第一章 いつもの窓際の席
その喫茶店を見つけたのは、大学二年の春が終わりかけていた頃だった。
駅から大学までは歩いて十五分ほどで、ほとんどの学生は大通りをまっすぐ進むのだけれど、その日だけ僕は特に理由もなく一本裏の道へ入った。
急いでいたわけでもないし、寄り道をしたかったわけでもない。
講義が一つ休講になり、次の予定まで中途半端に時間が空いてしまったから、少し遠回りして帰ろうと思っただけだった。
細い道の両側には昔からそこにあるらしい小さな店が並んでいて、クリーニング店や古びた文房具店、店先に野菜を並べた八百屋の前を過ぎたところで、僕は一軒の店に目を留めた。
木製の小さな看板に、白い文字で名前が書かれていた。
喫茶 ひより
洒落たカフェという感じではない。
外壁は少しくすんだ薄茶色で、入口の横には古い黒板が立て掛けられ、本日の珈琲と手書きされている。ガラス越しに見える店内も決して広くはなく、テーブル席がいくつかとカウンターがある程度だった。
それでも、なぜか気になった。
入口を開けると小さなベルが鳴り、すぐに珈琲の香りがした。
「いらっしゃい」
カウンターの中から声をかけてきたのは、六十歳を少し過ぎたくらいの男性だった。
白髪交じりの髪を短く整え、シャツの上から濃い色のエプロンを着けている。
「一人です」
「好きなところどうぞ」
店内には客が二人しかいなかった。
カウンターで新聞を読んでいる男性と、入口から一番離れた窓際の席に座っている女の子。
僕は少し迷って、その女の子から一つ離れたテーブルへ座った。
窓の外には小さな商店街が見える。
大学へ通い始めて一年以上になるのに、こんな場所があったことすら知らなかった。
メニューを開く。
ブレンド珈琲。
アイス珈琲。
紅茶。
クリームソーダ。
ナポリタン。
トースト。
ホットケーキ。
どれも驚くほど普通だった。
「決まった?」
「じゃあ、アイス珈琲で」
「はいよ」
店主がカウンターへ戻る。
僕はスマートフォンを取り出したものの、特に見るものもなく、すぐに画面を伏せた。
店には静かな音楽が流れていた。
聞いたことのないピアノ曲。
時計の針が進む音。
珈琲を淹れる音。
外を走る自転車のベル。
大学の食堂や駅前のチェーン店とは違って、何もしなくても許されるような時間が流れている。
「お待たせ」
透明なグラスが置かれた。
「ありがとうございます」
一口飲む。
正直、僕は珈琲の味について詳しくない。
ただ、少しだけ苦くて、暑くなり始めた午後にはちょうどよかった。
その時、窓際の女の子が本を閉じた。
何となく目が向いた。
長い髪を後ろで一つにまとめていて、薄い水色のシャツに白いスカートを合わせている。
大学生だろうか。
年齢は僕と同じくらいに見える。
テーブルには紅茶と小さなノートがあり、本の間には黄色い付箋が何枚も挟まっていた。
彼女は時計を見ると財布を取り出した。
「ごちそうさまでした」
「今日は早いね」
店主が言った。
「五限あるので」
「頑張るねえ」
「出ないと単位が危ないんです」
「それは頑張った方がいい」
「ですよね」
彼女が笑う。
そこで初めて、同じ大学の学生なのだと分かった。
店を出る時、彼女はこちらを見ることもなく扉を開けた。
ベルが鳴る。
僕はなんとなく、その背中を目で追った。
それだけだった。
名前も知らない。
学部も知らない。
話したことさえない。
だから、その時の僕にとって彼女は、たまたま同じ喫茶店にいた人でしかなかった。
そのはずだった。
◇
一週間後。
僕はまた「ひより」の扉を開けていた。
「いらっしゃい」
店主が前と同じ調子で迎える。
特に行こうと決めていたわけではない。
講義が終わり、駅へ向かって歩いていたら、気がつけば前と同じ裏道に入っていた。
