体育祭当日の朝。
校庭には、赤、青、黄色、緑のクラスカラーの旗が並び、五月の風に大きくはためいていた。
いつもの学校なのに、今日はまるで別の場所みたいだ。
スピーカーから流れる明るい音楽。
テントの下で準備をする先生たち。
グラウンドを走り回る生徒たちの声。
陽菜乃は二年二組の応援席の前で、胸の前に両手を重ねた。
「……緊張する」
ダンス部として踊る時とは違う。
今日はクラスの体育祭係として、朝からみんなの前で動かなくてはいけない。
競技に出る人を確認したり、集合場所へ案内したり。
忘れ物がないか確かめたり。
いつもなら誰かについていく側の陽菜乃にとって、誰かをまとめる役は思っていた以上に大変だった。
「陽菜乃、またそれやってる」
「え?」
美緒に言われて自分の手を見る。
いつの間にか、体育着の袖口を指先でぎゅっと握っていた。
「緊張すると袖つかむよね」
「……癖なの」
「かわいいけど」
「美緒ちゃんまで言わないでよ」
陽菜乃が困っていると、
「おい、体育祭係」
後ろから聞き慣れてきた低い声。
振り返る。
柊真が、クラスカラーの青いはちまきを片手に立っていた。
制服の時よりも、体育着姿のほうが少しだけ近寄りやすく見える。
「水野くん」
「これ」
「え?」
「落としてた」
差し出されたのは、陽菜乃のはちまきだった。
「あっ……!」
頭に手をやる。
確かにない。
「いつの間に……」
「さっき走ってた時」
「ありがとう」
「今日だけで何回目になるか数えとこうかな」
「何を?」
「陽菜乃が『ありがとう』って言った回数」
「もう……」
陽菜乃が受け取ろうとすると、柊真は少しだけ手を引いた。
「待って」
「え?」
そのまま陽菜乃の前に立つ。
「結び方ゆるい」
「そうかな?」
「朝から三回くらい落とすぞ、それ」
「三回も?」
「お前ならありえる」
「失礼だよ」
そう言いながらも、陽菜乃はじっとしていた。
柊真は青いはちまきを陽菜乃の額に回し、後ろで結ぶ。
指が髪に触れる。
距離が近くなり、陽菜乃はなんとなく落ち着かなくなった。
「きつくない?」
「う、うん」
「じゃあこれでいい」
柊真が一歩離れる。
陽菜乃が後ろの結び目に触れてみると、今度はしっかりしていた。
「水野くん、こういうの上手なんだね」
「弟いるから」
「弟さん?」
「中一。あいつも何でも適当に結ぶ」
「じゃあ、いつもやってあげるの?」
「たまに」
想像してみる。
怖いと噂されている柊真が、家では弟のはちまきや靴ひもを結んでいる。
なんだか少しおかしくて、陽菜乃は笑った。
「何笑ってんの」
「水野くんって、お兄ちゃんなんだなって」
「悪い?」
「ううん。優しいお兄ちゃんなんだろうなって」
柊真が一瞬、黙った。
「……陽菜乃さ」
「なに?」
「そういうこと普通に言うのやめたほうがいい」
「どうして?」
「自分で考えろ」
「?」
意味が分からず首をかしげていると、美緒が少し離れたところでにやにやしている。
「美緒ちゃん?」
「なんでもないよー」
絶対に何かある顔だった。
午前十時。
開会式が終わり、競技が次々と始まった。
陽菜乃は体育祭係として忙しく走り回っていた。
「次、女子百メートルだよ!」
「二組の人、集合場所こっち!」
「ゼッケン忘れてない?」
いつもより大きな声を出さなくてはいけない。
最初は恥ずかしかったけれど、みんなが、
「陽菜乃、了解!」
「ありがとう!」
と返してくれると、少しずつ楽しくなってきた。
そして、午前最後の種目。
ダンス部による応援パフォーマンス。
「陽菜乃、そろそろ着替えるよ!」
「うん!」
美緒に呼ばれ、陽菜乃は体育館へ向かった。
ダンス部の衣装は、クラスカラーとは別に白を基調としたおそろいのTシャツとスカート。
髪を高めにまとめ、リボンをつける。
鏡の前で最後に確認すると、陽菜乃は胸の前で小さく拳を握った。
(大丈夫)
踊ることなら怖くない。
