラス越しに見える店内も決して広くはなく、テーブル席がいくつかとカウンターがある程度だった。

 それでも、なぜか気になった。

 入口を開けると小さなベルが鳴り、すぐに珈琲の香りがした。

「いらっしゃい」

 カウンターの中から声をかけてきたのは、六十歳を少し過ぎたくらいの男性だった。

 白髪交じりの髪を短く整え、シャツの上から濃い色のエプロンを着けている。

「一人です」

「好きなところどうぞ」

 店内には客が二人しかいなかった。

 カウンターで新聞を読んでいる男性と、入口から一番離れた窓際の席に座っている女の子。

 僕は少し迷って、その女の子から一つ離れたテーブルへ座った。

 窓の外には小さな商店街が見える。

 大学へ通い始めて一年以上になるのに、こんな場所があったことすら知らなかった。

 メニューを開く。

 ブレンド珈琲。

 アイス珈琲。

 紅茶。

 クリームソーダ。

 ナポリタン。

 トースト。

 ホットケーキ。

 どれも驚くほど普通だった。

「決まった?」

「じゃあ、アイス珈琲で」

「はいよ」

 店主がカウンターへ戻る。

 僕はスマートフォンを取り出したものの、特に見るものもなく、すぐに画面を伏せた。

 店には静かな音楽が流れていた。

 聞いたことのないピアノ曲。

 時計の針が進む音。

 珈琲を淹れる音。

 外を走る自転車のベル。

 大学の食堂や駅前のチェーン店とは違って、何もしなくても許されるような時間が流れている。

「お待たせ」

 透明なグラスが置かれた。

「ありがとうございます」

 一口飲む。

 正直、僕は珈琲の味について詳しくない。

 ただ、少しだけ苦くて、暑くなり始めた午後にはちょうどよかった。

 その時、窓際の女の子が本を閉じた。

 何となく目が向いた。

 長い髪を後ろで一つにまとめていて、薄い水色のシャツに白いスカートを合わせている。

 大学生だろうか。

 年齢は僕と同じくらいに見える。

 テーブルには紅茶と小さなノートがあり、本の間には黄色い付箋が何枚も挟まっていた。

 彼女は時計を見ると財布を取り出した。

「ごちそうさまでした」

「今日は早いね」

 店主が言った。

「五限あるので」

「頑張るねえ」

「出ないと単位が危ないんです」

「それは頑張った方がいい」

「ですよね」

 彼女が笑う。

 そこで初めて、同じ大学の学生なのだと分かった。

 店を出る時、彼女はこちらを見ることもなく扉を開けた。

 ベルが鳴る。

 僕はなんとなく、その背中を目で追った。

 それだけだった。

 名前も知らない。

 学部も知らない。

 話したことさえない。

 だから、その時の僕にとって彼女は、たまたま同じ喫茶店にいた人でしかなかった。

 そのはずだった。



 一週間後。

 僕はまた「ひより」の扉を開けていた。

「いらっしゃい」

 店主が前と同じ調子で迎える。

 特に行こうと決めていたわけではない。

 講義が終わり、駅へ向かって歩いていたら、気がつけば前と同じ裏道に入っていた。

 店内を見る。

 そして少しだけ驚いた。

 窓際。

 前と同じ席。

 あの女の子が座っている。

 今日も本を読んでいた。

 服装は違う。

 髪も今日は下ろしている。

 それでもすぐに分かった。

「好きなところどうぞ」

「あ、はい」

 僕は前回と同じ席へ座った。

 一つ空けた隣。

 メニューを見る必要もなかった。

「アイス珈琲」

「はいよ」

 店主が少しだけ笑ったような気がした。

 女の子は一度だけこちらを見た。

 目が合う。

 僕は軽く頭を下げた。

 向こうも同じように少し頭を下げ、それからすぐ本へ戻った。

 それだけ。

 会話はなかった。

 それでも不思議なことに、前回より少しだけ居心地がよかった。



 さらに四日後。

 またいた。

 窓際の席。

 今度は本ではなく、ノートパソコンを開いている。

 僕が入ると、店主が先に言った。

「アイス珈琲?」

「覚えたんですか」

「二回続けば覚えるよ」

「じゃあ、それで」

 いつもの席へ座る。

 彼女が顔を上げた。

 また目が合う。

 今度は彼女の方が先に少し笑った。

 僕も笑い返した。

 まだ話してはいない。

 でも「この前もいましたよね」ということだけは、お互いに分かっていた。

 その日、彼女は僕より先に帰った。

「お先に」