店内を見る。
そして少しだけ驚いた。
窓際。
前と同じ席。
あの女の子が座っている。
今日も本を読んでいた。
服装は違う。
髪も今日は下ろしている。
それでもすぐに分かった。
「好きなところどうぞ」
「あ、はい」
僕は前回と同じ席へ座った。
一つ空けた隣。
メニューを見る必要もなかった。
「アイス珈琲」
「はいよ」
店主が少しだけ笑ったような気がした。
女の子は一度だけこちらを見た。
目が合う。
僕は軽く頭を下げた。
向こうも同じように少し頭を下げ、それからすぐ本へ戻った。
それだけ。
会話はなかった。
それでも不思議なことに、前回より少しだけ居心地がよかった。
◇
さらに四日後。
またいた。
窓際の席。
今度は本ではなく、ノートパソコンを開いている。
僕が入ると、店主が先に言った。
「アイス珈琲?」
「覚えたんですか」
「二回続けば覚えるよ」
「じゃあ、それで」
いつもの席へ座る。
彼女が顔を上げた。
また目が合う。
今度は彼女の方が先に少し笑った。
僕も笑い返した。
まだ話してはいない。
でも「この前もいましたよね」ということだけは、お互いに分かっていた。
その日、彼女は僕より先に帰った。
「お先に」
店主へ言ったあと、なぜか僕の方にも少し頭を下げた。
「……どうも」
よく分からない返事をしてしまった。
扉が閉まってから、店主がカウンター越しに笑う。
「知り合い?」
「違います」
「そうなの?」
「名前も知らないです」
「へえ」
「何ですか」
「別に」
絶対に何か思っている顔だった。
「よく来るんですか、あの人」
「まあね」
「大学生ですよね」
「そうみたいだね」
「ここの近く?」
「さあ」
店主はわざとらしく首を傾げる。
「知らないんですか」
「お客さんの個人情報を勝手に教えたら怒られるからね」
「そこまで聞いてないです」
「ならいいけど」
僕はアイス珈琲を飲む。
少しだけぬるくなっていた。
◇
気がつけば、僕は週に二、三回ほど「ひより」へ行くようになっていた。
大学の講義が終わったあと。
アルバイトまで時間がある日。
特に予定のない午後。
理由はいくらでも作れた。
ただ、店に入った瞬間に無意識に窓際を見てしまうことだけは、自分でも少し気になっていた。
いる日もあれば、いない日もある。
いなければ普通に珈琲を飲む。
いると、なぜか少し嬉しい。
そんなことを繰り返して六月になった。
雨の日だった。
朝から降り続いた雨は夕方になっても弱くならず、傘を差していても肩が少し濡れるほどだった。
僕は大学を出たあと、いつものようにひよりへ向かった。
扉を開ける。
「いらっしゃい」
窓際を見る。
彼女はいなかった。
少しだけ残念に思いながら、いつもの席へ座る。
「今日はホットにする?」
店主が聞いた。
「そうですね」
「ブレンド?」
「お願いします」
雨が窓を叩く音を聞きながら珈琲を飲んでいると、十分ほどして入口のベルが鳴った。
「すみません、遅くなりました」
聞き覚えのある声。
顔を上げる。
彼女だった。
折り畳み傘を閉じながら店へ入り、肩についた雨粒を手で払っている。
「すごい雨だね」
「途中から急に強くなって」
「タオル使う?」
「大丈夫です」
彼女がいつもの窓際へ向かう。
そして途中で、僕に気づいた。
「あ」
「どうも」
「どうも」
それだけ言って席へ座った。
しばらくして紅茶が運ばれてくる。
僕は本を開いた。
彼女もノートを広げる。
雨音だけが店に響く。
それから三十分ほど経った頃だった。
「……まだ降ってます?」
突然声がした。
僕は顔を上げた。
「え?」
彼女がこちらを見ている。
「外」
「ああ」
窓を見る。
「まだ結構降ってますね」
「ですよね」
「天気予報だと夜までだった気がします」
「最悪だ」
