夏休みに入って最初の土曜日。
小宮山家の二階にある陽菜乃の部屋には、朝から明るい日差しが差し込んでいた。
窓の外では、せみの声が途切れることなく響いている。
ベッドの上には、淡い水色の浴衣が広げられていた。
白い朝顔が散った柄に、薄い桃色の帯。
「……やっぱり、ちょっと派手かな」
鏡の前に立った陽菜乃は、浴衣を自分の体に合わせながら不安そうに首をかしげた。
「どこが?」
後ろで髪飾りを選んでいた姉の結衣が、すぐに振り返る。
「全然派手じゃないよ。むしろ陽菜乃にぴったり」
「ほんと?」
「ほんと。絶対かわいい」
「……かわいいって言われると恥ずかしい」
「じゃあ、湊くんにも言われたくない?」
「えっ!?」
陽菜乃の手から浴衣が落ちかけた。
「お、お姉ちゃん!」
「はいはい。分かりやすい」
「違うってば……」
そう否定したのに。
鏡の中の自分の頬は、もう赤くなっていた。
今日は地元の夏祭りだ。
川沿いの大きな公園に屋台が並び、夜には花火大会がある。
小さい頃から毎年楽しみにしてきた行事。
そして――。
毎年のように、湊と一緒に行っていた。
小学生の頃は家族みんなで。
中学生になってからは友達も一緒に。
去年は途中から二人で屋台を回った。
『陽菜乃、りんご飴食べるなら服につけるなよ』
『つけないよ』
『去年つけてた』
『それ小学生の時でしょう?』
そんなやり取りまで覚えている。
今年も。
きっと会えると思っていた。
でも――。
「湊くんと待ち合わせしてるんでしょ?」
結衣の言葉に、陽菜乃は少しだけ顔を曇らせた。
「……してない」
「え?」
「今年は、美緒ちゃんたちと行くの」
「湊くんは?」
「サッカー部のみんなで行くみたい」
「へえ」
結衣が何かを考えるように陽菜乃を見る。
陽菜乃は浴衣を畳み直しながら、なるべく普通の声を出した。
「だから別に、一緒じゃなくてもいいの」
「陽菜乃」
「なに?」
「そういう時の『別に』って、本当は別によくないんだよね」
「……」
図星だった。
陽菜乃は何も言えなくなり、浴衣の白い朝顔を指先でそっとなぞった。
本当は。
湊に見てほしかった。
浴衣姿で会った時、どんな顔をするのか気になっていた。
かわいいって言ってもらえたら。
きっと一日中、嬉しいと思う。
でも最近。
湊の隣には美羽がいることが増えた。
学校でも。
部活でも。
帰り道でも。
だから。
今日だって、もしかしたら――。
「はい」
結衣が髪飾りを差し出した。
小さな白い花が三つ並んだものだった。
「これにしなよ」
「……かわいい」
「でしょ?」
陽菜乃は受け取って、小さく笑う。
「今日は楽しんできな」
「うん」
「誰と会ってもね」
「……うん」
その最後の言葉だけ、少し胸に残った。
夕方五時。
太陽はまだ高かったけれど、昼間ほどの暑さはなくなっていた。
駅前には浴衣姿の人がたくさん集まっている。
赤や紺、黄色。
色とりどりの浴衣。
風に揺れるうちわ。
遠くからは、お祭り会場のアナウンスも聞こえてきた。
「陽菜乃ー!」
「美緒ちゃん!」
改札前で手を振っている美緒を見つけ、陽菜乃も少し早足になる。
「わあ!」
美緒が陽菜乃を見るなり、両手を合わせた。
「かわいい!」
「えっ」
「陽菜乃、その浴衣めちゃくちゃ似合ってる!」
「そ、そんな大きな声で言わないで……」
「だってほんとだもん」
一緒に来ていたダンス部の莉子も、
「ほんと! 髪型もかわいい!」
と褒めてくれる。
陽菜乃は恥ずかしくて、手に持った巾着を胸の前でぎゅっと握った。
「ありがとう……」
「成瀬くん絶対びっくりするよ」
莉子の言葉に、陽菜乃の心臓が跳ねた。
「なんで湊が出てくるの?」
「なんでって幼馴染でしょ?」
「今日は別々だよ」
「あれ? そうなの?」
「うん。サッカー部で来るんだって」
「ふーん」
莉子が意味ありげに笑う。
その時、美緒が陽菜乃の手を引いた。
「ほら、早く行こう。屋台混むよ!」
「うん!」
三人で会場へ向かう。
歩くたびに、下駄がからん、と小さな音を立てた。
普段履き慣れたローファーとは違って、少し歩きにくい。
「陽菜乃、転ばないでね」
「美緒ちゃんまで!」
「だって陽菜乃だもん」
「今日は大丈夫!」
胸を張った直後。
下駄の先が道の小さな段差に引っかかった。
