夏休みが終わり、二学期が始まった。
朝の校舎には、久しぶりに会った友達同士の楽しそうな声があふれている。
「旅行どうだった?」
「宿題、最後の三日で終わらせた!」
「文化祭の準備、来週からだって!」
窓の外では、まだ夏の名残を感じさせる青空が広がっていた。
九月になったとはいえ、教室には朝から暑い空気が残っている。
「陽菜乃、おはよう!」
「美緒ちゃん、おはよう」
陽菜乃は鞄を机の横へかけ、椅子に座った。
久しぶりの制服。
久しぶりの教室。
いつもの友達。
何も変わっていないはずなのに。
陽菜乃の心の中には、夏休み前にはなかったものが残っていた。
スマホで見た写真。
サッカー部のみんなと並ぶ湊。
そのすぐ隣で笑う美羽。
『成瀬くんと美羽ちゃんお似合い!』
コメント欄に並んでいた言葉まで、まだ覚えている。
「陽菜乃?」
「え?」
「また考え事?」
美緒が心配そうに顔をのぞき込んできた。
「ううん」
「成瀬くんのこと?」
「……」
「当たりだね」
陽菜乃は困ったように笑った。
「もう気にしないって決めたの」
「何を?」
「湊と美羽ちゃんのこと」
「それ、本人に確認した?」
「……してない」
「じゃあ何も分かってないじゃん」
「でも」
陽菜乃は自分の指先を見つめた。
「聞かなくても分かることって、あると思う」
「写真だけで?」
「写真だけじゃないよ」
部活ではいつも一緒。
花火大会でも隣にいた。
試合のあと、美羽は湊に抱きついた。
学校中で付き合っているという噂まで流れている。
それだけそろっていたら。
もう答えは出ているような気がした。
「もし湊に彼女ができたなら」
陽菜乃は少しだけ笑った。
「私も、今までと同じじゃだめなんだと思う」
「陽菜乃……」
「朝、一緒に学校へ行ったり。帰りに二人で帰ったり。何かあるたびに湊に頼ったり」
「幼馴染なんだから、それくらいいいんじゃない?」
「でも彼女からしたら、嫌かもしれないよ」
もし自分が美羽だったら。
好きな男の子の隣に、昔からずっと仲のいい女の子がいたら。
きっと不安になる。
そう考えると、今まで通りにはできなかった。
「私も少しずつ、一人でできるようにならないと」
陽菜乃が言った、その時。
「無理じゃね?」
後ろから低い声がした。
「えっ」
振り返ると、柊真が鞄を肩にかけたまま立っていた。
「柊真くん!」
「朝から何の話してんのか知らねえけど」
柊真は陽菜乃を見て、少し笑う。
「陽菜乃が急に何でも一人でできるようになるって、かなり難しいだろ」
「できるもん」
「夏休み前、階段で何回つまずいた?」
「……覚えてない」
「三回」
「数えてたの!?」
「廊下でプリント落としたの二回」
「もういいよ!」
陽菜乃が頬をふくらませると、美緒が吹き出した。
「水野くん、陽菜乃のこと詳しすぎ」
「見てりゃ分かる」
「そんなに見てるんだ?」
「美緒ちゃん!」
なぜか陽菜乃のほうが恥ずかしくなり、美緒の腕を軽く引いた。
柊真は何も答えず、自分の席へ向かう。
けれど。
その耳が少し赤く見えた。
(……暑いからかな)
陽菜乃は深く考えず、教科書を取り出した。
二学期最初のホームルーム。
「それじゃあ、文化祭に向けて席を少し動かすぞー」
担任の森川先生が黒板の前で声を上げた。
文化祭では、二年二組はカフェをすることになっている。
準備をしやすいように、しばらく班ごとに席をまとめるらしい。
「小宮山は……水野の隣」
「え?」
陽菜乃は思わず顔を上げた。
「また一緒?」
柊真がこちらを見る。