彼女は小さくため息をついた。
「傘あるじゃないですか」
「あれ壊れました」
「え?」
「さっき開いたら骨一本曲がってて、ここまで無理やり来たんです」
入口の傘立てを見る。
彼女の折り畳み傘は確かに少し傾いていた。
「なんでそこまでしてここに」
思わず聞くと、彼女は少し笑った。
「私も今、それ思いました」
僕も笑った。
初めて、ちゃんと会話した。
◇
雨は一時間経っても止まなかった。
午後六時を過ぎ、外は少しずつ暗くなっていく。
彼女は何度も窓を見ている。
「駅までですよね」
僕が聞いた。
「はい」
「俺もです」
「そうなんですか」
「大学も同じですよね」
「ですよね。前からそうかなって思ってました」
「俺も」
そこで少し間が空いた。
「何学部ですか?」
彼女が聞く。
「経済です」
「あ、じゃあ全然違う」
「そっちは?」
「文学部です」
「やっぱり」
「何がやっぱりなんですか」
「いつも本読んでるから」
「ああ」
彼女が笑った。
「経済学部の人は本読まないんですか?」
「読まないですね」
「偏見すごい」
「少なくとも俺は」
「それはあなたの問題じゃないですか」
「確かに」
また二人で笑った。
会話を始めてしまえば不思議なくらい普通だった。
何度も同じ店で顔を合わせていたからなのか、初対面の人と話している感じがあまりしない。
そのまま講義の話や大学の食堂の話をしているうちに、時計は六時半を過ぎていた。
店主が窓を見ながら言う。
「雨、弱くなったよ」
二人で同時に窓を見る。
確かにさっきよりかなり小降りになっている。
「あ、本当だ」
彼女が立ち上がる。
「今のうちに帰ろうかな」
「傘壊れてるんですよね」
「走ります」
「駅まで?」
「十分くらいなら」
「風邪ひきますよ」
「じゃあどうしろと」
僕は自分の傘を見る。
普通の大きさのビニール傘。
数秒迷った。
「駅までなら入ります?」
言ってから、少し唐突だったかもしれないと思った。
彼女も一瞬だけ驚いた顔をした。
「いいんですか」
「俺も駅行くんで」
「でも狭くないですか?」
「ちょっとくらい濡れても」
「それ、傘の意味ないですよ」
「走るよりマシです」
彼女は少し考え、それから笑った。
「じゃあ、お言葉に甘えます」
◇
会計を済ませる。
「ありがとうございました」
店主の声。
僕が傘を開く。
彼女がその下へ入る。
思ったより近い。
肩が触れそうになる。
「狭いですね」
彼女が言った。
「言ったじゃないですか」
「言ってないですよ。私が聞いたんです」
「そうだっけ」
「そうです」
歩き始める。
雨に濡れた商店街は、昼とは少し違って見えた。
店の明かりが路面に反射している。
車が通るたび、水を踏む音がする。
「そういえば」
彼女が言った。
「はい」
「ずっと同じ時間にいますよね」
「そっちも」
「私は前から来てます」
「俺も最近は結構」
「最近ですよね」
「分かるんですか」
「分かりますよ。いつも窓際だったから」
「その席好きなんですか?」
「好きです」
「何で?」
彼女は少し考えてから窓のない空を見上げる。
「外が見えるから」
「普通ですね」
「悪かったですね」
「いや、もっと文学部っぽい答えが来るかと」
「例えば?」
「光の入り方がどうとか」
「言いませんよ、そんなの」
「文学部なのに」
「偏見がひどい」
また笑う。
駅までは十分ほど。
普段なら何も感じない距離なのに、その日は妙に短く感じた。
◇
駅前の屋根が見えてきた。
「あ、もう着いた」
彼女が言った。
「ですね」
二人で屋根の下へ入る。
彼女は傘から出て、少し濡れた髪を手で整えた。
「ありがとうございました」
「いえ」
「助かりました」
「壊れた傘は?」
「明日捨てます」
「ひよりに置いてきたままですよ」
「あ」
数秒。
