ずっと隣にいた君が、遠くなった春

 次の日の朝。

 陽菜乃は、いつもより十五分も早く目を覚ました。

 カーテンのすき間から入ってくる朝の光が、部屋の床を細長く照らしている。

 ベッドの上で一度だけ伸びをして、それからすぐに起き上がった。

「……よし」

 今日は寝坊できない。

 机の上には、昨夜のうちに用意しておいた小さなランチクロスが置いてある。

 淡い水色に、小さな白い花が散っているもの。

 中に包むのは、いつもの自分のお弁当ではない。

 柊真に渡すためのお弁当だ。

 昨日、姉の結衣に教えてもらった卵焼き。

 それに、朝早く起きて作った小さなおにぎりと、ウインナー。

 形はお店のお弁当みたいにきれいではない。

 でも、自分なりに一生懸命作った。

「陽菜乃ー。もう成瀬くん来てるわよー」

 一階から母の声がする。

「えっ!」

 陽菜乃は時計を見た。

「もうそんな時間!?」

 慌ててお弁当を鞄に入れる。

 教科書。

 筆箱。

 ダンス部のノート。

「忘れ物……ないよね?」

 指で一つずつ確認してから、部屋を飛び出した。


「珍しい」

 玄関を出ると、湊が門の前に立っていた。

「なにが?」

「今日は俺が呼んでから一分で出てきた」

「いつもそんなに遅くないもん」

「昨日は七分」

「それ、まだ覚えてるの?」

「記憶力いいから」

 湊が笑う。

 陽菜乃は少しむっとしながら、隣に並んだ。

 朝の空気は少しだけ湿っていた。

 六月が近づき、桜の木はすっかり緑色になっている。

 通学路の家々の庭には、色とりどりの花が咲いていた。

「今日、荷物多くない?」

 歩き始めてすぐ、湊が陽菜乃の鞄を見る。

「そう?」

「なんか膨らんでる」

「……気のせい」

「怪しい」

「怪しくないよ」

 思わず鞄を反対側へ持ち替える。

 その動きに、湊が眉を上げた。

「何隠してんの?」

「隠してない」

「じゃあ見せて」

「嫌」

「ほら、隠してる」

「もう!」

 陽菜乃は少し早歩きになる。

 まさか、

『柊真くんにお弁当を作ったの』

 なんて言えるわけがない。

 悪いことをしているわけではないのに、なぜか湊には知られたくなかった。

「転ぶぞ」

 後ろから湊の声。

「転ばない!」

 そう返した直後。

 靴の先が道の小さな段差に引っかかった。

「きゃっ」

 ぐらっと前に傾いた体を、すぐに腕をつかまれて戻される。

「……ほら」

「……」

「何?」

「何でもない」

 恥ずかしくて顔を上げられない。

 湊はあきれながらも、つかんでいた腕をゆっくり離した。

「ほんと危なっかしい」

「ちゃんと見てたもん」

「見てて転ぶほうが心配」

「……」

 言い返せない。

 陽菜乃が頬をふくらませると、湊が少し笑った。

 こんな朝が、陽菜乃は好きだった。

 いつもと同じ道。

 いつもと同じ湊。

 だからこそ、最近ときどき思う。

 この時間にも、いつか終わりが来るのだろうか。

 湊に彼女ができたら。

 その彼女が美羽だったら。

 毎朝、自分を迎えに来ることだって、きっとなくなる。

「……陽菜乃?」

「え?」

「またぼーっとしてる」

「考え事」

「何考えてた?」

「秘密」

「最近秘密多いな」

 湊が不満そうに言う。

 陽菜乃は小さく笑いながら、胸の中に浮かんだ寂しさを隠した。


 四時間目が終わる少し前から、陽菜乃は落ち着かなかった。

 時計を見る。

 あと五分。

 黒板へ視線を戻す。

 また時計を見る。

「小宮山」

「は、はい!」

 突然、先生に呼ばれて立ち上がる。

 教室から小さな笑い声が起こった。

「そこまで元気よく返事しなくてもいいぞ」

「……すみません」

「四十五ページ、読んでくれ」

「はい」

 教科書を持つ。

 声に出して読みながらも、頭の半分では鞄の中のお弁当のことを考えていた。

(変じゃないかな)

(味、大丈夫かな)

(迷惑じゃないかな)

