夏休みも半分を過ぎた八月の朝。
体育館の大きな窓から、まぶしい日差しが差し込んでいた。
外ではせみが鳴いている。
開け放した窓から風が入ってきても、体育館の中は暑い。
「はい、もう一回最初から!」
「はい!」
部長の掛け声に合わせて、陽菜乃は立ち位置へ戻った。
文化祭まで、あと一か月半。
ダンス部では夏休み中も、ほとんど毎日のように練習が続いている。
陽菜乃は額の汗をタオルでぬぐい、大きく腕を伸ばした。
音楽が始まる。
右へ二歩。
ターン。
腕を上げて、次の列へ。
踊っている間は、余計なことを考えなくてすむ。
だから陽菜乃は、ダンスをしている時間が好きだった。
けれど。
音楽が止まった瞬間――。
「陽菜乃」
「え?」
隣にいた美緒が、じっと顔をのぞき込んできた。
「またぼーっとした?」
「してないよ」
「してた。最後、一人だけ向き逆だった」
「……ほんと?」
「ほんと」
陽菜乃は恥ずかしくなって、両手で頬を押さえた。
「ごめん……」
「私に謝らなくていいって」
美緒が笑う。
それから、少しだけ声を小さくした。
「花火大会のこと考えてた?」
「えっ」
「その顔、当たりだ」
「もう……」
陽菜乃は床に置いていたペットボトルを手に取った。
冷たい水を一口飲む。
でも、頬の熱はなかなか引かなかった。
花火大会の夜。
『その浴衣、似合ってる』
湊が言ってくれた言葉。
何度思い出しても、胸がふわっと温かくなる。
なのに、そのあとすぐ。
美羽と一緒に帰っていく湊を見て、苦しくなった。
嬉しかったり。
寂しかったり。
最近の自分の気持ちは、とても忙しい。
「成瀬くんとは、そのあと何か話した?」
「ううん」
「メッセージも?」
「『無事帰った?』って来たから、『帰ったよ』って返しただけ」
「それだけ?」
「うん」
「陽菜乃ー!」
「だ、だって何話せばいいの?」
「浴衣褒めてもらって嬉しかったとか」
「無理!」
陽菜乃は慌てて首を横に振った。
そんなことを送ったら、
『なんでそんなに喜んでるの?』
と聞かれるかもしれない。
そうなったら。
自分が湊を好きだと気づかれてしまいそうだ。
「ほんと、二人とも進まないよね」
美緒があきれたように言う。
「二人とも?」
「こっちの話」
「?」
「ほら、そろそろ休憩終わるよ」
「う、うん」
陽菜乃は立ち上がった。
その時。
体育館の入り口から、莉子が走ってきた。
「陽菜乃ー!」
「どうしたの?」
「今日さ、サッカー部の練習試合あるの知ってる?」
陽菜乃の手が止まる。
「……今日?」
「うん。午後から」
知らなかった。
最近、湊とは朝も別々の日が増えている。
夏休み中なので、部活の開始時間が違うからだ。
「相手、結構強い学校なんだって」
莉子が楽しそうに続ける。
「ダンス部、午前で終わるし、みんなで見に行かない?」
「え……」
陽菜乃は迷った。
湊の試合。
見たい。
でも。
そこには、きっと美羽もいる。
「陽菜乃も行こうよ」
美緒が言う。
「……うん」
少し迷ってから、陽菜乃はうなずいた。
「行く」
午後二時。
グラウンドには、真夏の日差しが降り注いでいた。
白いラインが引かれたサッカーコート。
ベンチには選手たちの荷物。
応援に来た生徒や保護者も、日陰に集まっている。
「暑いね……」
陽菜乃は日傘の下で、首元を手であおいだ。
「ほんと。溶けそう」
隣の美緒も同じように暑そうな顔をしている。