音楽が始まれば、いつものように体が動く。
「行こう!」
部長の声で、みんなが校庭へ出る。
歓声が聞こえた。
大勢の生徒や保護者。
その中に湊もいる。
そう思った瞬間、さっきまで平気だった胸が急にどきどきし始めた。
(湊、見てるかな)
探してはいけないと思ったのに、視線が勝手にサッカー部の男子が集まっているあたりへ向かう。
いた。
すぐに見つかった。
湊が友達の悠人と並んで立っている。
目が合った。
――ような気がした。
「陽菜乃!」
美緒の声。
「始まるよ!」
「あ、うん!」
陽菜乃は慌てて前を向いた。
音楽が流れる。
最初の一歩を踏み出した瞬間。
不思議なくらい、緊張が消えた。
右へ。
左へ。
大きく腕を伸ばす。
みんなと動きがそろう。
陽菜乃は自然に笑っていた。
教室では人前で話すだけでも緊張するのに、踊っている時は違う。
音に合わせて体を動かしていると、自分が少しだけ別の人になれたような気がする。
最後のポーズが決まる。
大きな拍手。
「ありがとうございました!」
頭を下げて顔を上げる。
その瞬間、また湊を探してしまった。
湊は――。
こちらを見ていた。
目が合う。
陽菜乃の胸がふわっと温かくなる。
湊が口元だけで笑い、親指を立てた。
(……見ててくれた)
それだけで、今日一番うれしいと思った。
「陽菜乃!」
応援席へ戻る途中、男子生徒に呼び止められた。
「え?」
同じ学年の男子が二人。
顔は知っているけれど、ほとんど話したことがない。
「さっきのダンス、すごかった!」
「めっちゃ上手だったよ!」
「あ、ありがとう……」
急に褒められ、陽菜乃の頬が熱くなる。
「小宮山ってダンス部だったんだな」
「う、うん」
「普段と全然違うからびっくりした」
「そうかな……」
「写真、一緒に撮ってもいい?」
「えっ?」
陽菜乃が困っていると、美緒が後ろから肩をたたいた。
「いいじゃん、陽菜乃。撮ってきなよ」
「でも……」
「記念だって」
断るほどのことでもない。
陽菜乃は男子たちの隣に立った。
写真を一枚。
「ありがとう!」
「う、うん」
二人が去ったあとも、陽菜乃は少し恥ずかしくて頬を押さえていた。
「陽菜乃って、自分がモテるの分かってないよね」
「え?」
「なんでもない」
美緒が笑う。
すると今度は別の声。
「陽菜乃」
振り返ると、柊真がスポーツドリンクを持っていた。
「水野くん」
「これ」
「私に?」
「暑いだろ」
「でも、水野くんのじゃないの?」
「自販機で二本買った」
「ありがとう」
陽菜乃は受け取り、冷たいペットボトルを頬に当てた。
「気持ちいい……」
「子どもか」
「だって暑いんだもん」
柊真が笑う。
「ダンス、よかった」
「ほんと?」
「ああ」
「見てたの?」
「係一緒なのに見ねえわけないだろ」
「……そっか」
陽菜乃は照れて笑った。
「ありがとう」
「ほら、また一回増えた」
「数えてたの?」
「今のところ九回」
「うそ!」
「うそ」
「もう!」
柊真の腕を軽くたたこうとした、その時だった。
少し離れた場所に、湊がいるのが見えた。
目が合う。
でも――。
さっきまで笑っていたはずの湊の顔が、なぜか少し不機嫌そうに見えた。
(……どうしたんだろう)
声をかけようと思った。
けれど、次の競技のアナウンスが流れる。
『続きまして、二年生による借り物競走です!』
「あっ」
陽菜乃は自分のゼッケンを見る。
「私、次だ」
「忘れてたの?」
「ちょっとだけ……」
「早く行け」
「うん!」
陽菜乃は集合場所へ走った。
借り物競走は、グラウンドの途中に置かれた箱から紙を一枚引き、そこに書かれた条件に合う人や物を連れてゴールする競技だ。
「位置について――」
陽菜乃はスタートラインに立った。
運動は嫌いではない。
ただ、足の速さには自信がない。
(転ばないようにしよう)
そこが一番大事だ。
「よーい!」
パンッ!
