次の日の朝。
陽菜乃は、いつもより十五分も早く目を覚ました。
カーテンのすき間から入ってくる朝の光が、部屋の床を細長く照らしている。
ベッドの上で一度だけ伸びをして、それからすぐに起き上がった。
「……よし」
今日は寝坊できない。
机の上には、昨夜のうちに用意しておいた小さなランチクロスが置いてある。
淡い水色に、小さな白い花が散っているもの。
中に包むのは、いつもの自分のお弁当ではない。
柊真に渡すためのお弁当だ。
昨日、姉の結衣に教えてもらった卵焼き。
それに、朝早く起きて作った小さなおにぎりと、ウインナー。
形はお店のお弁当みたいにきれいではない。
でも、自分なりに一生懸命作った。
「陽菜乃ー。もう成瀬くん来てるわよー」
一階から母の声がする。
「えっ!」
陽菜乃は時計を見た。
「もうそんな時間!?」
慌ててお弁当を鞄に入れる。
教科書。
筆箱。
ダンス部のノート。
「忘れ物……ないよね?」
指で一つずつ確認してから、部屋を飛び出した。
「珍しい」
玄関を出ると、湊が門の前に立っていた。
「なにが?」
「今日は俺が呼んでから一分で出てきた」
「いつもそんなに遅くないもん」
「昨日は七分」
「それ、まだ覚えてるの?」
「記憶力いいから」
湊が笑う。
陽菜乃は少しむっとしながら、隣に並んだ。
朝の空気は少しだけ湿っていた。
六月が近づき、桜の木はすっかり緑色になっている。
通学路の家々の庭には、色とりどりの花が咲いていた。
「今日、荷物多くない?」
歩き始めてすぐ、湊が陽菜乃の鞄を見る。
「そう?」
「なんか膨らんでる」
「……気のせい」
「怪しい」
「怪しくないよ」
思わず鞄を反対側へ持ち替える。
その動きに、湊が眉を上げた。
「何隠してんの?」
「隠してない」
「じゃあ見せて」
「嫌」
「ほら、隠してる」
「もう!」
陽菜乃は少し早歩きになる。
まさか、
『柊真くんにお弁当を作ったの』
なんて言えるわけがない。
悪いことをしているわけではないのに、なぜか湊には知られたくなかった。
「転ぶぞ」
後ろから湊の声。
「転ばない!」
そう返した直後。
靴の先が道の小さな段差に引っかかった。
「きゃっ」
ぐらっと前に傾いた体を、すぐに腕をつかまれて戻される。
「……ほら」
「……」
「何?」
「何でもない」
恥ずかしくて顔を上げられない。
湊はあきれながらも、つかんでいた腕をゆっくり離した。
「ほんと危なっかしい」
「ちゃんと見てたもん」
「見てて転ぶほうが心配」
「……」
言い返せない。
陽菜乃が頬をふくらませると、湊が少し笑った。
こんな朝が、陽菜乃は好きだった。
いつもと同じ道。
いつもと同じ湊。
だからこそ、最近ときどき思う。
この時間にも、いつか終わりが来るのだろうか。
湊に彼女ができたら。
その彼女が美羽だったら。
毎朝、自分を迎えに来ることだって、きっとなくなる。
「……陽菜乃?」
「え?」
「またぼーっとしてる」
「考え事」
「何考えてた?」
「秘密」
「最近秘密多いな」
湊が不満そうに言う。
陽菜乃は小さく笑いながら、胸の中に浮かんだ寂しさを隠した。
四時間目が終わる少し前から、陽菜乃は落ち着かなかった。
時計を見る。
あと五分。
黒板へ視線を戻す。
また時計を見る。
「小宮山」
「は、はい!」
突然、先生に呼ばれて立ち上がる。
教室から小さな笑い声が起こった。
「そこまで元気よく返事しなくてもいいぞ」
「……すみません」
「四十五ページ、読んでくれ」
「はい」
教科書を持つ。
声に出して読みながらも、頭の半分では鞄の中のお弁当のことを考えていた。
(変じゃないかな)
(味、大丈夫かな)
(迷惑じゃないかな)
昨夜、柊真は「もらえるなら食う」と言っていた。
だから持ってきたのだけれど。
いざ渡すとなると恥ずかしい。
チャイムが鳴る。
「よし、ここまで」
先生が教室を出た瞬間、みんなが一斉に動き始めた。
「陽菜乃、お昼食べよ!」
美緒が振り返る。
「あ、うん。でもその前に……」
「その前に?」
陽菜乃は鞄を開けた。
水色のランチクロスに包まれた小さなお弁当を取り出す。
美緒の目が大きくなる。
「なにそれ」
「お弁当」
「見れば分かるよ。誰の?」
「……柊真くん」
「ええっ!?」
「しーっ!」
陽菜乃は慌てて美緒の口元へ指を当てた。
「声大きいよ!」