「でも、サッカー部もっと暑そう」
「うん」
陽菜乃の視線は、自然とグラウンドへ向かった。
湊がいる。
青いユニフォーム。
ボールを追いかけて走る姿。
学校で見る時とは、少し違う。
真剣な顔。
大きな声で仲間へ指示を出す声。
陽菜乃は、湊がサッカーをしている姿を見るのが好きだった。
小学生の頃。
初めて試合を見に行った時も、こんなふうにずっと目で追っていた。
『陽菜乃、ちゃんと俺見てた?』
『見てたよ』
『何回シュートした?』
『……二回?』
『四回』
『ごめん』
『見てないじゃん』
昔のことを思い出し、少しだけ笑う。
「陽菜乃」
「なに?」
「顔」
「え?」
「めっちゃ嬉しそう」
美緒がにやにやしている。
「そ、そんなことないよ」
「ずっと成瀬くん見てるけど」
「だって試合見に来たんだから……」
「サッカー部全員じゃなくて、成瀬くんだけね」
「美緒ちゃん!」
陽菜乃は恥ずかしくなり、前を向いた。
その時。
「湊ー!」
別の方向から、女子の声が飛んだ。
陽菜乃の胸が小さく揺れる。
美羽だった。
サッカー部のジャージ姿で、ベンチの近くに立っている。
首からタオルをかけ、選手たちの飲み物を並べていた。
やっぱり今日も、湊の近くにいる。
当たり前だ。
美羽はマネージャーなのだから。
(気にしちゃだめ)
陽菜乃は自分に言い聞かせた。
そして再びグラウンドへ視線を戻す。
試合は一点対一点。
残り時間は、あとわずかだった。
「行けー!」
「成瀬!」
応援の声が大きくなる。
湊がボールを受け取る。
一人かわす。
さらに前へ。
「湊……!」
陽菜乃は思わず両手を握り合わせた。
相手の選手が近づく。
でも湊は止まらない。
ゴール前。
右足を振り抜いた。
ボールがネットを揺らす。
「……入った!」
次の瞬間。
大きな歓声が上がった。
「やった!」
陽菜乃も思わず立ち上がる。
自分のことのように嬉しかった。
湊の仲間たちが次々と駆け寄る。
肩をたたかれ、頭をぐしゃぐしゃにされ、湊も笑っている。
その笑顔を見た瞬間。
陽菜乃まで笑顔になった。
「成瀬くん、すごいじゃん!」
美緒も拍手する。
「うん!」
陽菜乃は何度もうなずいた。
試合終了の笛。
二対一。
湊たちの勝ちだった。
「陽菜乃、飲み物買ってくる?」
「うん」
試合が終わり、美緒たちと自動販売機へ向かおうとした。
その時。
「湊くん!」
聞こえた声に、陽菜乃は足を止めた。
グラウンドの横。
選手たちが戻ってくるところへ、美羽が走っていく。
「すごかった!」
満面の笑顔。
「最後のシュート、ほんとにすごかった!」
「ああ、ありがと」
湊が笑う。
次の瞬間だった。
「ほんとよかったぁ!」
美羽が、嬉しさのあまり湊の腕へ抱きついた。
「……!」
陽菜乃の体が固まる。
一瞬のことだった。
湊も驚いた顔をしている。
「美羽、ちょ――」
湊がすぐに腕を外そうとする。
でも。
陽菜乃には、そのあとの様子が見えなくなった。
人が前を横切ったから。
耳には、周りの声だけが入ってくる。
「うわ!」
「一ノ瀬大胆!」
「やっぱあの二人付き合ってんじゃん!」
「絶対そうでしょ!」
誰かが笑う。
胸の奥が急に冷たくなった。
「……陽菜乃?」
美緒の声が遠く感じる。
陽菜乃は動けなかった。
美羽が湊に抱きついた。
湊も、美羽も。
まるで恋人みたいだった。
(……やっぱり)
やっぱり、本当なの?
