ずっと隣にいた君が、遠くなった春

 夏休みも半分を過ぎた八月の朝。

 体育館の大きな窓から、まぶしい日差しが差し込んでいた。

 外ではせみが鳴いている。

 開け放した窓から風が入ってきても、体育館の中は暑い。

「はい、もう一回最初から!」

「はい!」

 部長の掛け声に合わせて、陽菜乃は立ち位置へ戻った。

 文化祭まで、あと一か月半。

 ダンス部では夏休み中も、ほとんど毎日のように練習が続いている。

 陽菜乃は額の汗をタオルでぬぐい、大きく腕を伸ばした。

 音楽が始まる。

 右へ二歩。

 ターン。

 腕を上げて、次の列へ。

 踊っている間は、余計なことを考えなくてすむ。

 だから陽菜乃は、ダンスをしている時間が好きだった。

 けれど。

 音楽が止まった瞬間――。

「陽菜乃」

「え?」

 隣にいた美緒が、じっと顔をのぞき込んできた。

「またぼーっとした?」

「してないよ」

「してた。最後、一人だけ向き逆だった」

「……ほんと?」

「ほんと」

 陽菜乃は恥ずかしくなって、両手で頬を押さえた。

「ごめん……」

「私に謝らなくていいって」

 美緒が笑う。

 それから、少しだけ声を小さくした。

「花火大会のこと考えてた?」

「えっ」

「その顔、当たりだ」

「もう……」

 陽菜乃は床に置いていたペットボトルを手に取った。

 冷たい水を一口飲む。

 でも、頬の熱はなかなか引かなかった。

 花火大会の夜。

『その浴衣、似合ってる』

 湊が言ってくれた言葉。

 何度思い出しても、胸がふわっと温かくなる。

 なのに、そのあとすぐ。

 美羽と一緒に帰っていく湊を見て、苦しくなった。

 嬉しかったり。

 寂しかったり。

 最近の自分の気持ちは、とても忙しい。

「成瀬くんとは、そのあと何か話した?」

「ううん」

「メッセージも?」

「『無事帰った?』って来たから、『帰ったよ』って返しただけ」

「それだけ?」

「うん」

「陽菜乃ー!」

「だ、だって何話せばいいの?」

「浴衣褒めてもらって嬉しかったとか」

「無理!」

 陽菜乃は慌てて首を横に振った。

 そんなことを送ったら、

『なんでそんなに喜んでるの?』

 と聞かれるかもしれない。

 そうなったら。

 自分が湊を好きだと気づかれてしまいそうだ。

「ほんと、二人とも進まないよね」

 美緒があきれたように言う。

「二人とも?」

「こっちの話」

「?」

「ほら、そろそろ休憩終わるよ」

「う、うん」

 陽菜乃は立ち上がった。

 その時。

 体育館の入り口から、莉子が走ってきた。

「陽菜乃ー!」

「どうしたの?」

「今日さ、サッカー部の練習試合あるの知ってる?」

 陽菜乃の手が止まる。

「……今日?」

「うん。午後から」

 知らなかった。

 最近、湊とは朝も別々の日が増えている。

 夏休み中なので、部活の開始時間が違うからだ。

「相手、結構強い学校なんだって」

 莉子が楽しそうに続ける。

「ダンス部、午前で終わるし、みんなで見に行かない?」

「え……」

 陽菜乃は迷った。

 湊の試合。

 見たい。

 でも。

 そこには、きっと美羽もいる。

「陽菜乃も行こうよ」

 美緒が言う。

「……うん」

 少し迷ってから、陽菜乃はうなずいた。

「行く」


 午後二時。

 グラウンドには、真夏の日差しが降り注いでいた。

 白いラインが引かれたサッカーコート。

 ベンチには選手たちの荷物。

 応援に来た生徒や保護者も、日陰に集まっている。

「暑いね……」

 陽菜乃は日傘の下で、首元を手であおいだ。

「ほんと。溶けそう」

 隣の美緒も同じように暑そうな顔をしている。

「でも、サッカー部もっと暑そう」

「うん」

 陽菜乃の視線は、自然とグラウンドへ向かった。

 湊がいる。

 青いユニフォーム。

 ボールを追いかけて走る姿。

 学校で見る時とは、少し違う。

 真剣な顔。

 大きな声で仲間へ指示を出す声。

 陽菜乃は、湊がサッカーをしている姿を見るのが好きだった。

 小学生の頃。

 初めて試合を見に行った時も、こんなふうにずっと目で追っていた。

『陽菜乃、ちゃんと俺見てた?』

『見てたよ』

『何回シュートした?』

『……二回?』

『四回』

『ごめん』

『見てないじゃん』

 昔のことを思い出し、少しだけ笑う。

「陽菜乃」

「なに?」

「顔」

「え?」

「めっちゃ嬉しそう」

 美緒がにやにやしている。

「そ、そんなことないよ」

「ずっと成瀬くん見てるけど」

「だって試合見に来たんだから……」

「サッカー部全員じゃなくて、成瀬くんだけね」

「美緒ちゃん!」

 陽菜乃は恥ずかしくなり、前を向いた。

 その時。

「湊ー!」

 別の方向から、女子の声が飛んだ。

 陽菜乃の胸が小さく揺れる。

 美羽だった。

 サッカー部のジャージ姿で、ベンチの近くに立っている。

 首からタオルをかけ、選手たちの飲み物を並べていた。

 やっぱり今日も、湊の近くにいる。

 当たり前だ。

 美羽はマネージャーなのだから。

(気にしちゃだめ)

