ずっと隣にいた君が、遠くなった春

 夏休みが終わり、二学期が始まった。

 朝の校舎には、久しぶりに会った友達同士の楽しそうな声があふれている。

「旅行どうだった?」

「宿題、最後の三日で終わらせた!」

「文化祭の準備、来週からだって!」

 窓の外では、まだ夏の名残を感じさせる青空が広がっていた。

 九月になったとはいえ、教室には朝から暑い空気が残っている。

「陽菜乃、おはよう!」

「美緒ちゃん、おはよう」

 陽菜乃は鞄を机の横へかけ、椅子に座った。

 久しぶりの制服。

 久しぶりの教室。

 いつもの友達。

 何も変わっていないはずなのに。

 陽菜乃の心の中には、夏休み前にはなかったものが残っていた。

 スマホで見た写真。

 サッカー部のみんなと並ぶ湊。

 そのすぐ隣で笑う美羽。

『成瀬くんと美羽ちゃんお似合い!』

 コメント欄に並んでいた言葉まで、まだ覚えている。

「陽菜乃?」

「え?」

「また考え事?」

 美緒が心配そうに顔をのぞき込んできた。

「ううん」

「成瀬くんのこと?」

「……」

「当たりだね」

 陽菜乃は困ったように笑った。

「もう気にしないって決めたの」

「何を?」

「湊と美羽ちゃんのこと」

「それ、本人に確認した?」

「……してない」

「じゃあ何も分かってないじゃん」

「でも」

 陽菜乃は自分の指先を見つめた。

「聞かなくても分かることって、あると思う」

「写真だけで?」

「写真だけじゃないよ」

 部活ではいつも一緒。

 花火大会でも隣にいた。

 試合のあと、美羽は湊に抱きついた。

 学校中で付き合っているという噂まで流れている。

 それだけそろっていたら。

 もう答えは出ているような気がした。

「もし湊に彼女ができたなら」

 陽菜乃は少しだけ笑った。

「私も、今までと同じじゃだめなんだと思う」

「陽菜乃……」

「朝、一緒に学校へ行ったり。帰りに二人で帰ったり。何かあるたびに湊に頼ったり」

「幼馴染なんだから、それくらいいいんじゃない?」

「でも彼女からしたら、嫌かもしれないよ」

 もし自分が美羽だったら。

 好きな男の子の隣に、昔からずっと仲のいい女の子がいたら。

 きっと不安になる。

 そう考えると、今まで通りにはできなかった。

「私も少しずつ、一人でできるようにならないと」

 陽菜乃が言った、その時。

「無理じゃね?」

 後ろから低い声がした。

「えっ」

 振り返ると、柊真が鞄を肩にかけたまま立っていた。

「柊真くん!」

「朝から何の話してんのか知らねえけど」

 柊真は陽菜乃を見て、少し笑う。

「陽菜乃が急に何でも一人でできるようになるって、かなり難しいだろ」

「できるもん」

「夏休み前、階段で何回つまずいた?」

「……覚えてない」

「三回」

「数えてたの!?」

「廊下でプリント落としたの二回」

「もういいよ!」

 陽菜乃が頬をふくらませると、美緒が吹き出した。

「水野くん、陽菜乃のこと詳しすぎ」

「見てりゃ分かる」

「そんなに見てるんだ?」

「美緒ちゃん!」

 なぜか陽菜乃のほうが恥ずかしくなり、美緒の腕を軽く引いた。

 柊真は何も答えず、自分の席へ向かう。

 けれど。

 その耳が少し赤く見えた。

(……暑いからかな)