「わっ」
「ほら!」
美緒に腕を支えられる。
「……今のは偶然」
「開始五分で?」
「もう……」
三人で笑う。
そんなやり取りをしているうちに、陽菜乃の緊張も少しずつほどけていった。
夏祭りの会場は、たくさんの人でにぎわっていた。
焼きそば。
たこ焼き。
かき氷。
チョコバナナ。
甘い匂いと香ばしい匂いが、夏の夜の空気に混ざっている。
「陽菜乃、何食べたい?」
「りんご飴……」
「やっぱり!」
「どうして?」
「好きじゃん」
三人でりんご飴の屋台へ向かう。
陽菜乃は赤いりんご飴を一つ受け取った。
透明な飴が屋台の明かりを受け、きらきら光っている。
「服につけないようにね」
美緒が言う。
「つけないってば」
そう答えた瞬間。
ある言葉を思い出した。
『陽菜乃、りんご飴食べるなら服につけるなよ』
去年の湊。
「……」
「陽菜乃?」
「え?」
「急にどうしたの?」
「なんでもない」
陽菜乃は笑って、りんご飴を一口かじった。
甘い。
でも、少しだけ胸が寂しかった。
(湊、どこにいるんだろう)
スマホを取り出す。
メッセージは来ていない。
こちらから、
『今どこ?』
と送ろうか迷う。
指が画面の上で止まった。
「……やめよ」
小さくつぶやいて、スマホを巾着へ戻す。
せっかく友達と来ているのだ。
湊のことばかり考えるのはやめよう。
そう思った。
その時だった。
「ねえ陽菜乃」
莉子が少し先を指さした。
「成瀬くんじゃない?」
「え?」
胸が跳ねる。
反射的に顔を上げた。
人混みの向こう。
確かに湊がいた。
白いTシャツに黒いパンツ。
浴衣ではないけれど、普段の制服姿とは違って見える。
(湊……)
見つけた瞬間。
うれしくなった。
声をかけようと、一歩前へ出る。
「湊――」
でも。
最後まで名前を呼べなかった。
湊の隣に、美羽がいた。
淡い黄色の浴衣。
髪を高くまとめ、花の飾りをつけている。
いつもの制服姿より、ずっと大人っぽく見えた。
「湊くん、待って!」
美羽が笑いながら湊の腕を軽く引く。
「人多いから離れたら分かんなくなるよ」
「分かったって」
「こっちの屋台見ようよ!」
美羽が湊の横に並ぶ。
二人の後ろには、確かにサッカー部らしい男子たちもいる。
だから。
二人きりではない。
分かっている。
それなのに。
最初に目に入ったのは、湊と美羽だった。
二人並んだ姿が、あまりにも自然に見えた。
「陽菜乃?」
美緒が心配そうに顔をのぞき込む。
「声かけないの?」
「……いい」
「でも」
「サッカー部のみんなといるし」
陽菜乃は無理に笑った。
「邪魔しちゃ悪いから」
本当は違う。
邪魔になるのが怖かった。
美羽の隣にいる湊へ声をかけて。
もし湊が美羽のほうを優先したら。
きっと、今よりもっと苦しくなる。
「行こう」
「陽菜乃……」
「金魚すくい見たい」
くるりと背を向ける。
でも。
足元を見て歩いていたせいで、前から来た人に気づかなかった。
「きゃっ」
肩がぶつかりそうになった瞬間。
「危ねえ」
後ろから腕を引かれた。
「……え?」
体が誰かの胸元近くへ寄る。
顔を上げる。
「柊真くん?」
「お前、こんなとこでも下向いて歩くの?」
そこにいたのは、水野柊真だった。
黒いTシャツに薄い色のシャツを羽織り、普段の制服姿よりさらに少しだけ怖そうに見える。
けれど、陽菜乃はもうその見た目を怖いとは思わなかった。
「ご、ごめん」
「俺に謝るなって何回言えば分かる?」
「……ごめ――」
「今また言おうとしただろ」
柊真が笑う。
陽菜乃もつられて小さく笑った。
「柊真くんも来てたんだ」
「友達に無理やり」
柊真が少し離れた場所を指す。
男子が三人、屋台の前でこちらを見ている。
「水野ー!」
「置いてくぞー!」
「勝手に行け!」
柊真が返す。
そのやり取りに、美緒と莉子も笑った。
そして柊真が改めて陽菜乃を見る。
「……つーか」
「なに?」
言葉が途中で止まる。
陽菜乃は不思議そうに首をかしげた。
「どうしたの?」
「いや」
柊真が少しだけ視線を外す。
「浴衣」
「え?」
「似合ってる」
陽菜乃は一瞬、意味が分からなかった。
すぐに理解して、頬が熱くなる。
「……ありがとう」
「うん」
「柊真くんに褒められると思わなかった」