「またって?」
「体育祭係」
「あ……」
そうだった。
体育祭でも二人で係を担当した。
「よろしく」
陽菜乃が笑う。
「今度は絵の具顔につけんなよ」
「つけないよ!」
「どうだか」
「柊真くん!」
教室のあちこちから机を動かす音が響く。
陽菜乃も机を持とうとした。
「よいしょ……」
「待て」
「え?」
柊真が陽菜乃の机の反対側を持った。
「一人でできる」
「さっき何でも一人でやるって言ってたから?」
「……うん」
「机運べるのと、何でも一人でやるのは違うだろ」
「でも」
「いいから。そっち持て」
「……うん」
二人で机を持つ。
ほんの数歩。
それだけなのに、柊真は陽菜乃の歩く速さにきちんと合わせてくれる。
「そこ段差」
「え?」
「ほら」
言われて足元を見る。
床に延長コードが通っていた。
「ほんとだ」
「お前、絶対引っかかると思った」
「今日は引っかかってないよ」
「俺が言ったから」
「……ありがとう」
「はい、一人でできてない」
「もう!」
陽菜乃は思わず笑った。
すると近くにいた莉子が、じっと二人を見る。
「なに?」
「いやあ」
「莉子ちゃん?」
「やっぱり仲いいよね、二人」
「私と柊真くん?」
「うん」
「そうかな?」
陽菜乃が首をかしげる。
柊真が机を置きながら言った。
「こいつが手かかるだけ」
「またそれ言う!」
「事実」
「違います!」
「さっき机落としかけたじゃん」
「あれは……ちょっと手が滑っただけ」
「ほら」
「柊真くん!」
莉子が声を上げて笑う。
「何それ。夫婦みたい!」
「えっ!?」
陽菜乃の顔が一気に熱くなった。
「ち、違うよ!」
「はいはい」
「ほんとに違うから!」
慌てて否定する。
柊真は少し困ったような顔をしながらも、否定する言葉はすぐには出さなかった。
「柊真くんも何か言ってよ」
「別にほっとけばいいだろ」
「よくないよ!」
「なんで?」
「だって変な噂になったら……」
そこまで言った時。
陽菜乃は、ふと口を閉じた。
変な噂。
その言葉で思い浮かんだのは。
湊と美羽だった。
昼休み。
「陽菜乃、一緒に食おうぜ」
クラスの男子が声をかけてきた。
「みんなで食べるの?」
「うん。文化祭班で」
「じゃあ私も!」
美緒や莉子も机を寄せる。
柊真も隣の席なので、そのままグループに加わった。
「水野、パンだけ?」
「朝買う時間なかった」
「それで足りる?」
「足りる」
陽菜乃は柊真の昼食を見る。
大きめのパンが一つ。
飲み物だけ。
「……ほんとに?」
「何」
「少なくない?」
「午後授業だけだし」
「でもお腹空くよ」
「母親かよ」
「だって」
陽菜乃は自分のお弁当を見る。
今日のおかずは、母が作った唐揚げと卵焼き。
少し迷ってから。
「唐揚げ、食べる?」
「え?」
「多いから」
「陽菜乃、それ昨日から楽しみにしてた唐揚げじゃん」
美緒がすかさず言う。
「美緒ちゃん!」
「朝言ってたよね?」
「一個くらいいいの!」
柊真が少し笑う。
「じゃあもらう」
「うん」
陽菜乃は小さなカップに唐揚げを一つ入れ、柊真へ渡した。
「ほら」
「ありがと」
「どういたしまして」
柊真が食べる。
「うまい」
「お母さんが作ったんだよ」
「陽菜乃じゃないの?」
「今日は違うよ」
「じゃあ今度また作って」
「え?」
「前の卵焼き」
「あれ?」
「うまかったから」
「……うん」
陽菜乃は少し照れながら笑った。
その瞬間だった。
「え、水野。前に小宮山の手作り食ったことあんの?」
クラスの男子が反応した。
「あ」