 陽菜乃は深く考えず、教科書を取り出した。

 二学期最初のホームルーム。

「それじゃあ、文化祭に向けて席を少し動かすぞー」

 担任の森川先生が黒板の前で声を上げた。

 文化祭では、二年二組はカフェをすることになっている。

 準備をしやすいように、しばらく班ごとに席をまとめるらしい。

「小宮山は……水野の隣」

「え?」

 陽菜乃は思わず顔を上げた。

「また一緒?」

 柊真がこちらを見る。

「またって?」

「体育祭係」

「あ……」

 そうだった。

 体育祭でも二人で係を担当した。

「よろしく」

 陽菜乃が笑う。

「今度は絵の具顔につけんなよ」

「つけないよ!」

「どうだか」

「柊真くん!」

 教室のあちこちから机を動かす音が響く。

 陽菜乃も机を持とうとした。

「よいしょ……」

「待て」

「え?」

 柊真が陽菜乃の机の反対側を持った。

「一人でできる」

「さっき何でも一人でやるって言ってたから?」

「……うん」

「机運べるのと、何でも一人でやるのは違うだろ」

「でも」

「いいから。そっち持て」

「……うん」

 二人で机を持つ。

 ほんの数歩。

 それだけなのに、柊真は陽菜乃の歩く速さにきちんと合わせてくれる。

「そこ段差」

「え?」

「ほら」

 言われて足元を見る。

 床に延長コードが通っていた。

「ほんとだ」

「お前、絶対引っかかると思った」

「今日は引っかかってないよ」

「俺が言ったから」

「……ありがとう」

「はい、一人でできてない」

「もう!」

 陽菜乃は思わず笑った。

 すると近くにいた莉子が、じっと二人を見る。

「なに?」

「いやあ」

「莉子ちゃん?」

「やっぱり仲いいよね、二人」

「私と柊真くん?」

「うん」

「そうかな?」

 陽菜乃が首をかしげる。

 柊真が机を置きながら言った。

「こいつが手かかるだけ」

「またそれ言う!」

「事実」

「違います!」

「さっき机落としかけたじゃん」

「あれは……ちょっと手が滑っただけ」

「ほら」

「柊真くん!」

 莉子が声を上げて笑う。

「何それ。夫婦みたい!」

「えっ!?」

 陽菜乃の顔が一気に熱くなった。

「ち、違うよ!」

「はいはい」

「ほんとに違うから!」

 慌てて否定する。

 柊真は少し困ったような顔をしながらも、否定する言葉はすぐには出さなかった。

「柊真くんも何か言ってよ」

「別にほっとけばいいだろ」

「よくないよ!」

「なんで?」

「だって変な噂になったら……」

 そこまで言った時。

 陽菜乃は、ふと口を閉じた。

 変な噂。

 その言葉で思い浮かんだのは。

 湊と美羽だった。


 昼休み。

「陽菜乃、一緒に食おうぜ」

 クラスの男子が声をかけてきた。

「みんなで食べるの?」

「うん。文化祭班で」

「じゃあ私も!」

 美緒や莉子も机を寄せる。

 柊真も隣の席なので、そのままグループに加わった。

「水野、パンだけ?」

「朝買う時間なかった」

「それで足りる?」

「足りる」

 陽菜乃は柊真の昼食を見る。

 大きめのパンが一つ。

 飲み物だけ。

「……ほんとに?」