学校で流れていた噂。
花火大会で並んで歩いていた二人。
お弁当。
部活帰り。
全部つながってしまう。
「陽菜乃」
美緒がそっと腕に触れる。
「成瀬くん、離そうとしてたよ」
「……うん」
「ちゃんと見た?」
「うん」
本当は、ちゃんと見ていない。
でも。
もう一度見る勇気がなかった。
「帰ってもいい?」
「え?」
「ちょっと……疲れちゃった」
陽菜乃は笑おうとした。
けれどうまく笑えない。
美緒は何か言いたそうだったが、最後には小さくうなずいた。
「分かった。一緒に帰ろ」
「でも、みんなは――」
「いいから」
「……ありがとう」
陽菜乃はグラウンドに背を向けた。
本当は。
試合が終わったら、
『すごかったね』
って言いたかった。
頑張ったね。
かっこよかった。
そう言いたかった。
でも。
その言葉を伝える場所は、もう美羽の場所なのかもしれない。
駅までの道。
陽菜乃はいつもよりゆっくり歩いた。
夏の午後。
道路の向こう側が熱で揺れて見える。
空はあんなに青いのに。
心の中だけ、雨が降りそうだった。
「陽菜乃」
「うん?」
「ほんとに本人に聞かなくていいの?」
美緒が静かに尋ねた。
陽菜乃はしばらく答えられなかった。
「……怖い」
「でも」
「もし本当だったら」
自分の声が少しだけ震える。
「私、湊と今までみたいにいられなくなる気がする」
「陽菜乃……」
「朝も一緒に行けなくなるかもしれないし、帰りも……」
言葉にするほど、怖くなっていく。
「美羽ちゃんが彼女なら、私がずっと湊の近くにいるのって変でしょう?」
「そんなこと――」
「幼馴染でも」
陽菜乃は小さく笑った。
「彼女より近くにいたら、嫌だと思う」
本当は。
自分が美羽より近くにいたい。
そんな気持ちを認めるのが、少し嫌だった。
誰かの恋を邪魔するような女の子にはなりたくない。
だから。
もし湊が美羽を好きなら。
自分が離れなくてはいけない。
そう思った。
夕方。
陽菜乃が家に帰ると、玄関前に誰かが座っていた。
「……え?」
見慣れた黒い髪。
「湊?」
湊が顔を上げる。
Tシャツに短パン。
試合のあと、一度家へ帰ったらしい。
「遅かったな」
「どうしたの?」
「連絡した」
「あ……」
陽菜乃は慌ててスマホを取り出した。
メッセージが三件。
『もう帰った?』
『陽菜乃?』
『今どこ?』
試合会場を出てから、スマホを一度も見ていなかった。
「ごめん」
「なんで黙って帰った?」
「え?」
「来てただろ、今日」
「……うん」
「試合中見えた」
陽菜乃は驚いた。
「分かったの?」
「分かるよ」
「人、いっぱいだったのに」
「陽菜乃くらい見つける」
その言葉に。
いつもなら、きっと嬉しくなった。
でも今日は、素直に喜べない。
「終わったら来ると思ってた」
湊が続ける。
「……」
「なのにいなくなってるし」
「美羽ちゃんがいたから」
思わず口から出た。
湊が眉を寄せる。
「美羽?」
「うん」
「なんで美羽が出てくるの?」
「だって……」
陽菜乃は言葉を探した。
あの場面を思い出す。
美羽が湊の腕に抱きついていた。
「すごく嬉しそうだったから」
「何が?」
「湊が勝って」
「マネージャーだからだろ」
「……うん」
湊は、本当に何も気づいていないように見える。
陽菜乃は少しだけ勇気を出した。
「あのね、湊」
「ん?」
「美羽ちゃんと……」
そこで止まる。
聞こう。
今度こそ。
『付き合ってるの?』
たったそれだけ。
「美羽と?」
湊が不思議そうにこちらを見る。
陽菜乃の心臓が早くなる。
言わなきゃ。
なのに。
「……仲いいよね」
出てきたのは、違う言葉だった。
「は?」
「部活も一緒だし」
「まあ」