 陽菜乃は自分に言い聞かせた。

 そして再びグラウンドへ視線を戻す。


 試合は一点対一点。

 残り時間は、あとわずかだった。

「行けー!」

「成瀬!」

 応援の声が大きくなる。

 湊がボールを受け取る。

 一人かわす。

 さらに前へ。

「湊……!」

 陽菜乃は思わず両手を握り合わせた。

 相手の選手が近づく。

 でも湊は止まらない。

 ゴール前。

 右足を振り抜いた。

 ボールがネットを揺らす。

「……入った!」

 次の瞬間。

 大きな歓声が上がった。

「やった!」

 陽菜乃も思わず立ち上がる。

 自分のことのように嬉しかった。

 湊の仲間たちが次々と駆け寄る。

 肩をたたかれ、頭をぐしゃぐしゃにされ、湊も笑っている。

 その笑顔を見た瞬間。

 陽菜乃まで笑顔になった。

「成瀬くん、すごいじゃん!」

 美緒も拍手する。

「うん!」

 陽菜乃は何度もうなずいた。

 試合終了の笛。

 二対一。

 湊たちの勝ちだった。


「陽菜乃、飲み物買ってくる?」

「うん」

 試合が終わり、美緒たちと自動販売機へ向かおうとした。

 その時。

「湊くん!」

 聞こえた声に、陽菜乃は足を止めた。

 グラウンドの横。

 選手たちが戻ってくるところへ、美羽が走っていく。

「すごかった!」

 満面の笑顔。

「最後のシュート、ほんとにすごかった!」

「ああ、ありがと」

 湊が笑う。

 次の瞬間だった。

「ほんとよかったぁ!」

 美羽が、嬉しさのあまり湊の腕へ抱きついた。

「……!」

 陽菜乃の体が固まる。

 一瞬のことだった。

 湊も驚いた顔をしている。

「美羽、ちょ――」

 湊がすぐに腕を外そうとする。

 でも。

 陽菜乃には、そのあとの様子が見えなくなった。

 人が前を横切ったから。

 耳には、周りの声だけが入ってくる。

「うわ!」

「一ノ瀬大胆!」

「やっぱあの二人付き合ってんじゃん!」

「絶対そうでしょ!」

 誰かが笑う。

 胸の奥が急に冷たくなった。

「……陽菜乃?」

 美緒の声が遠く感じる。

 陽菜乃は動けなかった。

 美羽が湊に抱きついた。

 湊も、美羽も。

 まるで恋人みたいだった。

(……やっぱり)

 やっぱり、本当なの?

