「高橋さん、この企画書、今日中にいける?」
夕方六時を少し過ぎた頃、デスクの向こうから声が飛んできた。
「はい。あと少しなので、今日中に出します」
葵は顔を上げて笑った。
パソコンの画面には、クライアントへ提出する企画書が開かれている。
修正箇所はまだいくつか残っていた。
けれど、今日中に終わらせることはできる。
そう思って、葵は再びキーボードに指を置いた。
窓の外は、もう暗い。
ビルの明かりがいくつも灯り始めている。
スマートフォンが小さく震えた。
画面を見ると、悠真からだった。
『今日、何時くらいに終わりそう?』
葵は少しだけ考えてから返信する。
『たぶん九時くらいかな』
すぐに既読がついた。
『そっか。頑張って』
それだけだった。
葵は「ありがとう」と返して、スマートフォンを伏せた。
以前なら、もう少しやり取りを続けていた気がする。
今日何を食べたとか、明日は何時に起きるとか。
そんな、とりとめのない話を何度もしていた。
でも、付き合って四年も経てば、こうなるものなのだろう。
葵はそう思った。
恋人だからといって、毎日ずっと連絡を取り合う必要はない。
お互い仕事もある。
それぞれの時間を大切にすることも、長く付き合うためには必要だ。
そう考えると、今の関係はむしろ順調なのかもしれない。
葵はそんなふうに思っていた。
午後九時を過ぎて、ようやく企画書を送信する。
「終わった……」
椅子の背もたれに体を預ける。
同じ部署には、まだ何人か残っていた。
「高橋さん、帰らないんですか?」
後輩に声をかけられ、葵は時計を見る。
「帰るよ。今から」
「彼氏さん、待ってたりしないんですか?」
「ううん。今日は大丈夫」
そう答えてから、葵は少し笑った。
「付き合い長いから」
それだけで、後輩は納得したように頷いた。
会社を出ると、夜の風が思ったより冷たかった。
駅へ向かいながらスマートフォンを確認する。
悠真から新しいメッセージは来ていない。
葵は気にせず、バッグにしまった。
帰ったらシャワーを浴びて、少しだけテレビを見よう。
明日の朝は早い。
週末になれば、悠真にも会える。
そう思った。
週末。
いつでも会える。
だから、今日じゃなくてもいい。
その考えが、今の葵にとっては当たり前だった。
土曜日の朝。
葵は目覚ましを止めたあと、布団の中でスマートフォンを手に取った。
悠真からメッセージが届いている。
『おはよう。今日どうする?』
葵は予定を思い出した。
午前中に少しだけ仕事を片づけるつもりだった。
来週のプレゼンに使う資料も確認しておきたい。
『ごめん。午前中だけ会社行ってもいい?』
送ると、しばらくして返事が来た。
『いいよ。終わったら連絡して』
葵は安心した。
悠真なら分かってくれる。
昔からそうだった。
仕事が忙しいときも、葵が余裕をなくしているときも、悠真は何も言わずに待ってくれた。
だから葵は、きっとこれからもそうなのだと思っていた。
午前中だけのつもりだった仕事は、結局、昼を過ぎた。
さらに、同僚から確認を頼まれた資料を見ているうちに、時計は二時を回っていた。
スマートフォンを見る。
悠真からメッセージが一件。
『お昼、どうする?』
葵は少し迷った。
今からなら、まだ会える。
けれど、仕事が終わっていない。
『ごめん、もう少しかかりそう。今日、夕方からでもいい?』
送信する。
返事はすぐには来なかった。
葵は気にせず、パソコンの画面に向き直った。
午後四時。
ようやく会社を出る。
駅へ向かう途中、スマートフォンが震えた。
『今日は無理しなくていいよ。また今度にしよう』
葵は足を止めた。
また今度。
その言葉を見て、少しだけ胸がざわついた。
けれど、それが何なのかは分からない。
『うん、ごめんね。また今度行こう』
そう返信して、スマートフォンをしまう。
また今度。
その言葉なら、いくらでも使える。
来週もある。
来月もある。
これから先も、二人は一緒にいるのだから。
葵はそう思って、駅へ向かって歩き出した。
そのときはまだ知らなかった。
「また今度」が、二人の間から少しずつ時間を奪っていたことを。
そして、その時間が、もう二度と戻ってこないものになることを。