 昨夜、柊真は「もらえるなら食う」と言っていた。

 だから持ってきたのだけれど。

 いざ渡すとなると恥ずかしい。

 チャイムが鳴る。

「よし、ここまで」

 先生が教室を出た瞬間、みんなが一斉に動き始めた。

「陽菜乃、お昼食べよ!」

 美緒が振り返る。

「あ、うん。でもその前に……」

「その前に?」

 陽菜乃は鞄を開けた。

 水色のランチクロスに包まれた小さなお弁当を取り出す。

 美緒の目が大きくなる。

「なにそれ」

「お弁当」

「見れば分かるよ。誰の?」

「……柊真くん」

「ええっ!?」

「しーっ!」

 陽菜乃は慌てて美緒の口元へ指を当てた。

「声大きいよ!」

「だって! 陽菜乃が水野くんに手作り弁当!?」

「違うの、お礼と味見!」

「それを普通は手作り弁当って言うんだけど」

「そうじゃなくて……」

 周りから見られている気がして、陽菜乃はますます恥ずかしくなる。

「いつも助けてもらってるでしょう? それで昨日、料理の話になって……」

「ふーん」

 美緒がにやにやする。

「何その顔」

「別に」

「絶対何か考えてる」

 その時。

「何騒いでんの」

 机の横から低い声がした。

「わっ」

 陽菜乃が振り返る。

 柊真が立っていた。

「柊真くん」

「俺の名前聞こえたけど」

「……」

 逃げられない。

 陽菜乃は少しだけ迷ってから、両手でお弁当を持ち上げた。

「あのね」

「ん?」

「昨日言ってた……味見」

 柊真の目が、お弁当に向く。

「これ、俺に?」

「うん」

 急に恥ずかしくなって、陽菜乃は視線を落とした。

「卵焼き、ちょっと形悪いかもしれないけど……」

「陽菜乃が作った?」

「うん。ほとんど」

「ほとんど?」

「お姉ちゃんに少し教えてもらったの」

 柊真はしばらく何も言わなかった。

 陽菜乃は心配になって顔を上げる。

「……いらなかった?」

「なんでそうなるんだよ」

 柊真はすぐにお弁当を受け取った。

「もらう」

「ほんと?」

「ああ」

「よかった」

 陽菜乃の顔が自然にほころぶ。

 それを見た柊真は、少しだけ目をそらした。

「……つーか」

「なに?」

「これ、お礼にしちゃ気合い入ってね?」

「えっ?」

「いや、なんでもねえ」

 近くにいた男子が、すぐに気づいた。

「水野、それ何?」

「弁当」

「誰から?」

 柊真が答える前に、男子の視線が陽菜乃へ動く。

「え、小宮山?」

「えっ」

「マジ? 手作り?」

「違うの!」

 陽菜乃は慌てて両手を振った。

「この前のお礼で……」

「お礼で弁当作る?」

「水野、よかったなー!」

「うるせえ」

 柊真は面倒そうに言う。

 でも、お弁当は机の端ではなく、自分の目の前に大事そうに置いていた。

「食べていい?」

「う、うん」

 柊真がランチクロスをほどく。

 ふたを開ける。

 陽菜乃の胸がどきどきした。

「……お」

「どう?」

「ちゃんと弁当」

「どういう意味?」

「もっとすごいの想像してた」

「もっとすごいって?」

「卵が黒焦げとか」

「ひどい!」

 陽菜乃が頬をふくらませる。

 柊真は笑いながら卵焼きを一つ口に入れた。

 陽菜乃はじっと見つめる。

「……」

「……」

「どう?」

「まだ飲み込んでねえ」

「ご、ごめん」

 数秒がものすごく長く感じる。

 柊真がもう一度箸を動かした。

 今度も卵焼き。

「おいしい?」

「うまい」

「ほんと!?」

 陽菜乃の声が明るくなる。

「甘すぎなかった?」

「俺はこれくらい好き」

「よかったぁ……」

 朝からずっと心配していたので、体の力が抜けた。

 柊真が少し笑う。

「そんな心配だった?」

「初めてちゃんと作ったから」

「初めて?」

「うん」

 その言葉を聞いた瞬間。

 周りの男子がまた騒ぎ始める。

「水野、初めての手作り弁当もらってんじゃん!」

「完全に特別じゃん!」

「だから違うってば!」

 陽菜乃の顔が真っ赤になる。

「みんな、からかわないで……」

 困って小さくなる陽菜乃を見て、柊真が眉を寄せた。

「お前ら、そのへんにしろよ」

 その一言で、男子たちは、

「はいはい」

 と笑いながら離れていった。

 陽菜乃はほっとする。

「柊真くん、ありがとう」

「それ、今日何回目?」

「まだ……三回くらい?」

「もう数えてんじゃん」

 二人で笑った。

     ◇

 その頃。

 二年五組では。

「成瀬、陽菜乃ちゃんのクラス行かなくていいの?」

 悠人に言われ、湊はパンの袋を開けながら顔を上げた。

「なんで?」

「いつも昼休み、一回は行ってんじゃん」

「毎日じゃない」

「今日は行かない?」

 湊は少し迷った。

 今朝、陽菜乃が何かを隠していたことが気になっていた。

 鞄を見せろと言った時、明らかに慌てていた。

「……ちょっと行ってくる」

「やっぱ気になるんじゃん」

「うるさい」

 湊はパンを机に置き、教室を出た。

 二組まではそれほど遠くない。

 いつも通り。

 ただ陽菜乃の顔を見に行くだけ。

 そう思っていた。

 けれど。

 二組の前まで来た時。

 教室の中から聞こえた声に、足が止まった。

「水野、それ全部小宮山が作ったの?」

「そうらしい」

「いいなー!」

 湊の眉が動く。

(作った?)

 教室の中を見る。

 すぐに陽菜乃を見つけた。

 そして。

 その向かいに座る柊真。

 柊真の机には、小さなお弁当箱。

 陽菜乃が、その前で嬉しそうに笑っている。

「ほんとにおいしい?」

「だからうまいって」

「よかった」

 陽菜乃の顔。

 湊がよく知っている笑い方だった。

 嬉しい時。

 安心した時。

 少し照れながら笑う顔。

 胸の奥が、急に重くなる。

(……あれ)

 朝、隠してたのって。

 あの弁当?