ピストルの音。
陽菜乃は一生懸命走った。
箱の前までたどり着き、紙を一枚取る。
開く。
「……え?」
そこに書いてあった文字を見て、陽菜乃は困った。
『頼りになる人』
(頼りになる人……)
真っ先に浮かんだ顔がある。
湊。
幼い頃から。
転んだ時も。
忘れ物をした時も。
困った時に、一番最初に頼ってきた人。
でも湊は別のクラスの応援席にいる。
しかも。
陽菜乃はふと、サッカー部のテントを見る。
湊の近くには美羽がいた。
何か話しながら、笑っている。
胸が小さく痛んだ。
「陽菜乃!」
別の方向から名前を呼ばれる。
柊真だった。
「何ぼーっとしてんの! 早くしろ!」
「あ……」
時間がない。
陽菜乃は思わず走った。
「水野くん!」
「何?」
「一緒に来て!」
「俺?」
「お願い!」
柊真の手をつかむ。
「ちょ、待てって!」
二人で走り出した。
柊真は陽菜乃よりずっと足が速い。
「陽菜乃、もっと走れる?」
「む、無理……!」
「じゃあ合わせる」
本当に速度を落としてくれる。
陽菜乃が少しよろけると、手を強く握って支えてくれた。
「前見ろ!」
「見てる!」
「見てねえから転びそうになるんだろ!」
二人でそのままゴール。
『二年二組、小宮山さんゴール!』
放送委員の声が響く。
『お題は――「頼りになる人」です!』
観客席から歓声が上がった。
「水野じゃん!」
「意外!」
「小宮山と水野、仲いいんだ!」
陽菜乃は一気に恥ずかしくなる。
「あ、あの……」
その時になって、自分がまだ柊真の手を握っていることに気づいた。
「ご、ごめん!」
慌てて離す。
「別に」
柊真は気にした様子もない。
「間に合ってよかったな」
「うん」
陽菜乃は笑った。
「水野くん、本当に頼りになるから」
「……」
「どうしたの?」
「いや」
柊真が少し顔をそむける。
「そういうの急に言うな」
「え?」
「なんでもねえ」
そのまま戻っていく。
陽菜乃は意味が分からず、その背中を見送った。
そして。
応援席へ向かおうとした時、湊の姿が目に入った。
湊はこちらを見ている。
でも、その顔は笑っていなかった。
「……成瀬」
湊の隣で、悠人が面白そうに声をかけた。
「何」
「顔怖いぞ」
「普通だけど」
「どこが」
悠人はさっきのゴール方向を見る。
「『頼りになる人』だってさ」
「聞こえてた」
「前なら絶対お前だったんじゃね?」
湊は返事をしなかった。
胸の奥に、変な重さが残っている。
陽菜乃が迷わず柊真のところへ走った。
手までつかんで。
そして。
『水野くん、本当に頼りになるから』
遠くて全部は聞こえなかったけれど、楽しそうに笑っていた。
「お前さ」
悠人が言う。
「陽菜乃、水野に取られても平気?」
「取られるって何だよ」
「そのまんま」
「陽菜乃は物じゃないだろ」
「そういう意味じゃなくて」
悠人は呆れたように息をつく。
「まあいいや」
湊は返事をしない。
ただ。
ひとつだけ認めたくないことがあった。
『頼りになる人』
その言葉を見た時。
陽菜乃が自分のところへ来るのではないかと、少し期待していた。
それが外れただけ。
そう思おうとした。
午後。
陽菜乃は二組の応援席で、美緒と一緒に次の競技を見ていた。
「借り物競走おもしろかったね」
「私は恥ずかしかったよ……」
「でも水野くん、うれしそうだった」
「そう?」
「陽菜乃、ほんと鈍い」
「何が?」
「なんでもない」
まただ。
最近、美緒はよくこういう言い方をする。
「次、美羽ちゃん出るみたい」
その名前に、陽菜乃の視線が自然とグラウンドへ向かった。
一ノ瀬美羽。
黄色いはちまきをつけ、スタートラインに立っている。
足も速そうだ。
ピストルの音が鳴る。
美羽は勢いよく走り、先頭に近い位置で紙を取った。
紙を開く。
そして。
迷うことなく、ある方向へ走り出した。
(……え)
向かった先には、湊がいた。
「湊くん!」
美羽が笑顔で手を伸ばす。
「俺?」
「早く!」
美羽が湊の手を取る。
二人で走る。
陽菜乃は、なぜか目をそらせなかった。
並んで走る二人。