二人で顔を見合わせる。
「完全に忘れてた」
「取りに戻ります?」
「嫌です。また濡れる」
「じゃあ今度」
「そうします」
彼女が改札の方へ歩き出した。
僕も別の路線へ向かおうとする。
そこで、ふと思った。
何度も同じ店で会って。
今日初めてまともに話して。
駅まで一緒に歩いた。
それなのに。
「そういえば」
僕が呼び止める。
彼女が振り返った。
「はい?」
「名前」
「名前?」
「知らないままでした」
彼女は少し驚いて、それから笑った。
「あ、本当だ」
「俺、瀬戸悠介です」
ほんの少しだけ緊張しながら名乗る。
「瀬戸悠介さん」
「はい」
「大学二年?」
「そうです」
「同じだ」
彼女は一度頷き、それから自分の胸元を軽く指した。
「私は宮下琴葉です」
「宮下さん」
「はい」
初めて知った名前だった。
ただそれだけなのに、何度も顔を合わせていた人が急に輪郭を持ったような気がした。
「じゃあ」
琴葉が小さく手を上げる。
「また、ひよりで」
「はい」
彼女は数歩歩いてから、もう一度振り返った。
「あ」
「何ですか」
「傘」
「ああ」
「今度取りに行くので」
「はい」
「たぶん明日」
琴葉は笑った。
「また明日」
その言葉を聞いた時、僕はまだ何も知らなかった。
これから何度、その言葉を交わすことになるのかも。
彼女と一緒にいることが、いつの間にか特別ではなく当たり前になっていくことも。
その当たり前が、いつか終わる日が来ることも。
何一つ知らなかった。
だから僕も、何の迷いもなく答えた。
「また明日」
改札の向こうへ消えていく琴葉の背中を見送りながら、その日の僕はただ、明日もあの小さな喫茶店へ行こうと思っていた。
それだけだった。
恋と呼ぶにはまだ早く、運命と呼ぶにはあまりにも普通で、けれど振り返れば、僕たちの時間は確かにあの日から始まっていた。
――第二章「名前を知った日」へ続く。
その喫茶店を見つけたのは、大学二年の春が終わりかけていた頃だった。
駅から大学までは歩いて十五分ほどで、ほとんどの学生は大通りをまっすぐ進むのだけれど、その日だけ僕は特に理由もなく一本裏の道へ入った。
急いでいたわけでもないし、寄り道をしたかったわけでもない。
講義が一つ休講になり、次の予定まで中途半端に時間が空いてしまったから、少し遠回りして帰ろうと思っただけだった。
細い道の両側には昔からそこにあるらしい小さな店が並んでいて、クリーニング店や古びた文房具店、店先に野菜を並べた八百屋の前を過ぎたところで、僕は一軒の店に目を留めた。
木製の小さな看板に、白い文字で名前が書かれていた。
喫茶 ひより
洒落たカフェという感じではない。
外壁は少しくすんだ薄茶色で、入口の横には古い黒板が立て掛けられ、本日の珈琲と手書きされている。ガラス越しに見える店内も決して広くはなく、テーブル席がいくつかとカウンターがある程度だった。
それでも、なぜか気になった。
入口を開けると小さなベルが鳴り、すぐに珈琲の香りがした。
「いらっしゃい」
カウンターの中から声をかけてきたのは、六十歳を少し過ぎたくらいの男性だった。
白髪交じりの髪を短く整え、シャツの上から濃い色のエプロンを着けている。
「一人です」
「好きなところどうぞ」
店内には客が二人しかいなかった。
カウンターで新聞を読んでいる男性と、入口から一番離れた窓際の席に座っている女の子。
僕は少し迷って、その女の子から一つ離れたテーブルへ座った。
窓の外には小さな商店街が見える。
大学へ通い始めて一年以上になるのに、こんな場所があったことすら知らなかった。
メニューを開く。
ブレンド珈琲。
アイス珈琲。
紅茶。
クリームソーダ。
ナポリタン。
トースト。
ホットケーキ。
どれも驚くほど普通だった。
「決まった?」
