ずっと隣にいた君が、遠くなった春

 体育祭が終わって一週間。

 学校は、いつもの時間を取り戻していた。

 校庭に並んでいたテントはなくなり、廊下を飾っていたクラスカラーの旗も片づけられている。

 窓の外では、初夏の風に木々の葉が揺れていた。

 もうすぐ六月。

 朝は少し暑いくらいなのに、日陰へ入るとまだ風が気持ちいい。

 そんな月曜日の朝。

「陽菜乃」

「……」

「陽菜乃?」

「えっ?」

 名前を呼ばれ、陽菜乃は慌てて顔を上げた。

 隣を歩いていた湊が、少しあきれた顔をしている。

「またぼーっとしてる」

「ご、ごめん」

「最近それ多くない?」

「そうかな……」

「多い」

 今日も湊は、いつものように家の前まで迎えに来てくれた。

 朝、一緒に学校へ向かう。

 小さい頃から変わらない日課。

 なのに最近は、同じ道を歩いていても、前とは少し違う気がした。

 会話が途切れるたびに、美羽の顔を思い出してしまう。

 体育祭の日。

 湊が足を痛めた時、誰より先に駆け寄った美羽。

 自分にはできなかったことを、迷うことなくしていた。

 その光景がまだ胸の奥に残っている。

「足……もう大丈夫?」

 陽菜乃はそっと聞いた。

「足?」

「体育祭でひねったところ」

「ああ。とっくに平気」

「そっか」

 よかった。

 本当はずっと気になっていた。

 けれど、聞くのが遅くなってしまった。

「陽菜乃」

「なに?」

「なんで体育祭の日、来なかったの?」

 胸がどきっとした。

「……え?」

「俺、足ひねった時」

 湊は前を見ながら言う。

「陽菜乃、近くにいただろ」

「見えてたの?」

「見えてた」

「……」

「いつもなら来るじゃん」

 責めているような言い方ではなかった。

 でも、少し寂しそうに聞こえた。

 陽菜乃はすぐに答えられない。

「だって……」

 美羽ちゃんがいたから。

 そう言いそうになって、飲み込んだ。

 そんなことを言ったら、自分が美羽に嫉妬していると気づかれてしまうかもしれない。

「大丈夫そうだったから」

「誰見てそう思ったの?」

「え?」

「……いや、いい」

 湊が少し早足になる。

「待って、湊」

 陽菜乃も急いで追いかけた。

 どうして急に機嫌が悪くなったのだろう。

 分からない。

 最近、湊の考えていることが前より分からなくなった。

 前なら、顔を見るだけでだいたい分かったのに。

 それも、美羽のせいなのだろうか。

 陽菜乃の知らない時間を、美羽はどんどん増やしている。

 それが少し怖かった。


 昼休み。

「陽菜乃、購買行かない?」

「行く!」

 美緒に誘われ、陽菜乃は財布を持って席を立った。

 今日のお弁当は少し小さかったので、パンを一つ買おうと思っていた。

 廊下へ出ると、窓から明るい光が差し込んでいる。

 昼休みの校内はにぎやかだ。

 購買へ向かう生徒。

 友達の教室へ遊びに行く生徒。

 階段の踊り場にも、楽しそうな声があふれている。

「メロンパン残ってるかな」

「陽菜乃、あれ好きだもんね」

「うん」

 二人で歩いていた時だった。

「あ」

 美緒が小さく声を上げた。

「どうしたの?」

「あそこ」

 美緒の視線を追う。

 五組の教室の前。

 陽菜乃の足が止まった。

 湊がいる。

 そして、その隣には美羽。

 美羽の手には、淡い水色のランチバッグがあった。

「湊くん」

 美羽が机の上に何かを置く。

「今日、お弁当作ってきたんだ」

 陽菜乃の胸がざわつく。

 通り過ぎればいいのに。

 なぜか動けない。

「弁当?」

「うん」

「なんで俺に?」

「作りすぎちゃったから」

 美羽は笑う。

 その声は明るくて、とても自然だった。

「サッカー部、午後もミーティングあるでしょ? ちゃんと食べたほうがいいよ」