どちらも運動神経がよくて、すぐにゴールする。
『お題は――』
放送委員が紙を受け取る。
『「かっこいい人」です!』
一気に校庭が沸いた。
「きゃー!」
「一ノ瀬、分かりやす!」
「成瀬じゃん!」
「やっぱり好きなんだ!」
笑い声と歓声。
美羽は照れたように笑っている。
湊は困ったような顔をしていた。
でも。
陽菜乃には、その二人がとてもお似合いに見えた。
「陽菜乃……」
美緒が隣から声をかける。
「大丈夫?」
「うん」
陽菜乃は笑った。
「競技だもん」
さっき湊が同じことを思ったとは知らない。
「『かっこいい人』なんだから、湊を選ぶの普通だよ」
「普通かな」
「だって……湊、かっこいいし」
口にすると少しだけ苦しくなった。
自分がずっと思っていること。
美羽も同じように思っている。
でも美羽は、それをみんなの前で表せる。
陽菜乃にはできない。
(美羽ちゃん、すごいな)
うらやましい。
自分もいつか。
湊を好きだと、堂々と言えるのだろうか。
でもその頃には。
もう美羽の隣にいるのかもしれない。
そう思うと、胸がまた痛んだ。
体育祭最後のクラス対抗リレー。
湊はアンカーだった。
陽菜乃は応援席の前まで出て、走者たちを見つめる。
「湊、頑張って……」
思わず小さくつぶやく。
サッカー部で毎日走っているだけあって、湊は速い。
前の走者からバトンを受け取る。
三位。
そこから一人抜く。
「成瀬、行けー!」
「湊ー!」
あちこちから声が飛ぶ。
あと半周。
もう一人に追いつきそうになった、その時。
「あっ」
湊の体が少し傾いた。
足がもつれる。
陽菜乃は反射的に立ち上がった。
「湊!」
転ぶことはなかった。
けれど湊は少し顔をしかめながら、そのまま走りきった。
二位。
大きな拍手が起こる。
陽菜乃はそんなことより、足のほうが気になった。
「美緒ちゃん、私ちょっと行ってくる」
「うん!」
応援席を飛び出す。
湊のところへ。
でも。
陽菜乃が数歩走ったところで、先に美羽が駆け寄った。
「湊くん!」
美羽はマネージャー用の救急バッグを持っている。
「大丈夫!?」
「ちょっとひねっただけ」
「座って。見せて」
湊をベンチへ座らせ、美羽がしゃがむ。
足首を確認し、すぐに冷却材を取り出す。
慣れた手つき。
陽菜乃は、その少し離れた場所で立ち止まった。
自分の手を見る。
何も持っていない。
怪我の手当てもできない。
何をすればいいのかも分からない。
美羽ならできる。
湊が大好きなサッカーのそばにいて。
怪我をした時も、すぐに助けられる。
(……私が行っても、邪魔だよね)
陽菜乃は握っていた手をゆっくり開いた。
「陽菜乃?」
美緒が追いついてくる。
「行かないの?」
「……大丈夫みたい」
陽菜乃は笑う。
「美羽ちゃんがいるから」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
「戻ろう」
踵を返す。
本当は。
ただ一言。
『大丈夫?』
と聞きたかった。
でも、美羽の隣へ入る勇気がなかった。
「痛くない?」
「大丈夫だって」
「でもちゃんと冷やして」
「分かった」
美羽に冷却材を渡されながら、湊は何度も周囲へ視線を向けていた。
「どうしたの?」
美羽が尋ねる。
「いや……」
確かに聞こえた。
走っている途中。
『湊!』
陽菜乃の声。
だから、来ると思った。
昔からそうだった。
小学生の頃、サッカーで転べば一番に駆け寄ってきた。
『大丈夫?』
と泣きそうな顔をして。
高校生になった今でも。
少しは心配してくれると思っていた。
「小宮山さんなら、さっきあっちにいたよ」
美羽が言う。
「……見た?」
「うん」
「帰った?」
「応援席に戻ったんじゃない?」
「そっか」
胸が少し沈む。
その時。
遠くの二組の応援席に陽菜乃を見つけた。
そしてその近くには、柊真がいる。
何かを話している。
陽菜乃が笑った。
湊は視線をそらした。
(……水野のほうがいいのかよ)
そんなことを考えた自分に、さらに腹が立つ。
誰といるかは陽菜乃の自由だ。
自分はただの幼馴染。