「何」

「少なくない?」

「午後授業だけだし」

「でもお腹空くよ」

「母親かよ」

「だって」

 陽菜乃は自分のお弁当を見る。

 今日のおかずは、母が作った唐揚げと卵焼き。

 少し迷ってから。

「唐揚げ、食べる?」

「え?」

「多いから」

「陽菜乃、それ昨日から楽しみにしてた唐揚げじゃん」

 美緒がすかさず言う。

「美緒ちゃん!」

「朝言ってたよね?」

「一個くらいいいの!」

 柊真が少し笑う。

「じゃあもらう」

「うん」

 陽菜乃は小さなカップに唐揚げを一つ入れ、柊真へ渡した。

「ほら」

「ありがと」

「どういたしまして」

 柊真が食べる。

「うまい」

「お母さんが作ったんだよ」

「陽菜乃じゃないの?」

「今日は違うよ」

「じゃあ今度また作って」

「え?」

「前の卵焼き」

「あれ?」

「うまかったから」

「……うん」

 陽菜乃は少し照れながら笑った。

 その瞬間だった。

「え、水野。前に小宮山の手作り食ったことあんの?」

 クラスの男子が反応した。

「あ」

 陽菜乃は嫌な予感がした。

「あるけど」

 柊真が普通に答える。

「マジ!?」

「それもう付き合ってんじゃん!」

「違うよ!」

 陽菜乃がすぐに否定する。

「お礼で作っただけ!」

「でも今日もおかずあげてるし」

「それは柊真くんがお昼少ないから」

「水野、小宮山に世話焼かれてんじゃん」

「逆じゃね? いつも水野が小宮山の面倒見てる」

「じゃあ両想いじゃん!」

「違うってば!」

 顔がどんどん熱くなる。

「もう、からかわないでよ……」

 陽菜乃が困って俯く。

 その時。

「陽菜乃」

 教室の入口から聞こえた声。

 胸が跳ねた。

 顔を上げる。

「……湊」

 そこに立っていたのは湊だった。

 久しぶりに昼休みに教室へ来てくれた。

 陽菜乃はうれしくなった。

 けれど。

 湊は笑っていなかった。

「何してんの?」

「みんなでお昼食べてるの」

「……ふーん」

 湊の目が、陽菜乃のお弁当から柊真の手元へ向かう。

「成瀬じゃん」

 クラスの男子が面白そうに声をかける。

「知ってる? 小宮山と水野、最近めっちゃ仲いいんだぞ」

「ちょっと!」

 陽菜乃は慌てた。

「変なこと言わないで!」

「文化祭もずっと同じ班だし」

「手作り弁当も作ったらしい」

「だからあれは――」

「へえ」

 湊が短く言った。

 その声に、陽菜乃は言葉を止める。

「湊?」

「別にいいじゃん」

「え?」

「仲いいんだろ」

 胸がちくっとした。

「違うよ」

「何が?」

「柊真くんとは……」

 友達。

 そう言おうとした。

 でも。

 どうしてこんなに必死に否定しなくてはいけないのだろう。

 湊には美羽がいるのに。

 そんな気持ちが急に浮かんできた。

「……友達だよ」

「そっか」

「うん」

「じゃあ俺戻る」

「え、もう?」

「悠人待たせてるから」

「……そっか」

 湊はそれ以上何も言わず、教室を出ていった。

 陽菜乃はその背中を見送る。

 胸の奥に、よく分からない寂しさが残った。

(どうして……)