「いつも一緒にいるし」
「マネージャーだからな」
「そっか」
また聞けなかった。
「今日のシュート、すごかったよ」
陽菜乃は話を変えた。
「見てた?」
「うん」
「そっか」
湊が少し笑う。
その笑顔を見ると、胸が苦しくなる。
「じゃあ私、入るね」
「陽菜乃」
「なに?」
「なんかあった?」
「……何もないよ」
「ほんと?」
「うん」
陽菜乃は笑った。
でも。
湊は納得していないような顔をしていた。
「じゃあ……また明日」
「明日、俺朝練」
「あ、そっか」
「その次の日」
「うん」
玄関へ入る。
ドアを閉める直前。
「陽菜乃」
もう一度呼ばれた。
「なに?」
「今日来てくれて、ありがとな」
陽菜乃は少しだけ目を見開いた。
そして。
「……うん」
小さく笑って、今度こそドアを閉めた。
◇
翌朝。
陽菜乃は、スマホの通知音で目を覚ました。
美緒からメッセージ。
『陽菜乃、これ見た?』
「……何?」
送られてきた画像を開く。
それは、昨日の試合後の写真だった。
サッカー部の何人かが並んでいる。
中央に湊。
そのすぐ隣に美羽。
二人の肩は近い。
美羽が笑っていて。
湊も笑っている。
投稿したのは、美羽。
『今日もお疲れさまでした! 勝ててよかった!』
ただ、それだけ。
特別な言葉なんてない。
なのにコメントには。
『成瀬くんと美羽ちゃんお似合い!』
『やっぱ付き合ってる?』
『距離近い!』
そんな言葉が並んでいる。
陽菜乃はしばらく画面を見つめていた。
胸の奥に、昨日と同じ痛みが広がる。
「……お似合い、か」
写真の中の二人を見れば。
自分でも、そう思う。
明るくて可愛い美羽。
サッカー部で人気者の湊。
同じ部活。
同じ時間を過ごして。
同じことで喜べる。
陽菜乃はスマホを伏せた。
そしてベッドの上で、膝を抱える。
(私が知らない湊を、美羽ちゃんはいっぱい知ってる)
この夏。
陽菜乃は初めて知った。
幼馴染というだけでは。
いつまでも一番近くにいられるわけではない。
そして。
湊を誰かに取られるのが怖いと思っているのに。
その気持ちを伝える勇気は。
まだ、陽菜乃にはなかった。
体育館の大きな窓から、まぶしい日差しが差し込んでいた。
外ではせみが鳴いている。
開け放した窓から風が入ってきても、体育館の中は暑い。
「はい、もう一回最初から!」
「はい!」
部長の掛け声に合わせて、陽菜乃は立ち位置へ戻った。
文化祭まで、あと一か月半。
ダンス部では夏休み中も、ほとんど毎日のように練習が続いている。
陽菜乃は額の汗をタオルでぬぐい、大きく腕を伸ばした。
音楽が始まる。
右へ二歩。
ターン。
腕を上げて、次の列へ。
踊っている間は、余計なことを考えなくてすむ。
だから陽菜乃は、ダンスをしている時間が好きだった。
けれど。
音楽が止まった瞬間――。
「陽菜乃」
「え?」
隣にいた美緒が、じっと顔をのぞき込んできた。
「またぼーっとした?」
「してないよ」
「してた。最後、一人だけ向き逆だった」
「……ほんと?」
「ほんと」
陽菜乃は恥ずかしくなって、両手で頬を押さえた。
「ごめん……」
「私に謝らなくていいって」
美緒が笑う。
それから、少しだけ声を小さくした。
「花火大会のこと考えてた?」
「えっ」
「その顔、当たりだ」
「もう……」
陽菜乃は床に置いていたペットボトルを手に取った。
冷たい水を一口飲む。
でも、頬の熱はなかなか引かなかった。
花火大会の夜。
『その浴衣、似合ってる』
湊が言ってくれた言葉。
何度思い出しても、胸がふわっと温かくなる。
なのに、そのあとすぐ。
美羽と一緒に帰っていく湊を見て、苦しくなった。
嬉しかったり。
寂しかったり。