陽菜乃は嫌な予感がした。
「あるけど」
柊真が普通に答える。
「マジ!?」
「それもう付き合ってんじゃん!」
「違うよ!」
陽菜乃がすぐに否定する。
「お礼で作っただけ!」
「でも今日もおかずあげてるし」
「それは柊真くんがお昼少ないから」
「水野、小宮山に世話焼かれてんじゃん」
「逆じゃね? いつも水野が小宮山の面倒見てる」
「じゃあ両想いじゃん!」
「違うってば!」
顔がどんどん熱くなる。
「もう、からかわないでよ……」
陽菜乃が困って俯く。
その時。
「陽菜乃」
教室の入口から聞こえた声。
胸が跳ねた。
顔を上げる。
「……湊」
そこに立っていたのは湊だった。
久しぶりに昼休みに教室へ来てくれた。
陽菜乃はうれしくなった。
けれど。
湊は笑っていなかった。
「何してんの?」
「みんなでお昼食べてるの」
「……ふーん」
湊の目が、陽菜乃のお弁当から柊真の手元へ向かう。
「成瀬じゃん」
クラスの男子が面白そうに声をかける。
「知ってる? 小宮山と水野、最近めっちゃ仲いいんだぞ」
「ちょっと!」
陽菜乃は慌てた。
「変なこと言わないで!」
「文化祭もずっと同じ班だし」
「手作り弁当も作ったらしい」
「だからあれは――」
「へえ」
湊が短く言った。
その声に、陽菜乃は言葉を止める。
「湊?」
「別にいいじゃん」
「え?」
「仲いいんだろ」
胸がちくっとした。
「違うよ」
「何が?」
「柊真くんとは……」
友達。
そう言おうとした。
でも。
どうしてこんなに必死に否定しなくてはいけないのだろう。
湊には美羽がいるのに。
そんな気持ちが急に浮かんできた。
「……友達だよ」
「そっか」
「うん」
「じゃあ俺戻る」
「え、もう?」
「悠人待たせてるから」
「……そっか」
湊はそれ以上何も言わず、教室を出ていった。
陽菜乃はその背中を見送る。
胸の奥に、よく分からない寂しさが残った。
(どうして……)
せっかく来てくれたのに。
ほとんど話せなかった。
「……成瀬、分かりやす」
隣で柊真がつぶやいた。
「え?」
「なんでもねえ」
廊下を歩きながら、湊は自分でも分かるくらい機嫌が悪かった。
「お、いた」
階段の近くで悠人が待っていた。
「遅かったな」
「……うん」
「陽菜乃ちゃんと話せた?」
「別に」
「その顔で?」
「何」
「怖いって」
悠人が笑う。
「何かあった?」
「水野と飯食ってた」
「クラス一緒なら食うだろ」
「手作り弁当も作ったって」
「あー、前言ってたやつ?」
「また作るって話してた」
「へえ」
「あと唐揚げあげてた」
悠人が足を止めた。
「お前、どんだけ見てんの?」
「……」
「それもう完全に嫉妬じゃん」
「違う」
「じゃあ何?」
「幼馴染だから」
「またそれ?」
悠人はあきれたように笑った。
「なあ湊」
「何」
「お前がずっと幼馴染って言ってる間に、水野に取られても知らねえぞ」
「……取られるって言い方やめろ」
「じゃあ陽菜乃ちゃんに彼氏できても平気?」
湊はすぐに答えられなかった。
頭に浮かんだのは。
柊真の隣で笑う陽菜乃。
花火大会で手をつないでいた二人。
体育祭で、
『頼りになる人』
として柊真を選んだ陽菜乃。
そして今日。
楽しそうに昼食を食べていた姿。
「……平気じゃない」
気づけば、小さな声が出ていた。
悠人が目を丸くする。
「今なんて?」
「何も言ってない」
「言っただろ!」
「うるさい」
湊はそのまま歩き出す。
胸の奥が落ち着かない。
でも。
その理由を認めるのは、まだ怖かった。
放課後。