「だって! 陽菜乃が水野くんに手作り弁当!?」
「違うの、お礼と味見!」
「それを普通は手作り弁当って言うんだけど」
「そうじゃなくて……」
周りから見られている気がして、陽菜乃はますます恥ずかしくなる。
「いつも助けてもらってるでしょう? それで昨日、料理の話になって……」
「ふーん」
美緒がにやにやする。
「何その顔」
「別に」
「絶対何か考えてる」
その時。
「何騒いでんの」
机の横から低い声がした。
「わっ」
陽菜乃が振り返る。
柊真が立っていた。
「柊真くん」
「俺の名前聞こえたけど」
「……」
逃げられない。
陽菜乃は少しだけ迷ってから、両手でお弁当を持ち上げた。
「あのね」
「ん?」
「昨日言ってた……味見」
柊真の目が、お弁当に向く。
「これ、俺に?」
「うん」
急に恥ずかしくなって、陽菜乃は視線を落とした。
「卵焼き、ちょっと形悪いかもしれないけど……」
「陽菜乃が作った?」
「うん。ほとんど」
「ほとんど?」
「お姉ちゃんに少し教えてもらったの」
柊真はしばらく何も言わなかった。
陽菜乃は心配になって顔を上げる。
「……いらなかった?」
「なんでそうなるんだよ」
柊真はすぐにお弁当を受け取った。
「もらう」
「ほんと?」
「ああ」
「よかった」
陽菜乃の顔が自然にほころぶ。
それを見た柊真は、少しだけ目をそらした。
「……つーか」
「なに?」
「これ、お礼にしちゃ気合い入ってね?」
「えっ?」
「いや、なんでもねえ」
近くにいた男子が、すぐに気づいた。
「水野、それ何?」
「弁当」
「誰から?」
柊真が答える前に、男子の視線が陽菜乃へ動く。
「え、小宮山?」
「えっ」
「マジ? 手作り?」
「違うの!」
陽菜乃は慌てて両手を振った。
「この前のお礼で……」
「お礼で弁当作る?」
「水野、よかったなー!」
「うるせえ」
柊真は面倒そうに言う。
でも、お弁当は机の端ではなく、自分の目の前に大事そうに置いていた。
「食べていい?」
「う、うん」
柊真がランチクロスをほどく。
ふたを開ける。
陽菜乃の胸がどきどきした。
「……お」
「どう?」
「ちゃんと弁当」
「どういう意味?」
「もっとすごいの想像してた」
「もっとすごいって?」
「卵が黒焦げとか」
「ひどい!」
陽菜乃が頬をふくらませる。
柊真は笑いながら卵焼きを一つ口に入れた。
陽菜乃はじっと見つめる。
「……」
「……」
「どう?」
「まだ飲み込んでねえ」
「ご、ごめん」
数秒がものすごく長く感じる。
柊真がもう一度箸を動かした。
今度も卵焼き。
「おいしい?」
「うまい」
「ほんと!?」
陽菜乃の声が明るくなる。
「甘すぎなかった?」
「俺はこれくらい好き」
「よかったぁ……」
朝からずっと心配していたので、体の力が抜けた。
柊真が少し笑う。
「そんな心配だった?」
「初めてちゃんと作ったから」
「初めて?」
「うん」
その言葉を聞いた瞬間。
周りの男子がまた騒ぎ始める。
「水野、初めての手作り弁当もらってんじゃん!」
「完全に特別じゃん!」
「だから違うってば!」
陽菜乃の顔が真っ赤になる。
「みんな、からかわないで……」
困って小さくなる陽菜乃を見て、柊真が眉を寄せた。
「お前ら、そのへんにしろよ」
その一言で、男子たちは、
「はいはい」
と笑いながら離れていった。
陽菜乃はほっとする。
「柊真くん、ありがとう」
「それ、今日何回目?」
「まだ……三回くらい?」
「もう数えてんじゃん」
二人で笑った。
◇
その頃。
二年五組では。
「成瀬、陽菜乃ちゃんのクラス行かなくていいの?」
悠人に言われ、湊はパンの袋を開けながら顔を上げた。
「なんで?」
「いつも昼休み、一回は行ってんじゃん」
「毎日じゃない」
「今日は行かない?」
湊は少し迷った。
今朝、陽菜乃が何かを隠していたことが気になっていた。
鞄を見せろと言った時、明らかに慌てていた。
「……ちょっと行ってくる」
「やっぱ気になるんじゃん」
「うるさい」
湊はパンを机に置き、教室を出た。
二組まではそれほど遠くない。
いつも通り。
ただ陽菜乃の顔を見に行くだけ。
そう思っていた。
けれど。
二組の前まで来た時。
教室の中から聞こえた声に、足が止まった。
「水野、それ全部小宮山が作ったの?」
「そうらしい」
「いいなー!」
湊の眉が動く。
(作った?)