最近の自分の気持ちは、とても忙しい。
「成瀬くんとは、そのあと何か話した?」
「ううん」
「メッセージも?」
「『無事帰った?』って来たから、『帰ったよ』って返しただけ」
「それだけ?」
「うん」
「陽菜乃ー!」
「だ、だって何話せばいいの?」
「浴衣褒めてもらって嬉しかったとか」
「無理!」
陽菜乃は慌てて首を横に振った。
そんなことを送ったら、
『なんでそんなに喜んでるの?』
と聞かれるかもしれない。
そうなったら。
自分が湊を好きだと気づかれてしまいそうだ。
「ほんと、二人とも進まないよね」
美緒があきれたように言う。
「二人とも?」
「こっちの話」
「?」
「ほら、そろそろ休憩終わるよ」
「う、うん」
陽菜乃は立ち上がった。
その時。
体育館の入り口から、莉子が走ってきた。
「陽菜乃ー!」
「どうしたの?」
「今日さ、サッカー部の練習試合あるの知ってる?」
陽菜乃の手が止まる。
「……今日?」
「うん。午後から」
知らなかった。
最近、湊とは朝も別々の日が増えている。
夏休み中なので、部活の開始時間が違うからだ。
「相手、結構強い学校なんだって」
莉子が楽しそうに続ける。
「ダンス部、午前で終わるし、みんなで見に行かない?」
「え……」
陽菜乃は迷った。
湊の試合。
見たい。
でも。
そこには、きっと美羽もいる。
「陽菜乃も行こうよ」
美緒が言う。
「……うん」
少し迷ってから、陽菜乃はうなずいた。
「行く」
午後二時。
グラウンドには、真夏の日差しが降り注いでいた。
白いラインが引かれたサッカーコート。
ベンチには選手たちの荷物。
応援に来た生徒や保護者も、日陰に集まっている。
「暑いね……」
陽菜乃は日傘の下で、首元を手であおいだ。
「ほんと。溶けそう」
隣の美緒も同じように暑そうな顔をしている。
「でも、サッカー部もっと暑そう」
「うん」
陽菜乃の視線は、自然とグラウンドへ向かった。
湊がいる。
青いユニフォーム。
ボールを追いかけて走る姿。
学校で見る時とは、少し違う。
真剣な顔。
大きな声で仲間へ指示を出す声。
陽菜乃は、湊がサッカーをしている姿を見るのが好きだった。
小学生の頃。
初めて試合を見に行った時も、こんなふうにずっと目で追っていた。
『陽菜乃、ちゃんと俺見てた?』
『見てたよ』
『何回シュートした?』
『……二回?』
『四回』
『ごめん』
『見てないじゃん』
昔のことを思い出し、少しだけ笑う。
「陽菜乃」
「なに?」
「顔」
「え?」
「めっちゃ嬉しそう」
美緒がにやにやしている。
「そ、そんなことないよ」
「ずっと成瀬くん見てるけど」
「だって試合見に来たんだから……」
「サッカー部全員じゃなくて、成瀬くんだけね」
「美緒ちゃん!」
陽菜乃は恥ずかしくなり、前を向いた。
その時。
「湊ー!」
別の方向から、女子の声が飛んだ。
陽菜乃の胸が小さく揺れる。
美羽だった。
サッカー部のジャージ姿で、ベンチの近くに立っている。
首からタオルをかけ、選手たちの飲み物を並べていた。
やっぱり今日も、湊の近くにいる。
当たり前だ。
美羽はマネージャーなのだから。
(気にしちゃだめ)
陽菜乃は自分に言い聞かせた。
そして再びグラウンドへ視線を戻す。
試合は一点対一点。
残り時間は、あとわずかだった。
「行けー!」
「成瀬!」
応援の声が大きくなる。
湊がボールを受け取る。
一人かわす。
さらに前へ。
「湊……!」
陽菜乃は思わず両手を握り合わせた。
相手の選手が近づく。
でも湊は止まらない。
ゴール前。
右足を振り抜いた。
ボールがネットを揺らす。
「……入った!」
次の瞬間。
大きな歓声が上がった。
「やった!」