「でも俺、パン買うつもりだったけど」

「じゃあパンは明日でいいじゃん」

 そのやり取りを聞いていた五組の男子が、すぐに騒ぎ出す。

「おい成瀬! 一ノ瀬の手作り!?」

「いいなー!」

「それ本命弁当じゃん!」

「ち、違うって!」

 美羽が笑いながら否定する。

 でも。

 本気で嫌そうではなかった。

「いやいや、成瀬だけだろ?」

「特別扱いじゃん!」

「やっぱお前ら付き合ってんの?」

 教室に笑い声が広がる。

 陽菜乃は、自分の指先が冷たくなるのを感じた。

「陽菜乃」

 美緒が小さく呼ぶ。

「行こう」

「……うん」

 陽菜乃は無理に笑った。

「パン売り切れちゃうもんね」

 湊には声をかけなかった。

 気づかれないように、静かにその場を離れる。

 階段を下りながら、美緒が心配そうに横を見る。

「大丈夫?」

「うん」

「またそれ言ってる」

「……」

「陽菜乃、本当は気になるんでしょ?」

 陽菜乃は階段の途中で足を止めた。

 少し開いた窓から、風が入ってくる。

 髪が頬にかかり、陽菜乃はそっと耳へかけた。

「美羽ちゃん……お弁当作れるんだね」

「見るところそこ?」

「だって、すごいなって」

 自分でも変なことを言っていると思う。

 本当は。

 美羽が湊のために作ったことが嫌だった。

 湊がそれを受け取ったことも。

 周りから「付き合っている」と言われていたことも。

 全部、胸が痛かった。

「私……お弁当なんて、湊に作ったことない」

 ぽつりと言う。

「小学生の遠足でおかず交換したくらい」

「じゃあ作れば?」

「え?」

「陽菜乃も成瀬くんに」

 陽菜乃は慌てて首を横に振った。

「無理だよ!」

「なんで?」

「だって、美羽ちゃんが作ってるのに」

「別に関係ないじゃん」

「関係あるよ……」

 もし湊と美羽が付き合っていたら。

 幼馴染だからといって、自分が手作りのお弁当を渡すなんて変だ。

 美羽だって嫌な気持ちになるかもしれない。

「やっぱり本人に聞いたほうがいいと思うけど」

 美緒が言う。

「付き合ってるかどうか」

「……怖い」

「陽菜乃」

「今のままなら、まだ……」

 陽菜乃はぎゅっと財布を握る。

「幼馴染でいられるから」

 本当のことを知って、今まで通りでいられなくなるほうが怖かった。


 放課後。

 ダンス部の練習が始まるまで少し時間があった。

 陽菜乃は教室で、ダンス部のノートを広げていた。

 次の発表で踊る曲の構成を書き込んでいたのだけれど、なかなか集中できない。

 書いた文字が少し曲がる。

「……だめだ」

 消しゴムを取ろうとして。

 ころん。

「あ」

 消しゴムが机から落ちた。

 拾おうと椅子を引いた瞬間。

「ほら」

 先に誰かが拾ってくれる。

 陽菜乃は顔を上げた。

「柊真くん」

 最近は水野くんではなく、自然に柊真くんと呼ぶようになっていた。

 本人が、

『水野って呼ばれると先生に怒られる時みたいで嫌だ』

 と言ったからだ。

「ありがと」

「今日元気なくね?」

「そんなことないよ」

「その返事する時、大体あるだろ」

「……」

 柊真は陽菜乃の前の席を引き、後ろ向きに座った。

「なんかあった?」

「別に……」

「成瀬?」

 ぎくっ。

「どうして湊なの?」

「分かりやすいから」

「みんなそれ言う……」

「じゃあ分かりやすいんだろ」

 陽菜乃はノートへ視線を落とす。

 柊真は無理に聞こうとはしなかった。

 少ししてから、陽菜乃の机の隅に置かれた小さな本へ目を向ける。

「料理?」

「え?」

 それは家庭科室から借りた、簡単なお弁当のおかずが載った本だった。

「あ……これは」

「弁当作るの?」

「ちょっと練習しようかなって」

「へえ」