 学校で流れていた噂。

 花火大会で並んで歩いていた二人。

 お弁当。

 部活帰り。

 全部つながってしまう。

「陽菜乃」

 美緒がそっと腕に触れる。

「成瀬くん、離そうとしてたよ」

「……うん」

「ちゃんと見た?」

「うん」

 本当は、ちゃんと見ていない。

 でも。

 もう一度見る勇気がなかった。

「帰ってもいい?」

「え?」

「ちょっと……疲れちゃった」

 陽菜乃は笑おうとした。

 けれどうまく笑えない。

 美緒は何か言いたそうだったが、最後には小さくうなずいた。

「分かった。一緒に帰ろ」

「でも、みんなは――」

「いいから」

「……ありがとう」

 陽菜乃はグラウンドに背を向けた。

 本当は。

 試合が終わったら、

『すごかったね』

 って言いたかった。

 頑張ったね。

 かっこよかった。

 そう言いたかった。

 でも。

 その言葉を伝える場所は、もう美羽の場所なのかもしれない。


 駅までの道。

 陽菜乃はいつもよりゆっくり歩いた。

 夏の午後。

 道路の向こう側が熱で揺れて見える。

 空はあんなに青いのに。

 心の中だけ、雨が降りそうだった。

「陽菜乃」

「うん?」

「ほんとに本人に聞かなくていいの?」

 美緒が静かに尋ねた。

 陽菜乃はしばらく答えられなかった。

「……怖い」

「でも」

「もし本当だったら」

 自分の声が少しだけ震える。

「私、湊と今までみたいにいられなくなる気がする」

「陽菜乃……」

「朝も一緒に行けなくなるかもしれないし、帰りも……」

 言葉にするほど、怖くなっていく。

「美羽ちゃんが彼女なら、私がずっと湊の近くにいるのって変でしょう?」

「そんなこと――」

「幼馴染でも」

 陽菜乃は小さく笑った。

「彼女より近くにいたら、嫌だと思う」

 本当は。

 自分が美羽より近くにいたい。

 そんな気持ちを認めるのが、少し嫌だった。

 誰かの恋を邪魔するような女の子にはなりたくない。

 だから。

 もし湊が美羽を好きなら。

 自分が離れなくてはいけない。

 そう思った。


 夕方。

 陽菜乃が家に帰ると、玄関前に誰かが座っていた。

「……え?」

 見慣れた黒い髪。

「湊?」

 湊が顔を上げる。

 Tシャツに短パン。

 試合のあと、一度家へ帰ったらしい。

「遅かったな」

「どうしたの?」

「連絡した」

「あ……」

 陽菜乃は慌ててスマホを取り出した。

 メッセージが三件。

『もう帰った?』

『陽菜乃?』

『今どこ?』

 試合会場を出てから、スマホを一度も見ていなかった。

「ごめん」

「なんで黙って帰った?」

「え?」

「来てただろ、今日」

「……うん」

「試合中見えた」

 陽菜乃は驚いた。

「分かったの?」

「分かるよ」

「人、いっぱいだったのに」

「陽菜乃くらい見つける」

 その言葉に。

 いつもなら、きっと嬉しくなった。

 でも今日は、素直に喜べない。

「終わったら来ると思ってた」

 湊が続ける。

「……」

「なのにいなくなってるし」

「美羽ちゃんがいたから」

 思わず口から出た。

 湊が眉を寄せる。

「美羽?」

「うん」

「なんで美羽が出てくるの?」

「だって……」

 陽菜乃は言葉を探した。

 あの場面を思い出す。

 美羽が湊の腕に抱きついていた。

「すごく嬉しそうだったから」

「何が?」

「湊が勝って」

「マネージャーだからだろ」

「……うん」

 湊は、本当に何も気づいていないように見える。

 陽菜乃は少しだけ勇気を出した。

「あのね、湊」

「ん?」

「美羽ちゃんと……」

 そこで止まる。

 聞こう。

 今度こそ。

『付き合ってるの?』

 たったそれだけ。

「美羽と?」

 湊が不思議そうにこちらを見る。

 陽菜乃の心臓が早くなる。

 言わなきゃ。

 なのに。

「……仲いいよね」

 出てきたのは、違う言葉だった。

「は?」

「部活も一緒だし」

「まあ」

「いつも一緒にいるし」

「マネージャーだからな」

「そっか」

 また聞けなかった。

「今日のシュート、すごかったよ」

 陽菜乃は話を変えた。

「見てた?」

「うん」

「そっか」

 湊が少し笑う。

 その笑顔を見ると、胸が苦しくなる。

「じゃあ私、入るね」

「陽菜乃」

「なに?」

「なんかあった?」

「……何もないよ」

「ほんと?」

「うん」

 陽菜乃は笑った。

 でも。

 湊は納得していないような顔をしていた。

「じゃあ……また明日」

「明日、俺朝練」

「あ、そっか」

「その次の日」

「うん」

 玄関へ入る。

 ドアを閉める直前。

「陽菜乃」

 もう一度呼ばれた。

「なに?」

「今日来てくれて、ありがとな」

 陽菜乃は少しだけ目を見開いた。

 そして。

「……うん」

 小さく笑って、今度こそドアを閉めた。

     ◇

 翌朝。

 陽菜乃は、スマホの通知音で目を覚ました。

 美緒からメッセージ。

『陽菜乃、これ見た?』

「……何?」

 送られてきた画像を開く。

 それは、昨日の試合後の写真だった。

 サッカー部の何人かが並んでいる。

 中央に湊。

 そのすぐ隣に美羽。

 二人の肩は近い。

 美羽が笑っていて。

 湊も笑っている。

 投稿したのは、美羽。

『今日もお疲れさまでした! 勝ててよかった!』

 ただ、それだけ。

 特別な言葉なんてない。

 なのにコメントには。

『成瀬くんと美羽ちゃんお似合い!』

『やっぱ付き合ってる?』

『距離近い!』

 そんな言葉が並んでいる。

 陽菜乃はしばらく画面を見つめていた。

 胸の奥に、昨日と同じ痛みが広がる。

「……お似合い、か」

 写真の中の二人を見れば。

 自分でも、そう思う。

 明るくて可愛い美羽。

 サッカー部で人気者の湊。

 同じ部活。

 同じ時間を過ごして。

 同じことで喜べる。

 陽菜乃はスマホを伏せた。

 そしてベッドの上で、膝を抱える。

(私が知らない湊を、美羽ちゃんはいっぱい知ってる)

 この夏。

 陽菜乃は初めて知った。

 幼馴染というだけでは。

 いつまでも一番近くにいられるわけではない。

 そして。

 湊を誰かに取られるのが怖いと思っているのに。

 その気持ちを伝える勇気は。

 まだ、陽菜乃にはなかった。