 店主へ言ったあと、なぜか僕の方にも少し頭を下げた。

「……どうも」

 よく分からない返事をしてしまった。

 扉が閉まってから、店主がカウンター越しに笑う。

「知り合い?」

「違います」

「そうなの?」

「名前も知らないです」

「へえ」

「何ですか」

「別に」

 絶対に何か思っている顔だった。

「よく来るんですか、あの人」

「まあね」

「大学生ですよね」

「そうみたいだね」

「ここの近く?」

「さあ」

 店主はわざとらしく首を傾げる。

「知らないんですか」

「お客さんの個人情報を勝手に教えたら怒られるからね」

「そこまで聞いてないです」

「ならいいけど」

 僕はアイス珈琲を飲む。

 少しだけぬるくなっていた。



 気がつけば、僕は週に二、三回ほど「ひより」へ行くようになっていた。

 大学の講義が終わったあと。

 アルバイトまで時間がある日。

 特に予定のない午後。

 理由はいくらでも作れた。

 ただ、店に入った瞬間に無意識に窓際を見てしまうことだけは、自分でも少し気になっていた。

 いる日もあれば、いない日もある。

 いなければ普通に珈琲を飲む。

 いると、なぜか少し嬉しい。

 そんなことを繰り返して六月になった。

 雨の日だった。

 朝から降り続いた雨は夕方になっても弱くならず、傘を差していても肩が少し濡れるほどだった。

 僕は大学を出たあと、いつものようにひよりへ向かった。

 扉を開ける。

「いらっしゃい」

 窓際を見る。

 彼女はいなかった。

 少しだけ残念に思いながら、いつもの席へ座る。

「今日はホットにする?」

 店主が聞いた。

「そうですね」

「ブレンド?」

「お願いします」

 雨が窓を叩く音を聞きながら珈琲を飲んでいると、十分ほどして入口のベルが鳴った。

「すみません、遅くなりました」

 聞き覚えのある声。

 顔を上げる。

 彼女だった。

 折り畳み傘を閉じながら店へ入り、肩についた雨粒を手で払っている。

「すごい雨だね」

「途中から急に強くなって」

「タオル使う?」

「大丈夫です」

 彼女がいつもの窓際へ向かう。

 そして途中で、僕に気づいた。

「あ」

「どうも」

「どうも」

 それだけ言って席へ座った。

 しばらくして紅茶が運ばれてくる。

 僕は本を開いた。

 彼女もノートを広げる。

 雨音だけが店に響く。

 それから三十分ほど経った頃だった。

「……まだ降ってます?」

 突然声がした。

 僕は顔を上げた。

「え?」

 彼女がこちらを見ている。

「外」

「ああ」

 窓を見る。

「まだ結構降ってますね」

「ですよね」

「天気予報だと夜までだった気がします」

「最悪だ」

 彼女は小さくため息をついた。

「傘あるじゃないですか」

「あれ壊れました」

「え?」

「さっき開いたら骨一本曲がってて、ここまで無理やり来たんです」

 入口の傘立てを見る。

 彼女の折り畳み傘は確かに少し傾いていた。

「なんでそこまでしてここに」

 思わず聞くと、彼女は少し笑った。

「私も今、それ思いました」

 僕も笑った。

 初めて、ちゃんと会話した。



 雨は一時間経っても止まなかった。

 午後六時を過ぎ、外は少しずつ暗くなっていく。

 彼女は何度も窓を見ている。

「駅までですよね」

 僕が聞いた。

「はい」

「俺もです」

「そうなんですか」

「大学も同じですよね」

「ですよね。前からそうかなって思ってました」

「俺も」

 そこで少し間が空いた。

「何学部ですか?」

 彼女が聞く。

「経済です」

「あ、じゃあ全然違う」

「そっちは?」

「文学部です」

「やっぱり」

「何がやっぱりなんですか」

「いつも本読んでるから」

「ああ」

 彼女が笑った。

「経済学部の人は本読まないんですか?」

「読まないですね」

「偏見すごい」

「少なくとも俺は」

「それはあなたの問題じゃないですか」

「確かに」

 また二人で笑った。

 会話を始めてしまえば不思議なくらい普通だった。

 何度も同じ店で顔を合わせていたからなのか、初対面の人と話している感じがあまりしない。

 そのまま講義の話や大学の食堂の話をしているうちに、時計は六時半を過ぎていた。

 店主が窓を見ながら言う。

「雨、弱くなったよ」

 二人で同時に窓を見る。

 確かにさっきよりかなり小降りになっている。