 柊真がページをめくる。

「卵焼きとか?」

「うん。あと、おにぎりとか」

「簡単そうじゃん」

「簡単そうに見えるだけだよ。私、そんなに料理上手じゃないし」

「指切りそう」

「切らないよ」

「火傷しそう」

「しないもん」

「皿割りそう」

「もう!」

 陽菜乃がむっとすると、柊真が笑った。

「冗談」

「柊真くん、私を何だと思ってるの?」

「よく転ぶやつ」

「料理と関係ないよ」

「でも心配」

 その一言が、思っていたより優しかった。

 陽菜乃は少しだけ笑う。

「じゃあ、上手にできたら柊真くんにあげようかな」

「え?」

「味見してくれる?」

 ほんの軽い気持ちで言った。

 いつも助けてもらっているし。

 柊真なら、失敗しても笑って食べてくれそうだと思っただけ。

 でも。

 柊真は、しばらく何も言わなかった。

「柊真くん?」

「……それ、俺でいいの?」

「え?」

「いや」

 柊真は顔をそらした。

「もらえるなら食う」

「ほんと?」

「ああ」

「じゃあ練習する」

「無理すんなよ」

「頑張るもん」

 陽菜乃は少しだけ元気になった。

 そんな陽菜乃を見ながら、柊真はそっと目を細める。

 彼女が誰のために料理を覚えようとしているのか。

 なんとなく分かっていた。

 それでも。

 自分に「味見して」と言ってくれたことが、うれしかった。


 その日の夜。

「お姉ちゃん」

「なあに?」

 キッチンで冷蔵庫を開けていた姉の結衣が振り返る。

 大学生になった結衣は、高校生の陽菜乃より少し大人っぽい。

「卵焼きって……どうやったらきれいに作れるの?」

「突然どうしたの?」

「練習したくて」

 結衣の目が細くなる。

「誰に作るの?」

「えっ!?」

 陽菜乃の声が裏返った。

「べ、別に誰にも!」

「分かりやすい」

「お姉ちゃんまで!」

 最近、みんなに言われている気がする。

 結衣は楽しそうに笑いながら冷蔵庫から卵を取り出した。

「いいよ。教えてあげる」

「ほんと?」

「ただし、一回でうまくいくと思わないこと」

「そんなに難しいの?」

「陽菜乃の場合はね」

「どういう意味?」

「さあ?」

「もう!」

 二人で笑いながら、キッチンに立つ。

 卵を割る。

「殻入ってる」

「あっ」

「ほら」

「取るから!」

 砂糖を入れる。

「それ多くない?」

「甘いほうがおいしいかなって」

「湊くん、甘すぎる卵焼き苦手じゃなかった?」

 陽菜乃の手が止まった。

「……」

 結衣がにやっとする。

「やっぱり湊くん?」

「違うもん」

「じゃあ誰?」

「……柊真くん」

「柊真くん?」

 結衣の顔から笑いが消えた。

「男の子?」

「クラスメイト」

「へえ」

「いつも助けてもらってるから、味見してもらうだけ」

「湊くん、知ってる?」

「なんで湊に言うの?」

「別に」

 結衣は楽しそうに卵焼き器を差し出した。

「じゃあ頑張って」

「うん」

 陽菜乃は真剣な顔で卵液を流し込む。

 ジュウッ。

 小さな音と一緒に、甘い香りがキッチンへ広がる。

 最初は形が崩れた。

 二回目は焦げた。

 三回目。

 ようやく少しだけきれいに巻けた。

「できた!」

「お、上手」

 陽菜乃はうれしくなって笑った。

 その瞬間、頭に浮かんだ顔は――。

 なぜか柊真ではなく、湊だった。

(……湊にも、食べてもらいたいな)

 そう思ってしまう。

 でもすぐ。

 昼休みに見た美羽のお弁当を思い出した。

 胸が少しだけ痛くなる。

(美羽ちゃんがいるもんね)

 陽菜乃は完成した卵焼きを、小さな保存容器へ入れた。

 明日。

 柊真に持っていこう。

 そう決めた。

 それが、また新しい勘違いを生むことになるなんて。

 この時の陽菜乃は、まだ何も知らなかった。