君が思い出になる前に

月曜日の朝。

葵はいつもより少し早く会社へ向かった。

駅のホームでスマートフォンを見ると、悠真からメッセージが届いていた。

『おはよう。今週も頑張ろう』

葵は歩きながら返信する。

『おはよう。悠真もね』

送信して、スマートフォンをバッグにしまう。

それだけだった。

以前なら、ここからもう少し会話が続いていた。

「今日は何するの?」

「仕事頑張ってね」

「帰ったら電話しよう」

そんな短いやり取りを、何度もしていた。

でも今は、それがなくても気にならない。

葵にとっては、それが二人の関係が落ち着いたということだった。

仕事が始まれば、悠真のことを考える時間はほとんどなくなる。

午前中は会議。

昼休みにはクライアントから電話が入り、午後は企画書の修正。

気づけば、時計は夜の七時を回っていた。

「高橋さん、今日このあと少し時間あります?」

上司に声をかけられ、葵はパソコンから顔を上げた。

「はい」

「来週のプレゼン、ちょっと相談したいんだけど」

「分かりました」

葵は時計を見た。

今日は悠真と電話する約束をしていた。

けれど、まだ時間はある。

「大丈夫です」

そう答えた。

相談は思ったより長引いた。

会社を出たのは、午後九時を過ぎてからだった。

駅へ向かいながらスマートフォンを見る。

悠真から着信が一件。

その下にメッセージがあった。

『今日はもう遅いから、また明日にしよう』

葵は立ち止まった。

「あ……」

電話するのを忘れていた。

申し訳ないと思う。

けれど、それ以上に疲れていた。

『ごめん。すっかり忘れてた。明日ね』

送信すると、すぐに返信が来た。

『うん。お疲れさま』

葵は少しだけ安心した。

怒っていない。

いつも通りだ。

「よかった」

そう呟いて、また歩き始める。

その夜、葵はベッドに入るとすぐに眠った。

悠真がどんな気持ちで電話を待っていたのか。

そこまで考える余裕はなかった。



翌日の夜。

約束通り、葵は悠真に電話をかけた。

「もしもし」

『葵?』

「うん。昨日ごめんね」

『いいよ。仕事だったんだろ?』

「うん」

『なら、仕方ないよ』

いつもの悠真の声だった。

優しい声。

責める気配はない。

葵は少しほっとする。

「そういえば、週末どうする?」

『週末?』

「ほら、この前話してたじゃん。どこか行こうって」

『ああ……』

悠真の返事が少し遅れた。

『ごめん。今週は無理かもしれない』

「何か予定あるの?」

『親父のことで、ちょっと病院に行くんだ』

「そうなんだ」

『うん。最近、少し体調が悪くて』

葵は一瞬、言葉に詰まった。

「大丈夫なの?」

『今のところは大丈夫。検査してもらうだけだから』

「そっか」

少し安心する。

「じゃあ、また今度にしよう」

『……うん』

悠真は短く答えた。

葵は気づかなかった。

その「また今度」という言葉を、悠真がどんな気持ちで受け取ったのか。

『じゃあ、今日はもう寝る?』

「うん。明日も早いし」

『おやすみ、葵』

「おやすみ、悠真」

電話が切れる。

葵はスマートフォンを枕元に置いた。

そして、ふと考える。

最近、悠真と話す時間が減った。

でも、会えばちゃんと楽しい。

嫌いになったわけでもない。

喧嘩をしているわけでもない。

だったら、大丈夫。

今はお互い忙しいだけ。

葵はそう結論づけた。



数日後。

悠真は実家の父親を病院へ連れて行った。

検査を終えた帰り道、車を運転しながら、助手席の父親に声をかける。

「大丈夫そうでよかったな」

「ああ」

父親は窓の外を見ながら答えた。

「悠真も、仕事は大丈夫なのか?」

「うん」

「彼女さんは?」

その言葉に、悠真は少しだけ黙った。

「葵?」

「ああ。最近も付き合ってるんだろ」

「……うん」

「そうか」

父親はそれ以上聞かなかった。

悠真も前を向いた。

葵との関係を説明する言葉が、うまく見つからなかった。

別に悪くなったわけではない。

会えば笑える。

話もできる。

好きだと思う気持ちだって、なくなったわけではない。

それなのに。

以前のように、葵との未来を自然に想像できなくなっていた。

いつからだろう。

そんなことを考えながら、悠真は車を走らせた。



その週の金曜日。

葵は仕事を終え、会社を出た。

空には、雨が降りそうな雲が広がっている。

スマートフォンを見る。

悠真からメッセージが届いていた。

『今週の日曜、少し話したいことがある』

葵は画面を見つめた。

「話したいこと?」

少しだけ不安になる。

けれど、すぐに考え直した。

きっと、お父さんのことだ。

もしかしたら、実家に戻ることになるのかもしれない。

そう思いながら、返信する。

『分かった。日曜なら大丈夫』

送信した。

数秒後。

『ありがとう』

それだけの返信が来た。

葵はスマートフォンをバッグにしまう。

そして、まだ何も知らないまま、駅へ向かって歩き出した。

日曜日に悠真から聞かされる話が、自分の人生を少しずつ変えていくことになるとは。

このときの葵は、まだ想像もしていなかった。