「じゃあ、アイス珈琲で」
「はいよ」
店主がカウンターへ戻る。
僕はスマートフォンを取り出したものの、特に見るものもなく、すぐに画面を伏せた。
店には静かな音楽が流れていた。
聞いたことのないピアノ曲。
時計の針が進む音。
珈琲を淹れる音。
外を走る自転車のベル。
大学の食堂や駅前のチェーン店とは違って、何もしなくても許されるような時間が流れている。
「お待たせ」
透明なグラスが置かれた。
「ありがとうございます」
一口飲む。
正直、僕は珈琲の味について詳しくない。
ただ、少しだけ苦くて、暑くなり始めた午後にはちょうどよかった。
その時、窓際の女の子が本を閉じた。
何となく目が向いた。
長い髪を後ろで一つにまとめていて、薄い水色のシャツに白いスカートを合わせている。
大学生だろうか。
年齢は僕と同じくらいに見える。
テーブルには紅茶と小さなノートがあり、本の間には黄色い付箋が何枚も挟まっていた。
彼女は時計を見ると財布を取り出した。
「ごちそうさまでした」
「今日は早いね」
店主が言った。
「五限あるので」
「頑張るねえ」
「出ないと単位が危ないんです」
「それは頑張った方がいい」
「ですよね」
彼女が笑う。
そこで初めて、同じ大学の学生なのだと分かった。
店を出る時、彼女はこちらを見ることもなく扉を開けた。
ベルが鳴る。
僕はなんとなく、その背中を目で追った。
それだけだった。
名前も知らない。
学部も知らない。
話したことさえない。
だから、その時の僕にとって彼女は、たまたま同じ喫茶店にいた人でしかなかった。
そのはずだった。
◇
一週間後。
僕はまた「ひより」の扉を開けていた。
「いらっしゃい」
店主が前と同じ調子で迎える。
特に行こうと決めていたわけではない。
講義が終わり、駅へ向かって歩いていたら、気がつけば前と同じ裏道に入っていた。
店内を見る。
そして少しだけ驚いた。
窓際。
前と同じ席。
あの女の子が座っている。
今日も本を読んでいた。
服装は違う。
髪も今日は下ろしている。
それでもすぐに分かった。
「好きなところどうぞ」
「あ、はい」
僕は前回と同じ席へ座った。
一つ空けた隣。
メニューを見る必要もなかった。
「アイス珈琲」
「はいよ」
店主が少しだけ笑ったような気がした。
女の子は一度だけこちらを見た。
目が合う。
僕は軽く頭を下げた。
向こうも同じように少し頭を下げ、それからすぐ本へ戻った。
それだけ。
会話はなかった。
それでも不思議なことに、前回より少しだけ居心地がよかった。
◇
さらに四日後。
またいた。
窓際の席。
今度は本ではなく、ノートパソコンを開いている。
僕が入ると、店主が先に言った。
「アイス珈琲?」
「覚えたんですか」
「二回続けば覚えるよ」
「じゃあ、それで」
いつもの席へ座る。
彼女が顔を上げた。
また目が合う。
今度は彼女の方が先に少し笑った。
僕も笑い返した。
まだ話してはいない。
でも「この前もいましたよね」ということだけは、お互いに分かっていた。
その日、彼女は僕より先に帰った。
「お先に」
店主へ言ったあと、なぜか僕の方にも少し頭を下げた。
「……どうも」
よく分からない返事をしてしまった。
扉が閉まってから、店主がカウンター越しに笑う。
「知り合い?」
「違います」
「そうなの?」
「名前も知らないです」
「へえ」
「何ですか」
「別に」
絶対に何か思っている顔だった。
「よく来るんですか、あの人」
「まあね」
「大学生ですよね」
「そうみたいだね」
「ここの近く?」
「さあ」
店主はわざとらしく首を傾げる。
「知らないんですか」
「お客さんの個人情報を勝手に教えたら怒られるからね」
「そこまで聞いてないです」
「ならいいけど」
僕はアイス珈琲を飲む。