「どういう意味だよ」
「だって、そういうことあんまり言わなそうだから」
「俺を何だと思ってんの」
「……怖そうな人?」
「まだそれ言う?」
「最初は、だよ!」
二人で笑う。
少し前まであった胸の苦しさが、ほんの少しだけやわらいだ。
「じゃあ四人で回ろうよ!」
莉子が提案した。
「え?」
陽菜乃が驚く。
「柊真くんの友達は?」
「もうどっか行った」
見ると、男子たちの姿は本当になかった。
「置いていかれてるよ?」
「慣れてる」
「それでいいの?」
「どうせ後で会うし」
結局。
陽菜乃、美緒、莉子、柊真の四人で屋台を回ることになった。
射的。
輪投げ。
かき氷。
どこへ行っても人が多い。
陽菜乃は浴衣の裾を気にしながら、慎重に歩いていた。
「陽菜乃、いちご味?」
美緒がかき氷をのぞき込む。
「うん」
「やっぱり」
「どうしてみんな分かるの?」
「分かりやすいから」
最近そればかり言われる。
「柊真くんは?」
「ブルーハワイ」
「舌青くなるよ」
「陽菜乃も赤くなるだろ」
「……ほんとだ」
陽菜乃は少し笑った。
その笑顔を、柊真がじっと見ていることには気づかない。
そして。
屋台の間を進んでいた時。
後ろから大勢の人が一気に押し寄せてきた。
「わっ」
陽菜乃の肩が人にぶつかる。
美緒たちと少し離れる。
「美緒ちゃん!」
手を伸ばしたものの届かない。
「陽菜乃!」
柊真がすぐにこちらへ来た。
「こっち」
手首をつかまれる。
でも人の流れは止まらない。
陽菜乃がまた誰かにぶつかりそうになる。
柊真は少し迷ったあと、陽菜乃の手を握り直した。
「……え」
「はぐれるから」
「あ……うん」
大きな手だった。
湊以外の男の子と、こんなふうに手をつないだことはない。
陽菜乃の心臓が急に速くなる。
「柊真くん」
「何?」
「手……」
「嫌?」
「嫌じゃないけど」
「じゃあそのまま」
柊真は陽菜乃が人にぶつからないよう、自分が前を歩いてくれる。
陽菜乃はその後ろをついていった。
少し前まで。
こういう時に手を引いてくれたのは、いつも湊だった。
(湊……)
また考えてしまう。
そして。
その少し離れた場所で。
湊がこちらを見ていたことを、陽菜乃は知らなかった。
「成瀬?」
隣にいた悠人が声をかける。
「何止まってんの?」
湊は答えなかった。
視線の先。
人混みの中。
陽菜乃がいた。
水色の浴衣。
白い花の髪飾り。
一瞬。
誰なのか分からないくらい、いつもと雰囲気が違った。
(……かわいい)
思った瞬間、自分で少し驚いた。
いつも見ている幼馴染なのに。
声をかけようと思った。
でも。
その隣に柊真がいた。
しかも。
二人は手をつないでいる。
「……水野」
思わず名前が口から出た。
悠人も気づく。
「あれ、陽菜乃ちゃんじゃん」
「……」
「浴衣すげえ似合ってるな」
「見るなよ」
「は?」
湊は自分でも何を言っているのか分からなかった。
悠人が笑う。
「お前、ほんと分かりやすい」
「何が」
「嫉妬」
「してない」
「じゃあ追いかけなくていい?」
湊は返事をしない。
陽菜乃と柊真の姿は、人混みの向こうへ消えていった。
胸の奥が落ち着かない。
今日。
陽菜乃が浴衣を着ることも知らなかった。
誰と来るのかも。
水野と会うことも。
知らないことが増えている。
それが、思っていた以上に嫌だった。
「湊くん?」
少し先を歩いていた美羽が戻ってきた。
「どうしたの?」
「……別に」
「また別に?」
美羽は湊の視線の先を追う。
でももう、陽菜乃は見えない。
「行こう。みんな待ってるよ」
「……うん」
湊は歩き出した。
それでも何度か。
人混みの中に、水色の浴衣を探してしまった。
午後七時半。
空はすっかり暗くなっていた。
川沿いの土手には、花火を見る人たちがたくさん集まっている。
「ここ見えそう!」
美緒が場所を見つけ、レジャーシートへ座る。
「柊真くんも座る?」
「俺は後ろでいい」
「なんで?」
「女子三人の間に座るの落ち着かねえ」
「意外と普通なんだね」
「どういう意味?」
みんなで笑う。
陽菜乃も座り、夜空を見上げた。
夏の夜の風が頬をなでる。
昼間の暑さが少しだけ残った空気。
遠くには屋台の明かりが続き、人々の話し声が重なっている。
そして。
ドンッ――!
