ずっと隣にいた君が、遠くなった春

 体育祭当日の朝。

 校庭には、赤、青、黄色、緑のクラスカラーの旗が並び、五月の風に大きくはためいていた。

 いつもの学校なのに、今日はまるで別の場所みたいだ。

 スピーカーから流れる明るい音楽。

 テントの下で準備をする先生たち。

 グラウンドを走り回る生徒たちの声。

 陽菜乃は二年二組の応援席の前で、胸の前に両手を重ねた。

「……緊張する」

 ダンス部として踊る時とは違う。

 今日はクラスの体育祭係として、朝からみんなの前で動かなくてはいけない。

 競技に出る人を確認したり、集合場所へ案内したり。

 忘れ物がないか確かめたり。

 いつもなら誰かについていく側の陽菜乃にとって、誰かをまとめる役は思っていた以上に大変だった。

「陽菜乃、またそれやってる」

「え?」

 美緒に言われて自分の手を見る。

 いつの間にか、体育着の袖口を指先でぎゅっと握っていた。

「緊張すると袖つかむよね」

「……癖なの」

「かわいいけど」

「美緒ちゃんまで言わないでよ」

 陽菜乃が困っていると、

「おい、体育祭係」

 後ろから聞き慣れてきた低い声。

 振り返る。

 柊真が、クラスカラーの青いはちまきを片手に立っていた。

 制服の時よりも、体育着姿のほうが少しだけ近寄りやすく見える。

「水野くん」

「これ」

「え?」

「落としてた」

 差し出されたのは、陽菜乃のはちまきだった。

「あっ……!」

 頭に手をやる。

 確かにない。

「いつの間に……」

「さっき走ってた時」

「ありがとう」

「今日だけで何回目になるか数えとこうかな」

「何を?」

「陽菜乃が『ありがとう』って言った回数」

「もう……」

 陽菜乃が受け取ろうとすると、柊真は少しだけ手を引いた。

「待って」

「え?」

 そのまま陽菜乃の前に立つ。

「結び方ゆるい」

「そうかな?」

「朝から三回くらい落とすぞ、それ」

「三回も?」

「お前ならありえる」

「失礼だよ」

 そう言いながらも、陽菜乃はじっとしていた。

 柊真は青いはちまきを陽菜乃の額に回し、後ろで結ぶ。

 指が髪に触れる。

 距離が近くなり、陽菜乃はなんとなく落ち着かなくなった。

「きつくない?」

「う、うん」

「じゃあこれでいい」

 柊真が一歩離れる。

 陽菜乃が後ろの結び目に触れてみると、今度はしっかりしていた。

「水野くん、こういうの上手なんだね」

「弟いるから」

「弟さん?」

「中一。あいつも何でも適当に結ぶ」

「じゃあ、いつもやってあげるの?」

「たまに」

 想像してみる。

 怖いと噂されている柊真が、家では弟のはちまきや靴ひもを結んでいる。

 なんだか少しおかしくて、陽菜乃は笑った。

「何笑ってんの」

「水野くんって、お兄ちゃんなんだなって」

「悪い?」

「ううん。優しいお兄ちゃんなんだろうなって」

 柊真が一瞬、黙った。

「……陽菜乃さ」

「なに?」

「そういうこと普通に言うのやめたほうがいい」

「どうして?」

「自分で考えろ」

「?」

 意味が分からず首をかしげていると、美緒が少し離れたところでにやにやしている。

「美緒ちゃん?」

「なんでもないよー」

 絶対に何かある顔だった。


 午前十時。

 開会式が終わり、競技が次々と始まった。

 陽菜乃は体育祭係として忙しく走り回っていた。

「次、女子百メートルだよ!」

「二組の人、集合場所こっち!」

「ゼッケン忘れてない?」

 いつもより大きな声を出さなくてはいけない。

 最初は恥ずかしかったけれど、みんなが、

「陽菜乃、了解!」

「ありがとう!」

 と返してくれると、少しずつ楽しくなってきた。

 そして、午前最後の種目。

 ダンス部による応援パフォーマンス。

「陽菜乃、そろそろ着替えるよ!」

「うん!」

 美緒に呼ばれ、陽菜乃は体育館へ向かった。

 ダンス部の衣装は、クラスカラーとは別に白を基調としたおそろいのTシャツとスカート。

 髪を高めにまとめ、リボンをつける。

 鏡の前で最後に確認すると、陽菜乃は胸の前で小さく拳を握った。

(大丈夫)

 踊ることなら怖くない。

 音楽が始まれば、いつものように体が動く。

「行こう!」

 部長の声で、みんなが校庭へ出る。

 歓声が聞こえた。

 大勢の生徒や保護者。

 その中に湊もいる。

 そう思った瞬間、さっきまで平気だった胸が急にどきどきし始めた。

(湊、見てるかな)