教室の中を見る。
すぐに陽菜乃を見つけた。
そして。
その向かいに座る柊真。
柊真の机には、小さなお弁当箱。
陽菜乃が、その前で嬉しそうに笑っている。
「ほんとにおいしい?」
「だからうまいって」
「よかった」
陽菜乃の顔。
湊がよく知っている笑い方だった。
嬉しい時。
安心した時。
少し照れながら笑う顔。
胸の奥が、急に重くなる。
(……あれ)
朝、隠してたのって。
あの弁当?
「成瀬?」
教室の中にいた男子が湊に気づいた。
陽菜乃が振り返る。
「湊!」
ぱっと顔を明るくする。
いつもなら、その顔を見ると嬉しくなる。
でも今日は。
湊の視線は、柊真のお弁当から離れなかった。
「どうしたの?」
陽菜乃が近づいてくる。
「……別に」
「お昼?」
「うん」
「今日も一緒に食べる?」
「いや」
思ったより冷たい声が出た。
陽菜乃が少し驚いた顔をする。
「そっか……」
「それ」
湊はお弁当を指した。
「陽菜乃が作ったの?」
「うん」
悪気のない返事。
「昨日、料理の練習してね。柊真くんに味見してもらってるの」
「水野に?」
「うん」
「なんで水野?」
思わず聞いていた。
陽菜乃が目をぱちぱちさせる。
「この前、荷物運ぶの手伝ってくれたでしょう? いつも助けてもらってるし」
「……へえ」
「湊も食べる?」
一瞬。
期待してしまった。
でも陽菜乃が続ける。
「まだ卵焼き一個残ってると思う」
一個。
残ってる。
最初から自分のために作ったわけではない。
柊真に作ったものの残り。
そう考えた途端、素直に欲しいと言えなくなった。
「いらない」
「……そう?」
「俺、パンあるし」
「そっか」
陽菜乃は少し残念そうに見えた。
それでも湊は、
「じゃ」
とだけ言って教室を出た。
◇
「成瀬、どうした?」
教室へ戻った湊を見て、悠人が首をかしげる。
「別に」
「その『別に』、絶対別にじゃないやつ」
「うるさい」
湊は自分の席に座り、パンの袋を開ける。
一口食べる。
味がしない。
「なんかあった?」
「……陽菜乃、水野に弁当作ってた」
「へえ」
悠人が面白そうに笑う。
「いいじゃん」
「何が」
「水野、陽菜乃ちゃんに好かれてんじゃね?」
湊の手が止まる。
「……は?」
「手作り弁当って結構特別じゃない?」
「お礼らしい」
「お前、それ本人に聞いた?」
「陽菜乃が言ってた」
「じゃあお礼じゃん」
「……」
「なのになんでそんな機嫌悪いの?」
湊は答えなかった。
自分でも分からない。
いや。
本当は分かり始めている。
今まで陽菜乃が何か作れば、最初に自分へ見せてきた。
学校で何かあれば、真っ先に自分へ話した。
嬉しいことも。
困ったことも。
その『最初』が、少しずつ自分ではなくなっている。
それが嫌だった。
「成瀬さ」
「何」
「それ嫉妬じゃね?」
「違う」
「即答」
「幼馴染だから気になるだけ」
「便利だな、幼馴染って言葉」
悠人が笑う。
湊はパンの袋を丸めた。
心の中だけは、全然笑えなかった。
放課後。
陽菜乃はダンス部へ向かうため、廊下を歩いていた。
「陽菜乃」
後ろから呼ばれる。
振り返る。
「柊真くん」
柊真が空になったお弁当箱を持っていた。
「これ」
「全部食べたの?」
「ああ」
「ほんと?」
ふたを開けて確認する。
本当に何も残っていない。
陽菜乃は嬉しくなった。
「よかった」
「卵焼き、また作って」
「え?」
「うまかった」
「……うん!」
「そんな嬉しい?」
「だって初めてだったから」
陽菜乃が笑う。
柊真もつられて少し笑った。
「じゃあ今度は俺がなんか返す」
「いいよ。お礼のお礼になっちゃう」
「じゃあジュース」
「また?」
「陽菜乃、いちごミルク好きだろ」
「どうして知ってるの?」
「この前飲んでた」
陽菜乃は目を丸くした。
自分が柊真の好きなジュースを覚えていたように。
柊真も覚えていた。
「……ありがとう」
「まだ買ってねえよ」
「でも、覚えててくれたから」
「そういうとこだよな」
「何が?」
「なんでもねえ」