大きな音。
「わあ……!」
夜空に、金色の花が大きく開いた。
続けて赤。
青。
緑。
花火の光が川面に映る。
陽菜乃は思わず見入った。
「きれい……」
「陽菜乃」
「なに?」
隣から柊真に呼ばれる。
振り返る。
柊真は花火ではなく、陽菜乃を見ていた。
「……何?」
「いや」
少しだけ迷ってから。
「今日、来てよかった」
「花火きれいだもんね」
「そうじゃなくて」
「え?」
陽菜乃が首をかしげる。
柊真は一度夜空を見上げた。
「陽菜乃と回れたから」
ドンッ!
ちょうど大きな花火が上がり、最後の言葉が少し聞こえにくかった。
「え? 何て言ったの?」
「聞こえなかったならいい」
「気になるよ」
「秘密」
「ずるい」
陽菜乃が笑う。
その笑顔を見て。
柊真も少しだけ笑った。
花火が終わり、人の流れが駅へ向かい始めた。
「陽菜乃、下駄大丈夫?」
美緒が聞く。
「ちょっと痛いかも……」
慣れない下駄で歩き続けたせいか、鼻緒のところが赤くなっている。
「やっぱり」
「でも歩けるよ」
「無理すんな」
柊真が横から言う。
「ほんとに大丈夫」
そう言って一歩進んだ時。
「いたっ」
小さく顔をしかめる。
柊真がすぐに気づいた。
「大丈夫じゃねえじゃん」
「ちょっとだけだから」
「そこ座って」
「え?」
「いいから」
近くのベンチへ連れていかれる。
陽菜乃が座ると、柊真はコンビニでもらったらしい小さな絆創膏を取り出した。
「なんで持ってるの?」
「さっき友達が買ったやつ余ってた」
「でも……」
「ほら」
渡され、陽菜乃は受け取る。
「ありがとう」
「今日は何回目?」
「……数えてない」
「俺も」
二人で笑う。
そして陽菜乃が絆創膏を貼っている時。
「陽菜乃?」
聞き慣れた声がした。
顔を上げる。
そこにいたのは、湊だった。
「……湊」
胸が大きく跳ねる。
やっと近くで会えた。
でも。
湊の後ろには美羽がいる。
「足どうした?」
「下駄でちょっと……」
湊が近づこうとする。
しかし先に柊真が言った。
「擦れただけ。もう絆創膏貼った」
「……水野」
「何?」
二人の視線が合う。
空気が少しだけ変わったように感じて、陽菜乃は二人を交互に見た。
「湊?」
「……なんでもない」
湊は陽菜乃を見る。
その視線が、浴衣の上から髪飾りへ動く。
陽菜乃の胸がどきどきする。
(何か……言ってくれるかな)
少しだけ期待した。
でも。
「その浴衣」
「……うん」
「今日着てたんだ」
「うん」
「……似合ってる」
小さな声だった。
「え?」
陽菜乃は目を丸くする。
聞き間違いかと思った。
湊は少し顔をそらす。
「だから、似合ってるって」
胸の奥が一気に温かくなる。
「……ありがとう」
今日。
友達にも。
柊真にも。
何度もかわいいと言ってもらった。
それなのに。
湊の一言が、一番うれしかった。
思わず笑った、その時。
「湊くん!」
美羽が後ろから呼んだ。
「みんな駅行っちゃうよ」
「あ……うん」
湊が振り返る。
陽菜乃の胸に、また小さな痛みが戻ってくる。
「じゃあ」
「……うん」
「気をつけて帰れよ」
「湊も」
美羽のほうへ戻る湊。
黄色い浴衣と並んで歩いていく。
陽菜乃は、その背中を見つめた。
さっきまで嬉しかったはずなのに。
また寂しくなる。
「陽菜乃」
柊真が呼ぶ。
「帰れる?」
「うん」
陽菜乃は小さく笑った。
「大丈夫」
でも。
今日一日で分かったことがある。
湊が誰かと一緒にいると苦しい。
湊に浴衣を褒めてもらうと、どうしようもなく嬉しい。
そして――。
この気持ちは。
もう『幼馴染だから』では、ごまかせない。
夏の夜。
遠くでは、最後の小さな花火が一つだけ空に上がった。
その光が消えても。
陽菜乃の胸の中では、湊の言った、
『似合ってる』
という言葉が、いつまでも消えずに残っていた。
小宮山家の二階にある陽菜乃の部屋には、朝から明るい日差しが差し込んでいた。
窓の外では、せみの声が途切れることなく響いている。
ベッドの上には、淡い水色の浴衣が広げられていた。
白い朝顔が散った柄に、薄い桃色の帯。
「……やっぱり、ちょっと派手かな」