少しだけぬるくなっていた。
◇
気がつけば、僕は週に二、三回ほど「ひより」へ行くようになっていた。
大学の講義が終わったあと。
アルバイトまで時間がある日。
特に予定のない午後。
理由はいくらでも作れた。
ただ、店に入った瞬間に無意識に窓際を見てしまうことだけは、自分でも少し気になっていた。
いる日もあれば、いない日もある。
いなければ普通に珈琲を飲む。
いると、なぜか少し嬉しい。
そんなことを繰り返して六月になった。
雨の日だった。
朝から降り続いた雨は夕方になっても弱くならず、傘を差していても肩が少し濡れるほどだった。
僕は大学を出たあと、いつものようにひよりへ向かった。
扉を開ける。
「いらっしゃい」
窓際を見る。
彼女はいなかった。
少しだけ残念に思いながら、いつもの席へ座る。
「今日はホットにする?」
店主が聞いた。
「そうですね」
「ブレンド?」
「お願いします」
雨が窓を叩く音を聞きながら珈琲を飲んでいると、十分ほどして入口のベルが鳴った。
「すみません、遅くなりました」
聞き覚えのある声。
顔を上げる。
彼女だった。
折り畳み傘を閉じながら店へ入り、肩についた雨粒を手で払っている。
「すごい雨だね」
「途中から急に強くなって」
「タオル使う?」
「大丈夫です」
彼女がいつもの窓際へ向かう。
そして途中で、僕に気づいた。
「あ」
「どうも」
「どうも」
それだけ言って席へ座った。
しばらくして紅茶が運ばれてくる。
僕は本を開いた。
彼女もノートを広げる。
雨音だけが店に響く。
それから三十分ほど経った頃だった。
「……まだ降ってます?」
突然声がした。
僕は顔を上げた。
「え?」
彼女がこちらを見ている。
「外」
「ああ」
窓を見る。
「まだ結構降ってますね」
「ですよね」
「天気予報だと夜までだった気がします」
「最悪だ」
彼女は小さくため息をついた。
「傘あるじゃないですか」
「あれ壊れました」
「え?」
「さっき開いたら骨一本曲がってて、ここまで無理やり来たんです」
入口の傘立てを見る。
彼女の折り畳み傘は確かに少し傾いていた。
「なんでそこまでしてここに」
思わず聞くと、彼女は少し笑った。
「私も今、それ思いました」
僕も笑った。
初めて、ちゃんと会話した。
◇
雨は一時間経っても止まなかった。
午後六時を過ぎ、外は少しずつ暗くなっていく。
彼女は何度も窓を見ている。
「駅までですよね」
僕が聞いた。
「はい」
「俺もです」
「そうなんですか」
「大学も同じですよね」
「ですよね。前からそうかなって思ってました」
「俺も」
そこで少し間が空いた。
「何学部ですか?」
彼女が聞く。
「経済です」
「あ、じゃあ全然違う」
「そっちは?」
「文学部です」
「やっぱり」
「何がやっぱりなんですか」
「いつも本読んでるから」
「ああ」
彼女が笑った。
「経済学部の人は本読まないんですか?」
「読まないですね」
「偏見すごい」
「少なくとも俺は」
「それはあなたの問題じゃないですか」
「確かに」
また二人で笑った。
会話を始めてしまえば不思議なくらい普通だった。
何度も同じ店で顔を合わせていたからなのか、初対面の人と話している感じがあまりしない。
そのまま講義の話や大学の食堂の話をしているうちに、時計は六時半を過ぎていた。
店主が窓を見ながら言う。
「雨、弱くなったよ」
二人で同時に窓を見る。
確かにさっきよりかなり小降りになっている。
「あ、本当だ」
彼女が立ち上がる。
「今のうちに帰ろうかな」
「傘壊れてるんですよね」
「走ります」
「駅まで?」
「十分くらいなら」
「風邪ひきますよ」
「じゃあどうしろと」
僕は自分の傘を見る。
普通の大きさのビニール傘。
数秒迷った。
「駅までなら入ります?」