「あ、本当だ」

 彼女が立ち上がる。

「今のうちに帰ろうかな」

「傘壊れてるんですよね」

「走ります」

「駅まで?」

「十分くらいなら」

「風邪ひきますよ」

「じゃあどうしろと」

 僕は自分の傘を見る。

 普通の大きさのビニール傘。

 数秒迷った。

「駅までなら入ります?」

 言ってから、少し唐突だったかもしれないと思った。

 彼女も一瞬だけ驚いた顔をした。

「いいんですか」

「俺も駅行くんで」

「でも狭くないですか?」

「ちょっとくらい濡れても」

「それ、傘の意味ないですよ」

「走るよりマシです」

 彼女は少し考え、それから笑った。

「じゃあ、お言葉に甘えます」



 会計を済ませる。

「ありがとうございました」

 店主の声。

 僕が傘を開く。

 彼女がその下へ入る。

 思ったより近い。

 肩が触れそうになる。

「狭いですね」

 彼女が言った。

「言ったじゃないですか」

「言ってないですよ。私が聞いたんです」

「そうだっけ」

「そうです」

 歩き始める。

 雨に濡れた商店街は、昼とは少し違って見えた。

 店の明かりが路面に反射している。

 車が通るたび、水を踏む音がする。

「そういえば」

 彼女が言った。

「はい」

「ずっと同じ時間にいますよね」

「そっちも」

「私は前から来てます」

「俺も最近は結構」

「最近ですよね」

「分かるんですか」

「分かりますよ。いつも窓際だったから」

「その席好きなんですか?」

「好きです」

「何で?」

 彼女は少し考えてから窓のない空を見上げる。

「外が見えるから」

「普通ですね」

「悪かったですね」

「いや、もっと文学部っぽい答えが来るかと」

「例えば?」

「光の入り方がどうとか」

「言いませんよ、そんなの」

「文学部なのに」

「偏見がひどい」

 また笑う。

 駅までは十分ほど。

 普段なら何も感じない距離なのに、その日は妙に短く感じた。



 駅前の屋根が見えてきた。

「あ、もう着いた」

 彼女が言った。

「ですね」

 二人で屋根の下へ入る。

 彼女は傘から出て、少し濡れた髪を手で整えた。

「ありがとうございました」

「いえ」

「助かりました」

「壊れた傘は?」

「明日捨てます」

「ひよりに置いてきたままですよ」

「あ」

 数秒。

 二人で顔を見合わせる。

「完全に忘れてた」

「取りに戻ります?」

「嫌です。また濡れる」

「じゃあ今度」

「そうします」

 彼女が改札の方へ歩き出した。

 僕も別の路線へ向かおうとする。

 そこで、ふと思った。

 何度も同じ店で会って。

 今日初めてまともに話して。

 駅まで一緒に歩いた。

 それなのに。

「そういえば」

 僕が呼び止める。

 彼女が振り返った。

「はい?」

「名前」

「名前?」

「知らないままでした」

 彼女は少し驚いて、それから笑った。

「あ、本当だ」

「俺、瀬戸悠介です」

 ほんの少しだけ緊張しながら名乗る。

「瀬戸悠介さん」

「はい」

「大学二年?」

「そうです」

「同じだ」

 彼女は一度頷き、それから自分の胸元を軽く指した。

「私は宮下琴葉です」

「宮下さん」

「はい」

 初めて知った名前だった。

 ただそれだけなのに、何度も顔を合わせていた人が急に輪郭を持ったような気がした。

「じゃあ」

 琴葉が小さく手を上げる。

「また、ひよりで」

「はい」

 彼女は数歩歩いてから、もう一度振り返った。

「あ」

「何ですか」

「傘」

「ああ」

「今度取りに行くので」

「はい」

「たぶん明日」

 琴葉は笑った。

「また明日」

 その言葉を聞いた時、僕はまだ何も知らなかった。

 これから何度、その言葉を交わすことになるのかも。

 彼女と一緒にいることが、いつの間にか特別ではなく当たり前になっていくことも。

 その当たり前が、いつか終わる日が来ることも。

 何一つ知らなかった。

 だから僕も、何の迷いもなく答えた。

 「また明日」

 改札の向こうへ消えていく琴葉の背中を見送りながら、その日の僕はただ、明日もあの小さな喫茶店へ行こうと思っていた。

 それだけだった。

 恋と呼ぶにはまだ早く、運命と呼ぶにはあまりにも普通で、けれど振り返れば、僕たちの時間は確かにあの日から始まっていた。

――第二章「名前を知った日」へ続く。