鏡の前に立った陽菜乃は、浴衣を自分の体に合わせながら不安そうに首をかしげた。
「どこが?」
後ろで髪飾りを選んでいた姉の結衣が、すぐに振り返る。
「全然派手じゃないよ。むしろ陽菜乃にぴったり」
「ほんと?」
「ほんと。絶対かわいい」
「……かわいいって言われると恥ずかしい」
「じゃあ、湊くんにも言われたくない?」
「えっ!?」
陽菜乃の手から浴衣が落ちかけた。
「お、お姉ちゃん!」
「はいはい。分かりやすい」
「違うってば……」
そう否定したのに。
鏡の中の自分の頬は、もう赤くなっていた。
今日は地元の夏祭りだ。
川沿いの大きな公園に屋台が並び、夜には花火大会がある。
小さい頃から毎年楽しみにしてきた行事。
そして――。
毎年のように、湊と一緒に行っていた。
小学生の頃は家族みんなで。
中学生になってからは友達も一緒に。
去年は途中から二人で屋台を回った。
『陽菜乃、りんご飴食べるなら服につけるなよ』
『つけないよ』
『去年つけてた』
『それ小学生の時でしょう?』
そんなやり取りまで覚えている。
今年も。
きっと会えると思っていた。
でも――。
「湊くんと待ち合わせしてるんでしょ?」
結衣の言葉に、陽菜乃は少しだけ顔を曇らせた。
「……してない」
「え?」
「今年は、美緒ちゃんたちと行くの」
「湊くんは?」
「サッカー部のみんなで行くみたい」
「へえ」
結衣が何かを考えるように陽菜乃を見る。
陽菜乃は浴衣を畳み直しながら、なるべく普通の声を出した。
「だから別に、一緒じゃなくてもいいの」
「陽菜乃」
「なに?」
「そういう時の『別に』って、本当は別によくないんだよね」
「……」
図星だった。
陽菜乃は何も言えなくなり、浴衣の白い朝顔を指先でそっとなぞった。
本当は。
湊に見てほしかった。
浴衣姿で会った時、どんな顔をするのか気になっていた。
かわいいって言ってもらえたら。
きっと一日中、嬉しいと思う。
でも最近。
湊の隣には美羽がいることが増えた。
学校でも。
部活でも。
帰り道でも。
だから。
今日だって、もしかしたら――。
「はい」
結衣が髪飾りを差し出した。
小さな白い花が三つ並んだものだった。
「これにしなよ」
「……かわいい」
「でしょ?」
陽菜乃は受け取って、小さく笑う。
「今日は楽しんできな」
「うん」
「誰と会ってもね」
「……うん」
その最後の言葉だけ、少し胸に残った。
夕方五時。
太陽はまだ高かったけれど、昼間ほどの暑さはなくなっていた。
駅前には浴衣姿の人がたくさん集まっている。
赤や紺、黄色。
色とりどりの浴衣。
風に揺れるうちわ。
遠くからは、お祭り会場のアナウンスも聞こえてきた。
「陽菜乃ー!」
「美緒ちゃん!」
改札前で手を振っている美緒を見つけ、陽菜乃も少し早足になる。
「わあ!」
美緒が陽菜乃を見るなり、両手を合わせた。
「かわいい!」
「えっ」
「陽菜乃、その浴衣めちゃくちゃ似合ってる!」
「そ、そんな大きな声で言わないで……」
「だってほんとだもん」
一緒に来ていたダンス部の莉子も、
「ほんと! 髪型もかわいい!」
と褒めてくれる。
陽菜乃は恥ずかしくて、手に持った巾着を胸の前でぎゅっと握った。
「ありがとう……」
「成瀬くん絶対びっくりするよ」
莉子の言葉に、陽菜乃の心臓が跳ねた。
「なんで湊が出てくるの?」
「なんでって幼馴染でしょ?」
「今日は別々だよ」
「あれ? そうなの?」
「うん。サッカー部で来るんだって」
「ふーん」
莉子が意味ありげに笑う。
その時、美緒が陽菜乃の手を引いた。
「ほら、早く行こう。屋台混むよ!」
「うん!」
三人で会場へ向かう。
歩くたびに、下駄がからん、と小さな音を立てた。
普段履き慣れたローファーとは違って、少し歩きにくい。
「陽菜乃、転ばないでね」
「美緒ちゃんまで!」
「だって陽菜乃だもん」
「今日は大丈夫!」
胸を張った直後。
下駄の先が道の小さな段差に引っかかった。
「わっ」
「ほら!」
美緒に腕を支えられる。
「……今のは偶然」
「開始五分で?」
「もう……」
三人で笑う。
そんなやり取りをしているうちに、陽菜乃の緊張も少しずつほどけていった。