陽菜乃は文化祭の準備で少し遅くなった。
廊下の窓から見える空は、淡いオレンジ色に染まっている。
「陽菜乃、これ教室まで持ってく?」
柊真が段ボールを指した。
「うん」
「じゃあ俺持つ」
「私も持てるよ」
「じゃあ半分」
「……うん」
二人で箱を持つ。
中にはカフェで使う紙飾りが入っている。
「今日さ」
柊真が歩きながら言った。
「成瀬となんかあった?」
「え?」
「昼」
「何もないよ」
「そう?」
「うん」
少し迷ってから。
陽菜乃は小さく続けた。
「湊には……美羽ちゃんがいるから」
柊真の足が止まりかけた。
「まだそれ信じてんの?」
「だって」
「付き合ってるって本人から聞いた?」
「聞いてないけど」
「じゃあ分かんねえだろ」
「でも……」
陽菜乃は段ボールの角を見つめる。
「みんな言ってるし」
「今日、お前と俺も付き合ってるみたいに言われてたじゃん」
「……!」
陽菜乃は顔を上げた。
「それは違うよ」
「だろ?」
「うん」
「じゃあ噂なんてそんなもんじゃねえの?」
何も言えなくなった。
確かに。
今日、クラスでは陽菜乃と柊真が付き合っているようにからかわれた。
でも二人は付き合っていない。
それなら。
湊と美羽だって――。
「……でも」
「まだなんかある?」
「美羽ちゃん、湊のこと好きだと思う」
「それはありそう」
「でしょ?」
「でも成瀬があいつ好きかは別じゃん」
「……」
「陽菜乃」
教室へ着き、二人で箱を机へ置く。
柊真がまっすぐ陽菜乃を見る。
「人から聞いた話だけで諦めんの?」
陽菜乃の胸が大きく揺れた。
「……諦めるって」
「好きなんだろ。成瀬」
前にも聞かれた。
その時は逃げた。
今日は。
なぜか逃げられなかった。
夕方の教室。
二人しかいない。
窓から入ってきた風がカーテンを揺らす。
陽菜乃は自分の手をぎゅっと握った。
「……うん」
小さく。
でも、今度はちゃんと言った。
「好き」
口にした瞬間。
胸が苦しくなった。
ずっと心の中に隠してきた言葉。
「ずっと湊が好き」
柊真は何も言わず、陽菜乃を見ていた。
「でも……怖いの」
「何が?」
「湊の気持ちを知るのが」
陽菜乃は少し笑おうとした。
でもうまくできなかった。
「もし美羽ちゃんが好きって言われたら」
今まで通り笑える自信がない。
朝、隣を歩くことも。
家の前で待つことも。
全部つらくなりそうだった。
「だから、このままでもいいのかなって思う時がある」
「よくねえだろ」
「え?」
柊真の答えは早かった。
「そんな顔してるのに?」
「……」
「お前、成瀬があのマネージャーといる時、毎回泣きそうな顔するじゃん」
「泣いてないもん」
「知ってる」
「だったら」
「泣いてないだけで、傷ついてんだろ」
陽菜乃は言い返せなかった。
柊真は少しだけ視線を外した。
「俺だったら」
「え?」
「……いや」
途中で言葉を止める。
「何?」
「今はいい」
「気になるよ」
「そのうち言う」
「また秘密?」
「ああ」
陽菜乃は少しだけ頬をふくらませた。
柊真が笑う。
「ほら。帰るぞ」
「うん」
教室を出る。
さっきより、胸がほんの少し軽くなっていた。
誰にも言えなかった、
『湊が好き』
という気持ち。
初めて柊真に話した。
それだけで。
自分の恋を少しだけ認められた気がした。
でも陽菜乃は知らなかった。
その言葉を聞いた柊真の胸にも。
別の痛みが生まれていたことを。
そして。
湊もまた。
『陽菜乃と水野は付き合っているのかもしれない』
そんな新しい勘違いを、少しずつ大きくし始めていることを。