柊真が目をそらす。
その時。
窓の向こうから、サッカーボールを蹴る音が聞こえた。
陽菜乃は反射的にグラウンドを見る。
湊がいる。
練習が始まったところらしい。
その近くには、美羽。
今日は髪を高い位置で結び、選手たちへ飲み物を配っている。
陽菜乃の笑顔が少しだけ消えた。
「……また見てる」
柊真の声。
「え?」
「成瀬」
「……見てないよ」
「今めちゃくちゃ見てたけど」
「ちょっとだけ」
「好きなの?」
「えっ!?」
陽菜乃は思わず大きな声を出した。
廊下にいた数人がこちらを見る。
恥ずかしくなり、陽菜乃は声を小さくした。
「な、なんでそんなこと聞くの?」
「なんとなく」
「……」
「言いたくなきゃいいけど」
柊真は軽く肩をすくめた。
陽菜乃はすぐには答えられなかった。
でも。
否定もできなかった。
窓の向こう。
美羽が湊へタオルを渡している。
湊が何かを言って、美羽が笑った。
それだけで胸が痛い。
やっぱり。
好きだから。
「……ずっと」
気づけば、小さな声がこぼれていた。
柊真がこちらを見る。
「え?」
陽菜乃は慌てて首を横に振る。
「なんでもない!」
そのまま歩き出す。
「陽菜乃」
「部活遅れちゃうから!」
逃げるように廊下を進んだ。
柊真は追いかけなかった。
ただ。
陽菜乃が見ていた先へ、自分も視線を向けた。
グラウンドにいる成瀬湊。
「……そっか」
柊真は小さくつぶやいた。
分かっていたはずなのに。
本人の口から聞きかけると、思っていたより胸がざらつく。
いつからなのか。
まだ自分でもはっきりしない。
ただ。
陽菜乃が成瀬を見て寂しそうな顔をするたびに。
笑わせたいと思う。
困っていれば助けたいと思う。
自分の作ったものを食べて嬉しそうに笑ってくれたことが、思っていた以上に嬉しかった。
それはもう。
ただ『放っておけない』だけではないのかもしれなかった。
その日の帰り。
サッカー部の練習を終えた湊は、校門の前でスマホを見た。
陽菜乃からの連絡はない。
いつもなら、
『今終わったよ』
と送ってくる日もある。
「湊くん」
美羽が後ろから走ってきた。
「まだ帰らないの?」
「……うん」
「誰か待ってる?」
「別に」
そう答えてから。
湊はスマホの画面を閉じた。
遠くの体育館から、ダンス部の音楽が聞こえてくる。
その中に陽菜乃がいる。
でも。
今日の昼。
陽菜乃が一番嬉しそうに笑っていた相手は、自分ではなかった。
『柊真くんに味見してもらってるの』
その言葉が、まだ頭に残っている。
美羽が横から湊を見る。
「ねえ」
「何?」
「今日、機嫌悪くない?」
「普通」
「ほんと?」
「ほんと」
「じゃあ一緒に帰ろ」
「……駅までなら」
「やった」
美羽が嬉しそうに笑う。
二人で歩き出す。
その少し後。
ダンス部を終えた陽菜乃が校舎から出てきたことを、湊は知らなかった。
陽菜乃は校門の向こうに、並んで歩く二人を見つけた。
「……湊」
隣には美羽。
楽しそうに話している。
陽菜乃は追いかけなかった。
そして湊も。
後ろに陽菜乃がいるとは気づかない。
美羽の隣を歩く湊を見て寂しくなる陽菜乃。
柊真のお弁当を見て、胸が苦しくなった湊。
二人とも同じように相手を想っているのに。
相手の隣にいる別の誰かばかりが、目に入ってしまう。
その日の帰り道。
陽菜乃と湊は、久しぶりに別々の道を歩いた。
陽菜乃は、いつもより十五分も早く目を覚ました。
カーテンのすき間から入ってくる朝の光が、部屋の床を細長く照らしている。
ベッドの上で一度だけ伸びをして、それからすぐに起き上がった。
「……よし」
今日は寝坊できない。
机の上には、昨夜のうちに用意しておいた小さなランチクロスが置いてある。
淡い水色に、小さな白い花が散っているもの。
中に包むのは、いつもの自分のお弁当ではない。
柊真に渡すためのお弁当だ。
昨日、姉の結衣に教えてもらった卵焼き。
それに、朝早く起きて作った小さなおにぎりと、ウインナー。
形はお店のお弁当みたいにきれいではない。