夏祭りの会場は、たくさんの人でにぎわっていた。
焼きそば。
たこ焼き。
かき氷。
チョコバナナ。
甘い匂いと香ばしい匂いが、夏の夜の空気に混ざっている。
「陽菜乃、何食べたい?」
「りんご飴……」
「やっぱり!」
「どうして?」
「好きじゃん」
三人でりんご飴の屋台へ向かう。
陽菜乃は赤いりんご飴を一つ受け取った。
透明な飴が屋台の明かりを受け、きらきら光っている。
「服につけないようにね」
美緒が言う。
「つけないってば」
そう答えた瞬間。
ある言葉を思い出した。
『陽菜乃、りんご飴食べるなら服につけるなよ』
去年の湊。
「……」
「陽菜乃?」
「え?」
「急にどうしたの?」
「なんでもない」
陽菜乃は笑って、りんご飴を一口かじった。
甘い。
でも、少しだけ胸が寂しかった。
(湊、どこにいるんだろう)
スマホを取り出す。
メッセージは来ていない。
こちらから、
『今どこ?』
と送ろうか迷う。
指が画面の上で止まった。
「……やめよ」
小さくつぶやいて、スマホを巾着へ戻す。
せっかく友達と来ているのだ。
湊のことばかり考えるのはやめよう。
そう思った。
その時だった。
「ねえ陽菜乃」
莉子が少し先を指さした。
「成瀬くんじゃない?」
「え?」
胸が跳ねる。
反射的に顔を上げた。
人混みの向こう。
確かに湊がいた。
白いTシャツに黒いパンツ。
浴衣ではないけれど、普段の制服姿とは違って見える。
(湊……)
見つけた瞬間。
うれしくなった。
声をかけようと、一歩前へ出る。
「湊――」
でも。
最後まで名前を呼べなかった。
湊の隣に、美羽がいた。
淡い黄色の浴衣。
髪を高くまとめ、花の飾りをつけている。
いつもの制服姿より、ずっと大人っぽく見えた。
「湊くん、待って!」
美羽が笑いながら湊の腕を軽く引く。
「人多いから離れたら分かんなくなるよ」
「分かったって」
「こっちの屋台見ようよ!」
美羽が湊の横に並ぶ。
二人の後ろには、確かにサッカー部らしい男子たちもいる。
だから。
二人きりではない。
分かっている。
それなのに。
最初に目に入ったのは、湊と美羽だった。
二人並んだ姿が、あまりにも自然に見えた。
「陽菜乃?」
美緒が心配そうに顔をのぞき込む。
「声かけないの?」
「……いい」
「でも」
「サッカー部のみんなといるし」
陽菜乃は無理に笑った。
「邪魔しちゃ悪いから」
本当は違う。
邪魔になるのが怖かった。
美羽の隣にいる湊へ声をかけて。
もし湊が美羽のほうを優先したら。
きっと、今よりもっと苦しくなる。
「行こう」
「陽菜乃……」
「金魚すくい見たい」
くるりと背を向ける。
でも。
足元を見て歩いていたせいで、前から来た人に気づかなかった。
「きゃっ」
肩がぶつかりそうになった瞬間。
「危ねえ」
後ろから腕を引かれた。
「……え?」
体が誰かの胸元近くへ寄る。
顔を上げる。
「柊真くん?」
「お前、こんなとこでも下向いて歩くの?」
そこにいたのは、水野柊真だった。
黒いTシャツに薄い色のシャツを羽織り、普段の制服姿よりさらに少しだけ怖そうに見える。
けれど、陽菜乃はもうその見た目を怖いとは思わなかった。
「ご、ごめん」
「俺に謝るなって何回言えば分かる?」
「……ごめ――」
「今また言おうとしただろ」
柊真が笑う。
陽菜乃もつられて小さく笑った。
「柊真くんも来てたんだ」
「友達に無理やり」
柊真が少し離れた場所を指す。
男子が三人、屋台の前でこちらを見ている。
「水野ー!」
「置いてくぞー!」
「勝手に行け!」
柊真が返す。
そのやり取りに、美緒と莉子も笑った。
そして柊真が改めて陽菜乃を見る。
「……つーか」
「なに?」
言葉が途中で止まる。
陽菜乃は不思議そうに首をかしげた。
「どうしたの?」
「いや」
柊真が少しだけ視線を外す。
「浴衣」
「え?」
「似合ってる」
陽菜乃は一瞬、意味が分からなかった。
すぐに理解して、頬が熱くなる。
「……ありがとう」
「うん」
「柊真くんに褒められると思わなかった」
「どういう意味だよ」
「だって、そういうことあんまり言わなそうだから」
「俺を何だと思ってんの」