朝の校舎には、久しぶりに会った友達同士の楽しそうな声があふれている。
「旅行どうだった?」
「宿題、最後の三日で終わらせた!」
「文化祭の準備、来週からだって!」
窓の外では、まだ夏の名残を感じさせる青空が広がっていた。
九月になったとはいえ、教室には朝から暑い空気が残っている。
「陽菜乃、おはよう!」
「美緒ちゃん、おはよう」
陽菜乃は鞄を机の横へかけ、椅子に座った。
久しぶりの制服。
久しぶりの教室。
いつもの友達。
何も変わっていないはずなのに。
陽菜乃の心の中には、夏休み前にはなかったものが残っていた。
スマホで見た写真。
サッカー部のみんなと並ぶ湊。
そのすぐ隣で笑う美羽。
『成瀬くんと美羽ちゃんお似合い!』
コメント欄に並んでいた言葉まで、まだ覚えている。
「陽菜乃?」
「え?」
「また考え事?」
美緒が心配そうに顔をのぞき込んできた。
「ううん」
「成瀬くんのこと?」
「……」
「当たりだね」
陽菜乃は困ったように笑った。
「もう気にしないって決めたの」
「何を?」
「湊と美羽ちゃんのこと」
「それ、本人に確認した?」
「……してない」
「じゃあ何も分かってないじゃん」
「でも」
陽菜乃は自分の指先を見つめた。
「聞かなくても分かることって、あると思う」
「写真だけで?」
「写真だけじゃないよ」
部活ではいつも一緒。
花火大会でも隣にいた。
試合のあと、美羽は湊に抱きついた。
学校中で付き合っているという噂まで流れている。
それだけそろっていたら。
もう答えは出ているような気がした。
「もし湊に彼女ができたなら」
陽菜乃は少しだけ笑った。
「私も、今までと同じじゃだめなんだと思う」
「陽菜乃……」
「朝、一緒に学校へ行ったり。帰りに二人で帰ったり。何かあるたびに湊に頼ったり」
「幼馴染なんだから、それくらいいいんじゃない?」
「でも彼女からしたら、嫌かもしれないよ」
もし自分が美羽だったら。
好きな男の子の隣に、昔からずっと仲のいい女の子がいたら。
きっと不安になる。
そう考えると、今まで通りにはできなかった。
「私も少しずつ、一人でできるようにならないと」
陽菜乃が言った、その時。
「無理じゃね?」
後ろから低い声がした。
「えっ」
振り返ると、柊真が鞄を肩にかけたまま立っていた。
「柊真くん!」
「朝から何の話してんのか知らねえけど」
柊真は陽菜乃を見て、少し笑う。
「陽菜乃が急に何でも一人でできるようになるって、かなり難しいだろ」
「できるもん」
「夏休み前、階段で何回つまずいた?」
「……覚えてない」
「三回」
「数えてたの!?」
「廊下でプリント落としたの二回」
「もういいよ!」
陽菜乃が頬をふくらませると、美緒が吹き出した。
「水野くん、陽菜乃のこと詳しすぎ」
「見てりゃ分かる」
「そんなに見てるんだ?」
「美緒ちゃん!」
なぜか陽菜乃のほうが恥ずかしくなり、美緒の腕を軽く引いた。
柊真は何も答えず、自分の席へ向かう。
けれど。
その耳が少し赤く見えた。
(……暑いからかな)
陽菜乃は深く考えず、教科書を取り出した。
二学期最初のホームルーム。
「それじゃあ、文化祭に向けて席を少し動かすぞー」
担任の森川先生が黒板の前で声を上げた。
文化祭では、二年二組はカフェをすることになっている。
準備をしやすいように、しばらく班ごとに席をまとめるらしい。
「小宮山は……水野の隣」
「え?」
陽菜乃は思わず顔を上げた。
「また一緒?」
柊真がこちらを見る。
「またって?」
「体育祭係」