まだ、何も知らなかった。
夕方六時を少し過ぎた頃、デスクの向こうから声が飛んできた。
「はい。あと少しなので、今日中に出します」
葵は顔を上げて笑った。
パソコンの画面には、クライアントへ提出する企画書が開かれている。
修正箇所はまだいくつか残っていた。
けれど、今日中に終わらせることはできる。
そう思って、葵は再びキーボードに指を置いた。
窓の外は、もう暗い。
ビルの明かりがいくつも灯り始めている。
スマートフォンが小さく震えた。
画面を見ると、悠真からだった。
『今日、何時くらいに終わりそう?』
葵は少しだけ考えてから返信する。
『たぶん九時くらいかな』
すぐに既読がついた。
『そっか。頑張って』
それだけだった。
葵は「ありがとう」と返して、スマートフォンを伏せた。
以前なら、もう少しやり取りを続けていた気がする。
今日何を食べたとか、明日は何時に起きるとか。
そんな、とりとめのない話を何度もしていた。
でも、付き合って四年も経てば、こうなるものなのだろう。
葵はそう思った。
恋人だからといって、毎日ずっと連絡を取り合う必要はない。
お互い仕事もある。
それぞれの時間を大切にすることも、長く付き合うためには必要だ。
そう考えると、今の関係はむしろ順調なのかもしれない。
葵はそんなふうに思っていた。
午後九時を過ぎて、ようやく企画書を送信する。
「終わった……」
椅子の背もたれに体を預ける。
同じ部署には、まだ何人か残っていた。
「高橋さん、帰らないんですか?」
後輩に声をかけられ、葵は時計を見る。
「帰るよ。今から」
「彼氏さん、待ってたりしないんですか?」
「ううん。今日は大丈夫」
そう答えてから、葵は少し笑った。
「付き合い長いから」
それだけで、後輩は納得したように頷いた。
会社を出ると、夜の風が思ったより冷たかった。
駅へ向かいながらスマートフォンを確認する。
悠真から新しいメッセージは来ていない。
葵は気にせず、バッグにしまった。
帰ったらシャワーを浴びて、少しだけテレビを見よう。
明日の朝は早い。
週末になれば、悠真にも会える。
そう思った。
週末。
いつでも会える。
だから、今日じゃなくてもいい。
その考えが、今の葵にとっては当たり前だった。
土曜日の朝。
葵は目覚ましを止めたあと、布団の中でスマートフォンを手に取った。
悠真からメッセージが届いている。
『おはよう。今日どうする?』
葵は予定を思い出した。
午前中に少しだけ仕事を片づけるつもりだった。
来週のプレゼンに使う資料も確認しておきたい。
『ごめん。午前中だけ会社行ってもいい?』
送ると、しばらくして返事が来た。
『いいよ。終わったら連絡して』
葵は安心した。
悠真なら分かってくれる。
昔からそうだった。
仕事が忙しいときも、葵が余裕をなくしているときも、悠真は何も言わずに待ってくれた。
だから葵は、きっとこれからもそうなのだと思っていた。
午前中だけのつもりだった仕事は、結局、昼を過ぎた。
さらに、同僚から確認を頼まれた資料を見ているうちに、時計は二時を回っていた。
スマートフォンを見る。
悠真からメッセージが一件。
『お昼、どうする?』
葵は少し迷った。
今からなら、まだ会える。
けれど、仕事が終わっていない。
『ごめん、もう少しかかりそう。今日、夕方からでもいい?』
送信する。
返事はすぐには来なかった。
葵は気にせず、パソコンの画面に向き直った。
午後四時。
ようやく会社を出る。
駅へ向かう途中、スマートフォンが震えた。
『今日は無理しなくていいよ。また今度にしよう』
葵は足を止めた。
また今度。
その言葉を見て、少しだけ胸がざわついた。
けれど、それが何なのかは分からない。
『うん、ごめんね。また今度行こう』
そう返信して、スマートフォンをしまう。
また今度。
その言葉なら、いくらでも使える。
来週もある。
来月もある。
これから先も、二人は一緒にいるのだから。
葵はそう思って、駅へ向かって歩き出した。
そのときはまだ知らなかった。
「また今度」が、二人の間から少しずつ時間を奪っていたことを。
そして、その時間が、もう二度と戻ってこないものになることを。
まだ、何も知らなかった。