口を出す理由なんてない。
なのに。
体育祭が始まる前よりも。
二人の間に少しだけ距離ができたような気がした。
陽菜乃は、美羽が湊の隣にいるから近づけない。
湊は、柊真が陽菜乃の隣にいるから近づけない。
お互いに相手を見ているのに。
その視線が何を意味しているのかだけは――。
二人とも、まだ知らなかった。
校庭には、赤、青、黄色、緑のクラスカラーの旗が並び、五月の風に大きくはためいていた。
いつもの学校なのに、今日はまるで別の場所みたいだ。
スピーカーから流れる明るい音楽。
テントの下で準備をする先生たち。
グラウンドを走り回る生徒たちの声。
陽菜乃は二年二組の応援席の前で、胸の前に両手を重ねた。
「……緊張する」
ダンス部として踊る時とは違う。
今日はクラスの体育祭係として、朝からみんなの前で動かなくてはいけない。
競技に出る人を確認したり、集合場所へ案内したり。
忘れ物がないか確かめたり。
いつもなら誰かについていく側の陽菜乃にとって、誰かをまとめる役は思っていた以上に大変だった。
「陽菜乃、またそれやってる」
「え?」
美緒に言われて自分の手を見る。
いつの間にか、体育着の袖口を指先でぎゅっと握っていた。
「緊張すると袖つかむよね」
「……癖なの」
「かわいいけど」
「美緒ちゃんまで言わないでよ」
陽菜乃が困っていると、
「おい、体育祭係」
後ろから聞き慣れてきた低い声。
振り返る。
柊真が、クラスカラーの青いはちまきを片手に立っていた。
制服の時よりも、体育着姿のほうが少しだけ近寄りやすく見える。
「水野くん」
「これ」
「え?」
「落としてた」
差し出されたのは、陽菜乃のはちまきだった。
「あっ……!」
頭に手をやる。
確かにない。
「いつの間に……」
「さっき走ってた時」
「ありがとう」
「今日だけで何回目になるか数えとこうかな」
「何を?」
「陽菜乃が『ありがとう』って言った回数」
「もう……」
陽菜乃が受け取ろうとすると、柊真は少しだけ手を引いた。
「待って」
「え?」
そのまま陽菜乃の前に立つ。
「結び方ゆるい」
「そうかな?」
「朝から三回くらい落とすぞ、それ」
「三回も?」
「お前ならありえる」
「失礼だよ」
そう言いながらも、陽菜乃はじっとしていた。
柊真は青いはちまきを陽菜乃の額に回し、後ろで結ぶ。
指が髪に触れる。
距離が近くなり、陽菜乃はなんとなく落ち着かなくなった。
「きつくない?」
「う、うん」
「じゃあこれでいい」
柊真が一歩離れる。
陽菜乃が後ろの結び目に触れてみると、今度はしっかりしていた。
「水野くん、こういうの上手なんだね」
「弟いるから」
「弟さん?」
「中一。あいつも何でも適当に結ぶ」
「じゃあ、いつもやってあげるの?」
「たまに」
想像してみる。
怖いと噂されている柊真が、家では弟のはちまきや靴ひもを結んでいる。
なんだか少しおかしくて、陽菜乃は笑った。
「何笑ってんの」
「水野くんって、お兄ちゃんなんだなって」
「悪い?」
「ううん。優しいお兄ちゃんなんだろうなって」
柊真が一瞬、黙った。
「……陽菜乃さ」
「なに?」
「そういうこと普通に言うのやめたほうがいい」
「どうして?」
「自分で考えろ」
「?」
意味が分からず首をかしげていると、美緒が少し離れたところでにやにやしている。
「美緒ちゃん?」
「なんでもないよー」
絶対に何かある顔だった。
午前十時。
開会式が終わり、競技が次々と始まった。
陽菜乃は体育祭係として忙しく走り回っていた。
「次、女子百メートルだよ!」
「二組の人、集合場所こっち!」
「ゼッケン忘れてない?」
いつもより大きな声を出さなくてはいけない。
最初は恥ずかしかったけれど、みんなが、
「陽菜乃、了解!」
「ありがとう!」
と返してくれると、少しずつ楽しくなってきた。
そして、午前最後の種目。
ダンス部による応援パフォーマンス。
「陽菜乃、そろそろ着替えるよ!」
「うん!」
美緒に呼ばれ、陽菜乃は体育館へ向かった。
ダンス部の衣装は、クラスカラーとは別に白を基調としたおそろいのTシャツとスカート。