「あ……」
そうだった。
体育祭でも二人で係を担当した。
「よろしく」
陽菜乃が笑う。
「今度は絵の具顔につけんなよ」
「つけないよ!」
「どうだか」
「柊真くん!」
教室のあちこちから机を動かす音が響く。
陽菜乃も机を持とうとした。
「よいしょ……」
「待て」
「え?」
柊真が陽菜乃の机の反対側を持った。
「一人でできる」
「さっき何でも一人でやるって言ってたから?」
「……うん」
「机運べるのと、何でも一人でやるのは違うだろ」
「でも」
「いいから。そっち持て」
「……うん」
二人で机を持つ。
ほんの数歩。
それだけなのに、柊真は陽菜乃の歩く速さにきちんと合わせてくれる。
「そこ段差」
「え?」
「ほら」
言われて足元を見る。
床に延長コードが通っていた。
「ほんとだ」
「お前、絶対引っかかると思った」
「今日は引っかかってないよ」
「俺が言ったから」
「……ありがとう」
「はい、一人でできてない」
「もう!」
陽菜乃は思わず笑った。
すると近くにいた莉子が、じっと二人を見る。
「なに?」
「いやあ」
「莉子ちゃん?」
「やっぱり仲いいよね、二人」
「私と柊真くん?」
「うん」
「そうかな?」
陽菜乃が首をかしげる。
柊真が机を置きながら言った。
「こいつが手かかるだけ」
「またそれ言う!」
「事実」
「違います!」
「さっき机落としかけたじゃん」
「あれは……ちょっと手が滑っただけ」
「ほら」
「柊真くん!」
莉子が声を上げて笑う。
「何それ。夫婦みたい!」
「えっ!?」
陽菜乃の顔が一気に熱くなった。
「ち、違うよ!」
「はいはい」
「ほんとに違うから!」
慌てて否定する。
柊真は少し困ったような顔をしながらも、否定する言葉はすぐには出さなかった。
「柊真くんも何か言ってよ」
「別にほっとけばいいだろ」
「よくないよ!」
「なんで?」
「だって変な噂になったら……」
そこまで言った時。
陽菜乃は、ふと口を閉じた。
変な噂。
その言葉で思い浮かんだのは。
湊と美羽だった。
昼休み。
「陽菜乃、一緒に食おうぜ」
クラスの男子が声をかけてきた。
「みんなで食べるの?」
「うん。文化祭班で」
「じゃあ私も!」
美緒や莉子も机を寄せる。
柊真も隣の席なので、そのままグループに加わった。
「水野、パンだけ?」
「朝買う時間なかった」
「それで足りる?」
「足りる」
陽菜乃は柊真の昼食を見る。
大きめのパンが一つ。
飲み物だけ。
「……ほんとに?」
「何」
「少なくない?」
「午後授業だけだし」
「でもお腹空くよ」
「母親かよ」
「だって」
陽菜乃は自分のお弁当を見る。
今日のおかずは、母が作った唐揚げと卵焼き。
少し迷ってから。
「唐揚げ、食べる?」
「え?」
「多いから」
「陽菜乃、それ昨日から楽しみにしてた唐揚げじゃん」
美緒がすかさず言う。
「美緒ちゃん!」
「朝言ってたよね?」
「一個くらいいいの!」
柊真が少し笑う。
「じゃあもらう」
「うん」
陽菜乃は小さなカップに唐揚げを一つ入れ、柊真へ渡した。
「ほら」
「ありがと」
「どういたしまして」
柊真が食べる。
「うまい」
「お母さんが作ったんだよ」
「陽菜乃じゃないの?」
「今日は違うよ」
「じゃあ今度また作って」
「え?」
「前の卵焼き」
「あれ?」
「うまかったから」
「……うん」
陽菜乃は少し照れながら笑った。
その瞬間だった。
「え、水野。前に小宮山の手作り食ったことあんの?」
クラスの男子が反応した。
「あ」
陽菜乃は嫌な予感がした。