 探してはいけないと思ったのに、視線が勝手にサッカー部の男子が集まっているあたりへ向かう。

 いた。

 すぐに見つかった。

 湊が友達の悠人と並んで立っている。

 目が合った。

 ――ような気がした。

「陽菜乃!」

 美緒の声。

「始まるよ!」

「あ、うん!」

 陽菜乃は慌てて前を向いた。

 音楽が流れる。

 最初の一歩を踏み出した瞬間。

 不思議なくらい、緊張が消えた。

 右へ。

 左へ。

 大きく腕を伸ばす。

 みんなと動きがそろう。

 陽菜乃は自然に笑っていた。

 教室では人前で話すだけでも緊張するのに、踊っている時は違う。

 音に合わせて体を動かしていると、自分が少しだけ別の人になれたような気がする。

 最後のポーズが決まる。

 大きな拍手。

「ありがとうございました!」

 頭を下げて顔を上げる。

 その瞬間、また湊を探してしまった。

 湊は――。

 こちらを見ていた。

 目が合う。

 陽菜乃の胸がふわっと温かくなる。

 湊が口元だけで笑い、親指を立てた。

(……見ててくれた)

 それだけで、今日一番うれしいと思った。


「陽菜乃!」

 応援席へ戻る途中、男子生徒に呼び止められた。

「え?」

 同じ学年の男子が二人。

 顔は知っているけれど、ほとんど話したことがない。

「さっきのダンス、すごかった!」

「めっちゃ上手だったよ!」

「あ、ありがとう……」

 急に褒められ、陽菜乃の頬が熱くなる。

「小宮山ってダンス部だったんだな」

「う、うん」

「普段と全然違うからびっくりした」

「そうかな……」

「写真、一緒に撮ってもいい?」

「えっ?」

 陽菜乃が困っていると、美緒が後ろから肩をたたいた。

「いいじゃん、陽菜乃。撮ってきなよ」

「でも……」

「記念だって」

 断るほどのことでもない。

 陽菜乃は男子たちの隣に立った。

 写真を一枚。

「ありがとう!」

「う、うん」

 二人が去ったあとも、陽菜乃は少し恥ずかしくて頬を押さえていた。

「陽菜乃って、自分がモテるの分かってないよね」

「え?」

「なんでもない」

 美緒が笑う。

 すると今度は別の声。

「陽菜乃」

 振り返ると、柊真がスポーツドリンクを持っていた。

「水野くん」

「これ」

「私に?」

「暑いだろ」

「でも、水野くんのじゃないの?」

「自販機で二本買った」

「ありがとう」

 陽菜乃は受け取り、冷たいペットボトルを頬に当てた。

「気持ちいい……」

「子どもか」

「だって暑いんだもん」

 柊真が笑う。

「ダンス、よかった」

「ほんと?」

「ああ」

「見てたの?」

「係一緒なのに見ねえわけないだろ」

「……そっか」

 陽菜乃は照れて笑った。

「ありがとう」

「ほら、また一回増えた」

「数えてたの?」

「今のところ九回」

「うそ!」

「うそ」

「もう!」

 柊真の腕を軽くたたこうとした、その時だった。

 少し離れた場所に、湊がいるのが見えた。

 目が合う。

 でも――。

 さっきまで笑っていたはずの湊の顔が、なぜか少し不機嫌そうに見えた。

(……どうしたんだろう)

 声をかけようと思った。

 けれど、次の競技のアナウンスが流れる。

『続きまして、二年生による借り物競走です!』

「あっ」

 陽菜乃は自分のゼッケンを見る。

「私、次だ」

「忘れてたの?」

「ちょっとだけ……」

「早く行け」

「うん!」

 陽菜乃は集合場所へ走った。

 借り物競走は、グラウンドの途中に置かれた箱から紙を一枚引き、そこに書かれた条件に合う人や物を連れてゴールする競技だ。

「位置について――」

 陽菜乃はスタートラインに立った。

 運動は嫌いではない。

 ただ、足の速さには自信がない。

(転ばないようにしよう)

 そこが一番大事だ。

「よーい!」

 パンッ!