「……怖そうな人?」
「まだそれ言う?」
「最初は、だよ!」
二人で笑う。
少し前まであった胸の苦しさが、ほんの少しだけやわらいだ。
「じゃあ四人で回ろうよ!」
莉子が提案した。
「え?」
陽菜乃が驚く。
「柊真くんの友達は?」
「もうどっか行った」
見ると、男子たちの姿は本当になかった。
「置いていかれてるよ?」
「慣れてる」
「それでいいの?」
「どうせ後で会うし」
結局。
陽菜乃、美緒、莉子、柊真の四人で屋台を回ることになった。
射的。
輪投げ。
かき氷。
どこへ行っても人が多い。
陽菜乃は浴衣の裾を気にしながら、慎重に歩いていた。
「陽菜乃、いちご味?」
美緒がかき氷をのぞき込む。
「うん」
「やっぱり」
「どうしてみんな分かるの?」
「分かりやすいから」
最近そればかり言われる。
「柊真くんは?」
「ブルーハワイ」
「舌青くなるよ」
「陽菜乃も赤くなるだろ」
「……ほんとだ」
陽菜乃は少し笑った。
その笑顔を、柊真がじっと見ていることには気づかない。
そして。
屋台の間を進んでいた時。
後ろから大勢の人が一気に押し寄せてきた。
「わっ」
陽菜乃の肩が人にぶつかる。
美緒たちと少し離れる。
「美緒ちゃん!」
手を伸ばしたものの届かない。
「陽菜乃!」
柊真がすぐにこちらへ来た。
「こっち」
手首をつかまれる。
でも人の流れは止まらない。
陽菜乃がまた誰かにぶつかりそうになる。
柊真は少し迷ったあと、陽菜乃の手を握り直した。
「……え」
「はぐれるから」
「あ……うん」
大きな手だった。
湊以外の男の子と、こんなふうに手をつないだことはない。
陽菜乃の心臓が急に速くなる。
「柊真くん」
「何?」
「手……」
「嫌?」
「嫌じゃないけど」
「じゃあそのまま」
柊真は陽菜乃が人にぶつからないよう、自分が前を歩いてくれる。
陽菜乃はその後ろをついていった。
少し前まで。
こういう時に手を引いてくれたのは、いつも湊だった。
(湊……)
また考えてしまう。
そして。
その少し離れた場所で。
湊がこちらを見ていたことを、陽菜乃は知らなかった。
「成瀬?」
隣にいた悠人が声をかける。
「何止まってんの?」
湊は答えなかった。
視線の先。
人混みの中。
陽菜乃がいた。
水色の浴衣。
白い花の髪飾り。
一瞬。
誰なのか分からないくらい、いつもと雰囲気が違った。
(……かわいい)
思った瞬間、自分で少し驚いた。
いつも見ている幼馴染なのに。
声をかけようと思った。
でも。
その隣に柊真がいた。
しかも。
二人は手をつないでいる。
「……水野」
思わず名前が口から出た。
悠人も気づく。
「あれ、陽菜乃ちゃんじゃん」
「……」
「浴衣すげえ似合ってるな」
「見るなよ」
「は?」
湊は自分でも何を言っているのか分からなかった。
悠人が笑う。
「お前、ほんと分かりやすい」
「何が」
「嫉妬」
「してない」
「じゃあ追いかけなくていい?」
湊は返事をしない。
陽菜乃と柊真の姿は、人混みの向こうへ消えていった。
胸の奥が落ち着かない。
今日。
陽菜乃が浴衣を着ることも知らなかった。
誰と来るのかも。
水野と会うことも。
知らないことが増えている。
それが、思っていた以上に嫌だった。
「湊くん?」
少し先を歩いていた美羽が戻ってきた。
「どうしたの?」
「……別に」
「また別に?」
美羽は湊の視線の先を追う。
でももう、陽菜乃は見えない。
「行こう。みんな待ってるよ」
「……うん」
湊は歩き出した。
それでも何度か。
人混みの中に、水色の浴衣を探してしまった。
午後七時半。
空はすっかり暗くなっていた。
川沿いの土手には、花火を見る人たちがたくさん集まっている。
「ここ見えそう!」
美緒が場所を見つけ、レジャーシートへ座る。
「柊真くんも座る?」
「俺は後ろでいい」
「なんで?」
「女子三人の間に座るの落ち着かねえ」
「意外と普通なんだね」
「どういう意味?」
みんなで笑う。
陽菜乃も座り、夜空を見上げた。
夏の夜の風が頬をなでる。
昼間の暑さが少しだけ残った空気。
遠くには屋台の明かりが続き、人々の話し声が重なっている。
そして。
ドンッ――!