髪を高めにまとめ、リボンをつける。
鏡の前で最後に確認すると、陽菜乃は胸の前で小さく拳を握った。
(大丈夫)
踊ることなら怖くない。
音楽が始まれば、いつものように体が動く。
「行こう!」
部長の声で、みんなが校庭へ出る。
歓声が聞こえた。
大勢の生徒や保護者。
その中に湊もいる。
そう思った瞬間、さっきまで平気だった胸が急にどきどきし始めた。
(湊、見てるかな)
探してはいけないと思ったのに、視線が勝手にサッカー部の男子が集まっているあたりへ向かう。
いた。
すぐに見つかった。
湊が友達の悠人と並んで立っている。
目が合った。
――ような気がした。
「陽菜乃!」
美緒の声。
「始まるよ!」
「あ、うん!」
陽菜乃は慌てて前を向いた。
音楽が流れる。
最初の一歩を踏み出した瞬間。
不思議なくらい、緊張が消えた。
右へ。
左へ。
大きく腕を伸ばす。
みんなと動きがそろう。
陽菜乃は自然に笑っていた。
教室では人前で話すだけでも緊張するのに、踊っている時は違う。
音に合わせて体を動かしていると、自分が少しだけ別の人になれたような気がする。
最後のポーズが決まる。
大きな拍手。
「ありがとうございました!」
頭を下げて顔を上げる。
その瞬間、また湊を探してしまった。
湊は――。
こちらを見ていた。
目が合う。
陽菜乃の胸がふわっと温かくなる。
湊が口元だけで笑い、親指を立てた。
(……見ててくれた)
それだけで、今日一番うれしいと思った。
「陽菜乃!」
応援席へ戻る途中、男子生徒に呼び止められた。
「え?」
同じ学年の男子が二人。
顔は知っているけれど、ほとんど話したことがない。
「さっきのダンス、すごかった!」
「めっちゃ上手だったよ!」
「あ、ありがとう……」
急に褒められ、陽菜乃の頬が熱くなる。
「小宮山ってダンス部だったんだな」
「う、うん」
「普段と全然違うからびっくりした」
「そうかな……」
「写真、一緒に撮ってもいい?」
「えっ?」
陽菜乃が困っていると、美緒が後ろから肩をたたいた。
「いいじゃん、陽菜乃。撮ってきなよ」
「でも……」
「記念だって」
断るほどのことでもない。
陽菜乃は男子たちの隣に立った。
写真を一枚。
「ありがとう!」
「う、うん」
二人が去ったあとも、陽菜乃は少し恥ずかしくて頬を押さえていた。
「陽菜乃って、自分がモテるの分かってないよね」
「え?」
「なんでもない」
美緒が笑う。
すると今度は別の声。
「陽菜乃」
振り返ると、柊真がスポーツドリンクを持っていた。
「水野くん」
「これ」
「私に?」
「暑いだろ」
「でも、水野くんのじゃないの?」
「自販機で二本買った」
「ありがとう」
陽菜乃は受け取り、冷たいペットボトルを頬に当てた。
「気持ちいい……」
「子どもか」
「だって暑いんだもん」
柊真が笑う。
「ダンス、よかった」
「ほんと?」
「ああ」
「見てたの?」
「係一緒なのに見ねえわけないだろ」
「……そっか」
陽菜乃は照れて笑った。
「ありがとう」
「ほら、また一回増えた」
「数えてたの?」
「今のところ九回」
「うそ!」
「うそ」
「もう!」
柊真の腕を軽くたたこうとした、その時だった。
少し離れた場所に、湊がいるのが見えた。
目が合う。
でも――。
さっきまで笑っていたはずの湊の顔が、なぜか少し不機嫌そうに見えた。
(……どうしたんだろう)
声をかけようと思った。
けれど、次の競技のアナウンスが流れる。
『続きまして、二年生による借り物競走です!』
「あっ」
陽菜乃は自分のゼッケンを見る。
「私、次だ」
「忘れてたの?」
「ちょっとだけ……」
「早く行け」
「うん!」
陽菜乃は集合場所へ走った。
借り物競走は、グラウンドの途中に置かれた箱から紙を一枚引き、そこに書かれた条件に合う人や物を連れてゴールする競技だ。
「位置について――」
陽菜乃はスタートラインに立った。
運動は嫌いではない。
ただ、足の速さには自信がない。
(転ばないようにしよう)
そこが一番大事だ。
「よーい!」
パンッ!