 ピストルの音。

 陽菜乃は一生懸命走った。

 箱の前までたどり着き、紙を一枚取る。

 開く。

「……え?」

 そこに書いてあった文字を見て、陽菜乃は困った。

 『頼りになる人』

(頼りになる人……)

 真っ先に浮かんだ顔がある。

 湊。

 幼い頃から。

 転んだ時も。

 忘れ物をした時も。

 困った時に、一番最初に頼ってきた人。

 でも湊は別のクラスの応援席にいる。

 しかも。

 陽菜乃はふと、サッカー部のテントを見る。

 湊の近くには美羽がいた。

 何か話しながら、笑っている。

 胸が小さく痛んだ。

「陽菜乃!」

 別の方向から名前を呼ばれる。

 柊真だった。

「何ぼーっとしてんの! 早くしろ!」

「あ……」

 時間がない。

 陽菜乃は思わず走った。

「水野くん!」

「何?」

「一緒に来て!」

「俺?」

「お願い!」

 柊真の手をつかむ。

「ちょ、待てって!」

 二人で走り出した。

 柊真は陽菜乃よりずっと足が速い。

「陽菜乃、もっと走れる?」

「む、無理……!」

「じゃあ合わせる」

 本当に速度を落としてくれる。

 陽菜乃が少しよろけると、手を強く握って支えてくれた。

「前見ろ!」

「見てる!」

「見てねえから転びそうになるんだろ!」

 二人でそのままゴール。

『二年二組、小宮山さんゴール!』

 放送委員の声が響く。

『お題は――「頼りになる人」です!』

 観客席から歓声が上がった。

「水野じゃん!」

「意外!」

「小宮山と水野、仲いいんだ!」

 陽菜乃は一気に恥ずかしくなる。

「あ、あの……」

 その時になって、自分がまだ柊真の手を握っていることに気づいた。

「ご、ごめん!」

 慌てて離す。

「別に」

 柊真は気にした様子もない。

「間に合ってよかったな」

「うん」

 陽菜乃は笑った。

「水野くん、本当に頼りになるから」

「……」

「どうしたの?」

「いや」

 柊真が少し顔をそむける。

「そういうの急に言うな」

「え?」

「なんでもねえ」

 そのまま戻っていく。

 陽菜乃は意味が分からず、その背中を見送った。

 そして。

 応援席へ向かおうとした時、湊の姿が目に入った。

 湊はこちらを見ている。

 でも、その顔は笑っていなかった。

    

「……成瀬」

 湊の隣で、悠人が面白そうに声をかけた。

「何」

「顔怖いぞ」

「普通だけど」

「どこが」

 悠人はさっきのゴール方向を見る。

「『頼りになる人』だってさ」

「聞こえてた」

「前なら絶対お前だったんじゃね?」

 湊は返事をしなかった。

 胸の奥に、変な重さが残っている。

 陽菜乃が迷わず柊真のところへ走った。

 手までつかんで。

 そして。

『水野くん、本当に頼りになるから』

 遠くて全部は聞こえなかったけれど、楽しそうに笑っていた。

「お前さ」

 悠人が言う。

「陽菜乃、水野に取られても平気?」

「取られるって何だよ」

「そのまんま」

「陽菜乃は物じゃないだろ」

「そういう意味じゃなくて」

 悠人は呆れたように息をつく。

「まあいいや」

 湊は返事をしない。

 ただ。

 ひとつだけ認めたくないことがあった。

 『頼りになる人』

 その言葉を見た時。

 陽菜乃が自分のところへ来るのではないかと、少し期待していた。

 それが外れただけ。

 そう思おうとした。


 午後。

 陽菜乃は二組の応援席で、美緒と一緒に次の競技を見ていた。

「借り物競走おもしろかったね」

「私は恥ずかしかったよ……」

「でも水野くん、うれしそうだった」

「そう?」

「陽菜乃、ほんと鈍い」

「何が?」

「なんでもない」

 まただ。

 最近、美緒はよくこういう言い方をする。

「次、美羽ちゃん出るみたい」

 その名前に、陽菜乃の視線が自然とグラウンドへ向かった。

 一ノ瀬美羽。

 黄色いはちまきをつけ、スタートラインに立っている。

 足も速そうだ。

 ピストルの音が鳴る。

 美羽は勢いよく走り、先頭に近い位置で紙を取った。

 紙を開く。

 そして。

 迷うことなく、ある方向へ走り出した。

(……え)

 向かった先には、湊がいた。

「湊くん!」

 美羽が笑顔で手を伸ばす。

「俺?」

「早く!」

 美羽が湊の手を取る。

 二人で走る。

 陽菜乃は、なぜか目をそらせなかった。

 並んで走る二人。

 どちらも運動神経がよくて、すぐにゴールする。

『お題は――』

 放送委員が紙を受け取る。

『「かっこいい人」です!』

 一気に校庭が沸いた。

「きゃー!」

「一ノ瀬、分かりやす!」

「成瀬じゃん!」

「やっぱり好きなんだ!」

 笑い声と歓声。

 美羽は照れたように笑っている。

 湊は困ったような顔をしていた。

 でも。

 陽菜乃には、その二人がとてもお似合いに見えた。

「陽菜乃……」

 美緒が隣から声をかける。

「大丈夫?」

「うん」

 陽菜乃は笑った。

「競技だもん」

 さっき湊が同じことを思ったとは知らない。

「『かっこいい人』なんだから、湊を選ぶの普通だよ」

「普通かな」

「だって……湊、かっこいいし」

 口にすると少しだけ苦しくなった。

 自分がずっと思っていること。

 美羽も同じように思っている。

 でも美羽は、それをみんなの前で表せる。

 陽菜乃にはできない。

(美羽ちゃん、すごいな)