言ってから、少し唐突だったかもしれないと思った。
彼女も一瞬だけ驚いた顔をした。
「いいんですか」
「俺も駅行くんで」
「でも狭くないですか?」
「ちょっとくらい濡れても」
「それ、傘の意味ないですよ」
「走るよりマシです」
彼女は少し考え、それから笑った。
「じゃあ、お言葉に甘えます」
◇
会計を済ませる。
「ありがとうございました」
店主の声。
僕が傘を開く。
彼女がその下へ入る。
思ったより近い。
肩が触れそうになる。
「狭いですね」
彼女が言った。
「言ったじゃないですか」
「言ってないですよ。私が聞いたんです」
「そうだっけ」
「そうです」
歩き始める。
雨に濡れた商店街は、昼とは少し違って見えた。
店の明かりが路面に反射している。
車が通るたび、水を踏む音がする。
「そういえば」
彼女が言った。
「はい」
「ずっと同じ時間にいますよね」
「そっちも」
「私は前から来てます」
「俺も最近は結構」
「最近ですよね」
「分かるんですか」
「分かりますよ。いつも窓際だったから」
「その席好きなんですか?」
「好きです」
「何で?」
彼女は少し考えてから窓のない空を見上げる。
「外が見えるから」
「普通ですね」
「悪かったですね」
「いや、もっと文学部っぽい答えが来るかと」
「例えば?」
「光の入り方がどうとか」
「言いませんよ、そんなの」
「文学部なのに」
「偏見がひどい」
また笑う。
駅までは十分ほど。
普段なら何も感じない距離なのに、その日は妙に短く感じた。
◇
駅前の屋根が見えてきた。
「あ、もう着いた」
彼女が言った。
「ですね」
二人で屋根の下へ入る。
彼女は傘から出て、少し濡れた髪を手で整えた。
「ありがとうございました」
「いえ」
「助かりました」
「壊れた傘は?」
「明日捨てます」
「ひよりに置いてきたままですよ」
「あ」
数秒。
二人で顔を見合わせる。
「完全に忘れてた」
「取りに戻ります?」
「嫌です。また濡れる」
「じゃあ今度」
「そうします」
彼女が改札の方へ歩き出した。
僕も別の路線へ向かおうとする。
そこで、ふと思った。
何度も同じ店で会って。
今日初めてまともに話して。
駅まで一緒に歩いた。
それなのに。
「そういえば」
僕が呼び止める。
彼女が振り返った。
「はい?」
「名前」
「名前?」
「知らないままでした」
彼女は少し驚いて、それから笑った。
「あ、本当だ」
「俺、瀬戸悠介です」
ほんの少しだけ緊張しながら名乗る。
「瀬戸悠介さん」
「はい」
「大学二年?」
「そうです」
「同じだ」
彼女は一度頷き、それから自分の胸元を軽く指した。
「私は宮下琴葉です」
「宮下さん」
「はい」
初めて知った名前だった。
ただそれだけなのに、何度も顔を合わせていた人が急に輪郭を持ったような気がした。
「じゃあ」
琴葉が小さく手を上げる。
「また、ひよりで」
「はい」
彼女は数歩歩いてから、もう一度振り返った。
「あ」
「何ですか」
「傘」
「ああ」
「今度取りに行くので」
「はい」
「たぶん明日」
琴葉は笑った。
「また明日」
その言葉を聞いた時、僕はまだ何も知らなかった。
これから何度、その言葉を交わすことになるのかも。
彼女と一緒にいることが、いつの間にか特別ではなく当たり前になっていくことも。
その当たり前が、いつか終わる日が来ることも。
何一つ知らなかった。
だから僕も、何の迷いもなく答えた。
「また明日」
改札の向こうへ消えていく琴葉の背中を見送りながら、その日の僕はただ、明日もあの小さな喫茶店へ行こうと思っていた。
それだけだった。
恋と呼ぶにはまだ早く、運命と呼ぶにはあまりにも普通で、けれど振り返れば、僕たちの時間は確かにあの日から始まっていた。
――第二章「名前を知った日」へ続く。