ピストルの音。
陽菜乃は一生懸命走った。
箱の前までたどり着き、紙を一枚取る。
開く。
「……え?」
そこに書いてあった文字を見て、陽菜乃は困った。
『頼りになる人』
(頼りになる人……)
真っ先に浮かんだ顔がある。
湊。
幼い頃から。
転んだ時も。
忘れ物をした時も。
困った時に、一番最初に頼ってきた人。
でも湊は別のクラスの応援席にいる。
しかも。
陽菜乃はふと、サッカー部のテントを見る。
湊の近くには美羽がいた。
何か話しながら、笑っている。
胸が小さく痛んだ。
「陽菜乃!」
別の方向から名前を呼ばれる。
柊真だった。
「何ぼーっとしてんの! 早くしろ!」
「あ……」
時間がない。
陽菜乃は思わず走った。
「水野くん!」
「何?」
「一緒に来て!」
「俺?」
「お願い!」
柊真の手をつかむ。
「ちょ、待てって!」
二人で走り出した。
柊真は陽菜乃よりずっと足が速い。
「陽菜乃、もっと走れる?」
「む、無理……!」
「じゃあ合わせる」
本当に速度を落としてくれる。
陽菜乃が少しよろけると、手を強く握って支えてくれた。
「前見ろ!」
「見てる!」
「見てねえから転びそうになるんだろ!」
二人でそのままゴール。
『二年二組、小宮山さんゴール!』
放送委員の声が響く。
『お題は――「頼りになる人」です!』
観客席から歓声が上がった。
「水野じゃん!」
「意外!」
「小宮山と水野、仲いいんだ!」
陽菜乃は一気に恥ずかしくなる。
「あ、あの……」
その時になって、自分がまだ柊真の手を握っていることに気づいた。
「ご、ごめん!」
慌てて離す。
「別に」
柊真は気にした様子もない。
「間に合ってよかったな」
「うん」
陽菜乃は笑った。
「水野くん、本当に頼りになるから」
「……」
「どうしたの?」
「いや」
柊真が少し顔をそむける。
「そういうの急に言うな」
「え?」
「なんでもねえ」
そのまま戻っていく。
陽菜乃は意味が分からず、その背中を見送った。
そして。
応援席へ向かおうとした時、湊の姿が目に入った。
湊はこちらを見ている。
でも、その顔は笑っていなかった。
「……成瀬」
湊の隣で、悠人が面白そうに声をかけた。
「何」
「顔怖いぞ」
「普通だけど」
「どこが」
悠人はさっきのゴール方向を見る。
「『頼りになる人』だってさ」
「聞こえてた」
「前なら絶対お前だったんじゃね?」
湊は返事をしなかった。
胸の奥に、変な重さが残っている。
陽菜乃が迷わず柊真のところへ走った。
手までつかんで。
そして。
『水野くん、本当に頼りになるから』
遠くて全部は聞こえなかったけれど、楽しそうに笑っていた。
「お前さ」
悠人が言う。
「陽菜乃、水野に取られても平気?」
「取られるって何だよ」
「そのまんま」
「陽菜乃は物じゃないだろ」
「そういう意味じゃなくて」
悠人は呆れたように息をつく。
「まあいいや」
湊は返事をしない。
ただ。
ひとつだけ認めたくないことがあった。
『頼りになる人』
その言葉を見た時。
陽菜乃が自分のところへ来るのではないかと、少し期待していた。
それが外れただけ。
そう思おうとした。
午後。
陽菜乃は二組の応援席で、美緒と一緒に次の競技を見ていた。
「借り物競走おもしろかったね」
「私は恥ずかしかったよ……」
「でも水野くん、うれしそうだった」
「そう?」
「陽菜乃、ほんと鈍い」
「何が?」
「なんでもない」
まただ。
最近、美緒はよくこういう言い方をする。
「次、美羽ちゃん出るみたい」
その名前に、陽菜乃の視線が自然とグラウンドへ向かった。
一ノ瀬美羽。
黄色いはちまきをつけ、スタートラインに立っている。
足も速そうだ。
ピストルの音が鳴る。
美羽は勢いよく走り、先頭に近い位置で紙を取った。
紙を開く。
そして。
迷うことなく、ある方向へ走り出した。
(……え)
向かった先には、湊がいた。
「湊くん!」
美羽が笑顔で手を伸ばす。
「俺?」
「早く!」
美羽が湊の手を取る。
二人で走る。
陽菜乃は、なぜか目をそらせなかった。
並んで走る二人。
どちらも運動神経がよくて、すぐにゴールする。
『お題は――』
放送委員が紙を受け取る。
『「かっこいい人」です!』
一気に校庭が沸いた。
「きゃー!」