陽菜乃も思わず立ち上がる。
自分のことのように嬉しかった。
湊の仲間たちが次々と駆け寄る。
肩をたたかれ、頭をぐしゃぐしゃにされ、湊も笑っている。
その笑顔を見た瞬間。
陽菜乃まで笑顔になった。
「成瀬くん、すごいじゃん!」
美緒も拍手する。
「うん!」
陽菜乃は何度もうなずいた。
試合終了の笛。
二対一。
湊たちの勝ちだった。
「陽菜乃、飲み物買ってくる?」
「うん」
試合が終わり、美緒たちと自動販売機へ向かおうとした。
その時。
「湊くん!」
聞こえた声に、陽菜乃は足を止めた。
グラウンドの横。
選手たちが戻ってくるところへ、美羽が走っていく。
「すごかった!」
満面の笑顔。
「最後のシュート、ほんとにすごかった!」
「ああ、ありがと」
湊が笑う。
次の瞬間だった。
「ほんとよかったぁ!」
美羽が、嬉しさのあまり湊の腕へ抱きついた。
「……!」
陽菜乃の体が固まる。
一瞬のことだった。
湊も驚いた顔をしている。
「美羽、ちょ――」
湊がすぐに腕を外そうとする。
でも。
陽菜乃には、そのあとの様子が見えなくなった。
人が前を横切ったから。
耳には、周りの声だけが入ってくる。
「うわ!」
「一ノ瀬大胆!」
「やっぱあの二人付き合ってんじゃん!」
「絶対そうでしょ!」
誰かが笑う。
胸の奥が急に冷たくなった。
「……陽菜乃?」
美緒の声が遠く感じる。
陽菜乃は動けなかった。
美羽が湊に抱きついた。
湊も、美羽も。
まるで恋人みたいだった。
(……やっぱり)
やっぱり、本当なの?
学校で流れていた噂。
花火大会で並んで歩いていた二人。
お弁当。
部活帰り。
全部つながってしまう。
「陽菜乃」
美緒がそっと腕に触れる。
「成瀬くん、離そうとしてたよ」
「……うん」
「ちゃんと見た?」
「うん」
本当は、ちゃんと見ていない。
でも。
もう一度見る勇気がなかった。
「帰ってもいい?」
「え?」
「ちょっと……疲れちゃった」
陽菜乃は笑おうとした。
けれどうまく笑えない。
美緒は何か言いたそうだったが、最後には小さくうなずいた。
「分かった。一緒に帰ろ」
「でも、みんなは――」
「いいから」
「……ありがとう」
陽菜乃はグラウンドに背を向けた。
本当は。
試合が終わったら、
『すごかったね』
って言いたかった。
頑張ったね。
かっこよかった。
そう言いたかった。
でも。
その言葉を伝える場所は、もう美羽の場所なのかもしれない。
駅までの道。
陽菜乃はいつもよりゆっくり歩いた。
夏の午後。
道路の向こう側が熱で揺れて見える。
空はあんなに青いのに。
心の中だけ、雨が降りそうだった。
「陽菜乃」
「うん?」
「ほんとに本人に聞かなくていいの?」
美緒が静かに尋ねた。
陽菜乃はしばらく答えられなかった。
「……怖い」
「でも」
「もし本当だったら」
自分の声が少しだけ震える。
「私、湊と今までみたいにいられなくなる気がする」
「陽菜乃……」
「朝も一緒に行けなくなるかもしれないし、帰りも……」
言葉にするほど、怖くなっていく。
「美羽ちゃんが彼女なら、私がずっと湊の近くにいるのって変でしょう?」
「そんなこと――」
「幼馴染でも」
陽菜乃は小さく笑った。
「彼女より近くにいたら、嫌だと思う」
本当は。
自分が美羽より近くにいたい。
そんな気持ちを認めるのが、少し嫌だった。
誰かの恋を邪魔するような女の子にはなりたくない。
だから。
もし湊が美羽を好きなら。
自分が離れなくてはいけない。
そう思った。
夕方。
陽菜乃が家に帰ると、玄関前に誰かが座っていた。
「……え?」
見慣れた黒い髪。
「湊?」
湊が顔を上げる。
Tシャツに短パン。
試合のあと、一度家へ帰ったらしい。