「成瀬?」

 教室の中にいた男子が湊に気づいた。

 陽菜乃が振り返る。

「湊!」

 ぱっと顔を明るくする。

 いつもなら、その顔を見ると嬉しくなる。

 でも今日は。

 湊の視線は、柊真のお弁当から離れなかった。

「どうしたの?」

 陽菜乃が近づいてくる。

「……別に」

「お昼?」

「うん」

「今日も一緒に食べる?」

「いや」

 思ったより冷たい声が出た。

 陽菜乃が少し驚いた顔をする。

「そっか……」

「それ」

 湊はお弁当を指した。

「陽菜乃が作ったの?」

「うん」

 悪気のない返事。

「昨日、料理の練習してね。柊真くんに味見してもらってるの」

「水野に?」

「うん」

「なんで水野?」

 思わず聞いていた。

 陽菜乃が目をぱちぱちさせる。

「この前、荷物運ぶの手伝ってくれたでしょう? いつも助けてもらってるし」

「……へえ」

「湊も食べる?」

 一瞬。

 期待してしまった。

 でも陽菜乃が続ける。

「まだ卵焼き一個残ってると思う」

 一個。

 残ってる。

 最初から自分のために作ったわけではない。

 柊真に作ったものの残り。

 そう考えた途端、素直に欲しいと言えなくなった。

「いらない」

「……そう?」

「俺、パンあるし」

「そっか」

 陽菜乃は少し残念そうに見えた。

 それでも湊は、

「じゃ」

 とだけ言って教室を出た。

     ◇

「成瀬、どうした?」

 教室へ戻った湊を見て、悠人が首をかしげる。

「別に」

「その『別に』、絶対別にじゃないやつ」

「うるさい」

 湊は自分の席に座り、パンの袋を開ける。

 一口食べる。

 味がしない。

「なんかあった?」

「……陽菜乃、水野に弁当作ってた」

「へえ」

 悠人が面白そうに笑う。

「いいじゃん」

「何が」

「水野、陽菜乃ちゃんに好かれてんじゃね?」

 湊の手が止まる。

「……は?」

「手作り弁当って結構特別じゃない?」

「お礼らしい」

「お前、それ本人に聞いた?」

「陽菜乃が言ってた」

「じゃあお礼じゃん」

「……」

「なのになんでそんな機嫌悪いの?」

 湊は答えなかった。

 自分でも分からない。

 いや。

 本当は分かり始めている。

 今まで陽菜乃が何か作れば、最初に自分へ見せてきた。

 学校で何かあれば、真っ先に自分へ話した。

 嬉しいことも。

 困ったことも。

 その『最初』が、少しずつ自分ではなくなっている。

 それが嫌だった。

「成瀬さ」

「何」

「それ嫉妬じゃね?」

「違う」

「即答」

「幼馴染だから気になるだけ」

「便利だな、幼馴染って言葉」

 悠人が笑う。

 湊はパンの袋を丸めた。

 心の中だけは、全然笑えなかった。


 放課後。

 陽菜乃はダンス部へ向かうため、廊下を歩いていた。

「陽菜乃」

 後ろから呼ばれる。

 振り返る。

「柊真くん」

 柊真が空になったお弁当箱を持っていた。

「これ」

「全部食べたの?」

「ああ」

「ほんと?」

 ふたを開けて確認する。

 本当に何も残っていない。

 陽菜乃は嬉しくなった。

「よかった」

「卵焼き、また作って」

「え?」

「うまかった」

「……うん!」

「そんな嬉しい?」

「だって初めてだったから」

 陽菜乃が笑う。

 柊真もつられて少し笑った。

「じゃあ今度は俺がなんか返す」

「いいよ。お礼のお礼になっちゃう」

「じゃあジュース」

「また?」

「陽菜乃、いちごミルク好きだろ」

「どうして知ってるの?」

「この前飲んでた」

 陽菜乃は目を丸くした。

 自分が柊真の好きなジュースを覚えていたように。

 柊真も覚えていた。

「……ありがとう」

「まだ買ってねえよ」