「一ノ瀬、分かりやす!」
「成瀬じゃん!」
「やっぱり好きなんだ!」
笑い声と歓声。
美羽は照れたように笑っている。
湊は困ったような顔をしていた。
でも。
陽菜乃には、その二人がとてもお似合いに見えた。
「陽菜乃……」
美緒が隣から声をかける。
「大丈夫?」
「うん」
陽菜乃は笑った。
「競技だもん」
さっき湊が同じことを思ったとは知らない。
「『かっこいい人』なんだから、湊を選ぶの普通だよ」
「普通かな」
「だって……湊、かっこいいし」
口にすると少しだけ苦しくなった。
自分がずっと思っていること。
美羽も同じように思っている。
でも美羽は、それをみんなの前で表せる。
陽菜乃にはできない。
(美羽ちゃん、すごいな)
うらやましい。
自分もいつか。
湊を好きだと、堂々と言えるのだろうか。
でもその頃には。
もう美羽の隣にいるのかもしれない。
そう思うと、胸がまた痛んだ。
体育祭最後のクラス対抗リレー。
湊はアンカーだった。
陽菜乃は応援席の前まで出て、走者たちを見つめる。
「湊、頑張って……」
思わず小さくつぶやく。
サッカー部で毎日走っているだけあって、湊は速い。
前の走者からバトンを受け取る。
三位。
そこから一人抜く。
「成瀬、行けー!」
「湊ー!」
あちこちから声が飛ぶ。
あと半周。
もう一人に追いつきそうになった、その時。
「あっ」
湊の体が少し傾いた。
足がもつれる。
陽菜乃は反射的に立ち上がった。
「湊!」
転ぶことはなかった。
けれど湊は少し顔をしかめながら、そのまま走りきった。
二位。
大きな拍手が起こる。
陽菜乃はそんなことより、足のほうが気になった。
「美緒ちゃん、私ちょっと行ってくる」
「うん!」
応援席を飛び出す。
湊のところへ。
でも。
陽菜乃が数歩走ったところで、先に美羽が駆け寄った。
「湊くん!」
美羽はマネージャー用の救急バッグを持っている。
「大丈夫!?」
「ちょっとひねっただけ」
「座って。見せて」
湊をベンチへ座らせ、美羽がしゃがむ。
足首を確認し、すぐに冷却材を取り出す。
慣れた手つき。
陽菜乃は、その少し離れた場所で立ち止まった。
自分の手を見る。
何も持っていない。
怪我の手当てもできない。
何をすればいいのかも分からない。
美羽ならできる。
湊が大好きなサッカーのそばにいて。
怪我をした時も、すぐに助けられる。
(……私が行っても、邪魔だよね)
陽菜乃は握っていた手をゆっくり開いた。
「陽菜乃?」
美緒が追いついてくる。
「行かないの?」
「……大丈夫みたい」
陽菜乃は笑う。
「美羽ちゃんがいるから」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
「戻ろう」
踵を返す。
本当は。
ただ一言。
『大丈夫?』
と聞きたかった。
でも、美羽の隣へ入る勇気がなかった。
「痛くない?」
「大丈夫だって」
「でもちゃんと冷やして」
「分かった」
美羽に冷却材を渡されながら、湊は何度も周囲へ視線を向けていた。
「どうしたの?」
美羽が尋ねる。
「いや……」
確かに聞こえた。
走っている途中。
『湊!』
陽菜乃の声。
だから、来ると思った。
昔からそうだった。
小学生の頃、サッカーで転べば一番に駆け寄ってきた。
『大丈夫?』
と泣きそうな顔をして。
高校生になった今でも。
少しは心配してくれると思っていた。
「小宮山さんなら、さっきあっちにいたよ」
美羽が言う。
「……見た?」
「うん」
「帰った?」
「応援席に戻ったんじゃない?」
「そっか」
胸が少し沈む。
その時。
遠くの二組の応援席に陽菜乃を見つけた。
そしてその近くには、柊真がいる。
何かを話している。
陽菜乃が笑った。
湊は視線をそらした。
(……水野のほうがいいのかよ)
そんなことを考えた自分に、さらに腹が立つ。
誰といるかは陽菜乃の自由だ。
自分はただの幼馴染。
口を出す理由なんてない。
なのに。
体育祭が始まる前よりも。
二人の間に少しだけ距離ができたような気がした。
陽菜乃は、美羽が湊の隣にいるから近づけない。
湊は、柊真が陽菜乃の隣にいるから近づけない。
お互いに相手を見ているのに。
その視線が何を意味しているのかだけは――。
二人とも、まだ知らなかった。