「あるけど」
柊真が普通に答える。
「マジ!?」
「それもう付き合ってんじゃん!」
「違うよ!」
陽菜乃がすぐに否定する。
「お礼で作っただけ!」
「でも今日もおかずあげてるし」
「それは柊真くんがお昼少ないから」
「水野、小宮山に世話焼かれてんじゃん」
「逆じゃね? いつも水野が小宮山の面倒見てる」
「じゃあ両想いじゃん!」
「違うってば!」
顔がどんどん熱くなる。
「もう、からかわないでよ……」
陽菜乃が困って俯く。
その時。
「陽菜乃」
教室の入口から聞こえた声。
胸が跳ねた。
顔を上げる。
「……湊」
そこに立っていたのは湊だった。
久しぶりに昼休みに教室へ来てくれた。
陽菜乃はうれしくなった。
けれど。
湊は笑っていなかった。
「何してんの?」
「みんなでお昼食べてるの」
「……ふーん」
湊の目が、陽菜乃のお弁当から柊真の手元へ向かう。
「成瀬じゃん」
クラスの男子が面白そうに声をかける。
「知ってる? 小宮山と水野、最近めっちゃ仲いいんだぞ」
「ちょっと!」
陽菜乃は慌てた。
「変なこと言わないで!」
「文化祭もずっと同じ班だし」
「手作り弁当も作ったらしい」
「だからあれは――」
「へえ」
湊が短く言った。
その声に、陽菜乃は言葉を止める。
「湊?」
「別にいいじゃん」
「え?」
「仲いいんだろ」
胸がちくっとした。
「違うよ」
「何が?」
「柊真くんとは……」
友達。
そう言おうとした。
でも。
どうしてこんなに必死に否定しなくてはいけないのだろう。
湊には美羽がいるのに。
そんな気持ちが急に浮かんできた。
「……友達だよ」
「そっか」
「うん」
「じゃあ俺戻る」
「え、もう?」
「悠人待たせてるから」
「……そっか」
湊はそれ以上何も言わず、教室を出ていった。
陽菜乃はその背中を見送る。
胸の奥に、よく分からない寂しさが残った。
(どうして……)
せっかく来てくれたのに。
ほとんど話せなかった。
「……成瀬、分かりやす」
隣で柊真がつぶやいた。
「え?」
「なんでもねえ」
廊下を歩きながら、湊は自分でも分かるくらい機嫌が悪かった。
「お、いた」
階段の近くで悠人が待っていた。
「遅かったな」
「……うん」
「陽菜乃ちゃんと話せた?」
「別に」
「その顔で?」
「何」
「怖いって」
悠人が笑う。
「何かあった?」
「水野と飯食ってた」
「クラス一緒なら食うだろ」
「手作り弁当も作ったって」
「あー、前言ってたやつ?」
「また作るって話してた」
「へえ」
「あと唐揚げあげてた」
悠人が足を止めた。
「お前、どんだけ見てんの?」
「……」
「それもう完全に嫉妬じゃん」
「違う」
「じゃあ何?」
「幼馴染だから」
「またそれ?」
悠人はあきれたように笑った。
「なあ湊」
「何」
「お前がずっと幼馴染って言ってる間に、水野に取られても知らねえぞ」
「……取られるって言い方やめろ」
「じゃあ陽菜乃ちゃんに彼氏できても平気?」
湊はすぐに答えられなかった。
頭に浮かんだのは。
柊真の隣で笑う陽菜乃。
花火大会で手をつないでいた二人。
体育祭で、
『頼りになる人』
として柊真を選んだ陽菜乃。
そして今日。
楽しそうに昼食を食べていた姿。
「……平気じゃない」
気づけば、小さな声が出ていた。
悠人が目を丸くする。
「今なんて?」
「何も言ってない」
「言っただろ!」
「うるさい」
湊はそのまま歩き出す。
胸の奥が落ち着かない。
でも。
その理由を認めるのは、まだ怖かった。
放課後。
陽菜乃は文化祭の準備で少し遅くなった。