でも、自分なりに一生懸命作った。
「陽菜乃ー。もう成瀬くん来てるわよー」
一階から母の声がする。
「えっ!」
陽菜乃は時計を見た。
「もうそんな時間!?」
慌ててお弁当を鞄に入れる。
教科書。
筆箱。
ダンス部のノート。
「忘れ物……ないよね?」
指で一つずつ確認してから、部屋を飛び出した。
「珍しい」
玄関を出ると、湊が門の前に立っていた。
「なにが?」
「今日は俺が呼んでから一分で出てきた」
「いつもそんなに遅くないもん」
「昨日は七分」
「それ、まだ覚えてるの?」
「記憶力いいから」
湊が笑う。
陽菜乃は少しむっとしながら、隣に並んだ。
朝の空気は少しだけ湿っていた。
六月が近づき、桜の木はすっかり緑色になっている。
通学路の家々の庭には、色とりどりの花が咲いていた。
「今日、荷物多くない?」
歩き始めてすぐ、湊が陽菜乃の鞄を見る。
「そう?」
「なんか膨らんでる」
「……気のせい」
「怪しい」
「怪しくないよ」
思わず鞄を反対側へ持ち替える。
その動きに、湊が眉を上げた。
「何隠してんの?」
「隠してない」
「じゃあ見せて」
「嫌」
「ほら、隠してる」
「もう!」
陽菜乃は少し早歩きになる。
まさか、
『柊真くんにお弁当を作ったの』
なんて言えるわけがない。
悪いことをしているわけではないのに、なぜか湊には知られたくなかった。
「転ぶぞ」
後ろから湊の声。
「転ばない!」
そう返した直後。
靴の先が道の小さな段差に引っかかった。
「きゃっ」
ぐらっと前に傾いた体を、すぐに腕をつかまれて戻される。
「……ほら」
「……」
「何?」
「何でもない」
恥ずかしくて顔を上げられない。
湊はあきれながらも、つかんでいた腕をゆっくり離した。
「ほんと危なっかしい」
「ちゃんと見てたもん」
「見てて転ぶほうが心配」
「……」
言い返せない。
陽菜乃が頬をふくらませると、湊が少し笑った。
こんな朝が、陽菜乃は好きだった。
いつもと同じ道。
いつもと同じ湊。
だからこそ、最近ときどき思う。
この時間にも、いつか終わりが来るのだろうか。
湊に彼女ができたら。
その彼女が美羽だったら。
毎朝、自分を迎えに来ることだって、きっとなくなる。
「……陽菜乃?」
「え?」
「またぼーっとしてる」
「考え事」
「何考えてた?」
「秘密」
「最近秘密多いな」
湊が不満そうに言う。
陽菜乃は小さく笑いながら、胸の中に浮かんだ寂しさを隠した。
四時間目が終わる少し前から、陽菜乃は落ち着かなかった。
時計を見る。
あと五分。
黒板へ視線を戻す。
また時計を見る。
「小宮山」
「は、はい!」
突然、先生に呼ばれて立ち上がる。
教室から小さな笑い声が起こった。
「そこまで元気よく返事しなくてもいいぞ」
「……すみません」
「四十五ページ、読んでくれ」
「はい」
教科書を持つ。
声に出して読みながらも、頭の半分では鞄の中のお弁当のことを考えていた。
(変じゃないかな)
(味、大丈夫かな)
(迷惑じゃないかな)
昨夜、柊真は「もらえるなら食う」と言っていた。
だから持ってきたのだけれど。
いざ渡すとなると恥ずかしい。
チャイムが鳴る。
「よし、ここまで」
先生が教室を出た瞬間、みんなが一斉に動き始めた。
「陽菜乃、お昼食べよ!」
美緒が振り返る。
「あ、うん。でもその前に……」
「その前に?」
陽菜乃は鞄を開けた。
水色のランチクロスに包まれた小さなお弁当を取り出す。
美緒の目が大きくなる。
「なにそれ」
「お弁当」
「見れば分かるよ。誰の?」
「……柊真くん」
「ええっ!?」
「しーっ!」
陽菜乃は慌てて美緒の口元へ指を当てた。
「声大きいよ!」
「だって! 陽菜乃が水野くんに手作り弁当!?」
「違うの、お礼と味見!」
「それを普通は手作り弁当って言うんだけど」
「そうじゃなくて……」
周りから見られている気がして、陽菜乃はますます恥ずかしくなる。
「いつも助けてもらってるでしょう? それで昨日、料理の話になって……」