 せっかく来てくれたのに。

 ほとんど話せなかった。

「……成瀬、分かりやす」

 隣で柊真がつぶやいた。

「え?」

「なんでもねえ」


 廊下を歩きながら、湊は自分でも分かるくらい機嫌が悪かった。

「お、いた」

 階段の近くで悠人が待っていた。

「遅かったな」

「……うん」

「陽菜乃ちゃんと話せた?」

「別に」

「その顔で?」

「何」

「怖いって」

 悠人が笑う。

「何かあった?」

「水野と飯食ってた」

「クラス一緒なら食うだろ」

「手作り弁当も作ったって」

「あー、前言ってたやつ?」

「また作るって話してた」

「へえ」

「あと唐揚げあげてた」

 悠人が足を止めた。

「お前、どんだけ見てんの?」

「……」

「それもう完全に嫉妬じゃん」

「違う」

「じゃあ何?」

「幼馴染だから」

「またそれ?」

 悠人はあきれたように笑った。

「なあ湊」

「何」

「お前がずっと幼馴染って言ってる間に、水野に取られても知らねえぞ」

「……取られるって言い方やめろ」

「じゃあ陽菜乃ちゃんに彼氏できても平気?」

 湊はすぐに答えられなかった。

 頭に浮かんだのは。

 柊真の隣で笑う陽菜乃。

 花火大会で手をつないでいた二人。

 体育祭で、

『頼りになる人』

 として柊真を選んだ陽菜乃。

 そして今日。

 楽しそうに昼食を食べていた姿。

「……平気じゃない」

 気づけば、小さな声が出ていた。

 悠人が目を丸くする。

「今なんて?」

「何も言ってない」

「言っただろ!」

「うるさい」

 湊はそのまま歩き出す。

 胸の奥が落ち着かない。

 でも。

 その理由を認めるのは、まだ怖かった。


 放課後。

 陽菜乃は文化祭の準備で少し遅くなった。

 廊下の窓から見える空は、淡いオレンジ色に染まっている。

「陽菜乃、これ教室まで持ってく?」

 柊真が段ボールを指した。

「うん」

「じゃあ俺持つ」

「私も持てるよ」

「じゃあ半分」

「……うん」

 二人で箱を持つ。

 中にはカフェで使う紙飾りが入っている。

「今日さ」

 柊真が歩きながら言った。

「成瀬となんかあった?」

「え?」

「昼」

「何もないよ」

「そう?」

「うん」

 少し迷ってから。

 陽菜乃は小さく続けた。

「湊には……美羽ちゃんがいるから」

 柊真の足が止まりかけた。

「まだそれ信じてんの?」

「だって」

「付き合ってるって本人から聞いた?」

「聞いてないけど」

「じゃあ分かんねえだろ」

「でも……」

 陽菜乃は段ボールの角を見つめる。

「みんな言ってるし」

「今日、お前と俺も付き合ってるみたいに言われてたじゃん」

「……!」

 陽菜乃は顔を上げた。

「それは違うよ」

「だろ?」

「うん」

「じゃあ噂なんてそんなもんじゃねえの?」

 何も言えなくなった。

 確かに。

 今日、クラスでは陽菜乃と柊真が付き合っているようにからかわれた。

 でも二人は付き合っていない。

 それなら。

 湊と美羽だって――。

「……でも」

「まだなんかある?」

「美羽ちゃん、湊のこと好きだと思う」

「それはありそう」

「でしょ?」

「でも成瀬があいつ好きかは別じゃん」

「……」

「陽菜乃」

 教室へ着き、二人で箱を机へ置く。

 柊真がまっすぐ陽菜乃を見る。

「人から聞いた話だけで諦めんの?」

 陽菜乃の胸が大きく揺れた。

「……諦めるって」

「好きなんだろ。成瀬」

 前にも聞かれた。

 その時は逃げた。

 今日は。

 なぜか逃げられなかった。

 夕方の教室。

 二人しかいない。

 窓から入ってきた風がカーテンを揺らす。

 陽菜乃は自分の手をぎゅっと握った。

「……うん」

 小さく。

 でも、今度はちゃんと言った。

「好き」

 口にした瞬間。

 胸が苦しくなった。

 ずっと心の中に隠してきた言葉。

「ずっと湊が好き」

 柊真は何も言わず、陽菜乃を見ていた。

「でも……怖いの」

「何が?」

「湊の気持ちを知るのが」

 陽菜乃は少し笑おうとした。

 でもうまくできなかった。

「もし美羽ちゃんが好きって言われたら」

 今まで通り笑える自信がない。

 朝、隣を歩くことも。

 家の前で待つことも。

 全部つらくなりそうだった。

「だから、このままでもいいのかなって思う時がある」

「よくねえだろ」

「え?」

 柊真の答えは早かった。

「そんな顔してるのに?」

「……」

「お前、成瀬があのマネージャーといる時、毎回泣きそうな顔するじゃん」

「泣いてないもん」

「知ってる」

「だったら」

「泣いてないだけで、傷ついてんだろ」

 陽菜乃は言い返せなかった。

 柊真は少しだけ視線を外した。

「俺だったら」

「え?」

「……いや」

 途中で言葉を止める。

「何?」

「今はいい」

「気になるよ」

「そのうち言う」

「また秘密?」

「ああ」

 陽菜乃は少しだけ頬をふくらませた。

 柊真が笑う。

「ほら。帰るぞ」

「うん」

 教室を出る。

 さっきより、胸がほんの少し軽くなっていた。

 誰にも言えなかった、

『湊が好き』

 という気持ち。

 初めて柊真に話した。

 それだけで。

 自分の恋を少しだけ認められた気がした。

 でも陽菜乃は知らなかった。

 その言葉を聞いた柊真の胸にも。

 別の痛みが生まれていたことを。

 そして。

 湊もまた。

『陽菜乃と水野は付き合っているのかもしれない』

 そんな新しい勘違いを、少しずつ大きくし始めていることを。