君が思い出になる前に

日曜日の午後。

葵は約束の時間より少し早く、駅前のカフェに着いた。

窓際の席に座り、アイスティーを注文する。

休日の店内は、家族連れや友人同士の客で賑わっていた。

葵はスマートフォンを取り出す。

悠真からの連絡はまだない。

時計を見る。

約束の時間まで、あと十分。

そのとき、スマートフォンが震えた。

『今、駅に着いた』

葵はすぐに返信する。

『私ももう着いてるよ』

ほどなくして、店の入り口から悠真が入ってきた。

「ごめん、待った?」

「ううん。今来たところ」

いつものやり取り。

いつもの笑顔。

葵は少し安心した。

「何飲む?」

「俺、コーヒーでいい」

悠真が注文を済ませ、向かいの席に座る。

それからしばらく、二人は他愛のない話をした。

最近の仕事のこと。

テレビで見たニュースのこと。

駅の近くに新しい店ができたこと。

いつもと変わらない会話だった。

だからこそ、葵は余計に気になった。

「ねえ」

「ん?」

「話したいことって何?」

悠真の手が止まった。

コーヒーカップに伸ばしかけていた指が、テーブルの上でわずかに動く。

「……親父のことなんだ」

葵は姿勢を正した。

「病院、どうだった?」

「検査は終わった。今すぐどうこうって話じゃない」

「じゃあ……大丈夫なの?」

「うん。ただ、しばらく通院が必要みたいで」

悠真は一度、窓の外を見た。

「それで、俺が実家に戻ろうと思ってる」

葵は言葉を失った。

「……戻る?」

「うん」

「いつ?」

「来月には」

あまりにも突然だった。

けれど、悠真の表情を見ると、もう決めたことなのだと分かった。

「仕事は?」

「今の会社は辞めるつもり」

「そんな……」

葵は驚いた。

悠真はずっと今の仕事を続けていた。

それなりにやりがいも感じていたはずだ。

「でも、お父さんのためなら仕方ないよね」

葵はそう言った。

悠真が少しだけ笑う。

「ありがとう」

「だって、家族のことだもん」

そう言いながら、葵はグラスの水滴を指でなぞった。

頭の中で、いくつものことを考える。

地方。

実家。

今の仕事。

そして、自分たちのこと。

「……遠距離になるね」

その言葉に、悠真は黙った。

「でも、今って電話もできるし、休みの日に会いに行けばいいじゃん」

葵はできるだけ明るく言った。

「私も仕事が落ち着けば、ちゃんと会いに行くよ」

「葵」

「大丈夫だよ」

悠真が何かを言う前に、葵は続けた。

「四年も付き合ってるんだから」

その言葉に、悠真は目を伏せた。

「……そうだな」

「うん」

葵は笑った。

「大丈夫」

もう一度、そう言った。

今度は自分に言い聞かせるように。



カフェを出たあと、二人は駅まで歩いた。

日曜日の午後。

街には休日を楽しむ人たちが行き交っている。

いつもなら、どこかへ寄り道してから帰るところだった。

けれど今日は、二人とも何となく足を止めなかった。

「引っ越し、大変そうだね」

「まあな」

「手伝おうか?」

「いいよ。仕事も忙しいだろ」

「でも……」

「大丈夫」

今度は悠真が言った。

葵は少し笑った。

「お互い大丈夫って言ってるね」

「そうだな」

二人で笑う。

けれど、その笑顔はどこかぎこちなかった。

駅に着く。

改札の前で、悠真が立ち止まった。

「じゃあ、また連絡する」

「うん」

「引っ越しの日が決まったら伝える」

「分かった」

悠真が歩き出す。

葵も反対方向へ向かう。

数歩進んだところで、葵は振り返った。

悠真も振り返っていた。

目が合う。

二人とも、何も言わなかった。

ただ、小さく手を振った。



帰りの電車の中。

葵は窓の外を眺めていた。

悠真が地方へ戻る。

それは大きな変化だった。

でも、二人の関係まで変わるわけじゃない。

そう思う。

距離が離れるだけ。

電話はできる。

メッセージも送れる。

休みが合えば会いに行けばいい。

今までだって、毎日会っていたわけじゃない。

だから、大丈夫。

葵はそう考えた。

ただ、一つだけ引っかかっていることがあった。

今日、悠真は何度も言葉を止めた。

何かを言おうとして、言わなかった。

それが何なのかは分からない。

けれど、きっと時間が経てば話してくれる。

二人は四年間、一緒にいたのだから。

葵はスマートフォンを取り出した。

悠真とのメッセージ画面を開く。

最後のメッセージは、

『また連絡する』

だった。

葵は画面を見つめたあと、そっと閉じた。

そして心の中で、もう一度だけ呟いた。

大丈夫。

私たちは、これくらいのことで変わらない。

その頃の葵は、本気でそう信じていた。