「ふーん」
美緒がにやにやする。
「何その顔」
「別に」
「絶対何か考えてる」
その時。
「何騒いでんの」
机の横から低い声がした。
「わっ」
陽菜乃が振り返る。
柊真が立っていた。
「柊真くん」
「俺の名前聞こえたけど」
「……」
逃げられない。
陽菜乃は少しだけ迷ってから、両手でお弁当を持ち上げた。
「あのね」
「ん?」
「昨日言ってた……味見」
柊真の目が、お弁当に向く。
「これ、俺に?」
「うん」
急に恥ずかしくなって、陽菜乃は視線を落とした。
「卵焼き、ちょっと形悪いかもしれないけど……」
「陽菜乃が作った?」
「うん。ほとんど」
「ほとんど?」
「お姉ちゃんに少し教えてもらったの」
柊真はしばらく何も言わなかった。
陽菜乃は心配になって顔を上げる。
「……いらなかった?」
「なんでそうなるんだよ」
柊真はすぐにお弁当を受け取った。
「もらう」
「ほんと?」
「ああ」
「よかった」
陽菜乃の顔が自然にほころぶ。
それを見た柊真は、少しだけ目をそらした。
「……つーか」
「なに?」
「これ、お礼にしちゃ気合い入ってね?」
「えっ?」
「いや、なんでもねえ」
近くにいた男子が、すぐに気づいた。
「水野、それ何?」
「弁当」
「誰から?」
柊真が答える前に、男子の視線が陽菜乃へ動く。
「え、小宮山?」
「えっ」
「マジ? 手作り?」
「違うの!」
陽菜乃は慌てて両手を振った。
「この前のお礼で……」
「お礼で弁当作る?」
「水野、よかったなー!」
「うるせえ」
柊真は面倒そうに言う。
でも、お弁当は机の端ではなく、自分の目の前に大事そうに置いていた。
「食べていい?」
「う、うん」
柊真がランチクロスをほどく。
ふたを開ける。
陽菜乃の胸がどきどきした。
「……お」
「どう?」
「ちゃんと弁当」
「どういう意味?」
「もっとすごいの想像してた」
「もっとすごいって?」
「卵が黒焦げとか」
「ひどい!」
陽菜乃が頬をふくらませる。
柊真は笑いながら卵焼きを一つ口に入れた。
陽菜乃はじっと見つめる。
「……」
「……」
「どう?」
「まだ飲み込んでねえ」
「ご、ごめん」
数秒がものすごく長く感じる。
柊真がもう一度箸を動かした。
今度も卵焼き。
「おいしい?」
「うまい」
「ほんと!?」
陽菜乃の声が明るくなる。
「甘すぎなかった?」
「俺はこれくらい好き」
「よかったぁ……」
朝からずっと心配していたので、体の力が抜けた。
柊真が少し笑う。
「そんな心配だった?」
「初めてちゃんと作ったから」
「初めて?」
「うん」
その言葉を聞いた瞬間。
周りの男子がまた騒ぎ始める。
「水野、初めての手作り弁当もらってんじゃん!」
「完全に特別じゃん!」
「だから違うってば!」
陽菜乃の顔が真っ赤になる。
「みんな、からかわないで……」
困って小さくなる陽菜乃を見て、柊真が眉を寄せた。
「お前ら、そのへんにしろよ」
その一言で、男子たちは、
「はいはい」
と笑いながら離れていった。
陽菜乃はほっとする。
「柊真くん、ありがとう」
「それ、今日何回目?」
「まだ……三回くらい?」
「もう数えてんじゃん」
二人で笑った。
◇
その頃。
二年五組では。
「成瀬、陽菜乃ちゃんのクラス行かなくていいの?」
悠人に言われ、湊はパンの袋を開けながら顔を上げた。
「なんで?」
「いつも昼休み、一回は行ってんじゃん」
「毎日じゃない」
「今日は行かない?」
湊は少し迷った。
今朝、陽菜乃が何かを隠していたことが気になっていた。
鞄を見せろと言った時、明らかに慌てていた。
「……ちょっと行ってくる」
「やっぱ気になるんじゃん」
「うるさい」
湊はパンを机に置き、教室を出た。
二組まではそれほど遠くない。
いつも通り。
ただ陽菜乃の顔を見に行くだけ。
そう思っていた。
けれど。
二組の前まで来た時。
教室の中から聞こえた声に、足が止まった。
「水野、それ全部小宮山が作ったの?」
「そうらしい」
「いいなー!」
湊の眉が動く。
(作った?)