「でも、覚えててくれたから」

「そういうとこだよな」

「何が?」

「なんでもねえ」

 柊真が目をそらす。

 その時。

 窓の向こうから、サッカーボールを蹴る音が聞こえた。

 陽菜乃は反射的にグラウンドを見る。

 湊がいる。

 練習が始まったところらしい。

 その近くには、美羽。

 今日は髪を高い位置で結び、選手たちへ飲み物を配っている。

 陽菜乃の笑顔が少しだけ消えた。

「……また見てる」

 柊真の声。

「え?」

「成瀬」

「……見てないよ」

「今めちゃくちゃ見てたけど」

「ちょっとだけ」

「好きなの?」

「えっ!?」

 陽菜乃は思わず大きな声を出した。

 廊下にいた数人がこちらを見る。

 恥ずかしくなり、陽菜乃は声を小さくした。

「な、なんでそんなこと聞くの?」

「なんとなく」

「……」

「言いたくなきゃいいけど」

 柊真は軽く肩をすくめた。

 陽菜乃はすぐには答えられなかった。

 でも。

 否定もできなかった。

 窓の向こう。

 美羽が湊へタオルを渡している。

 湊が何かを言って、美羽が笑った。

 それだけで胸が痛い。

 やっぱり。

 好きだから。

「……ずっと」

 気づけば、小さな声がこぼれていた。

 柊真がこちらを見る。

「え?」

 陽菜乃は慌てて首を横に振る。

「なんでもない!」

 そのまま歩き出す。

「陽菜乃」

「部活遅れちゃうから!」

 逃げるように廊下を進んだ。

 柊真は追いかけなかった。

 ただ。

 陽菜乃が見ていた先へ、自分も視線を向けた。

 グラウンドにいる成瀬湊。

「……そっか」

 柊真は小さくつぶやいた。

 分かっていたはずなのに。

 本人の口から聞きかけると、思っていたより胸がざらつく。

 いつからなのか。

 まだ自分でもはっきりしない。

 ただ。

 陽菜乃が成瀬を見て寂しそうな顔をするたびに。

 笑わせたいと思う。

 困っていれば助けたいと思う。

 自分の作ったものを食べて嬉しそうに笑ってくれたことが、思っていた以上に嬉しかった。

 それはもう。

 ただ『放っておけない』だけではないのかもしれなかった。


 その日の帰り。

 サッカー部の練習を終えた湊は、校門の前でスマホを見た。

 陽菜乃からの連絡はない。

 いつもなら、

『今終わったよ』

 と送ってくる日もある。

「湊くん」

 美羽が後ろから走ってきた。

「まだ帰らないの?」

「……うん」

「誰か待ってる?」

「別に」

 そう答えてから。

 湊はスマホの画面を閉じた。

 遠くの体育館から、ダンス部の音楽が聞こえてくる。

 その中に陽菜乃がいる。

 でも。

 今日の昼。

 陽菜乃が一番嬉しそうに笑っていた相手は、自分ではなかった。

『柊真くんに味見してもらってるの』

 その言葉が、まだ頭に残っている。

 美羽が横から湊を見る。

「ねえ」

「何?」

「今日、機嫌悪くない?」

「普通」

「ほんと?」

「ほんと」

「じゃあ一緒に帰ろ」

「……駅までなら」

「やった」

 美羽が嬉しそうに笑う。

 二人で歩き出す。

 その少し後。

 ダンス部を終えた陽菜乃が校舎から出てきたことを、湊は知らなかった。

 陽菜乃は校門の向こうに、並んで歩く二人を見つけた。

「……湊」

 隣には美羽。

 楽しそうに話している。

 陽菜乃は追いかけなかった。

 そして湊も。

 後ろに陽菜乃がいるとは気づかない。

 美羽の隣を歩く湊を見て寂しくなる陽菜乃。

 柊真のお弁当を見て、胸が苦しくなった湊。

 二人とも同じように相手を想っているのに。

 相手の隣にいる別の誰かばかりが、目に入ってしまう。

 その日の帰り道。

 陽菜乃と湊は、久しぶりに別々の道を歩いた。