 うらやましい。

 自分もいつか。

 湊を好きだと、堂々と言えるのだろうか。

 でもその頃には。

 もう美羽の隣にいるのかもしれない。

 そう思うと、胸がまた痛んだ。


 体育祭最後のクラス対抗リレー。

 湊はアンカーだった。

 陽菜乃は応援席の前まで出て、走者たちを見つめる。

「湊、頑張って……」

 思わず小さくつぶやく。

 サッカー部で毎日走っているだけあって、湊は速い。

 前の走者からバトンを受け取る。

 三位。

 そこから一人抜く。

「成瀬、行けー!」

「湊ー!」

 あちこちから声が飛ぶ。

 あと半周。

 もう一人に追いつきそうになった、その時。

「あっ」

 湊の体が少し傾いた。

 足がもつれる。

 陽菜乃は反射的に立ち上がった。

「湊!」

 転ぶことはなかった。

 けれど湊は少し顔をしかめながら、そのまま走りきった。

 二位。

 大きな拍手が起こる。

 陽菜乃はそんなことより、足のほうが気になった。

「美緒ちゃん、私ちょっと行ってくる」

「うん!」

 応援席を飛び出す。

 湊のところへ。

 でも。

 陽菜乃が数歩走ったところで、先に美羽が駆け寄った。

「湊くん!」

 美羽はマネージャー用の救急バッグを持っている。

「大丈夫!?」

「ちょっとひねっただけ」

「座って。見せて」

 湊をベンチへ座らせ、美羽がしゃがむ。

 足首を確認し、すぐに冷却材を取り出す。

 慣れた手つき。

 陽菜乃は、その少し離れた場所で立ち止まった。

 自分の手を見る。

 何も持っていない。

 怪我の手当てもできない。

 何をすればいいのかも分からない。

 美羽ならできる。

 湊が大好きなサッカーのそばにいて。

 怪我をした時も、すぐに助けられる。

(……私が行っても、邪魔だよね)

 陽菜乃は握っていた手をゆっくり開いた。

「陽菜乃?」

 美緒が追いついてくる。

「行かないの?」

「……大丈夫みたい」

 陽菜乃は笑う。

「美羽ちゃんがいるから」

 自分でも驚くほど、小さな声だった。

「戻ろう」

 踵を返す。

 本当は。

 ただ一言。

『大丈夫?』

 と聞きたかった。

 でも、美羽の隣へ入る勇気がなかった。

     

「痛くない?」

「大丈夫だって」

「でもちゃんと冷やして」

「分かった」

 美羽に冷却材を渡されながら、湊は何度も周囲へ視線を向けていた。

「どうしたの?」

 美羽が尋ねる。

「いや……」

 確かに聞こえた。

 走っている途中。

『湊!』

 陽菜乃の声。

 だから、来ると思った。

 昔からそうだった。

 小学生の頃、サッカーで転べば一番に駆け寄ってきた。

『大丈夫?』

 と泣きそうな顔をして。

 高校生になった今でも。

 少しは心配してくれると思っていた。

「小宮山さんなら、さっきあっちにいたよ」

 美羽が言う。

「……見た?」

「うん」

「帰った?」

「応援席に戻ったんじゃない?」

「そっか」

 胸が少し沈む。

 その時。

 遠くの二組の応援席に陽菜乃を見つけた。

 そしてその近くには、柊真がいる。

 何かを話している。

 陽菜乃が笑った。

 湊は視線をそらした。

(……水野のほうがいいのかよ)

 そんなことを考えた自分に、さらに腹が立つ。

 誰といるかは陽菜乃の自由だ。

 自分はただの幼馴染。

 口を出す理由なんてない。

 なのに。

 体育祭が始まる前よりも。

 二人の間に少しだけ距離ができたような気がした。

 陽菜乃は、美羽が湊の隣にいるから近づけない。

 湊は、柊真が陽菜乃の隣にいるから近づけない。

 お互いに相手を見ているのに。

 その視線が何を意味しているのかだけは――。

 二人とも、まだ知らなかった。