教室の中を見る。
すぐに陽菜乃を見つけた。
そして。
その向かいに座る柊真。
柊真の机には、小さなお弁当箱。
陽菜乃が、その前で嬉しそうに笑っている。
「ほんとにおいしい?」
「だからうまいって」
「よかった」
陽菜乃の顔。
湊がよく知っている笑い方だった。
嬉しい時。
安心した時。
少し照れながら笑う顔。
胸の奥が、急に重くなる。
(……あれ)
朝、隠してたのって。
あの弁当?
「成瀬?」
教室の中にいた男子が湊に気づいた。
陽菜乃が振り返る。
「湊!」
ぱっと顔を明るくする。
いつもなら、その顔を見ると嬉しくなる。
でも今日は。
湊の視線は、柊真のお弁当から離れなかった。
「どうしたの?」
陽菜乃が近づいてくる。
「……別に」
「お昼?」
「うん」
「今日も一緒に食べる?」
「いや」
思ったより冷たい声が出た。
陽菜乃が少し驚いた顔をする。
「そっか……」
「それ」
湊はお弁当を指した。
「陽菜乃が作ったの?」
「うん」
悪気のない返事。
「昨日、料理の練習してね。柊真くんに味見してもらってるの」
「水野に?」
「うん」
「なんで水野?」
思わず聞いていた。
陽菜乃が目をぱちぱちさせる。
「この前、荷物運ぶの手伝ってくれたでしょう? いつも助けてもらってるし」
「……へえ」
「湊も食べる?」
一瞬。
期待してしまった。
でも陽菜乃が続ける。
「まだ卵焼き一個残ってると思う」
一個。
残ってる。
最初から自分のために作ったわけではない。
柊真に作ったものの残り。
そう考えた途端、素直に欲しいと言えなくなった。
「いらない」
「……そう?」
「俺、パンあるし」
「そっか」
陽菜乃は少し残念そうに見えた。
それでも湊は、
「じゃ」
とだけ言って教室を出た。
◇
「成瀬、どうした?」
教室へ戻った湊を見て、悠人が首をかしげる。
「別に」
「その『別に』、絶対別にじゃないやつ」
「うるさい」
湊は自分の席に座り、パンの袋を開ける。
一口食べる。
味がしない。
「なんかあった?」
「……陽菜乃、水野に弁当作ってた」
「へえ」
悠人が面白そうに笑う。
「いいじゃん」
「何が」
「水野、陽菜乃ちゃんに好かれてんじゃね?」
湊の手が止まる。
「……は?」
「手作り弁当って結構特別じゃない?」
「お礼らしい」
「お前、それ本人に聞いた?」
「陽菜乃が言ってた」
「じゃあお礼じゃん」
「……」
「なのになんでそんな機嫌悪いの?」
湊は答えなかった。
自分でも分からない。
いや。
本当は分かり始めている。
今まで陽菜乃が何か作れば、最初に自分へ見せてきた。
学校で何かあれば、真っ先に自分へ話した。
嬉しいことも。
困ったことも。
その『最初』が、少しずつ自分ではなくなっている。
それが嫌だった。
「成瀬さ」
「何」
「それ嫉妬じゃね?」
「違う」
「即答」
「幼馴染だから気になるだけ」
「便利だな、幼馴染って言葉」
悠人が笑う。
湊はパンの袋を丸めた。
心の中だけは、全然笑えなかった。
放課後。
陽菜乃はダンス部へ向かうため、廊下を歩いていた。
「陽菜乃」
後ろから呼ばれる。
振り返る。
「柊真くん」
柊真が空になったお弁当箱を持っていた。
「これ」
「全部食べたの?」
「ああ」
「ほんと?」
ふたを開けて確認する。
本当に何も残っていない。
陽菜乃は嬉しくなった。
「よかった」
「卵焼き、また作って」
「え?」
「うまかった」
「……うん!」
「そんな嬉しい?」
「だって初めてだったから」
陽菜乃が笑う。
柊真もつられて少し笑った。
「じゃあ今度は俺がなんか返す」
「いいよ。お礼のお礼になっちゃう」
「じゃあジュース」
「また?」
「陽菜乃、いちごミルク好きだろ」