大きな音。
「わあ……!」
夜空に、金色の花が大きく開いた。
続けて赤。
青。
緑。
花火の光が川面に映る。
陽菜乃は思わず見入った。
「きれい……」
「陽菜乃」
「なに?」
隣から柊真に呼ばれる。
振り返る。
柊真は花火ではなく、陽菜乃を見ていた。
「……何?」
「いや」
少しだけ迷ってから。
「今日、来てよかった」
「花火きれいだもんね」
「そうじゃなくて」
「え?」
陽菜乃が首をかしげる。
柊真は一度夜空を見上げた。
「陽菜乃と回れたから」
ドンッ!
ちょうど大きな花火が上がり、最後の言葉が少し聞こえにくかった。
「え? 何て言ったの?」
「聞こえなかったならいい」
「気になるよ」
「秘密」
「ずるい」
陽菜乃が笑う。
その笑顔を見て。
柊真も少しだけ笑った。
花火が終わり、人の流れが駅へ向かい始めた。
「陽菜乃、下駄大丈夫?」
美緒が聞く。
「ちょっと痛いかも……」
慣れない下駄で歩き続けたせいか、鼻緒のところが赤くなっている。
「やっぱり」
「でも歩けるよ」
「無理すんな」
柊真が横から言う。
「ほんとに大丈夫」
そう言って一歩進んだ時。
「いたっ」
小さく顔をしかめる。
柊真がすぐに気づいた。
「大丈夫じゃねえじゃん」
「ちょっとだけだから」
「そこ座って」
「え?」
「いいから」
近くのベンチへ連れていかれる。
陽菜乃が座ると、柊真はコンビニでもらったらしい小さな絆創膏を取り出した。
「なんで持ってるの?」
「さっき友達が買ったやつ余ってた」
「でも……」
「ほら」
渡され、陽菜乃は受け取る。
「ありがとう」
「今日は何回目?」
「……数えてない」
「俺も」
二人で笑う。
そして陽菜乃が絆創膏を貼っている時。
「陽菜乃?」
聞き慣れた声がした。
顔を上げる。
そこにいたのは、湊だった。
「……湊」
胸が大きく跳ねる。
やっと近くで会えた。
でも。
湊の後ろには美羽がいる。
「足どうした?」
「下駄でちょっと……」
湊が近づこうとする。
しかし先に柊真が言った。
「擦れただけ。もう絆創膏貼った」
「……水野」
「何?」
二人の視線が合う。
空気が少しだけ変わったように感じて、陽菜乃は二人を交互に見た。
「湊?」
「……なんでもない」
湊は陽菜乃を見る。
その視線が、浴衣の上から髪飾りへ動く。
陽菜乃の胸がどきどきする。
(何か……言ってくれるかな)
少しだけ期待した。
でも。
「その浴衣」
「……うん」
「今日着てたんだ」
「うん」
「……似合ってる」
小さな声だった。
「え?」
陽菜乃は目を丸くする。
聞き間違いかと思った。
湊は少し顔をそらす。
「だから、似合ってるって」
胸の奥が一気に温かくなる。
「……ありがとう」
今日。
友達にも。
柊真にも。
何度もかわいいと言ってもらった。
それなのに。
湊の一言が、一番うれしかった。
思わず笑った、その時。
「湊くん!」
美羽が後ろから呼んだ。
「みんな駅行っちゃうよ」
「あ……うん」
湊が振り返る。
陽菜乃の胸に、また小さな痛みが戻ってくる。
「じゃあ」
「……うん」
「気をつけて帰れよ」
「湊も」
美羽のほうへ戻る湊。
黄色い浴衣と並んで歩いていく。
陽菜乃は、その背中を見つめた。
さっきまで嬉しかったはずなのに。
また寂しくなる。
「陽菜乃」
柊真が呼ぶ。
「帰れる?」
「うん」
陽菜乃は小さく笑った。
「大丈夫」
でも。
今日一日で分かったことがある。
湊が誰かと一緒にいると苦しい。
湊に浴衣を褒めてもらうと、どうしようもなく嬉しい。
そして――。
この気持ちは。
もう『幼馴染だから』では、ごまかせない。
夏の夜。
遠くでは、最後の小さな花火が一つだけ空に上がった。
その光が消えても。
陽菜乃の胸の中では、湊の言った、
『似合ってる』
という言葉が、いつまでも消えずに残っていた。