「遅かったな」
「どうしたの?」
「連絡した」
「あ……」
陽菜乃は慌ててスマホを取り出した。
メッセージが三件。
『もう帰った?』
『陽菜乃?』
『今どこ?』
試合会場を出てから、スマホを一度も見ていなかった。
「ごめん」
「なんで黙って帰った?」
「え?」
「来てただろ、今日」
「……うん」
「試合中見えた」
陽菜乃は驚いた。
「分かったの?」
「分かるよ」
「人、いっぱいだったのに」
「陽菜乃くらい見つける」
その言葉に。
いつもなら、きっと嬉しくなった。
でも今日は、素直に喜べない。
「終わったら来ると思ってた」
湊が続ける。
「……」
「なのにいなくなってるし」
「美羽ちゃんがいたから」
思わず口から出た。
湊が眉を寄せる。
「美羽?」
「うん」
「なんで美羽が出てくるの?」
「だって……」
陽菜乃は言葉を探した。
あの場面を思い出す。
美羽が湊の腕に抱きついていた。
「すごく嬉しそうだったから」
「何が?」
「湊が勝って」
「マネージャーだからだろ」
「……うん」
湊は、本当に何も気づいていないように見える。
陽菜乃は少しだけ勇気を出した。
「あのね、湊」
「ん?」
「美羽ちゃんと……」
そこで止まる。
聞こう。
今度こそ。
『付き合ってるの?』
たったそれだけ。
「美羽と?」
湊が不思議そうにこちらを見る。
陽菜乃の心臓が早くなる。
言わなきゃ。
なのに。
「……仲いいよね」
出てきたのは、違う言葉だった。
「は?」
「部活も一緒だし」
「まあ」
「いつも一緒にいるし」
「マネージャーだからな」
「そっか」
また聞けなかった。
「今日のシュート、すごかったよ」
陽菜乃は話を変えた。
「見てた?」
「うん」
「そっか」
湊が少し笑う。
その笑顔を見ると、胸が苦しくなる。
「じゃあ私、入るね」
「陽菜乃」
「なに?」
「なんかあった?」
「……何もないよ」
「ほんと?」
「うん」
陽菜乃は笑った。
でも。
湊は納得していないような顔をしていた。
「じゃあ……また明日」
「明日、俺朝練」
「あ、そっか」
「その次の日」
「うん」
玄関へ入る。
ドアを閉める直前。
「陽菜乃」
もう一度呼ばれた。
「なに?」
「今日来てくれて、ありがとな」
陽菜乃は少しだけ目を見開いた。
そして。
「……うん」
小さく笑って、今度こそドアを閉めた。
◇
翌朝。
陽菜乃は、スマホの通知音で目を覚ました。
美緒からメッセージ。
『陽菜乃、これ見た?』
「……何?」
送られてきた画像を開く。
それは、昨日の試合後の写真だった。
サッカー部の何人かが並んでいる。
中央に湊。
そのすぐ隣に美羽。
二人の肩は近い。
美羽が笑っていて。
湊も笑っている。
投稿したのは、美羽。
『今日もお疲れさまでした! 勝ててよかった!』
ただ、それだけ。
特別な言葉なんてない。
なのにコメントには。
『成瀬くんと美羽ちゃんお似合い!』
『やっぱ付き合ってる?』
『距離近い!』
そんな言葉が並んでいる。
陽菜乃はしばらく画面を見つめていた。
胸の奥に、昨日と同じ痛みが広がる。
「……お似合い、か」
写真の中の二人を見れば。
自分でも、そう思う。
明るくて可愛い美羽。
サッカー部で人気者の湊。
同じ部活。
同じ時間を過ごして。
同じことで喜べる。
陽菜乃はスマホを伏せた。
そしてベッドの上で、膝を抱える。
(私が知らない湊を、美羽ちゃんはいっぱい知ってる)
この夏。
陽菜乃は初めて知った。
幼馴染というだけでは。
いつまでも一番近くにいられるわけではない。
そして。
湊を誰かに取られるのが怖いと思っているのに。
その気持ちを伝える勇気は。
まだ、陽菜乃にはなかった。