「どうして知ってるの?」
「この前飲んでた」
陽菜乃は目を丸くした。
自分が柊真の好きなジュースを覚えていたように。
柊真も覚えていた。
「……ありがとう」
「まだ買ってねえよ」
「でも、覚えててくれたから」
「そういうとこだよな」
「何が?」
「なんでもねえ」
柊真が目をそらす。
その時。
窓の向こうから、サッカーボールを蹴る音が聞こえた。
陽菜乃は反射的にグラウンドを見る。
湊がいる。
練習が始まったところらしい。
その近くには、美羽。
今日は髪を高い位置で結び、選手たちへ飲み物を配っている。
陽菜乃の笑顔が少しだけ消えた。
「……また見てる」
柊真の声。
「え?」
「成瀬」
「……見てないよ」
「今めちゃくちゃ見てたけど」
「ちょっとだけ」
「好きなの?」
「えっ!?」
陽菜乃は思わず大きな声を出した。
廊下にいた数人がこちらを見る。
恥ずかしくなり、陽菜乃は声を小さくした。
「な、なんでそんなこと聞くの?」
「なんとなく」
「……」
「言いたくなきゃいいけど」
柊真は軽く肩をすくめた。
陽菜乃はすぐには答えられなかった。
でも。
否定もできなかった。
窓の向こう。
美羽が湊へタオルを渡している。
湊が何かを言って、美羽が笑った。
それだけで胸が痛い。
やっぱり。
好きだから。
「……ずっと」
気づけば、小さな声がこぼれていた。
柊真がこちらを見る。
「え?」
陽菜乃は慌てて首を横に振る。
「なんでもない!」
そのまま歩き出す。
「陽菜乃」
「部活遅れちゃうから!」
逃げるように廊下を進んだ。
柊真は追いかけなかった。
ただ。
陽菜乃が見ていた先へ、自分も視線を向けた。
グラウンドにいる成瀬湊。
「……そっか」
柊真は小さくつぶやいた。
分かっていたはずなのに。
本人の口から聞きかけると、思っていたより胸がざらつく。
いつからなのか。
まだ自分でもはっきりしない。
ただ。
陽菜乃が成瀬を見て寂しそうな顔をするたびに。
笑わせたいと思う。
困っていれば助けたいと思う。
自分の作ったものを食べて嬉しそうに笑ってくれたことが、思っていた以上に嬉しかった。
それはもう。
ただ『放っておけない』だけではないのかもしれなかった。
その日の帰り。
サッカー部の練習を終えた湊は、校門の前でスマホを見た。
陽菜乃からの連絡はない。
いつもなら、
『今終わったよ』
と送ってくる日もある。
「湊くん」
美羽が後ろから走ってきた。
「まだ帰らないの?」
「……うん」
「誰か待ってる?」
「別に」
そう答えてから。
湊はスマホの画面を閉じた。
遠くの体育館から、ダンス部の音楽が聞こえてくる。
その中に陽菜乃がいる。
でも。
今日の昼。
陽菜乃が一番嬉しそうに笑っていた相手は、自分ではなかった。
『柊真くんに味見してもらってるの』
その言葉が、まだ頭に残っている。
美羽が横から湊を見る。
「ねえ」
「何?」
「今日、機嫌悪くない?」
「普通」
「ほんと?」
「ほんと」
「じゃあ一緒に帰ろ」
「……駅までなら」
「やった」
美羽が嬉しそうに笑う。
二人で歩き出す。
その少し後。
ダンス部を終えた陽菜乃が校舎から出てきたことを、湊は知らなかった。
陽菜乃は校門の向こうに、並んで歩く二人を見つけた。
「……湊」
隣には美羽。
楽しそうに話している。
陽菜乃は追いかけなかった。
そして湊も。
後ろに陽菜乃がいるとは気づかない。
美羽の隣を歩く湊を見て寂しくなる陽菜乃。
柊真のお弁当を見て、胸が苦しくなった湊。
二人とも同じように相手を想っているのに。
相手の隣にいる別の誰かばかりが、目に入ってしまう。
その日の帰り道。
陽菜乃と湊は、久しぶりに別々の道を歩いた。