廊下の窓から見える空は、淡いオレンジ色に染まっている。
「陽菜乃、これ教室まで持ってく?」
柊真が段ボールを指した。
「うん」
「じゃあ俺持つ」
「私も持てるよ」
「じゃあ半分」
「……うん」
二人で箱を持つ。
中にはカフェで使う紙飾りが入っている。
「今日さ」
柊真が歩きながら言った。
「成瀬となんかあった?」
「え?」
「昼」
「何もないよ」
「そう?」
「うん」
少し迷ってから。
陽菜乃は小さく続けた。
「湊には……美羽ちゃんがいるから」
柊真の足が止まりかけた。
「まだそれ信じてんの?」
「だって」
「付き合ってるって本人から聞いた?」
「聞いてないけど」
「じゃあ分かんねえだろ」
「でも……」
陽菜乃は段ボールの角を見つめる。
「みんな言ってるし」
「今日、お前と俺も付き合ってるみたいに言われてたじゃん」
「……!」
陽菜乃は顔を上げた。
「それは違うよ」
「だろ?」
「うん」
「じゃあ噂なんてそんなもんじゃねえの?」
何も言えなくなった。
確かに。
今日、クラスでは陽菜乃と柊真が付き合っているようにからかわれた。
でも二人は付き合っていない。
それなら。
湊と美羽だって――。
「……でも」
「まだなんかある?」
「美羽ちゃん、湊のこと好きだと思う」
「それはありそう」
「でしょ?」
「でも成瀬があいつ好きかは別じゃん」
「……」
「陽菜乃」
教室へ着き、二人で箱を机へ置く。
柊真がまっすぐ陽菜乃を見る。
「人から聞いた話だけで諦めんの?」
陽菜乃の胸が大きく揺れた。
「……諦めるって」
「好きなんだろ。成瀬」
前にも聞かれた。
その時は逃げた。
今日は。
なぜか逃げられなかった。
夕方の教室。
二人しかいない。
窓から入ってきた風がカーテンを揺らす。
陽菜乃は自分の手をぎゅっと握った。
「……うん」
小さく。
でも、今度はちゃんと言った。
「好き」
口にした瞬間。
胸が苦しくなった。
ずっと心の中に隠してきた言葉。
「ずっと湊が好き」
柊真は何も言わず、陽菜乃を見ていた。
「でも……怖いの」
「何が?」
「湊の気持ちを知るのが」
陽菜乃は少し笑おうとした。
でもうまくできなかった。
「もし美羽ちゃんが好きって言われたら」
今まで通り笑える自信がない。
朝、隣を歩くことも。
家の前で待つことも。
全部つらくなりそうだった。
「だから、このままでもいいのかなって思う時がある」
「よくねえだろ」
「え?」
柊真の答えは早かった。
「そんな顔してるのに?」
「……」
「お前、成瀬があのマネージャーといる時、毎回泣きそうな顔するじゃん」
「泣いてないもん」
「知ってる」
「だったら」
「泣いてないだけで、傷ついてんだろ」
陽菜乃は言い返せなかった。
柊真は少しだけ視線を外した。
「俺だったら」
「え?」
「……いや」
途中で言葉を止める。
「何?」
「今はいい」
「気になるよ」
「そのうち言う」
「また秘密?」
「ああ」
陽菜乃は少しだけ頬をふくらませた。
柊真が笑う。
「ほら。帰るぞ」
「うん」
教室を出る。
さっきより、胸がほんの少し軽くなっていた。
誰にも言えなかった、
『湊が好き』
という気持ち。
初めて柊真に話した。
それだけで。
自分の恋を少しだけ認められた気がした。
でも陽菜乃は知らなかった。
その言葉を聞いた柊真の胸にも。
別の痛みが生まれていたことを。
そして。
湊もまた。
『陽菜乃と水野は付き合っているのかもしれない』
そんな新しい勘違いを、少しずつ大きくし始めていることを。

